第6章
(1)
「多恵さん」
オートロックシステムに鍵を差し込もうとした時、後ろから声をかけられた。驚いて振り返ると、そこには綾子が立っていた。
「おいしいケーキ、買ってきたの。一緒に食べようと思って」
彼女は小さな白い箱を、私に見せた。突然の訪問に戸惑いながらも、私は鍵を回し、彼女をマンションの中へと招き入れた。
「大変やったわね」
綾子が、言葉を選びながら話しかけてくる。
「ええ」
エレベーターが開き、私達は乗り込んだ。4階にたどり着き、ドアが開く。私は彼女の前に立って、部屋の前まで来た。鍵を開け、ドアを引く。
「どうぞ」
私が言うと、彼女は軽く頭を下げて部屋の中に入った。私は、バッグの中からお葬式で配られた塩を取り出して軽く足下にふりかけ、パンプスを脱いだ。
中に入ると、綾子は台所の方に行っていた。
「ごめんね。ケーキ皿、勝手に出しちゃった」
お皿とフォークを手に、綾子が微笑む。
「ええ。今、飲み物入れますね。――あ、麦茶しかないねんけど」
私が綾子の方を向いて言うと、彼女は頷いた。
バッグを置き、手を洗う。私は冷蔵庫を開け、麦茶を取り出した。グラスに注ぎ、テーブルへと持っていく。お皿の上には、既にケーキが用意されていた。
「あのね、私、多恵さんにプレゼントがあるの」
グラスを置いて座布団に座ると、先に座っていた綾子が、カバンから四角い箱を取り出した。
「開けてみて」
私はそれを受け取り、ゆっくりと包みを開けた。中には綺麗なスカーフが入っている。
「多恵さん、いつも首にスカーフ巻いてはるでしょ? 首の傷を隠すためやって、母から聞いたんやけど。喪服の時にも黒いスカーフ、巻いてはるねんね」
「ええ、見られると恥ずかしいから」
私は首のスカーフを押さえながら言った。
「ねえ、私の買ってきたスカーフ、巻いてみて」
綾子が微笑む。私はそれを持って、洗面所へ行こうとした。
「ここで、巻き直してくれたらええんよ」
綾子が言う。
「でも……」
私は戸惑った。
「別に私、その傷を見て驚いたりしないから。ここで巻いてみて」
綾子は真面目な顔で続ける。
「それとも、傷以外に、何かスカーフを外せない訳でもあるの?」
綾子が、私の顔を見て言った。重苦しい空気が流れる。
「――そうや、多恵さん、あなた、俊ちゃんの写真、見たことある?」
急に話題が変わった。私は、少しほっとして微笑んだ。
「いいえ」
「そう、じゃあ、見せてあげる」
彼女はそう言いながら、バッグから1枚の写真を取り出した。テーブルに置き、私の方に向ける。
「背は、私と同じくらいやってん。体も細くて、男の子にしてはかなり小柄なほうやったわ。ほら、これが、みんなが言ってたほくろ」
彼女は、写真の俊介の左頬を指さした。
「女の子みたいな綺麗な顔をしてるやろ? それでね、笑うと、八重歯が出るんよ。それが本当に可愛くて、よく母から、私と入れ替わればいいのにって言われてた」
「そうなんですか」
私は頷いた。
「初めて出会ったのは、20年も前。私が小学校の2年生で、俊ちゃんが3年生やった。当時は私の方が体が大きくてね。いじめられてる俊ちゃんを、助けにいったもんやったわ」
私が黙っていると、彼女は続けた。
「おおざっぱな私とは対照的に、几帳面で何でもきっちりこなしていくタイプやった。優しくて大人しくて。勉強もスポーツも、すごくよくできたんよ。私はそんな俊ちゃんを、ずっと尊敬してた」
彼女は遠くを見るような目をして、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「私、色々考えたんよ。この2年間、俊ちゃんは何をやっていたんやろうって」
「亡くなられたって、お話でしたよねえ」
私は、小さな声で言った。
「死んでるはず、ないやん」
綾子は、淋しそうに微笑んだ。
「想像してみてくれる?」
綾子が写真を目で示しながら言う。私はそれを見つめた。
「目を二重にして」
彼女は、俊介の写真の目元を指差す。
「髪の毛を長くして」
次に、頭の辺りを指でなぞる。
「それから、こうしてほくろを隠すと」
写真の左頬を指で押さえ、顔を上げた。
「どう?」
彼女が私の方を見る。
「多恵さんによく似てるって思うのは、私だけかな?」
「私、八重歯なんてありません」
小さな声で答える私に、彼女は悲しそうに微笑みかけた。
「八重歯なんて、抜いて矯正してしまえば、しまいやん。瞼は整形すれば二重になるやろ? ほくろも簡単にとれる。顔の輪郭は髪の毛でごまかせるし。それに、お化粧次第で、イメージなんていくらでも変えられるんよ。――俊ちゃんが姿を消してから、多恵さんが現れるまで約1年半。準備をするには十分過ぎる時間と違う?」
彼女は俊介の写真を手にとり、続けた。
「俊ちゃんはひげが薄かったから、抜いたりしてファンデーションを塗れば、女の子になりすますことなんて簡単やもん。体つきだって小柄やから、パットを入れたり、洋服の形で何とでもなるはずやわ。でも、ひとつだけ、どうしようもないものがあった」
