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穴だらけの殺人  作者: 深月咲楽
3/7

第3章

(1)


 車が駐車場に着くと、高田は一目散に事務所の中へとかけ込んだ。私も急いであとに続く。綾子は、自宅で留守番をしてくれていた。

 階段で高田に追いつき、ほぼ2人同時に事務室へと飛び込む。

「陽子ちゃんは?」

 高田が、肩で息をしながら尋ねる。青い顔をした田野倉が、陽子のデスクの方を指さした。

 そちらの方に回り込み、私達は言葉を失った。そこには、相当もがき苦しんだのであろう、かっと目を見開いたまま、既に絶命している陽子が寝そべっていた。隣に倒れて転がっている回転椅子が、その時の状況を生々しく物語っている。

「警察には?」

 すぐそばでうずくまっていた宮島が、フラフラと立ち上がりながら答えた。

「さっき、連絡しました」

 そして、手で口を押さえると、応接セットの方へと走っていく。流しのアコーディオンカーテンが開く音がし、すぐに水音が聞こえた。どうやら吐いているようだ。

 私は宮島の様子を見るため、流しの方へ行ってみた。気配を察し、涙目で振り返った宮島に、ハンカチを差し出す。

「ありがとう」

 消え入りそうな声でそれを受け取ると、彼は応接セットのソファにどさっと体を沈めた。

「多恵ちゃん、陽子さんのご実家、連絡先わかる?」

 衝立の横から、高田が顔を出す。私は首を傾げた。

「1人で住んではるアパートの方しか、わかりませんねえ。――でも、陽子さんの携帯とか見はったら、メモリーナンバーの中に入ってるかもしれませんよ」

「ほんまやね。ありがとう」

 高田は軽く手を上げると、事務室の方へ戻っていく。少しして、陽子の実家に連絡している高田の声が聞こえた。その電話が終わった頃、徐々に大きくなっていたパトカーのサイレンの音が止まった。

「警察が来たみたいですね」

 私が宮島に話しかけると、彼は力無く頷いた。

「失礼します」

 しばらくすると、事務室のドアの所で、男の人の声がした。

「はい」

 高田の足音が聞こえる。私は、宮島の肩にそっと手を置くと、事務室へと向かった。自分のデスクにもたれ掛かかったままうなだれていた田野倉が、ゆっくりと顔を上げる。と、青い作業服のようなものを着た人達が、どやどやと入って来た。

「下の休憩室に移動してくれって」

 高田が、私の方を見ながら言った。

「宮島君は大丈夫?」

「呼んできます」

 私はそう答え、宮島の元へ向かった。

「下の休憩室に……」

 声をかけると、彼はハンカチを握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。細い体が、さらに細くなってしまった印象を受ける。私は、彼の腰にそっと腕を回すと、休憩室へと向かった。


(2)

 

「それでは、状況を話していただきましょうか」

 この間、事情聴取に訪れていた木嶋刑事が、今日もここにいた。

「被害者の稲垣陽子さんと一緒にいてはったんは、どなたですか?」

 木嶋刑事の質問に、田野倉が答える。

「僕と、宮島さんです」

 宮島は頷いた。

「他のお2人は、どちらへ?」

 木嶋刑事が、高田の方を向いて尋ねた。

「うちで、星野さんと私の娘と3人で夕飯をとっていました。そこに、田野倉君から電話があって。すぐに駆けつけたんです」

「お宅は、ここから近いんですか?」

「はい。車で10分もかかりません」

「わかりました」

 木嶋刑事は頷いた。

「それでは、稲垣さんが倒れられたときの状況を、説明して下さい」

 木嶋刑事に促され、田野倉が語り始める。

「今日、僕は稲垣さんの残業の手伝いを頼まれて、一緒に残っていました。9時過ぎに、稲垣さんがアイスコーヒーを入れてくれはって。で、それを一口飲んだとたん、彼女、苦しみ出して……」

