第5章
(1)
最後の1週間は、あっと言う間に過ぎてしまった。
残務処理の他にも、得意先への案内や備品の整理など、やることが山ほどあり、毎日のように残業が続いた。
事件の方はあれから特に進展もないらしく、宮島も前と同じように出勤している。
「備品、運び出すの何時からやったっけ?」
女子トイレで手を洗っていると、高田が入ってきた。
「2時からって聞いてますけど」
私が答えると、彼女は淋しそうに微笑みながら言った。
「1週間なんて、あっと言う間やったわね。今日でこの事務所、なくなってしまうなんて」
「ほんまですねえ」
私は頷いた。
「ほんの半年でしたけど、なんか、名残惜しいです」
「ほんまにねえ。もう、職場では会われへんくなるけど、たまには一緒に食事でもしようね。綾子も寂しがってるから」
高田が、私の肩にそっと手を乗せて言った。
「ええ。ありがとうございます」
「これからどうするか、もう決まったの?」
高田の質問に、私は答えた。
「いえ、まだ決めてません。別に焦ることもないし、ゆっくり仕事探しでもしようかなって思うてます」
「そうやね、それがええわ」
高田は微笑んだ。
「まだ若いんやし、多恵ちゃんみたいないい子やったら、なんぼでも仕事くらいあるわよ」
「そうやったらいいんですけど。――まあ、色々考えてみます」
私の答えに頷くと、高田は奥に入っていった。私はハンカチを出して手を拭き、事務室へと戻った。
ドアを開けると、宮島と田野倉が、照明器具を外しているところだった。
「ああそうか、電気も今日で止まってしまうんでしたね」
私が声をかけると、宮島が椅子の上からこちらを見て頷く。
「5時頃まで使えるらしいんやけど、部屋の中、結構明るいし、もう取っておこうかって話になったんや」
「そうですか。お茶でも入れますか?」
尋ねてから、冷蔵庫の電源をさっき切ったことを思い出した。何でも、運び出す何時間か前には、コンセントを抜いたり水を抜いたり、色々としなければならないことがあるのだ。
「コンビニで買ってきましょうか」
慌てて言い直すと、田野倉が笑う。
「後で自分で行くからええで。少し休憩しといたら? 朝から働き詰めやったもんなあ、星野さん。――今、何時や?」
「1時50分です」
私が答えると、宮島が言った。
「急がなあかんな。トラック来るの、2時やろ?」
「はい。そうです」
「あと、休憩室の電気も残ってますしねえ」
田野倉が蛍光灯を手に言った時、高田が入ってきた。
「下の電気、私達で外そうか?」
高田に言われ、頷く。
「いや、もうすぐ終わりますから、大丈夫ですよ」
宮島が答えた。
「おい、トラックが来たぞ」
ちょうどその時、ワイシャツの袖をまくり上げた井上所長が、事務室に入ってきた。運送屋のお兄さん達も、後について入ってくる。
デスクや椅子などが次々と運び出される様子を見ながら、私と高田は、みんなの邪魔にならないように横に避けるのが精一杯だった。
(2)
「がらんとしちゃったわねえ」
空っぽになった事務室を見回しながら、高田がつぶやく。
「ほんまですね」
窓から下を覗くと、宮島と田野倉が、去っていくトラックを見送っているのが見えた。
「まだ4時前やね」
高田が、腕時計を見ながら言った。
「激励会の予約、6時にしてあるんやけど、それまでカラオケでもして時間つぶそうか」
「あの、実は、宮島さんに話があるからって言われてるんです。それが終わったらすぐ合流しますんで、先に行ってて下さい」
私が言うと、高田は頷いた。そして、
「所長」
と、今度は、窓を開けて煙草を吸っていた井上所長に、声をかけた。
「これから6時まで、カラオケに行こうかって思ってるんですけど、いかがですか?」
「ああ、ごめん。これから支社に行って、今日の報告をしてこないといけないんだ。激励会、駅前の串兵衛だろう? 終わり次第、すぐ行くから」
「わかりました」
高田が頷いた時、田野倉と宮島が事務室に入ってきた。
「今、声が聞こえましたけど、カラオケですって? いいですねえ」
田野倉が嬉しそうに言う。
「宮島さんも、行かはるでしょ?」
田野倉に聞かれ、彼は軽く微笑みながら私を見た。
「2人は後から合流するって。そこのカラオケ村にしておこうか。そしたら、すぐ来れるでしょ?」
「はい。ありがとうございます」