綾子は、まっすぐに私の目を見て言った。
「のどぼとけ、よ」
私は目を閉じた。
「あなたがスカーフを巻いて隠しているのは、首の傷ではなく、のどぼとけなんでしょ」
私が黙っていると、彼女は身を乗り出して、私の手を掴んだ。
「もう、やめようよ、俊ちゃん」
絞り出すようなその声、彼女の手の温もり、そして手にかかった涙。
「お願い、もう……やめようよ……」
私の――いや、俺の中で、何かがちぎれる音がした。
(2)
俺は、ゆっくり立ち上がると、洗面所に向かった。
スカーフを外して顔を洗い、まっすぐに鏡を見つめる。そこに映っているのは、まぎれもなく俺、波多野俊介だった。
――この瞬間、星野多恵はこの世から姿を消した。
「のどぼとけ、か」
俺は、鏡に映った自分の首を触ってみた。
「男やもんな。しゃあないわ」
笑いながら独り言を言う。気がつくと、後ろには綾子が立っていた。
「いつ、わかった?」
俺が鏡越しに尋ねると、綾子はぽつりと言った。
「部屋に戻ろう」
俺は、彼女の後について、部屋に戻った。テーブルの上には、手をつけられないままのケーキが、淋しそうに俺達の帰りを待っている。
2人とも、さっき腰を下ろしていた場所に座り込んだ。すると、綾子はバッグから、1枚の栞を取り出し、俺に見せた。
「これ、どこで見つけたか知ってる?」
真ん中に押し花がはさまれた、手作りの栞。見覚えはあったが、ずっとその存在すら忘れていた。
「あなたが宮島さんを捜しに出ていったとき。私、この部屋で留守番してたでしょ? 1人で退屈やったから、何となく本棚の本を1冊、手にしたの。そしたら、その本の間から、これが滑り落ちた」
俺は黙っていた。
「覚えてる? これ、うちの母子と俊ちゃんのおばちゃんと3人でハイキングに行った時、摘んできた花やねん。俊ちゃん、高校受験の前で一緒に出かけられへんかったから、おみやげがわりに持って帰ってきて。おばちゃんに教えてもらいながら、この栞を作ったんよ」
そういえばそうだった。お袋は押し花が好きで、色々なものを作っては飾っていた。
「多恵さんの部屋でこれを見つけたとき、私は訳がわからなかった。何で、多恵さんが、私が俊ちゃんにあげたもんを持ってんのやろって」
「そうやろな」
俺が頷くのを見て、綾子は続けた。
「でも、この家のお手洗いを見たとき、ピンと来たの」
「トイレ?」
俺は思わず聞き返した。
「うん。だって、サニタリーボックスがないんやもん。女の子の暮らしてる家やったら、絶対置いてあるもんやんか」
「そうか。そこまで気が回れへんかったわ」
綾子の答えに、俺は頭を抱えた。
「多恵さんが女じゃない、そうわかった時に、全ての出来事が1本の線でつながった。俊ちゃんは、波多野俊介と星野多恵という男女を使い分けながら、この連続殺人を行っていったんやって」
俺は溜息をついた。――完全犯罪を成し遂げたはずだったのに。
「――俊ちゃん、私を殺す?」
思いがけない綾子の言葉に、俺は思わず顔をあげた。
「お母さんにも、まだ話してへんねん。このこと、気づいてるんは私だけや。私を殺したら、このことは誰にもばれへん」
綾子は、俺の目をじっと見つめて言った。
「お前を生かしておいたら、どうする気や」
俺が尋ねる。彼女は、きっぱりと言い切った。
「決まってるやろ。自首をすすめるわ。もし、俊ちゃんが自首しないって言うんやったら、私が警察に行って、本当のことを話します」
俺は思わず微笑んだ。綾子らしい答えだ。ぬるくなった麦茶に手を伸ばす。
「ちょっと待って」
綾子が、俺の手を押さえる。
「自殺しようっていうんやないやろね」
俺は、彼女の手を外しながら言った。
「青酸カリ、使い切ってもうたわ。――こんなんやったら、とっておいたらよかったな」
俺の言葉に、綾子が悲しそうな顔をした。
「信じてええねんね」
「おお」
俺は答えると、グラスに口をつけた。俺がなんともない様子を見て、綾子がほっと息を吐く。
「2年前、お通夜で出ていってしまってからのこと、全部聞かせて」
綾子の真剣な目に、俺は頷くしかなかった。
「わかった。全部、話したるわ」
俺は、麦茶をもう一口飲んだ。
(3)
「お前から、お袋の遺書の内容を電話で聞かされた時、俺はそれが遺書ではないと直感した。
――ドクターコースに進んですぐ、俺は足を痛めて、サイクリングをやめた。そんな時、演劇に出会ったんや。他の人間を演じることの楽しさ。俺はいつしか、研究そっちのけで演劇にのめり込み、やがて本格的に勉強したいと考えるようになった。
お袋は、もちろんそんなこと、許してくれへんかった。でも、俺はお袋の反対を押し切った」
俺は天井を見上げた。
「お前から聞いた文章の内容、お袋が、そんな俺を認めてくれたように感じたんや。認めてくれたのに、自殺なんかするわけがない。せやから、実際にお前から実物を見せてもらって、判断しようと思った」
綾子は、手帳からお袋の手紙を取り出した。俺は、それを受け取ると目を通し、テーブルの上に置いた。
