東雲の空
里の棚田に人が集まり、皆で固唾を呑んでいた。
満月は既に天を去り、雲間に青みが差している。
やがて山の端が白み始めると、誰もがわっと聲を上げた。向かい山の天辺から、徐々に緑が降りてくる。見渡す限りの闇溜まりを、光が洗い始めた為である。
「朝だ……!」
待ち侘びていた旭日が、ついに里を照らし出した。人ゝは諸手を挙げて朝を迎え、子らは歓び駆け回る。
その中に、シギもいた。三月ぶりに拝む東雲の空を、遥か遠くに眺めていた。
隣にはヤトリもいる。皆が欣喜雀躍の騒ぎだと云うのに、この侍はまた涼しい顔で、背を伸ばして立っていた。
「朝は、来るのだなあ」
そのヤトリに聴かせるでもなく、時にぽつりとシギが云う。ヤトリは日に晒されるとより白い鼻先を、ほんの僅か此方へ向けたようだった。
「人がどんなに笑おうと、唏こうと、構うことなく朝は来る」
「……ええ。そして人は、日の下でも生きてゆけるものです。影の中でしか生きられぬ、鵺とは違って」
目も眩む程の光の中で、シギはヤトリの横顔を盗み見た。浮き世離れして端正な顔立ちのこの男は、陽光を浴びると睫毛の先から日に溶けて、今にも消えてしまいそうな気さえする。
それがただただ、今のシギには眩しかった。生きとし生ける、この世のすべてが眩しかった。
誰もが皆生きる意味を持ち、護るべきものと共に此処に在る。何一つ持たぬのは、この場で己だけのように思えた。見下ろした手の内は空っぽで、心には未だ、黒い風が吹いている。
「シギ殿」
と、不意にヤトリが脣を開いた。
「鵺と人との見分け方を、ご存知ですか」
「え?」
「人に化けている鵺の正体を、暴き立てる方法です」
「そ、そりゃあ文字どおり〝白日の下に晒す〟……だろ? 人の躰を借りた鵺は、日の下では影が無い。そう云ったのは、あんたじゃないか」
「ええ。ですがもうひとつ、方法があるのです」
「その、方法とは?」
「痛めつけること」
「は?」
「所謂、拷問と呼ばれるものです。それは肉体を痛めつけるのでも、心を痛めつけるのでも良い。例えば指を一本ずつ落としてゆくとか、目の前で親しい者を嬲り殺しにするとか……」
「そ……そんな俗っぽいやり方で、鵺が白状するのかい」
「いいえ、白状はしないでしょう。ですが代わりに――泣かないのです」
「泣かない……?」
「はい。どれだけ痛めつけられても、涙は一滴も流さない。怒り狂うか笑い出すか、大抵はそのどちらかだと聞いています」
昇り来る朝日を見据えながら、眸を細めてヤトリは云った。久方ぶりの日光は確かに眩しいが、しかしこの男はとりわけ眩しそうにするのだな、とシギは思う。
「鵺とは本来、人と殆ど変わらぬ感情を持つ妖です。影の中に在る内は、歓びも悲しみも、怒りも愉悦も持っている。されど一度人に憑けば、やがて成り代わる時に備えて、己が心を宿主と同化させてゆきます。即ち影の持ち主と異体同心の存在となる、と云うことです」
「ひとつの心を、本来の持ち主と鵺とが共有する……と云うことか?」
「ええ。そして鵺は、宿主の悲しみを食らいます。悲しみを食い尽くされると云うことは、痛みや苦しみを感じぬ心になると云うこと。故に鵺は涙を流さぬのです。己を排除しようとする者に怒りや嘲りの感情を発露することはあっても、悲しい、苦しいと泣き喚くことはありません」
風が吹いた。朝の訪れを祝うかの如く、里山が歓呼のさざめきで満ち溢れる。
シギは暫しの間、呆気に取られた。そうして日に洗われたように白い思考の海に、ひとつ、疑問の舟を浮かべる。
「だが、キクは……最期に泣いて……鵺は泣かぬものだと云うのなら、あの涙は、何の涙だ」
「さあ、生憎と存じませぬ。ですが私はあの涙を、心底羨ましいと思いましたよ」
何を羨むことがあるのか、そう尋ねようとしたシギに背を向けて、ヤトリはひとり、歩き始めた。歓びに噎び、抱き合う里人たちの間を、初めからいないもののように擦り抜けてゆく。