私が言った時、井上所長が大きなカバンを手に、私達のそばまで来た。
「じゃあ、僕は支社の方に行くから。――あ、そうだ。事務所の鍵、返してもらっていいかな」
井上所長の言葉に、各自キーホルダーを取り出す。
「表口と裏口と、2本ともですよね」
田野倉が、2種類の鍵を所長に渡した。他のメンバーも全員、井上所長に手渡す。
「最後にここを出る人は誰かな?」
私達は顔を見合わせた。
「宮島さんと多恵ちゃんかな」
高田が言う。
「そうか。それなら、表口の鍵を1つだけ渡しとくから、きちんと閉めてから出てくれな。浮浪者でも入り込んだら、やっかいだから。それで、あとの激励会の時に返してくれ」
井上所長が、束ねた鍵の中から1つ選んで、宮島に渡した。
「わかりました」
宮島は、それを受け取りながら頷いた。
「じゃあ、後で」
井上所長が、軽く片手をあげて出ていく。
「はい、お疲れさまでした」
私達は声を揃えて、井上所長を見送った。
「ほんなら、私達も行こうか?」
高田に誘われ、田野倉は苦笑いした。
「2人でですか? ほら、高田さんの娘さん呼びませんか? その方が盛り上がりますって」
「何やの、田野倉君。私と2人では不満なん?」
高田が、わざとほっぺたを膨らませる。
「いやあ、別にそういうわけではありませんけど……」
田野倉が困った顔をすると、高田は楽しそうに笑った。
「わかったわよ。綾子を呼ぶわ。呼んだらええんやろ?」
彼女は携帯を取り出してボタンを押す。その様子に、私と宮島は顔を見合わせて微笑んだ。
「じゃあ、先に行っとくし」
携帯を切ると、高田が私達の方を向いて片手を上げた。
「はい。私達もすぐ行きますから」
私も片手を上げて答える。2人はそれぞれカバンを持つと、何やら喋りながら出ていった。
(3)
カラオケ村に着き、店員さんに教えてもらった部屋を覗き込むと、マイクを持って楽しそうに歌っている綾子の姿があった。
「遅くなりました」
時間は5時になろうとしている。
「あれ、宮島さんは?」
高田が大声で尋ねた。カラオケの音が大きくて、かなり怒鳴らないと声が聞こえない。
「何か、用事があるみたいです。多分、激励会には参加しはると思うんですけど」
「何の用事やろ?」
田野倉が大声で聞く。
「さあ。何か、片づけなあかんもんがあるとか、言うてはりましたけど」
私が答えた時、綾子の歌が終わった。
「こんにちは、多恵さん。私も寄せてもらってます」
「ええ。綾子さんがいはった方が、楽しくていいわ」
私が笑いながら言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。すると、また曲が始まり、再び彼女が歌い始めた。
「なんや、2曲も続けて入れてるんか。僕も負けてられへんわ」
田野倉が、リモコンのボタンを何度か押して、曲をエントリーする。少しして、綾子が本当に歌い終わり、マイクを置いて席に戻ってきた。
「次、田野倉、歌いまーす!」
田野倉が、マイクを片手に立ち上がる。狭いカラオケルームは、たちまち騒音の坩堝と化した。彼は人の迷惑も考えず、3曲も歌い続けた。
「多恵ちゃんも、負けずに歌いや」
高田が、カラオケ本を渡してくれる。
「あ、はい」
私は、その本をパラパラとめくったが、一旦本を置いた。
「どないしたん?」
綾子が尋ねる。
「いえ、ちょっと。休憩室を片付けていた時に、小銭入れを拾ったんです。高田さんのものやないかと思って。渡し忘れると困るので、先に渡しておきたいんですけど……」
大きなカバンの中を探るが、事務所で使っていた小物にまぎれて、なかなか見つからない。私がガタガタしているうちに、田野倉の騒音が終わり、高田が歌いだした。
「またテレサ・テン?」
綾子が文句を言う。高田は、我関せずといった様子で、気持ちよさそうに歌い続けている。
「あった、あった」
カバンの底から小銭入れを発見し、取り出した時には、もう歌は2番も終わろうとしていた。
「多恵ちゃんも早く入れないと、お母さんの歌、終わっちゃうわよ」
「ああ、ほんまや」
私は、小銭入れをテーブルの上に置いてカバンのファスナーを閉めると、本をめくって米米クラブの浪漫飛行を入力した。田野倉の拍手と共に、高田さんがマイクを置く。
「さあ、多恵ちゃんの番やで」
綾子に腕を引っ張られ、立ち上がる。
「星野多恵、浪漫飛行歌いまーす!」