「家に着いたときにはもう、お通夜が始まっていた。お前は熱くなっていたし、俺も冷静にものを考えられる状態やなかった。せやから、ちょっと頭を冷やそうと思って、近くの深夜喫茶に入ったんや。薄暗い店内にはいると、どこかで見かけたことのある3人の男達が、顔を寄せ合って何かをひそひそと話していた」
麦茶を一口飲んで続ける。
「お互いに呼び合っている名前から、俺は、やつらがお袋の事務所の従業員やということに気づいた。見たことがあると思ったのは、お袋の社員旅行の写真で、やつらの顔を見ていたからやったんやな。俺は、そいつらの後ろの席に座り、話の内容を探ろうとした。そして、その話の一部始終を聞いて、凍り付いた」
俺は、テーブルの上で手を組んだ。綾子は黙って聞いている。
「竹本と呼ばれていた男が言った。『安永所長、今度の監査の時、計画通りにして下さいよ。わかってはりますね』って。『もちろんや』。安永は答えた。『あの通帳を、波多野さんのデスクから出てきたって、渡したらええねんろ? 』。すると、祖父江という男が困った顔で言うたわ。『ちゃいますよ、所長。デスクやなくて、ロッカーですって』。そう言って、やつらは笑ったんや」
「ひどい……」
綾子が絶句した。俺は続けた。
「ほんまにひどいのは、これからや。――少しして、宮島が入ってきた。俺はよく、お袋からヤツの話を聞いていた。お袋は、宮島が息子みたいに可愛くて仕方がないって、いつも言うてたんや。なのに……」
俺は目を閉じて、あの時のことを思い出していた。
(4)
「おう、遅かったな」
祖父江の隣に座った宮島に、竹本が声をかけた。
「大変やったんですよ、さっき、波多野さんの息子が帰ってきたんですけどね。高田さんの娘にびんたされて、飛び出していきましたわ」
宮島が、楽しそうに言った。
「へえ、俺はあんまり知らんねんけど、高田さんってあの、きついって人やろ?」
安永が言う。
「ええ、娘もきっつそうですよ。なんや、高田さん、波多野さんの後に、うちの事務所に来るらしいって、みんな噂してましたわ」
宮島が、喪服の上着を脱ぎながら言った。
「そうなんか。これで当分は、横領もできへんな」
竹本が言いながら、煙草に火をつける。
「たったの500万で気づかれるなんて、失敗でしたね」
祖父江が残念そうに言った。
「ほんまやで。波多野さんも、結構細かいところがあったからな。でも、宮島をそばにつけておいて、正解やったわ」
安永も、煙草に火をつけた。
「昨日の電話で、横領を告発するって言われたときは、ほんま、びっくりしましたよ」
宮島が苦笑いした。
「おう、でも、俺が渡した青酸カリ、お前、よう上手いこと使ったなあ。自殺って断定されたんやろ?」
竹本が感心したように言った。
「ええ。あのおばさん、俺までグルやとは思ってなかったみたいですからね。席を立った隙に、あのひとのコーヒーカップに振り入れたったんですよ」
宮島が自慢げに言う。
「苦しみはりました?」
祖父江が、声をひそめて聞いた。
「せっかく忘れようとしてるのに、思い出さすなや」
宮島が、祖父江の頭を小突いた。
「しかし、あの遺書は、どうやって書かせたんや」
安永が、腕組みをしながら尋ねる。
「たまたま、テーブルの上に置いてあったんですよ。息子の住所が書かれた封筒も一緒に置いてありましたからね、畳んで入れて、投函するつもりやったんちゃいます?」
宮島が、運ばれてきたコーヒーを飲みながら言った。
「ほんなら、お前は封筒を処分しただけで済んだってことか」
竹本が言う。
「ええ、それとね、もう1つ、ラッキーなものがあったんですよ」
宮島の言葉に、安永が身を乗り出した。
「何やねん」
「ほら、あのダイヤモンドですよ」
「ああ、指につけていたっていう?」
祖父江が尋ねた。
「そうや。鑑定書までテーブルの上に出してあって。見たら、購入日は先月になってました。かなりでかかったし、高いと思うんですよ。――でね」
宮島は、3人の顔を見回しながら、言った。
「多分、自分で買いはったんやと思うんですけど、そんなもん、普通は買えませんやん」
みんなは頷いた。
「せやから、あれを横領の傍証にしてまったらどうかと思って」
「どういうことや?」
宮島の言葉に、竹本が聞き返した。
「ほら、道子あたりに証言さすんですよ。『波多野さんが、素敵な指輪をしていたので聞いてみたら、いい儲け方があるのよって言ってた』とか何とか、それらしいことを言わせたら」
宮島の後を、安永が引き継いだ。
「横領の容疑は完璧やな」
「あの手紙のお陰で、自殺のきっかけは息子との行き違いやということになってる。でも、ここにもうひとつ、横領の事実があったとなれば、自殺を疑うヤツはいてへんでしょう」
宮島が、低い声で言った。
「500万で、人生棒に振ったら最悪やもんな。4人でやってたんやし、実際、手にしたんは100万ちょっとや。こんなんでクビなんて、シャレにならんわ」
竹本も言う。
「おいおい、そんなん言うたら、バチが当たるで。波多野さんは、その500万に気がついてしまったせいで、人生を棒に振ったんやからな」