待ってくれ、ととっさに呼び止めようとしたものの、後ろから肩を掴まれた。何事かと振り向けば、其処には瞼を重そうに垂らしたクマタカがいる。
「タカ爺」
「見よ、無事に朝が来た。役目を終えて、ヤトリ殿はお往きなさるそうじゃ。長にも既に話があったとか。先を急がれる故、引き止めてはならぬとのお達しじゃ」
「けど、おれたち、何の礼もしてないのに……」
「礼など不要。此度のことを恩義と感じるならば、次はぬしが鵺に食われぬよう、里の皆で支えてやってくれ――と、そう仰っていたそうだ。一時はあの能面の下で何を企んでおるのかと思うたが、存外義理堅く奥ゆかしい御仁であったな」
次は己が鵺に食われるなどと不吉な予言を立てられて、流石のシギも引き攣った。確かに今、胸に開いたこの穴を鵺が埋めてくれたらどんなに良いかと、思わないことはない。
されどどんなに耳を欹てても、鵺の哭く聲は聴こえぬのだった。シギは次第に遠のいてゆくヤトリの背を見つめ、空の右手を握り締める。
「……なあ、タカ爺」
「何じゃ?」
「山は、元に戻るかな」
「さてな。棚田もすべてこの有り様じゃ。戻るにしても些か時がかかるじゃろう。一番の問題は有事の際の蓄えが、この三月で底を尽いてしもうたことじゃが……」
「だったら隣の山まで行って、獣を狩ってくればいい。此方の山が夜の間も、向こうの山では日が照っていたと云う。だとしたら逃げた獣は皆、あちら側に居るんだろう。腕はだいぶ鈍ってると思うけど――手伝うよ、おれも」
隣山を顧みそう云えば、クマタカが目を見開いた。皺だらけの手はわなわなと震え、何か云いたげにしているが、ついぞ言葉にならぬようである。
「……もしかして、おれじゃ頼りないかい」
「いや、いや。左様なことは」
「まあ、おれも暫くは、また足引っ張ると思うけど……」
「良い。それで良いのじゃ。生きると云うのは、得てしてそういうことなのだからな……」
云いながら、酷く感極まった様子で、クマタカは項垂れ面を押さえた。そうしてすまぬ、すまぬと繰り返す師を前に、やはりこの人は老いたなと苦笑する。
日は既に高かった。山の外が真昼であるが故に、太陽も慌てて昇ったのだろう。
浮かれ騒ぐ里の者たちを見渡して、最後にふと、シギはヤトリへ目をやった。振り向かず立ち去ろうとする彼を、見送る最中にはたと気づく。
「……あれ?」
「どうした、シギ」
「いや……気のせいかも、しれないけど……」
云って、シギはヤトリを指差した。長い髪を垂らした鵺祓いの背中はもう、畦道の先へ消えようとしている。
「なんか……ここから見ると、ヤトリ殿、足元に影がないような――?」
ザアッと、再び風が吹いた。
巻き上げられた木の葉が降ってきて、シギは思わず目を瞑る。
次に瞼を開けた時、ヤトリの姿は、もう無かった。
今宵も何処かで、鵺が哭く。
* * *
そののち、シギと云う名の若人がどのような余生を送ったのか、ヤトリは知らない。ただ、噂によればかつて夜に囚われた山里に、近隣でも類を見ぬ腕利きの猟師が生まれたと云う。
猟師は沢山の子宝に恵まれ、優れた狩猟の術を末代まで伝え遺した。但し彼は世を去る間際、両眼を盲いた老熊だけは、決して射止めてはならぬと命じたそうな。
猟師が名を馳せてからと云うもの、かの山の主が人を襲うことは無くなった。その主が山神となり、山を守護したお陰であろうか。一度朽ちかけた山も今は緑に包まれて、多くの人と獣が共に在る。
今日も山のあちこちで、鳥が賑やかに唄っていた。中でもいっとう色鮮やかな松毟鳥が飛んできて、とある墓石の上に留まる。
ヒヨヨ、ヒヨヨ、と楽しげに唄い、やがて小鳥は立ち去った。
墓の袂ではいつからか、宍色の野花が咲き馨っている。
(了)
お読みいただきありがとうございました。
この物語を、敬愛してやまない漆原友紀先生に捧げます。