狭いステージに立ってマイクを持つと、学生時代の思い出がよみがえった。
「――ああ気持ちよかった」
歌い終わって私が席に戻ると、綾子が拍手で迎えてくれた。
「ハスキーな声やし、いい感じやったわ」
「どうも」
私が微笑むと、高田がさっきの小銭入れを見せて言う。
「多恵ちゃん、これ、私のやないわ」
「え?」
私が聞き返したとき、田野倉のひどい歌が始まった。
「とりあえず、預かっとくわね」
高田が片手で耳を押さえながら、大きな声で言った。
(4)
「宮島のヤツ、何をやってるんだろう」
井上所長が、いらいらした口調で言った。激励会開始の6時は、もうとっくに過ぎている。
「ちょっと、電話してみます」
田野倉が、携帯を取り出してボタンを押した。
「かかりませんわ。電源、切ってはるみたいですね」
携帯のアンテナを直しながら、田野倉が言った。
「それだったら、先に始めようか。そのうちに来るだろう。事務所の鍵も、今日中に返してもらうように言っといたからな」
井上所長の言葉を合図に、高田と綾子が、みんなのグラスにビールを注ぎ始める。全員のグラスが満たされた所で、井上所長が立ち上がった。
「さて、それでは皆さんが、新しい職場でますます活躍されることを願って。乾杯!」
彼の音頭で、私達は一斉にグラスを持ち上げる。一口飲んだところで、高田が田野倉に言った。
「田野倉君、今日、車でしょ? ウーロン茶でも頼もうか?」
「はい、お願いします」
割り箸を割っていた田野倉が、顔を上げた。
「すみません、ウーロン茶ふたつね」
高田は、大きい声で叫んでから、私の方を見た。
「宮島さんと、どんな話してたん?」
「いえ、別に……」
向かい側に座っている田野倉を見ると、井上所長から色々な愚痴を聞かされているようだった。
「今度、宮島さんのご両親に会ってくれって、頼まれてたんですけど」
私は、田野倉達に聞こえないように、小声で話した。
「あら、もうそんな所まで、話が進んでたんや」
綾子が冷やかすように言った。
「いえ、違うんです。私はお断りしてたんですよ。――それがね、宮島さん、沖縄に行くことになってしまったやないですか」
高田が頷く。
「それで、もう少し落ち着いてからにしようって、そういう話やったんです」
私は、割り箸を割った。
「それだけにしては、時間がかかってたわよねえ」
高田が探りを入れてくる。私は少しためらった後、話を切り出した。
「実は私、自首をすすめてみたんです。でも、自分は犯人やないって、言うてはりました。嵯峨野のホテルにいたのも、誰かに呼び出されたからやって。アリバイを作ったのは、変に疑われたら嫌やったからやって、そう言うてはりました」
「なるほどね」
綾子がつぶやいた。
「信じられそうな感じやった?」
綾子に聞かれ、私は首を傾げた。
「さあ……。でも、嘘とは思えなくて」
「君達、何をこそこそやってるんだ」
井上所長が、急に私達に声をかけてきた。かなり目が据わっている。田野倉が、唇をへの字に曲げて、私の方を見た。思わず吹き出すと、井上所長が恐い目で睨んでくる。
「星野君、何がおかしい。いいかね、大体近頃の女というものは……」
井上所長の酒癖が、こんなに悪いとは知らなかった。唾を飛ばして何かを熱く語っている所長を見ながら、私は串カツに手を伸ばした。
(5)
「しっかし、まあ、今日の所長は荒れてたなあ」
田野倉が呆れたように言った。
「気持ちはわかるけどね。月曜日から副所長に格下げやし」
高田が、哀れむように言う。
山科駅の前まで所長を送った後、私達は車が置いてある串兵衛の駐車場まで戻ってきていた。
「8時半か。このまま、解散します?」
田野倉が、名残惜しそうに言った。
「さっき、カラオケはさんざん歌ったしねえ」
高田が頭を掻く。
「もしよかったら、うちにいらっしゃいませんか?」
「多恵ちゃんのうちへ?」
私の提案に、高田が驚いて聞き返した。
「ほら、綾子さん、前にマックを触ってみたいって言うてはったでしょ。職場がかわってしまったら、今度はいつ会えるかわかれへんし、もしよかったらって思ったんですけど」
私が綾子の方を向いて言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「触らせてもらえるの? お母さん、お邪魔させてもうてもいいかな?」
