028
事件の混乱がようやく静まりを見せ始めた、3日後のこと。
一昨日にようやく意識を取り戻し、一通りの取り調べと状況確認を終えたという公爵令息ジュリアン。
彼からの希望もあり、クラリスは公爵邸にあるジュリアンの自室へと見舞いに訪れていた。
ベッドの上に体を起こしたジュリアンは、以前の完璧な貴公子としての覇気が影を潜め、どこか痛々しいほどに痩せこけて見えた。
「――クラリス。すまない、わざわざ足を運ばせてしまって」
体調を気遣うクラリスを制するように、かすれた声でジュリアンは寂しげな笑みを浮かべた。
「ヴェロニカが現れてから……徐々に、頭の中に靄がかかっていったんだ。
記憶が朦朧として、最近は自分の意志で動いていたのかすら、今となればよくわからない」
ジュリアンは視線を落とし、自らの膝の上で力なく拳を握りしめた。
「だが……私の中に甘さがあったのは確かだ。嫡男である兄は当然のように通い、私には許されなかった大学への憧れが、心の奥底にずっとあった。だからこそ、女性でありながら大学で優秀な成績を修めたという彼女に興味を持ち、惹かれてしまったのだろう……。今思えば、その紹介状すら偽物だったようだが」
苦笑いを漏らすジュリアンの表情には、深い悔恨が滲んでいた。
「私の不甲斐なさのせいで、公都全体を巻き込む悲劇になるところだった。……昨日、特務審問官殿からすべての事情を聞いたよ」
公爵家の体面を守るため、対外的には事態を適当に収め、ジュリアン自身も術式の被害者として扱われる手筈になっているという。しかし、自身の弱さが招いた危うさを突きつけられたジュリアンの顔は、どこまでも暗く沈んでいた。
「……違います、ジュリアン様」
ジュリアンを責める言葉など、クラリスの中にはひとかけらも存在しなかった。
むしろ、胸を刺すような痛みに耐かね、クラリスの瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
「ジュリアンのせいではありません……! 私という、無能で何もない婚約者がいたから……だから反貴族主義者につけ込まれ、あなたを苦しめる隙を作ってしまったのです。悪いのは、すべて私です……」
必死にジュリアンを庇い、涙を零すクラリスの姿に、ジュリアンは目を見張り、申し訳なさそうに眉をひそめた。
クラリスは溢れる涙をハンカチで拭い、意を決したようにまっすぐジュリアンを見つめた。
「ジュリアン様……私、あなたと婚約できて、本当に幸せでした。あなたはいつだって私にとって完璧な王子様で……私という存在の居場所であり、心の支えだったんです」
心からの感謝を込めて、クラリスは言葉を紡ぐ。
「でも……私はあなたに与えられるばかりで、何ひとつ返せていませんでした。そのことに、今回のことでようやく気づいたのです」
そこまで語ると、クラリスは静かに息を整えた。
ジュリアンに語りかけるクラリスの瞳には、哀しみと同時に、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
――そして、クラリスは口を開き、自らの想いを言葉にしてジュリアンへと伝えた。
その言葉を聞いたジュリアンは、驚きに目を見開いたあと、静かに納得したように瞳を伏せたのだった。
◇
ジュリアンと会ってから2日後の午後、クラリスのもとにレオンハルトからの手紙が届いた。
『一度、ゆっくりとお話しするお時間をいただけないでしょうか』
まっすぐで端正な文字に指先で触れ、クラリスは静かに返事を出した。
当日、約束の時間通りに公爵邸の門前に停まったのは、いつのまにか見慣れた聖庁の馬車だった。
ドアが開かれ、中からレオンハルトが差し伸べた手をとって車内へと乗り込む。
「顔色が少し良くなったようで、安心しました。……その後、お体に異変はありませんか? 何か不都合なことがあれば、遠慮なく私に言ってください」
数日ぶりに見るその凛とした佇まい。向かい合って座ると、レオンハルトは探るように、けれどどこまでも優しくクラリスの顔を見つめてきた。
しきりに自分を気遣い、案じるその低く温かな声に、クラリスの胸の奥が甘く疼く。
ほんの少し前なら、この感情に恐怖すら抱いていただろう。
けれど今は、押し寄せる愛おしさを、そっと素直に心の中で噛みしめていた。
馬車が向かったのは、公都の喧騒を遠く離れた、丘の上の古い展望台だった。