安永の言葉に、やつらは低い声で笑った。
(5)
「俊ちゃん、どないしたん?」
綾子に腕をつかまれ、我に返った。
「宮島さんが入ってきて、もっとひどいことを言うたんやね」
綾子が尋ねる。俺は、どこまで話したものか迷いながら、頷いた。
「実際に手を下したんは、宮島やったんや。お袋は、あいつを信頼していた。せやから、横領を告発することを相談した。でも、宮島は横領していたやつらの仲間やった。あいつは、お袋が俺に宛てて書いた手紙を遺書に見立て、ダイヤの指輪を横領の傍証にしようと企てた」
「おばちゃんを、裏切ったんやね」
綾子が忌々しそうに言う。
「でも、あのダイヤ、おばちゃん、どないしはったんやろか」
俺は、綾子の顔を見ながら答えた。
「あれ、俺がプレゼントしたもんなんや」
「俊ちゃんが? なんで?」
綾子が驚く。
「――俺が生まれたとき、オヤジはまだ、他の女性のダンナさんやった。俺、不倫の子やねん」
俺は続けた。
「オヤジが離婚して、お袋と再婚したんは、俺が2つの時やった。結局、その6年後には、オヤジは他に女を作って出ていってもうたけどな。いい加減な男やったんや、俺のオヤジは」
俺は麦茶を飲んだ。
「『他人のものを奪ったから、バチが当たったんやわ』って、お袋よく言うてたけど、オヤジが戻ってくることを望んでいたのはわかってた。夜中にこっそり、オヤジにもらったダイヤの指輪、眺めとったさかいにな。でも、俺が中1の時、お袋はそのダイヤを手放した」
「何で?」
綾子が尋ねる。
「俺、あの頃、肺炎やって入院したん、覚えてるか?」
俺の問いに、綾子は頷いた。
「そう言えば、生きるか死ぬかの大騒ぎやったわね」
「ああ。かなりひどい状態やったし、思ったよりも入院が長引いてもうてな。費用がかさんだんやと思うねん。お袋、あのダイヤ、売ってもうた」
「そうやったん」
「それを知った時、俺は決めたんや。俺が金を貯めて、絶対お袋に、あれよりも大きなダイヤ、買うたるんやってな。
――2年前の6月、お袋、銀婚式やってん。俺、一生懸命バイトして金貯めて、あのダイヤを買ったんや。渡したときなあ、お袋、泣き出してもうて。ありがとうって」
俺は、あの時のお袋の顔を思い出していた。指にはめたダイヤを、嬉しそうに何度も何度も見つめていたあの顔。
「あの時も、俺への手紙を書きながら、ダイヤを眺めとったんちゃうかな」
それを、宮島は悪用した。
「せやから余計に、宮島さんが許されへんかったんやね」
テーブルに置いていたお袋の手紙を手にしながら、綾子が言った。目には涙が溜まっている。
「4人とも許せへんかった。でも、宮島は特に……。あいつは、お袋を裏切り、俺のお袋への想いも踏みにじったんや」
綾子は、頷きながら涙を拭った。
「それで、宮島さんを犯人に仕立てて、全員を殺害する計画を立てたんやね。
――これで、事件に見られた矛盾の意味がわかったわ。一連の事件の犯人を宮島さんに仕立てていくのが、星野多恵の役割。そして、宮島さんを怯えさせるのが、波多野俊介の役割。それぞれの事件には、この2つの目的が常に混在していたんやね。せやから、どことなくちぐはぐやったんや」
(6)
「喫茶店を出た後、俺はすぐに東京へ戻った。そして、一晩中考え抜いた。――宮島を怯えさせながら、完全犯罪をやりぬく方法をな」
綾子は黙っていた。
「やつらに近づくには、あの事務所に入り込む必要があった。でも、俺の顔は知られているし、お前んとこのおばちゃんが移ってくるとなっては、ちょっとくらいの変装ではばれてしまう。それで、思いついたんが、女になりすますことやった。まさか、俺が女になってるとは、いかのおばちゃんでも思わへんやろからな」
綾子は辛そうに頷いた。
「俺は八重歯を抜いて歯列を整え、瞼を二重にし、ほくろをとる手術をした。そして、髪の毛も伸ばした。まあ、メイクは劇団でやってたから、お手の物やったけどな。――その準備だけで、1年以上かかってしまったんや」
「そうして、星野多恵ができあがったんやね」
綾子が頷いた。
「ああ、そうや。準備が済むと、俺はやつらの行動を調べあげた。そして、竹本がコンピューターを習っていることを知った。
――竹本は、好みの女に近寄られると、すぐに事務所に雇い入れるって、前にお袋がこぼしてた。俺は、それを利用することにしたんや。早速、俺も同じ教室に入って、竹本に近づいた。計画は面白いくらい上手く進んだ。ほんまにあのおっさん、女好きやからな」
「初めに殺害したのは、安永さんやったわよね。あの事務所に入る前に」
綾子が尋ねる。
「ああ。安永が違う会社に移ったことは知っていた。何度か福岡に行って、行動パターンも、ちゃんと調べておいたし。でも、どうやったら宮島を犯人に仕立てられるか。考え込んでいたときに、いい情報が舞い込んだんや」
「いい情報?」