「そりゃ、私はかまわないけど。多恵さん、いいの?」
高田が、すまなそうに尋ねる。
「ええ。もちろん。駄目ならわざわざ誘ったりしません」
「あの」
田野倉が口を挟んだ。
「僕も、ご一緒させていただいてよろしいでしょうか?」
そのへりくだった口調に、私達は顔を見合わせて笑った。
(6)
「綺麗にしてるなあ。さすが女の子や」
部屋の中を見回すと、田野倉が感心したように言った。
「ほんまやわ。綾子とはえらい違い」
高田が大げさに首を振る。
「はいはい、確かに私はお片づけが苦手です。――あ、これね? マック」
壁際のパソコンデスクに乗せられたマッキントッシュの方に、綾子が歩いていく。
「ええ。キーボードの上の方についているボタンを、押して下さい」
私が言うと、綾子は嬉しそうに押した。ジャーンという音に、びっくりして綾子が振り返る。
「こんな音がするんや」
「初めにそう設定してあるんです。賑やかでいいでしょ?」
私は、さっき帰る途中で寄ったコンビニの袋から、ジュースやお菓子を取り出しながら言った。
「ほんまやな。俺も、マック触るの初めてやわ」
田野倉も、綾子の後ろから覗き込む。
「なんか、画面が出てきたで。次はどうしたらええの?」
田野倉が、こちらを向いて聞いてきた。
「そうですねえ」
私は、少し考えてから答えた。
「メールの確認をしようかな。――封筒の絵が書いてあるボタンを、クリックして下さい」
私の指示に従い、綾子がカーソルを合わせてクリックする。
「わあ、なんかドキドキする」
綾子が楽しそうに笑った。
「パスワードを入力せなあかんみたいやで」
田野倉が、画面を見ながら言った。高田と2人で、グラスにジュースを移し変えていた私は、立ち上がってマックの方へ行った。
「ちょっとごめんなさい」
綾子に場所を空けてもらうと、私は手早くパスワードを打ち込んだ。OKのボタンをクリックすると、自然に電話がつながる。メールが転送されてきたことを確認して、私は再び高田の横に戻った。
「ごめんね。着いて早々、コンピューターに飛びつくなんて。まるで子供やね」
高田が困ったような顔で、綾子を見る。彼女は興味津々といった感じで、マックの画面に見入っていた。
「新しいメールが届きましたって出てる」
綾子が振り返る。
「はい、今行きます」
私はまた立ち上がると、マックの方へ向かった。受信簿を見ると、「宮島直人」という名前が表示されている。
「これ、宮島さんからやないか」
田野倉が驚いたように言った。
「時間は、5時34分。――ちょうど僕らがカラオケで盛り上がっていたころやね」
「ええ」
私は頷きながら、その欄を急いでダブルクリックした。長い文章が現れる。
「宮島君と、メールの交換してるの?」
高田も、こちらへ歩いてきた。
「いいえ。アドレスは教えておいたんですけど、下さったのは初めてです」
私は言いながら、文章に目を転じた。
「これ、めっちゃ長そうやな」
田野倉が私の方を見る。私は、後ろにいる高田にも内容がわかるように、そこに書かれた文章を、声を出して読んでいった。
(7)
『君にどうしても伝えなければならないことがある』
彼の文章は、そう始まっていた。
『さっき、君に自首をすすめられ、自分なりに考えてみた。ずっと否定し続けていれば、証拠もないし、俺は捕まらないだろう。でも、君が言うように、俺は一生、この苦しみを背負って生きていかなければならない。だから、決心した。全てを君に告白する』
そこまで読んで、私は深呼吸した。高田がそっと、私の肩に手を置く。
『俺がこの一連の犯行を犯した動機は、波多野さんの復讐なんかではない。君の言うように、横領をしていたのは波多野さんではなかった。横領しようと言い出したのは、竹本だった。そして俺も、安永と祖父江と共に、その横領に加担していたんだ。
俺は、慕っているふりをして波多野さんに近づき、彼女がそのことに気づかないように注意を払っていた。しかし、彼女は竹本の横領に気づいてしまった』
私は、高田の顔を見た。彼女が頷くのを確認し、続きを読み始める。
『2年前の6月29日、波多野さんに呼び出された俺は、彼女の口から内部告発をするとの決意を聞いた。彼女は、俺がその横領に関わっていることには全く気づいておらず、逆に協力を求めてきたんだ。
