026
「――クラリス嬢!?」
レオンハルトの叫び声とともに、視界が急速に現実へと収束する。
そこは元の部屋だった。
アスタの中指がクラリスの額から離れた瞬間――現実世界の時間では、やはり一瞬の出来事。
しかし、クラリスの全身から放たれる雰囲気が、劇的に変わっていた。
「クラリス嬢に触れるな!」
レオンハルトがクラリスを背後に庇おうと踏み出す。
だが、クラリスは静かに、けれど強い力でレオンハルトの腕を制した。
「大丈夫です、レオンハルト様」
「クラリス……嬢……?」
レオンハルトが息を呑む。
振り向いたクラリスの瞳の奥、その瞳孔の縁に――アスタと同じ、黄金と紫黒の繊細な紋様が脈動し、すっと奥へと消えていくのが見えたからだ。
「――我が試練を終えし者、クラリスよ」
アスタの声が静まり返った部屋を満たすと、そのまま薄く凄絶な笑みを浮かべた。
「魔神アスタロスの権能――『構造解体』と『真名掌握』を貸与した。……ククッ、ここから先は貴様次第だ。狂王の残滓を越えるか、己の器を焼き切って果てるかな」
レオンハルトの手に込められた力が、驚愕で微かに強ばる。
クラリスの瞳の奥で脈動した紋様。それは絶対的な『過剰な知』そのものの威圧感だった。
その時――張り詰めた静寂を叩き割るように、高音の尖った狂声が響き渡った。
「な……何なのよ、さっきから不愉快な!! 茶劇は終わりかしら!?」
部屋の奥、歪んだ魔方陣の中心で髪を乱したヴェロニカが、狂乱に満ちた目で二人を睨みつけていた。
彼女の背後では、血のように赤黒いエーテルの渦が部屋の壁や柱を侵食し、ギギギ……と空間そのものを軋ませながら暴走を始めている。
「調子に乗らないで、落ちこぼれ! 私がどれほどの代償を払って、この偉大な『七つの歪言』の力を手に入れたと思っているの!?この空間ごと、貴方たちを泥の底へ沈めて――」
「――喧しいな、塵芥虫が」
氷の刃よりも冷ややかな一言が、ヴェロニカの狂声を途中で切断した。
アスタが静かに視線を向ける。ただそれだけの所作で、部屋を満たしていた暴走エーテルの渦が、恐怖に震える生き物のようにピタリと動きを止めた。
アスタは心底くだらなそうに溜息をつき、優雅に指を立てる。
「一つ、七つの歪言は悪魔ではない。
二つ、七つの歪言は、貴様のような有象無象の土くれなんぞと契約など結ばん。
三つ――貴様が血を流してまで縋りついているその『力』とやらは、我が名を騙るただの粗悪品だ」
「な……ッ!? ふざけないで! 私は……私は正当な契約を――!」
顔を真っ赤にして叫び立てるヴェロニカ。
だが、クラリスは静かに一歩、前へと踏み出した。
(聞こえる……見える……)
クラリスの脳裏に、かつてアスタから流し込まれた『創世の骨組み』が、鮮明な網目となって広がる。
ヴェロニカを包む赤黒い魔力の暴走。かつてのクラリスなら、ただ恐怖に身を縮めていただろう。だが今の彼女の目には、その暴走すらも「お粗末な縫い目」と「誤った記号の羅列」に過ぎないことが視認できていた。
暴走する魔力の奥底。ヴェロニカの魂にへばりつき、彼女の生命力を貪りながら『七つの歪言』の威光を騙っていた、惨めな小悪魔の正体。
「……神の名を騙り、契約者を食い荒らす下等な影」
クラリスの口から出たのは、この世界のいかなる言語にも属さない、粘束した根源の音階だった。
「――『腐肉を貪るインプ・ガラ』」
――ガァンッ!!