「1月の初めやったかな。教室からの帰り道、お茶でも飲もうかってことで、竹本と歩いていたら、偶然宮島に会ってん。その頃には俺はもう、2月から山科の事務所で働くことが決まってたし、結局、ヤツも加わって、3人でお茶を飲んだ。そこで、1月12日に、宮島が福岡に出張するという話を聞いたんや」
「なるほどね」
綾子が腕を組む。俺は続けた。
「俺は日にちを合わせて福岡に行き、宮島が1人でホテルに戻ったのを見届けた。ホテルで1人きりになれば、宮島のアリバイはなくなるし、犯人に仕立て上げやすくなるからな。そして、用意しておいた盗難車で、安永をひいた」
「次は、竹本課長と道子さんね。――でも、多恵さんはあの時、三条河原町で私達を見かけたと証言した。どうやって、同じ時刻に、あの2人を嵯峨野のホテルで殺したの?」
綾子は、身を乗り出した。
「俺はあの時、嵯峨野にいてたんや」
俺の答えに、綾子は不思議そうな顔をした。
「ほんまのこというと、初めから宮島に疑いがかかる計画やったから、特別なアリバイは用意してへんかった。それやのに、思いがけず、おばちゃんが疑われてもうて。マジであせったで。お前んとこの母子は、ほんまに喧嘩っ早いんやから」
俺の言葉に、綾子が苦笑する。
「せやけど、刑事から、おばちゃんが、お前と2人で三条にいたって主張してるって聞いて、思い出したんや。お前んとこの母子は、三条に行くと、必ず不二家でケーキを買って帰るって習慣をな。俺らの母子と飯食いに行ったときも、お前ら必ず寄ってたやろ? 9時半頃の京阪が、山科でちょうどバスと連結されてて都合がいいって、いつもそれに乗って帰ってたし。
――2年経ってたから、ちょっと不安はあったんやけど、違ってたら違ってたで、人違いですむやん。一か八かで言うてみたら、ばっちりや」
「お母さんのアリバイが確定されれば、それを見ていた多恵さんのアリバイも証明される。一石二鳥ってやつやね」
綾子が溜息混じりに言う。
「不二家の前通ると、どうしてもケーキを買わずにはいられへんのよねえ……」
「おかげで、助かったわ」
俺は続けた。
「道子から竹本とのことを相談されていた俺は、2人の関係を、竹本の奥さんに教えてやったんや。怒鳴り込まれて弱気になった竹本の態度を見て、案の定、道子は助けを求めてきた。
俺は、心中する覚悟を見せてやったらどうかと、あの遺書を書かせ、竹本の名前でホテルをとってやった。そして、自分も後から部屋に行き、一緒に説得してやると約束すると、道子は喜んで言われた通りにしたよ。アホな女や」
俺はその時の状況を思い出しながら、続けた。
「俺の説得が実って、2人は仲直り。とりあえず乾杯。でもって、俺は青酸カリの入ったビールを飲ませてやった。――ヤツらの死を見届けた後、俺はあえて2人のグラスについた指紋を拭いた。心中で片づいてもうたら、宮島に疑いが向かへんからな」
「宮島さんは、どうしてあのホテルを訪れたの?」
「前もって連絡しといたんや。竹本の名前を使って、ヤツにメールを出しておいた。あの2人、連絡するときにはいつも、メールでやりとりしてるって知ってたから。
――9時過ぎに、あのホテルのロビーに来るようにってな。2人を殺してグラスを拭いた後、俺は竹本の携帯を使って、宮島の携帯に連絡を入れた。竹本に似せた声で、わざと苦しそうに助けを求めるようなことを言い、ルームナンバーを告げて、部屋を出る。そして、廊下の陰から、宮島が部屋に入っていくのを確認すると、俺は早々にホテルを後にした。騒ぎに巻き込まれたら、えらいことやからな」
綾子は頷いた。
「宮島がその後、どうしたんかは知らんけど、きっと、2人の死体を見つけて、大慌てで逃げ帰ったんやろうな。さんざん、目撃もされてたみたいやし。何にしても、逃げ出すのにタクシーなんか使ったらあかんわ。ほんまに、間抜けな男やな」
俺は、慌てふためく宮島の顔を想像しながら言った。
「おまけに、ニセのアリバイまで作っちゃって。よっぽど、疑われるのが怖かったんやね」
綾子が呆れたように俺の顔を見た。
「ああ。まあ、こちらにとっては、都合のいいことばっかりやってんけどな」
俺は答えた。
「道子さんまで殺したのはなぜ?」
綾子が尋ねる。
「心中にした方が、竹本の女好きを世の中に知らせることができる。殺人やということになっても、色々ほじくりかえされるやろうからな。奥さんには申し訳なかったけど、それだけの男を選んでもうたと思って、あきらめてもらうしかないわな。
――それに、道子はほんまに、目障りやった。お袋、相当嫌な目に合わされてたらしいんや。普段は愚痴なんてこぼさへんかったけど、道子のことはよく文句言うてたわ。実際に会ってみて、ほんまにムカツクやつやった」
「確かに、お母さんも、さんざん文句言うてたけど……。そうや、青酸カリは? 大学から持ち出したものを使ったの?」
綾子が尋ねた。
「ああ。記録簿に名前を書いたんは、青酸カリを持ち出した時点で疑われたら、元も子もないと思ったからや。――責任者になってた助手、もめごとが大嫌いなヤツやってん。きちんと記録簿に名前が書いてあって、元の場所に戻してあったら、あの助手の性格や。多少疑問に思っても、追求はしてけえへん。そう踏んだんや。