 そこまで言うと、彼は髪をかき上げた。

「そのアイスコーヒーには、お2人は口をつけはったんですか?」

「はい」

 田野倉は、宮島の方を見て、確認を取りながら答えた。

「僕はその時、既に半分以上飲んでました。宮島さんも、同じくらい飲んではったと思います」

 宮島が頷く。

「お2人とも何ともなかったということは、毒物はコーヒーに混入されていたのではなさそうですね」

 木嶋刑事が顎をさすりながら言った。

「グラスは、1人1人決められているんですか?」

 木嶋刑事の質問に、高田が答えた。

「温かい飲み物は、それぞれのカップに入れますが、冷たい飲み物は、事務所に置いてあるグラスを利用しています。別に、決められているわけではありません」

「なるほど。では、グラスに仕込んだというわけでもなさそうですね」

 木嶋刑事が頷いた時、開いたままのドアから、上条刑事が入ってきた。何かが入ったビニール袋を、木嶋刑事に渡し、耳元で何かささやく。木嶋刑事は、そのビニール袋の中身を私達に見せ、口を開いた。

「この、コーヒーフレッシュの空になった入れ物、稲垣さんのデスクの上に置かれていたんですが、これは、稲垣さんがお使いになったものと見て、間違いありませんか?」

「はい。間違いありません。稲垣さん、そのフレッシュをコーヒーに入れてはりました」

 田野倉が答える。

「他のお2人は、フレッシュはお使いにならなかったんですね」

 木嶋刑事の言葉に、田野倉が言った。

「もともと、1つしか残っていなかったようなんです。あの、僕は普段から使わないんですけど……」

 田野倉が、言いにくそうに宮島の方を見る。宮島は軽く頷くと、あとを続けた。

「僕は、普段はフレッシュを使うんですけど、1つしかないということやったんで、稲垣さんにゆずりました」

「そうですか。――申し上げにくいことですが、先程この中から、青酸カリと思われる毒物が検出されました」

「何ですって?」

 宮島が大声を上げる。顔色は、さっきにも増して青ざめていた。

「よく見ると、底の部分に大変小さい、針で開けたような穴が開いています。恐らく、注射器のようなもので、液体に溶かした青酸カリを注入したのでしょう。そして、接着剤か何かで穴をふさいだ」

 木嶋刑事は説明した。

「ちょっと待って下さい」

 私は立ち上がった。

「フレッシュが1個しかなかったなんて、そんなはずありません。私、今日の夕方、新しいのを1袋、近所のスーパーで買ってきて、冷蔵庫にしまいましたから」

「ああ、そうやそうや。祖父江君のお葬式から帰ってきて、みんなでアイスコーヒー飲んで。それから私は新しいアイスコーヒーを作って、冷蔵庫に入れたんですけど、その時にフレッシュが切れてることに気がついたんです。それで、多恵ちゃん――星野さんに頼んで買ってきてもらいました」

 高田が、木嶋刑事の方を向いて言う。上条刑事は頷くと、休憩室から小走りに出ていった。

「ちなみに、それは何時頃ですか?」

 木嶋刑事が質問する。

「お葬式が終わったんが2時過ぎ。それから帰ってきて、着替えてってがたがたしてからやったから――3時半か4時頃やったと思います。ねえ?」

 高田に見回され、3人とも頷いた。

「そうでしたか」

 木嶋刑事が答えると同時に、上条刑事が休憩室に戻ってきた。

「今、冷蔵庫の中を見てきましたが、フレッシュの袋はありませんでした」

 私と高田は、顔を見合わせた。

「新しいフレッシュをしまってから、どなたか冷蔵庫を開けられた方はいませんか?」

 木嶋刑事の質問に、私が答えた。

「帰る時に一度、冷蔵庫を開けました。入っていた牛乳が、賞味期限切れやったような気がして。捨てておこうと思ったんですけど、よく見たら私の勘違いで。明日まで大丈夫やったんで、そのままにしておいたんです」

「その時に、フレッシュの新しい袋はありましたか?」

「ええと……」

 私は慎重に答えた。

「ありました。私、買ってきたフレッシュをチルド室に入れておいたんですけど、残業される方達がわからないといけないと思って、普通の棚に入れ替えたんです。確実にありました」