空間が叩き割られたような衝撃音が響いた。
真名を暴かれた瞬間、ヴェロニカの背後に揺らめいていた巨大な赤黒い影が、痛切な悲鳴を上げてその姿を露わにした。
『ギ、ギァアアアッ!? な、なぜ我が真名を……ッ!?』
「な、何……? 私の崇高な契約悪魔が……何なの、この醜いバケモノは……ッ!?」
己の内にいた「偉大な悪魔」の正体が、歪な犬の頭骨を持つ醜悪な下等悪魔だと暴かれ、ヴェロニカの顔から血の気が引いていく。
「解体……を開始します」
クラリスは静かに右手を開き、空間の歪みへ向けて滑らかに滑らせた。アスタから借り受けた『構造解体』の権能。彼女の指先から放たれた黄金と紫黒の繊細な光糸が、部屋中に張り巡らされていた暴走術式の「継ぎ目」へと正確に刺さっていく。
自身の内から湧き出る、暴力的な力に翻弄されそうになる。しかし同時に、ウィザードの知識を得てきたクラリスには、『知』の権能魔力がするすると身体に馴染んでいくのを感じる。
ヴェロニカが暴走させた過剰なエーテル。それはまるで、複雑に絡まり合った羊毛の糸玉のようだった。クラリスはその「起点」となる結び目を指先で捉え、容赦なく断ち切った。
ポリ……ッ、と乾いた音が空間に響く。
『グギャアアアアッ!? 術式が……我が喰らいし魔力が……解けていく……ッ!!』
部屋を崩壊させようとしていた赤黒い圧力が、クラリスの一振りの手つきによって、まるで潮が引くように分解されていく。破壊のエネルギーは要素ごとに解体され、ただの害のない光の粒子へと還り、空中へと霧散していった。
「バかな……嘘よ……ッ! 私の力が……私の契約が……ッ!!」
術式の基盤を完全に解体されたヴェロニカは、全身の魔力を激しく吐き戻しながら、その場に崩れ落ちた。真名を縛られた小悪魔ガラもまた、クラリスの放つ絶対的な「拒絶の領域」に押し潰され、影の底へと引きずり戻されていく。
「あ……ぁ……」
静寂が戻った部屋の中で、膝をついたヴェロニカは震える身体でクラリスを見上げた。
クラリスは静かに手を下ろし、息を整えた。
右手の皮膚の奥で、知の残響が心地よい熱を帯びて脈動している。
「終わりました……レオンハルト様」
振り向いたクラリスの顔には、かつての儚い少女の面影と、決して折れぬ意志を秘めた「覚悟」が、美しく同居していた。
それを見届けるアスタの唇が満足そうに、笑みを刻んでいた。
暴走していた赤黒い余燼が、光の粒となって天井へと溶けていき、後には冷ややかな沈黙だけが残されていた。
レオンハルトは息を殺したまま、素早く視線だけを巡らせた。腰の剣にかけた手は下げない。瞳は鋭く部屋の四隅、影の落ちる死角、そして崩れ落ちたヴェロニカの指先までを一切の油断なく観察している。
周囲の安全を確信すると、彼は静かに、けれど足音を殺してクラリスの傍らへと歩み寄った。
「……お怪我はありませんか、クラリス嬢」
低く落とされた声には、安堵と同時に、未だ収まりきらぬ緊張が滲んでいた。
クラリスが静かに頷くのを見届けたレオンハルトは、すぐさまヴェロニカへと向かい、隙のない足取りでその背後へと回り込む。万が一の予備動作すら許さぬ手慣れた所作で、手持ちの魔導抑止効果のある拘束具を取り出し、彼女の両手首を背後で硬く縛り上げた。
「あ……あぁ……嘘よ、こんな……」
虚ろな目で呟くヴェロニカを床に転がしたまま、レオンハルトの視線は部屋の隅で気を失い倒れ伏しているジュリアンへと向けられる。
息はある。だが、下級悪魔に喰われた精神と過剰なエーテル毒により、自力で起き上がるのは当分不可能な状態だった。
「……クラリス嬢、人手が必要です」
レオンハルトはクラリスを背にかばう立ち位置を崩さないまま、部屋の外を意識しながら低く語りかけた。
「私がこの別邸へ踏み込む際、貴女に同行していた警護兵の方々に、玄関内で待機するよう伝えてあります。外の気配も不穏でしたからな。……彼らを呼び寄せ、この者どもの拘束と移送を手伝わせても?」
「ええ……もちろんです、レオンハルト様にお任せいたします」
クラリスの承諾を得るやいなや、レオンハルトはヴェロニカの首襟を片手で掴み上げ、ジュリアンの背衣を反対の手で引っ張り寄せた。
二人同時に、引きずり移動させる――。
「……見苦しい移動になりますが、お許しを。私の背から離れないでください」
本来であれば警護を部屋へ呼びつけて指示する場面だ。しかし、いまこの館で最も警戒すべきは「クラリスを一人だけにすること」だった。怪異が去ったとはいえ、いつの間にか姿をくらましたアスタという未知の存在がどこに潜んでいるかも分からず、ヴェロニカの残党や術式の余波が残っている可能性を排除できない。
クラリスは、こくりとうなづき、二人を引きずりながら廊下へと踏み出すレオンハルトの背中についていった。