俺はとりあえず、竹本を説得してみるからと彼女をなだめ、目を盗んで、彼女のコーヒーに青酸カリを入れた。これは、万が一の時のために、竹本から渡されていたものだった。ヤツは、知り合いの冶金業の人からもらったと言っていた』
私は一度、唾を飲んだ。
『波多野さんの死を確認し、テーブルの上を見ると、彼女が自分の息子に宛てて書いた手紙があった。内容を読んで、俺は内心、喜んだ。遺書にしてもおかしくない内容だったからだ。その上、彼女は高価な指輪をはめていた。鑑定書までテーブルの上に出してあった。俺はとっさに、それらを使い、完璧な自殺現場を作り出そうと考えた』
「やっぱりね」
綾子が、小さな声でつぶやく。
『計画通り、波多野さんの死は自殺と断定された。しかし、誤算があった。横領が内部でもみ消されたのをいいことに、安永が竹本を恐喝してきたんだ。波多野さんの殺害には自分は加わっていない。金を出さなければ、竹本が青酸カリを入手したルートを、警察にたれ込んでやると』
「内部分裂か。アホなやつらやな」
田野倉が、溜息混じりに言った。
『泣きついてきた竹本のために、俺は九州出張の機会を利用して、安永をひき殺した。これで全てが片づくはずだった』
私は目を閉じた。続きを、田野倉が読んでいく。
『俺がこれだけ尽くしてやったというのに、竹本は俺を裏切った。俺が好きだった道子を、あいつは寝取ったんだ。そんなとき、波多野俊介から連絡があった。波多野さんから俺のことをよく聞いていたらしく、何か話したいことがあるということだった。俺はとりあえず、会うことにした。俊介の話は、思いがけないものだった』
田野倉は、ちらっと綾子の方を見ると続けた。
『自殺しようと、大学院から青酸カリを持ち出したものの、俊介は死ぬことができなかった。自分を見直すため、それから1年半の間、自転車で全国を回っていたという。しかし、立ち寄った福岡で偶然、赤提灯から出てくる安永を見かけた。俊介は、なんとなく安永の後を付けていき、そして俺がヤツをひくところを見てしまったそうだ』
「――こんな偶然があるのかな。俊ちゃんが、安永さんのひき逃げ事件を目撃したなんて」
綾子が口を挟む。
「事実は小説よりも奇なりって、いいますからね」
田野倉は答えると、続きを読み始めた。
『事情を話してくれと、俊介はしつこく迫る。俺は涙ながらに、すべて、波多野さんの復讐のためだと説明してやった。横領は、安永と竹本が2人でやったことで、彼女を自殺に見せかけて殺したのもやつらだと。
――俺の話を信じ込んだ俊介は、カバンから薬包紙に包んだ青酸カリを取り出した。これを使って、竹本を殺そうというのだ。俺は計画を立てるため、俊介をマンションに連れていった』
「俊ちゃんも共犯やったんやね」
高田が辛そうに言う。田野倉は頷き、画面に目を戻した。
『どうせ殺すなら、怖い思いをさせてから殺した方がいい。俺はそう言って、俊介に、あの脅迫状を書かせた。そして俺が直接手を下すからと、彼から青酸カリを受け取った。
――これで全ての小道具は揃った。脅迫状、青酸カリ、自転車。俺は、俊介にビールを飲ませた。ヤツからもらった青酸カリを混ぜたビールを。絶命した俊介を車に乗せると、俺はその遺体を途中越あたりの山中に埋めた』
「何てこと……」
高田が、力無くつぶやいた。綾子は、まっすぐに画面を見つめている。
『俊介に書かせた脅迫状は、竹本を殺す時に使う予定だった。しかし、俺の気も知らず、竹本が奥さんと別れてくれないと愚痴る道子に、俺は段々腹が立つようになっていた。
――2人を心中に見せかけて殺す。俺は、予定を変更した。竹本の奥さんに、道子との不倫の事実を教えてやる。奥さんが騒ぎだせば、竹本は道子との関係を清算しようとするだろう。そして、道子はきっと、俺に泣きついて来る』
「告げ口したんは、宮島君やったんや」
高田がつぶやく。
『思った通り、彼女は俺に助けを求めてきた。俺は、道子の相談に乗ってやるふりをして、ある計画を授けた。 ――嵯峨野のホテルに竹本を呼びだし、奥さんと別れないなら心中してくれと、迫らせる。そして、竹本が窮地に追い込まれたのを見計らって、俺が2人の部屋を訪れ、道子の気持ちを考えるよう説得する、というものだった。道子は大喜びでそれらしい遺書を書き、それを実行した』
田野倉が顔を上げ、苦笑した。
「彼女なら、やりそうですね」
高田も、目をつぶって頷いた。