「帰られたのは、何時頃ですか?」

「7時少し前やったと思ったんですけど」

 高田の方を見て確認を取ると、彼女は頷いた。

「では、7時から稲垣さんが殺害されるまでの間に、フレッシュがすり替えられたということになりますね」

 木嶋刑事は、手帳に何か書き込み、田野倉の方を見た。

「それ以降、事務室に残っていたのはどなたですか?」

「えっと、井上所長は、星野さん達よりも先に帰ってはったから、僕ら3人だけですね」

「ずっと、いらっしゃいましたか?」

 木嶋刑事の質問に、田野倉と宮島は顔を見合わせた。

「一度、隣のコンビニに、夕食を買いに行きました」

「何時頃ですか?」

「たしか、7時半頃やったと思います。ほんの15分ほどで帰ってきたんですけど」

 田野倉が答えると、木嶋刑事が尋ねる。

「3人でですか?」

「はい。――正確に言うと、初めは宮島さんが3人分買ってくるということで、1人で出かけはったんです。ところが、稲垣さんが、気分転換に自分も行きたいって。仕方がないんで、僕も一緒に宮島さんの後を追いかけました」

「じゃあ、その15分間だけ、事務所が空になったんですね」

「はい」

 田野倉が頷いた。

「入口の鍵は? かけていったの?」

 高田が口をはさむ。

「僕らは裏口から出たんですけど、ちゃんとかけましたよ」

 田野倉が答えた。

「宮島君は?」

 高田が尋ねた。

「僕は表口から出ました。鍵は、もちろんかけました」

「帰った時は?」

 高田の質問に、今度は田野倉が答える。

「3人揃って、裏口から入りました。鍵はちゃんとかかっていたんで、僕が開けて。入ってからもまた、鍵はかけておきました。祖父江さんがあんなことになったばかりやったし、残業時間になってからは、事務所の中にいてる時も用心するようにしてたんです」

「でも、私達が到着したとき、表口の鍵は開いていたわよね」

 高田に尋ねられ、私は頷いた。

「ああ、あれは僕が開けたんです。警察に電話した後、鍵を開けておかないと警察の人が入って来れないと思って」

 田野倉の答えに、高田が念を押す。

「ほんなら、3人が戻った時、表口も裏口も、鍵はかかっていたということやね」

 それからしばらく、誰も口をきかなかった。

「それにしても、いつもコンビニ行く時は裏口から出ますやんか。何で表口から出はったんです?」

 田野倉が、宮島に尋ねた。

「裏口、今日は電灯が切れてて暗かったやろ? せやから、表口から出たんや。その、俊介とかいうヤツに、襲われでもしたら嫌やったから」

 宮島が情けない顔で答える。と、休憩室のドアから、鑑識の人らしき男性が顔を出した。

「上条さん」

 名前を呼ばれた上条刑事は、急いでドアの所へ行き、その人から何かを受け取った。

「木嶋さん、表口の所に置いてあるゴミ箱から、こんなものが」

 上条刑事が木嶋刑事に手渡したビニール袋の中には、フレッシュの新しい袋が入れられていた。

「今日、あなたが買ってこられたフレッシュは、これですか?」

 木嶋刑事に、そのビニール袋を見せられ、私は頷いた。

「そうやと思います。値段のシールの所に、スーパーの名前も入ってますし……」

「そうですか」

 木嶋刑事は、その袋を上条刑事に渡すと、指紋を調べるように言った。上条刑事はまた、休憩室を出ていった。

「高田さんと星野さんが駆けつけられた時、利用されたのは表口やとおっしゃっていましたね」

 私達は頷いた。

「その時、ゴミ箱にこの袋が捨てられていたかどうか、覚えはありませんか?」

 高田の方を見ると、彼女も私の方を見ている。

「急いで事務室に上がったんで、私はゴミ箱なんて見てませんけど……。多恵ちゃんは?」

「私もです」

 木嶋刑事は、しばらく手帳をめくっていたが、やがて口を開いた。

「鍵は全員、お持ちですか?」

「はい、表口と裏口の鍵をひとつずつ、持っています」

 みんな、それぞれに鍵を取り出して見せた。

「時間的なことを考えると、お三方がコンビニに行かはった時に、犯人が入り込んだと考えるのが一番自然なんですが。鍵がかかっていたとなるとねえ」

 木嶋刑事が頭を掻く。

「犯人は、鍵を持っているはずですよ。――だって、前にもこの事務所に入り込んで、宮島さんのデスクの中に脅迫状を入れていったんですから」

 田野倉が、木嶋刑事を見ながら言った。

「なるほど、それならば可能ですね。とりあえず、今までの、皆さんのお話をまとめさせていただきましょう」

 軽く咳払いする。

「犯人は、事務所に人がいなくなった7時半頃からの約15分間に侵入し、青酸カリの入ったフレッシュと新しいフレッシュの袋をすり替えた。そして、逃げる時に、すり替えた方の袋を表口のゴミ箱に捨てていった。――多分、表口から逃げ出したと考えていいでしょうね」