事件の後でばれても、その頃には波多野俊介はもう、いてへんやろ? 星野多恵になってるんやからな。俺は絶対つかまらへん。せやからあえて、名前を書き込んだっちゅうわけや」
俺は答えた。
「なるほどね。その時々で、何が一番重要かってことやね」
綾子は、溜息をつきながらつぶやいた。
(7)
「祖父江は一番のビビリやった。前に来たときに、あの脅迫状をカバンに入れておいてやったら、マジで震え上がってもうて。こっそり祖父江の様子をうかがってたら、俊介が誰なんか、心当たりはないかって宮島に聞いてたわ。
あの段階で、俺は宮島が、波多野俊介の影に怯えることになると、そう思っていた。しかしあの男は、自分が殺した女の息子の名前も覚えてへんかったんや。ただのいたずらやろうって、宮島は笑っただけやった」
俺は、目を閉じてしばらく黙っていたが、息を吐き、目を開けた。
「祖父江が、1人で作業をするのが嫌やから、一緒に来てくれと言うても、宮島は行こうとしなかった。逆に、俺を――多恵を誘って来たんや。
俺はこの機会を利用することにした。俺の部屋に宮島を連れ込むと、睡眠薬を入れたビールをヤツに飲ませる。そして、ヤツが寝たのを見届け、青酸カリを入れたコーヒー、ランニングシャツと帽子、つけぼくろなんかを用意して、隠しておいた自転車で河原町ビルに向かった。ビルの入館カードは、寝ている宮島の財布から失敬した」
綾子は目をつぶって話を聞いている。
「中に入り、電気室のインターホン越しに、俺は声をかけた。『宮島さんに頼まれちゃって』って。俺が星野多恵のままそう言うと、祖父江は喜んで中に招き入れた。そして、俺が差し入れと言って手渡した、青酸カリ入りのコーヒーを飲んだ。
――俺は急いで波多野俊介になると、わざと警備員室の横から外に出て、自転車を印象づけた。それを西ノ京円町で乗り捨て、歩いてうちまで帰る。そうしてまた、星野多恵に戻った俺は、誰かから連絡があるのを待った」
「眠らされたのは、多恵さんではなく、宮島さんやった。私達は、俊ちゃんの話にすっかり騙されて、宮島さんを疑ってしまったってわけやね」
綾子が目を開け、髪をかき上げた。
「陽子さんは、どうして殺したの? まさか、宮島さんを殺すつもりがって、そんなことないわよね?」
「ああ。もちろん、計画的に殺したんや。――祖父江の葬式が終わって着替えてた時、あいつは俺がスカーフを巻き変える所を見てしまった。それで、俺が男であることに気がついてもうたんや。
まあ、あんまり頭の回るやつではなかったから、俺が俊介やということには気づかへんかった。でも、俺をおカマやと勘違いしたあの女は、金をせびってきた。誰にも言わへんかわりにってな」
「陽子さんを殺したのは、口封じってことか」
綾子が言う。
「ああ。最初のうちは、金欲しさに誰にも言わないとしても、いずれ、誰かにしゃべるやろう。陽子って女は、ほんまにしゃべりやったからな。早いうちに殺した方がいい。俺は、あの残業の時を利用して、陽子を殺すことにした」
俺の話を受けて、綾子が言った。
「宮島さんが殺されかけたように見せかけて、陽子さんを殺す。そういうことね」
「あの日の帰り、新しいフレッシュの袋と青酸入りのフレッシュとを入れ替えておいた。あの時、残業していた3人のうち、フレッシュを使うのは宮島と陽子の2人。1つしかないとなれば、フェミニストの宮島は陽子にそれをゆずるはずやし、わがままな陽子は、遠慮しないでそれを使う。俺の読みは当たった」
「そういえば、7時頃、冷蔵庫にあの新しい袋があったって証言したの、多恵さん――俊ちゃんやったわ。実際には、その時にすり替えられていたんやね。外のゴミ箱にフレッシュが捨ててあったのは?」
「おばちゃんと2人で駆けつけたとき、捨てたんや。――宮島は、残業すると必ず、コンビニで弁当を買ってきて、食いながら仕事をする。そして、他に残業している奴がいたら、その人の分まで一緒に買ってくるんや。ええ格好しいやからな。
俺が残業してるときも、おばちゃんとかと一緒に残業してる時も、いつもそうやってん。せやから、あいつが1人で出かけることには、自信があった」
「せやけど、いつも裏口から出るんやろ? 表口のゴミ箱に入れておいても、意味ないやんか」
綾子が不思議そうに言う。俺は答えた。
「裏口の電気、外しといたんや、わざと。あんな脅迫状を受け取ってるし、祖父江も死んだ後や。宮島は、きっと用心して、真っ暗な裏口からは出えへん。多少遠回りになっても、明るい表口から出るはずやろ?」
「すごい読みやね。それも、心理学の賜物?」
綾子が皮肉を言う。俺は無視して続けた。
「ただ、1つだけ誤算があった」
「何?」
綾子が尋ねる。
「陽子と田野倉が、宮島の後を追いかけたことや。事務所に空白の時間ができてしまったことで、宮島に向けるはずの疑惑が、波多野俊介に向いてしまった。――まあ、結果的には、宮島を怯えさすことができて、よかったかもしれへんけどな」