『俺の説得に、竹本が前向きに考えると言った。俺が2人にビールをすすめ、乾杯をさせると、ヤツらは嬉しそうに青酸入りのビールを飲み干した。
――俺は、グラスについた自分の指紋を拭き取り、新たにヤツらの指紋だけをつけようとした。しかし、ちょうどグラスを拭き取ったところで、ドアをノックする音が聞こえた。第一発見者にするために、あらかじめ頼んでおいたルームサービスが、予定よりも早い時間に来てしまったんだ。古い型のドアはオートロックではなく、鍵は開けたままになっている』
田野倉は、一息ついて続けた。
『俺は、ベッドの陰に身をひそめた。ボーイは部屋に入って来て2人を発見し、大慌てで飛び出していく。こうなったら、一刻も早く逃げ出さなくてはいけない。俺は2人の指紋をグラスにつけるのをあきらめ、急いで部屋を飛び出した。そのせいで、心中事件に見せかけるつもりが、殺人と断定されてしまった。おまけに俺の姿も目撃され、疑いをかけられる羽目になった』
「――せやから、グラスの指紋は拭き取られた状態で発見されたんやね」
綾子が目を閉じる。田野倉は軽く頷いて、また文章へと戻った。
『祖父江は前から、肝っ玉の小さいところがあった。特に、俊介が姿をくらましたと聞いてからは、いつか真相がばれて復讐されるんじゃないかとおびえていた。案の定、竹本の殺害現場で、若い男が目撃されたという話を聞いて、ヤツはビビリ始めた。この様子では、いつ警察にかけ込むかわからない。俺は、祖父江も殺すことにした』
「何でも殺せばいいって感じやね。腹が立つわ」
高田が、吐き捨てるように言う。
『あの日、祖父江が1人で作業することを知った俺は、あいつのバッグに、あの脅迫状をなぞったものを入れておいた。ヤツはさらにビビって、俺に河原町ビルに一緒に来てくれと頼み込んできた。
必ず行くからと約束した俺は、アリバイを作るため、星野さん、君を利用した。君のビールに睡眠薬を入れて眠らせると、あらかじめ用意しておいた俊介の自転車に乗って、河原町ビルへと向かった』
「思った通りやわ」
綾子が頷く。
『入館カードを使って表口から入り、電気室のインターホン越しに声をかけると、祖父江は何の疑いもなく俺を中に招き入れた。そして、殺されるとも知らずに喜んで青酸カリ入りのコーヒーを飲んだ。
――俺は急いで俊介のような格好をすると、わざと目撃されるように裏口から出ていった。そして、刑事が事情聴取に来た時を見計らって、あの脅迫状を見せ、祖父江の所にも来ていたと話をした』
そこまで読んで、田野倉はつぶやいた。
「やっぱり、自作自演やったんやな」
『稲垣さんは、俺が祖父江の所に行くと約束をしていたのを、聞いてしまった』
私は震える声で、続きを読んでいった。
『そして俺を脅してきた。殺すしかないと思った俺は、あの日、自分が殺されかけたように見せかけ、彼女を殺した。煙草を吸うふりをして、流しの所へ行き、フレッシュをすり替える。そして、俊介の犯行に見せかけるため、フレッシュを外のゴミ箱に捨てた。これが事件の全容だ』
「えらいことをしてくれたもんやな」
田野倉が溜息をつく。
『初めは、自首するつもりだったが、書いているうちになんだかむなしくなってきた。今、手元にあと1人分ほどの青酸カリが残っている。どうやら俺は、人を殺しすぎたようだ。――さよなら、元気で』
文章はそう締めくくられていた。私達はお互いの顔を見つめ合った。
「これ、遺書やんけ」
田野倉が、かすれた声で言った。
「多恵ちゃん、これ、どこから発信されたものかわかる?」
「ちょっと待って下さい」
私は震える手でマウスを動かした。メールの冒頭の部分を見ると、発信元は宮島自身のメールアドレスになっている。
「宮島さんが、いつも持ち歩いてるノート型パソコンと違うかなあ」
田野倉が、それを見て答えた。
「じゃあ、宮島さんがどこでこれを書いたのか、わかれへんのやね」
「ええ。時間から見て、私がカラオケ村に着いてちょっと経った頃やから、この文章が送信されたんは、事務所からちゃうかと思うんですけど……」
私が答えると、高田が困ったような顔をして言った。
「どこを探せばいいかなあ」
「そうですね。――高田さん、宮島さんのアパートの場所、知ってはります?」
私が尋ねると、高田は申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめん、わかれへんわ」