 皆が頷くのを確認して、彼は続けた。

「そして9時になり、アイスコーヒーを飲んだ稲垣さんは、犯人がすり替えた青酸カリ入りのフレッシュを使用し、亡くなってしまった。そういうことになりそうですね」

 私達は黙ったまま、頷いた。

「――俺やったんや」

 宮島が、頭を抱え込む。

「ほんまは、俺が殺されるはずやったんや」

「宮島さん、何言うてはるんですか。僕ら、3人で残ってたんですよ。誰が狙われたかなんて、わかれへんやないですか」

 田野倉が、顔を上げて言った。

「でも、脅迫状が来てたんは、俺だけやろ?」

 宮島が尋ねた。

「まあ、陽子さんの所に届いていたとしたら、彼女のことやし、大騒ぎしてるでしょうからねえ。僕の所にも来てませんし」

 田野倉が溜息をついた。

「そこのところは、詳しく調べて見ないことには、何とも言えませんね」

 木嶋刑事が答える。その時、休憩室の開け放たれたドア越しに、青いシートにくるまれた陽子の遺体が、運び出されていくのが見えた。みんな、口を閉ざしたまま、その行方を見守る。

「それでは、事務室に戻って、実際にどのような状態やったのか、再現していただけますか?」

 木嶋刑事の言葉に我に返った私達は、お互いの顔を見つめ合いながら立ち上がった。


(3)


 警察の現場検証から解放されたのは、11時を回った頃だった。

「えらいことやったわねえ」

 運転席に座った高田が、シートベルトをつけながら言う。

「ほんまですねえ」

 私は助手席で、溜息をついた。

「多恵ちゃん、カバンはうちに置いてきた?」

「いえ、持ってきました。後ろに置かせていただいてます」

 私は答えた。

「ああ、そうやったわね」

 高田が、ゆっくりとアクセルを踏みながら微笑む。

「じゃあ、直接、多恵ちゃんの家まで送るわ。――悪いけど、それで綾子に連絡入れてもらえる?」

 彼女は、ダッシュボードの上に置いてある携帯を目で示して、言った。

「わかりました」

 その携帯を手に取ると、私は困って高田の方を見た。

「すみません、電話番号を……」

 私の言葉に、高田は笑いながら舌を出した。

「そうやね。うちの電話番号、多恵ちゃんが知ってるはず、ないもんね。――えっと、携帯は市外局番からやから、075ー597ー1234にかけて」

「ああ、携帯って、市外局番がいるんですね。私、携帯持ってないもんですから」

「え? そうなん? 若い子が珍しいわね」

 高田が、前を向いたまま言う。私は教えられた番号を押して、綾子が出るのを待った。

「もしもし」

 ややあって、綾子の声が聞こえた。

「あの、星野です」

 私が名乗ると、綾子が大きな声で尋ねてきた。

「多恵さん? あれからどうなったん? あんまり遅いんで、心配してたんよ」

「すみません」

 私はひとまず謝ると、後を続けた。

「今、現場検証が終わって、帰るところです。高田さん、私を家まで送ってくれはるそうなので、また遅くなってしまって申し訳ないんですけど……」

「それは別にかまわないけど……。今度、日を改めてまたゆっくり来て下さいね。それから、母には、気を付けて帰るように伝えてくれはります?」

「わかりました」

 綾子の言葉に頷くと、私は挨拶をして電話を切った。


「じゃあ、おやすみなさい。また明日ね」

 高田が運転席から声をかける。私は車を降りながら、頷いた。

「どうもありがとうございました」

 頭を下げてドアを閉めると、車は走り出した。

 角を曲がって見えなくなったのを確認して、カバンからキーホルダーを取り出す。オートロックシステムに鍵を差し込んだその時、背後から肩を叩かれた。

「うわっ」

 と叫んで振り返る。そこには、宮島が、所在なげに立っていた。

「どないしはったんですか?」

 私が尋ねると、彼は疲れ切った顔で答えた。

「頭が混乱してもうて。気がついたら、このマンションに来てたんや」

 一旦開いた自動ドアが、閉まる。

「上がらせてもらわれへんか」

 宮島が、すがるような目で私を見つめた。

「――いいですよ」

 私は少し考えてから、頷いた。もう一度、鍵を差し込みドアを開ける。

「どうぞ」

 宮島に言うと、彼は少し微笑んで、マンションの中に入っていった。


(4)