眼下には午後の陽光を浴びて煌めく公都の街並みが広がり、澄み渡る風が静かに二人の髪を揺らす。
人影のない静寂のなか、手すりに寄って景色を眺める二人の間に、心地よい沈黙が流れた。
やがて、レオンハルトが小さく息を吐き出し、静かに口を開いた。
「……公都での事件処理も、私でなくとも滞りなく進む段階に入りました。
数日後には、聖都へ戻ろうと思っております」
「聖都へ……」
「ええ」
レオンハルトはクラリスへ視線を向けると、その瞳の奥に深い熱を宿らせて言った。
「クラリス嬢。以前、公爵家のパーティーの夜……私の無礼を謝罪し、お伝えした言葉を覚えていらっしゃるでしょうか」
あの夜の、切迫した彼の表情が脳裏に蘇る。
『君が望むのであれば、今の職を辞して、この命を賭して君の名誉を守る誓約を立てても良い』
「あの言葉に、嘘偽りはありません。私は本気です」
レオンハルトは真摯に言葉を重ねる。
「貴女が望むことなら、何でも言ってください。私にできることであるならば、どのようなことでも叶えましょう」
クラリスはそっと睫毛を伏せた。初めて出会った日のこと。恐ろしい術式の中で庇ってくれた背中。あまりにもまっすぐで、清廉なこの方の存在。それらが走馬灯のように胸を駆け巡る。
「……本当に、何でもよろしいのですか?」
「当然です。私にできることなら、何なりと」
クラリスは顔を上げ、ほんの少し悪戯っぽく、そして切なさを漏らし微笑んだ。
「では……審問官様。私の懺悔を、聞いていただけますか?」
「……え?」
予期せぬ言葉に、レオンハルトは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くした。だがすぐに真面目な顔に戻り、柔らかく頷く。
「そのようなことでよろしければ……ええ、貴女の気持ちが少しでも軽くなるのなら、謹んでお聞きします」
クラリスは手を胸の前でそっと組み、風の音に紛れてしまいそうなほど静かな声で紡ぎ始めた。
「私は……浅ましい女です。婚約者が身に余るほど完璧な方だと知りながら、あろうことか、別のお方へ心を寄せてしまいました」
レオンハルトの体が微かに強張る。
「そのお方は、神に仕えるあまりに崇高で、清らかなお方……。
その方の存在が私の暗い世界を照らし、いつしか私にとって、光となってしまったのです。
……婚約者を裏切り、手の届かぬ方を慕う自分の愚かさを、どうかお許しください」
クラリスの目元から、一筋の清らかな涙が伝い落ち、頬を濡らした。
それを聞いたレオンハルトの瞳に、激しい動揺が走る。
(まさか……クラリス嬢は、あの婚約者を深く愛していたはずでは……?)
押し留めていた感情の堤防が崩れ去る音がした。
そして、彼女の口から語られた「神に仕える者」。それが誰を指しているのか悟った瞬間、激しい歓喜と切ないほどの愛おしさが、波となってレオンハルトの全身を駆け巡った。
「私……婚約を、解消いたしました」
静かに告げられたその一言に、レオンハルトは息を呑んだ。
「解消……!? しかし、公爵家との……」
「我が家と公爵家の契約では、こちらに決定権がございました」
クラリスは涙を拭い、淡々と、どこか穏やかな声で続けた。
「父はきっと猛反対すると思っておりましたのに……理由も問わず、ただ静かに頷いてくれました。
きっと、ジュリアン様が……影で根回しをしてくださったのだと思います。どこまでも完璧で、優しいお方でした」
「クラリス嬢……」
レオンハルトは堪らず手を伸ばそうとした。
だが、彼女の涙に触れる直前で指先を止め、葛藤に歪む眉根を痛々しく寄せる。
「……どうか、私に命じてください。許されるのなら、私はこの聖職の道を捨て、貴女と共に――」
「レオンハルト様」
その言葉を遮るように、クラリスは優しく、けれど揺るぎない声で彼の名を呼んだ。
「私、旅に出ようと思います。
知の集まる学術都市……アーク・ライブラリへ。
望むばかりだった無力な私を捨て、自らの足で立ち、学ぶために」
驚くレオンハルトに、クラリスはふっと表情を緩めた。
「意外なことに、母が強く背中を押してくれたのです。『あなたにはあなたの人生がある』と。
だから私、行きます」
一歩踏み出し、クラリスはレオンハルトの瞳をまっすぐに見つめた。
「3年後……私はきっと、胸を張って貴方のお隣に立てる自分になって戻ってまいります。