俺は、あの蒼白になった宮島の顔を思い出していた。
「宮島さんは、どうやって殺したの? メールが送られてきた時、つまり死亡推定時刻、私達は一緒にカラオケを歌ってたわよね。考えたけど、わかれへんかってん」
「順を追って話そか」
(8)
「宮島に、事務所に残るよう言うたんは、俺や。――みんなが出ていって2人きりになると、俺はヤツに缶コーヒーを渡した。青酸カリの入ったヤツをな。2人で将来のことを話したかったといい、かんぱーいって微笑んでやったら、ヤツは、疑いもせずに飲んだよ。その後すぐ、驚いたような顔をしながら、床に倒れた。そして、事切れた」
宮島の開いたままの瞼を手でそっと閉じ、衣服の乱れを整える。終わりは恐ろしいほど、呆気なかった。
「俺は、あらかじめ用意しておいた、宮島と同じ機種のノート型パソコンと携帯を、ヤツの遺体の横に置いた。そして、宮島の持ち歩いているパソコンの方にあの遺書を打ち込み、保存する。その後で、俺のカバンの中に、そのパソコンと携帯を入れた」
綾子は頷いた。
「俺は大急ぎでワイシャツに着替え、ヤツのネクタイをした。そして、ウィッグをつけると、宮島になり済まして、あのコンビニの自販機から、青酸カリを入れた缶コーヒーと同じ種類のものを購入した。宮島自身が、あの缶コーヒーを買ったように見せかけるためや。
――事務室に戻ると、また星野多恵になり、宮島のパソコンが入ったカバンを持って、外に出た。そして、ヤツが渡されていた鍵を使って密室を作った」
「それから、私達に合流したってことね」
「ああ」
俺は頷いた。
「おばちゃんに渡す小銭入れを探す振りをして、俺はカバンの中で、メールを送信する操作をした。――あの小銭入れが、おばちゃんのもんやなかったのは、当たり前や。カバンの中をいじってもおかしくないように、俺が前もって買っておいたもんやからな」
「それで、カラオケの最中に送信されたってわけね。そして、その状況から、宮島さんの死亡推定時刻も、その頃と判断された」
「実際に宮島が死んでから、30分くらいしか経ってへんからな。司法解剖でも、その辺は幅を持たせて判断するやろうし」
綾子が頷く。俺は続けた。
「宮島の死体を発見した時、おばちゃんが見たパソコンと携帯は、にせものやった。警察が来る前に、実際にメールを送信した宮島自身のものとすり替え、事務所の鍵をヤツのポケットに戻さなければならない。それで、2人きりにしてほしいって、おばちゃんに頼んだんや。
――宮島の両親に会う約束になってるって話を聞いて、俺らが恋人同士やと思い込んではったんやろうな。おばちゃんは疑いもなく、2人きりにさせてくれた。お陰で俺は、ゆっくりと作業ができたって訳や」
「なるほどね。この部屋から持っていったカバンの中に、本物のパソコンと携帯電話が入ってたんやね。何の理由もなく、あんな大きいカバンを持っていったら不審に思われるから、懐中電灯が見つからへんなんて、それらしい理由をつけて。すっかり騙されたわ」
綾子が腕を組んでつぶやく。
「遺書は間違いなくヤツのパソコンと携帯を経て、俺のパソコンに届けられている。鍵もヤツが持っていたとなれば、密室や。自殺以外には考えられへん。――完璧な幕切れやった」
「つまり、この一連の事件は『穴だらけ』やなくて、綿密に計算された『完璧な』殺人やったって訳や」
綾子が言った。
「ああ。お前に、留守番を頼みさえせえへんかったらな」
2人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
(9)
「俊ちゃん、私があなたの部屋でこの栞を見つけたの、偶然やと思う?」
しばらくして、綾子が、あの栞を見ながら尋ねた。俺は、彼女が何を言いたいのか、わかりかねて黙っていた。
「これだけ本があって、たまたま手にした1冊の中にこの栞がはさまれていた」
綾子は、本棚を指さしながら続ける。
「こんな偶然があるんやろか。そう考えて、私、わかったんよ。これはきっと、おばちゃんからのメッセージなんやって」
「お袋からのメッセージ?」
俺が聞き返すと、綾子は頷いた。
「この栞さえなければ、私は多恵さんと俊ちゃんを結びつけて考えることはなかった。この栞を私に見せることで、おばちゃんがそのことを教えてくれたんやと思うねん。私がこの事件の真相に気づいて、俊ちゃんを止めるように。そして、俊ちゃんがその罪をつぐなうように」
「そんな、アホなこと」
俺はうつむいた。
「自首しよう、俊ちゃん」
綾子は、俺の手にあの栞を握らせながら言う。俺は首を振った。
「自首はでけへん。俺、死刑になってまうわ」
「その覚悟もなしに、こんな大それたことしたの? ――そうか、俊ちゃん、絶対捕まらへんっていう、自信があったんやもんね。でも、実際には、こうやってばれてしまったんやで。私が通報するよりも、自首した方が罪は軽くなるわ。上手くいけば、無期懲役くらいで済むかもしれへん。――お願い、自首して」
綾子の手を振りほどき、俺は立ち上がった。