「僕、知ってるで。何度か行ったことあるし」
田野倉が、カバンを手に立ち上がる。
「じゃあ、宮島さんのアパートに行ってみて頂けますか? ――高田さんは事務所の方、お願いします。私も一緒に行きますから」
「わかったわ」
高田も、カバンを持つと立ち上がった。
「あ、事務所、電気ついてなくて暗いから、懐中電灯、いりますよね」
私は、今日、事務所から持って帰ったカバンの中を探った。たしか、私のデスクの中に入っていたものが、あったはずだ。だが、焦ってしまってなかなか見つからない。
「車の中で探したらええやん。はよ、行こう」
高田が、玄関から声をかける。
「わかりました」
私は答えると、振り返って綾子を見た。
「お留守番、お願いできます?」
彼女は、青い顔で頷きながら言った。
「気をつけて行ってきてね」
私は、大きなカバンを肩から提げると、大急ぎで玄関へと走った。
(8)
「多恵ちゃん、懐中電灯、見つかった?」
高田が、車のドアを開けながら言った。
「それが……」
私はカバンの中を手で探りながら、車のドアを開けた。先に車を降りた高田は、事務所のドアに向かって走っていく。
「だめやわ、鍵がかかってる。鍵はさっき所長に返してしまったし、どないしよ」
ようやく高田の所まで追いついた私の方を振り返って、彼女が聞いた。
「鍵がかかってるなら、宮島さん、もうここを出たのかも……」
私は、ようやく見つけだした懐中電灯のスイッチをつけながら、答えた。高田は、頷きながら駐車場を見回している。そして、一番端の方を指さして言った。
「あれ、宮島君の車よねえ」
街灯に照らされて、彼の赤いBMWがぽつんと置かれていた。
「やっぱり、事務所の中でしょうか」
私が高田の顔を見ながら言うと、彼女は私の手から懐中電灯を取り上げた。
「ドアのガラスを割って、手を入れたら鍵が開くはずやわ」
高田はそう言って、足下を照らした。
「舗装されてるし、石みたいなものもないねえ」
「ちょっと、いいですか?」
私は高田から懐中電灯をもらうと、電気を消した。
「このお尻の所で割れるかも」
懐中電灯を逆さに持つと、お尻の部分をガラスにたたきつけた。2回、3回とたたきつけているうちに、ぱりんと音がして、手が入るくらいの穴が開いた。私は、懐中電灯を振って付着したガラスを払うと、スイッチを入れ、高田に渡した。
「手元、照らしてもらえますか?」
「わかったわ。気をつけてね」
ガラスの割れた穴から、怪我をしないようにそっと手を入れる。ノブを探ると、鍵が手に触った。
「開きました」
言いながら、そっと手を引き抜く。ドアを開け中に入ると、私達はまず、休憩室を照らした。
「いないわね」
高田に言われ、頷く。私達は無言のまま、懐中電灯の光を頼りに、階段を1段1段、慎重に上がっていった。目を見合わせて、ドアを開く。そして私達は、言葉を失った。
――がらんとした事務室の中に、窓から街灯の光がうっすらと入り込んでいる。宮島らしきその人物は、そのかすかな光に照らし出されて――そう、まるでスポットライトを浴びているかのように――、静かに体を横たえていた。すぐ横に転がった、缶コーヒー。
映画のワンシーンのような、その光景を見ながら、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
「多恵ちゃん、大丈夫?」
高田に肩をつかまれ、ふと我に返る。
「宮島さん」
無駄とは知りながらも声をかける。高田は私から懐中電灯を受け取ると、彼の遺体のそばへと近寄った。
「パソコンと携帯が置いてあるわ。両方とも、電源は切られてるみたいやね」
高田がこちらを向いて言う。私は、おそるおそる中へと足を踏み入れた。
そばまで来て、ゆっくりとひざまづく。死の恐怖と戦ったのだろうか、彼の顔は、少しゆがんでいるようにも見えた。
「あの時、私が無理矢理にでも彼を連れ出していたら……」
私は髪をかき上げた。
「――警察に連絡するわ」
高田がカバンから携帯電話を取り出し、ボタンを押す。状況を説明する高田の声を聞きながら、私はじっと、動かなくなった彼の体を見つめていた。
電話を終えた高田が、私の肩に優しく手をかける。私は目をつぶると、こみ上げる様々な思いを押さえながら頼んだ。
「すみません。2人きりにさせてもらえませんか」