その時に……もし、私と共に歩んでくださるお気持ちが、変わらず貴方の中に残っていたなら」
そこまで言って、クラリスは笑みを咲かせた。
「その時は……私を、貴方のお傍に置くと、そう誓ってください」
流れる風が、二人の間の空間を優しく包み込む。
レオンハルトは固まっていた手を伸ばし、今度こそクラリスの頬に残る涙の痕を、愛おしそうに指先で拭った。その手は微かに震えていたが、彼女を慈しむような愛おしさに満ちていた。
「……3年、ですか」
噛み締めるように呟いたレオンハルトの唇から、小さな吐息が漏れた。
レオンハルトは深く息を吸い込むと、迷いを振り払うようにクラリスの頬から手を離してから一歩引き、胸の上に右手を当てた。
「承知いたしました、クラリス嬢」
その声は低く、どこまでも凛として澄んでいた。
「自らの足で立ち、己の道を切り開かんとする貴女の気高き決意……感服いたしました。私ごときの庇護など、今の貴女には野暮な余計品に過ぎなかったようです」
微かに苦笑を混ぜ込みながらも、レオンハルトの瞳には惜しみない賛辞と、眩しそうな情熱が宿っていた。
「ならば、私も誓いましょう。この命が尽きぬ限り、3年の時が過ぎようと、いかなる試練が訪れようと……私の心が貴女以外の誰かに移ることは絶対にありません」
言葉とともに、レオンハルトは片膝を突き、展望台の石畳の上に静かに腰を落とした。
真摯な瞳でクラリスをまっすぐに見つめ、その華奢な右手をそっと両手で包み込む。
「学術都市で学びを修め、戻られるその日まで。私は自らの務めを果たし、貴女に恥じぬ男として待ち続けます。そして――3年後、再びこの場所で、あるいは貴女の前に立つ時、今度こそ私のすべてを捧げて貴女を妻として迎えたい」
クラリスの胸が激しく高鳴り、涙が再び溢れそうになるのを必死で堪えた。
「レオンハルト様……」
「……少しだけ、我慢させてください」
立ち上がったレオンハルトは、返事を待つ代わりに、愛おしさに耐えかねたようにクラリスの細い肩を引き寄せた。
そっと抱きすくめられた腕の中に、力強さと繊細な気遣いが同居している。
クラリスは目を閉じ、彼の胸元にそっと顔を埋めた。
香木の微かな香りと、規則正しく打たれる彼の鼓動。
「どうか無事で。貴女の歩む道に、いつでも神の祝福と……私の祈りがありますように」
耳元で囁かれた低く甘い声。クラリスもまた、彼の背中にそっと手を回し、力を込めた。
「はい。いってまいります、私の大好きな審問官様」
離れがたい温もりを名残惜しむように、二人はゆっくりと腕を解いた。
差し込む夕日の中、互いに交わした目配せには、もう哀しみはなかった。
未来という遥かな約束を見据えた二人の眼差しだけが、変わらぬ絆を確かに物語っていた。
◇◇◇
公都を包む朝靄が、東の空から差し込む黄金色の光に溶けていく。
公爵邸の自室で身支度を整えたクラリスは、旅装の襟元を正すと、静かに振り返った。
机の上には、固く閉ざした『連鎖手箱』がひとつ。
過剰な知の入口だったその手箱に、クラリスはそっと愛おしむように指先で触れた。
もう、そこに迷いや怯えはなかった。
「お嬢様、馬車の用意が整いました」
侍女の静かな声に頷き、クラリスは手箱を頑丈な鞄へ納めた。
屋敷の玄関ホールへ降りると、そこには母の姿があった。
かつては淑女としての嗜みと庇護の中に娘を留めようとしていた母が、今はどこか誇らしげな、優しい眼差しでクラリスを見つめている。
「体には気をつけなさい、クラリス。……貴女の選んだ道を、誇りに思っていますよ」
「はい、お母様。いってまいります」
短く、けれど深く抱擁を交わし、クラリスは屋敷の門を出た。
朝の清冽な空気を吸い込みながら乗り込んだ馬車が、ゆっくりと車輪を滑らせ始める。
石畳を叩く馬蹄の規則正しい音とともに、慣れ親しんだ街並みが窓の外を流れていく。
公都の門へ向かう道すがら、クラリスはふと丘の上の展望台を見上げた。
朝日に照らされる古い石造りの塔。あの日、ここで交わしたレオンハルトの温かな体温と、痛いほどの誓いの言葉が、今も胸の奥で確かに脈動している。
もう、自分の無力に嘆き悲しむだけの人形ではない。自らの手で学び、選び取り、彼と対等に並び立つための旅路がいま始まる。
遠ざかっていく公都の街並みを背に、クラリスはまっすぐ前を見つめた。
その瞳には、果てなく広がる青空と、希望に満ちた未来の光がどこまでも鮮やかに映り込んでいた。