「アホか、お前。俺がどんな思いで、この復讐を続けてきたと思うてるんや。事件の真相がわかれへん限り、これから先も、宮島は連続殺人犯として扱われる。それでもまだ、俺の気持ちはおさまらへんくらいや」
もっと、ヤツらを苦しめてやりたい。お袋と俺の受けた傷は、こんなものではない。
俺は、もう許してやれと言う俺の良心を押さえ込みながら、人を殺し続けてきたのだ。今さら自首など、できるはずがなかった。
「いい加減にしいや」
綾子も立ち上がる。
「復讐、復讐って、さっきから言うてるけど、ほんまに復讐やったんか?」
「どういう意味や」
「おばちゃんに苦労をかけ続けて、結局、何にもしてあげられへんかったことへの、罪滅ぼしと違うの? 俊ちゃん自身のふがいなさを、他の人への怒りに変えて……。俊ちゃんのやったことは、復讐なんかやない。ただの自己満足や」
「黙れ!」
俺は綾子をにらんだ。あいつも負けじと、にらみ返してくる。
「殺す以外に、いくらでも手はあったでしょ。殺された人達にも、家族がいてたんよ。お葬式で悲しんでる姿見て、何とも思わへんかったん?」
俺は何も言わなかった。いや、言えなかった。
「それで、これからも星野多恵として生きていく気なん? 波多野俊介は、殺してしまったもんね。そうか。体はいじってへんねんから、他の男として生きていく道も残ってるんやね。――どっちにしても、ずっと一生、周りをあざむきながら生きていくんや。アホな話。情けなくって、涙も出えへんわ」
「黙れ、言うてるやろう!」
思わず手が出る。綾子が床に倒れるのを見て、俺ははっと我に返った。
右手にはまだ、綾子の頬の感触が残っている。
彼女はしばらく動かなかったが、やがて左の頬を押さえながら起きあがった。目には涙が浮かんでいる。俺は何を言っていいのかわからず、ただ、右手を握りしめていた。
綾子はカバンを手に取ると、その中から1冊の冊子を取り出し、テーブルの上に乱暴に放り投げた。それは「演劇界」という、演劇の世界では最も権威のある雑誌だった。
「好きにしたらええわ。俊ちゃんの人生やもんね」
綾子は立ち上がった。
「警察に行くのは、やめとくわ。俊ちゃんが、この先、違う人間になりすまして生きていきたいんやったら、そうさせてあげる。死ぬまでずっと、世間と自分とを騙し続けて生きていったらええんや」
綾子は捨てぜりふを吐くと、部屋を出ていった。背後で、ばたんとドアがしまる音がする。
俺は、テーブルに置き去りにされた「演劇界」を手にとった。見ると付箋がしてある。
「第41回脚本大賞発表」
そのページをめくり、書かれていた文字を、声に出して読んでみる。そして、その横に、綾子の顔写真が載せられていることに気づいた。
「あいつ、大賞とったのか」
俺は、その記事に目をやった。そこには、受賞者の言葉として、綾子の文章が載せられていた。
『この作品は、私の大切な幼なじみのことを思いながら書きました。今、どこにいるかはわからないけれど、きっと役者になるために修行をしているはすです。そしていつか、この作品を演じてくれる、そう信じています』
題名は「筒井筒」。
――筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに。
「『伊勢物語』やったな」
高校の頃、古文か何かで習った覚えがある。この歌に詠まれた幼なじみへの想いが何となくわかるような気がして、強く印象に残っていたのだ。
俺は、そっと唇を噛みしめた。
(10)
どのくらい経ったのだろう。気が付くと、部屋の中はかなり薄暗くなっていた。
俺は手早く着替えを済ませ、テーブルに置かれていた雑誌から、綾子のページを破り取った。そして、お袋の手紙と一緒に、ズボンのポケットにねじ込み、あの栞を握りしめて、マンションを出た。
道端をあてもなく歩き出す。と、足下に転がる1匹のセミの死骸が目に入り、俺は思わずしゃがみ込んだ。
――長い間土の中に潜り、出てきたと思ったらほんのわずかの間で命を終える。そんなセミの一生に、昔はただ儚さだけを感じていた。しかし、命の限り鳴き続け、そして天寿を全うする。その潔い生き様が、今はむしろ、尊くすら感じられた。
「俺は一体、何をやってきたんやろう」
研究者になるつもりで進学したのに、中途半端なまま演劇の道を選んだ。そして、その演劇も途中でやめ、たどり着いたところは殺人鬼だった。
綾子の言うとおり、あの殺人は復讐なんかではなく、単なる自己満足だったのかもしれない。やつらを殺すことで、お袋への罪悪感を消し去ろうとしていただけ。
――俺は、握りしめていた栞に目をやった。
「お袋、ごめんな」
立ち上がって顔を上げると、北野天満宮の前で客待ちをする、タクシーの列が見えた。そちらに向かって歩いて行き、先頭の車をのぞきこむ。ドアが開くと、俺は乗り込み、シートに身を沈めた。運転手が、バックミラー越しに尋ねる。
「どちらまで?」
俺は、少し考えてから答えた。
「――京都府警」
車が走り出す。全身で加速を感じながら、俺はゆっくり目を閉じた。
<完>