高田はゆっくり頷き、こう言った。
「わかったわ。私、外で警察が来るの、待っとくから。――懐中電灯、借りて行くわね」
彼女が去っていく足音を聞きながら、私はそっと目を開けた。ゆっくりと、彼の頬に手を伸ばす。青ざめたそれは、既に冷たくなっていた。
(9)
2時間後、私は捜査本部の応接室で、話を聞かれていた。私をはさんで、高田と田野倉が座っている。
「高田さんから携帯に連絡が入って、僕も事務所に駆けつけました」
田野倉が、その時の状況を説明する。正面のソファには、木嶋刑事と横溝刑事が座っていた。
「ファックス、送ってもらいました」
上条刑事が、白い紙を手に現れた。綾子が、私のマックに届いた宮島さんのメールをプリントアウトし、送ってくれたのだ。
「うん、同一の文章ですね」
初めに、宮島のパソコンからプリントアウトしてあった文章と比較し、横溝刑事が言った。
「宮島さんのパソコンに残っていた記録から、これが送信されたのは、5時34分。星野さんの受信記録に残されたものも、同じ時刻でした。それから、携帯の通信記録も調べましたが、やはり5時34分に、プロバイダーの番号へ接続されていたことがわかりました。――この時間には、宮島さんをのぞく皆さんで、カラオケをしてはったんですね」
「はい。井上所長は支社の方へ行かれましたけど」
高田が答える。
「そのことは、既に確認をとりました。――それ以降、宮島さんに連絡された方は、いてはりますか?」
木嶋刑事が尋ねた。
「激励会が始まっても宮島さんが来はらへんので、僕が彼の携帯に電話を入れた時には、もう電源は切られていました」
「何時頃でしたか?」
木嶋刑事が田野倉に尋ねる。彼は答えた。
「6時15分頃やったと思います」
「おそらく、宮島さんは、この文章を書いて星野さんに送信した後、パソコンと携帯の電源を切り、青酸カリを入れた缶コーヒーを飲んだのでしょう。入口の鍵もかけられていましたから、まず、自殺と見て間違いありませんね。青酸カリを包んでいたと思われる薬包紙も、彼のズボンのポケットから見つかりました」
「表口の鍵、1つだけ宮島さんに渡してあったんですけど、それはあったんですか?」
田野倉が尋ねる。
「ええ。宮島さんの上着のポケットに入っていました」
「完璧な密室やったわけやな」
田野倉がつぶやく。
「明日の朝から、あの遺書に基づいて、波多野俊介さんの遺体を捜索することになっています。ただ、途中越あたりの山中というだけでは何とも……。とにかく、全力を挙げて探します」
「よろしくお願いします」
高田が、深々と頭を下げた。
「しかし、あっけない幕切れやったなあ」
田野倉が、両手で目を覆いながら言った。涙をごまかしているようだ。
「ほんまに、自殺なんですか?」
私は、顔を上げて聞いた。
「俊介さんが実は生きていて、宮島さんに全部の罪をかぶせたとか」
私の言葉に、木嶋刑事が首を横に振った。
「残念ですが。彼が最後に飲んだ缶コーヒー、彼自身が近くのコンビニの自販機で購入していたものであることがわかりました。コンビニの防犯カメラに、宮島さんらしき人物が購入している様子が、映されていたんです。5時少し前ですが」
私は思わず、手で口を覆った。
「私が事務所を出て、すぐですね」
震える私の肩を、高田が優しく抱いてくれた。
「多恵ちゃん、自分を責めたらあかんよ、ね」
高田の優しい言葉に、私は涙を流した。田野倉が、隣で煙草に火をつける。
時計の音だけが、空しく流れていった。
(10)
「お疲れさま。元気、出してね」
高田に励まされ、私は頷いた。
「元気でやれや」
田野倉も、優しく声をかけてくれる。
「ありがとうございます。お2人も、お元気で」
私は軽く頭を下げると、京都烏丸口にあるバスターミナルへと向かった。
今日は、堺の実家の方で、宮島のお葬式が行われたのだ。
司法解剖の結果、青酸カリによる自殺ということで決着が付いた。そして、あの遺書も、本人のパソコンから送信されたものであることや、内容に矛盾点がないことなどから、本物であると断定された。
俊介の遺体はまだ見つかっていなかったが、かなりの大がかりな捜索がされていると、ワイドショーなどでは伝えられていた。
バスを待つ人の列に並びながら、私は目を閉じ、そっと微笑んだ。
――これで、全て終わった。