 部屋に上がっても、しばらくの間、私達は一言も口を聞かなかった。宮島は、座布団に座り込んでいる。何か考え込んでいる様子で、ときどき指を口元に持っていったり、舌打ちをしたりと、落ち着かないようだ。どんな言葉をかけていいかわからず、とりあえず麦茶を入れて持っていった。

「どうぞ」

 私がグラスを差し出すと、彼はそれを受け取り、テーブルの上に置いた。

「稲垣さんの最期の様子が、頭から離れへんねん」

 グラスに付いた水滴を指で触りながら、宮島は口を開いた。私は、彼の隣に座って頷く。事務所に駆けつけた時に見た、あの死に顔でさえ脳裏に焼き付いているのだ。絶命する瞬間を見た宮島が、その様子を簡単に忘れられるとは思えなかった。

「ほんまは、俺がああなるはずやったんや」

 彼は、頭を抱え込んだ。

「そんなこと……。誰が狙われたかなんて、わかれへんやないですか」

 私は、手にしていたグラスをテーブルに置くと、宮島の肩にそっと手を載せた。彼は顔を上げると、語り始めた。

「今日は、第3木曜日やろ?」

 壁にかけてあるカレンダーで確認すると、今日、8月19日は確かに第3木曜日になっている。

「俺、しょっちゅう残業してるねんで。しかも、大抵、ひとりや。田野倉は、仕事よりも遊びってタイプやから滅多に残業せえへんし、稲垣さんもそうやん?」

 宮島に相槌を求められ、頷いた。

「別に、今日じゃなくてもよかったんや。なんぼでもチャンスはあった。なのに、犯人はあえて今日という日を選んだ。――確実に俺を殺すためやったんちゃうかって、思うねん。他の日は、いくら残業することが多い言うても、必ず残業するとは限らへんやろ? でも、第3木曜日は必ず残業する。次の日の会議の資料、作らなあかんさかいにな」

「でも、今日は宮島さん、1人やなかったやないですか。宮島さんを狙うとしたら、1人の時にするでしょう?」

 私の意見を聞き、彼は首を横に振った。

「さっきも言うたけど、稲垣さんと田野倉が残るなんて、滅多にないことやん。俺も当日まで知らんかったくらいやねんから」

「確かにそうですね。私が聞いたのも、昨日ですね。祖父江さんのお通夜の帰りに」

「そうやろ? あの2人が残業するなんて、犯人は知らんかってんで」

 宮島が、麦茶を一口飲んだ。

「でも、事務所が空になった時を見計らって、フレッシュをすり替えたんやとすれば、犯人はずっと事務所を見張っていたことになりますよねえ」

「ああ」

 宮島が頷く。

「それやったら、3人でコンビニに行かはったんも、見てるんと違います?」

 私が言うと、彼は目を閉じた。

「もし、犯人が、表口の方で見張っていたとしたら? 表口から外に出たんは、俺だけや。あとの2人は、裏口を使ったんやから」

「そうか。それなら、犯人が、残業しているのは宮島さん1人やって勘違いしたとしても、納得できますね」

 私は頷いた。

「稲垣さんがいなければ、俺はあのフレッシュを使っていた。そして、稲垣さんのようになっていたんや」

 宮島は、また陽子のことを思い出したのか、ぶるぶるっと身震いした。

「陽子さんは人違いで殺されてしまった、そういうことですか?」

 私は目を閉じた。

「そういうことやろうな」

 宮島は、グラスを見つめ、唇を噛んでいる。

「穴だらけ……」

「え?」

 私が口にすると、宮島が聞き返してきた。

「あ、今日、綾子さんが――高田さんの娘さんが言うてはったんです。この一連の事件は穴だらけやって。今回も、用意周到な感じがするのに、肝心なところでミスをして。言わはったとおりやなあって、ちょっと思ったんです」

 私の言葉に、宮島がうつろにつぶやいた。

「穴だらけの殺人、か……」


(5)


 翌朝、事務室の井上所長のデスクを拭いていると、後ろから高田が声をかけてきた。

「お早う、今日は早いのね」

 雑巾を手に振り返る。

「なんだか落ち着かなくて」

 私はちらっと、陽子のデスクの方を見た。床にはまだ、陽子の体を型どったチョークの跡が、残されている。

「ほんまやね。昨日はあんなに元気やった人が、今日はもういないなんて」

 高田の言葉をかみしめながら、私はぼんやりと、陽子のデスクにのっかっている書類の山を見つめていた。

「あ、そうやった。今日は井上所長、ここには来はらへんねんて」

「何でですか?」

 私は尋ねた。

「今日はこれから、支社で緊急会議。このところ、事件続きやろ? マスコミへの対応とか、色々相談するみたいやで」

「ああ」

 窓から下を覗くと、話を聞きつけた報道陣が、集まってきているところだった。

「祖父江君の時は、作業所がすごかったらしいわよ。あと、支社もね。――竹本課長の事件から結構経って、こちらのほうはようやく落ち着いてきたっていうのにね」

「ほんまですねえ」

 私はうんざりして、溜息をついた。

「あ、そうそう、井上所長のことやったわね。――今日、会議が終わったら、その足で陽子ちゃんのお通夜に行かはるって。あの子の実家、大原やろ? 多恵ちゃんはどないする?」

「あの、お手伝いとかってしなくてもいいんですか? 私、そのつもりにしてたんですけど」

 高田が答える。

「そうやねん。私もそう思ったんやけど、おうちの方が、あんまり派手にしたくないって。身内に毛が生えた程度の人達だけで、見送りしはるつもりらしいわ。せやから、ちょっとお焼香させてもらうくらいで、ええんと違うかなあ」

「そうですか」

 娘が世間のさらし者になるのは、嫌なのだろう。親御さん達の気持ちを思うと、きりきりと胸が痛んだ。

「今日、仕事早めに切り上げて、私の車で行こう」

 高田が誘ってくれる。私は、

「お願いします」

 と、頭を下げた。

「もう、始業の時間は過ぎたっていうのに、みんな来えへんねえ」

 時計は8時32分を指している。

「あ、宮島さん、今日、お休みしはるらしいです」

 私は、彼のやつれた顔を思い出しながら言った。

「そうなんや」

 高田は、私の顔を見つめると、続けた。

「昨日、宮島君、多恵ちゃんのマンションに来てはったんと違う?」

「え?」

 私は思わず聞き返した。

「やっぱり。昨日、多恵ちゃんをマンションの前で降ろしたとき、反対側に停まってたんが、宮島君の車やったような気がしたんよ」

 高田が、腕を組んで言う。

「あ、でも、1時間ほどして、すぐに帰らはったんですよ」

 この間は迷惑かけてしまったから、と言いながら、彼はあれからすぐ、帰ってしまったのだ。

「そんな、ムキになって説明せんでもええんやで。2人とも大人なんやし、そら、色々あるやろうから」

「あの、そんなんと違うんです。別に、付き合うてるわけやないですし」

 私は、両手を顔の前で振りながら、答えた。

「でも、嫌いな人なら、部屋に入れたりせえへんでしょ?」

「そりゃ、まあ、そうですけど」

 私がうつむいて答えると、高田は楽しそうに私の肩に手を載せた。

「いいわねえ、若いって」

 そう言うと、彼女は自分のデスクへと戻っていく。

「――お早うございます」

 私も雑巾を洗いに行こうと歩き出したとき、田野倉が、息を切らして飛び込んできた。

「えらい遅刻してもうた。あれ? 所長は?」

 田野倉が、高田に尋ねる。彼女は、さっき私にしたのと同じ説明をして聞かせた。

「そういうことですか。で、宮島さんは?」

「今日は、お休みらしいわよ」

 高田が、ちらっと私の方を見ながら答えた。

「そうなんですか。今日の営業の会議、どないしはるんやろう」

「陽子ちゃんの事件があったばかりやし、お休みしても大目に見てもらえるんと違う?」

 顔を上げて、高田が答える。

「そうでしたね」

 田野倉が、淋しそうな顔をして椅子に座った。

「お2人は、いつ頃お通夜に出かけはるんですか?」

「そうやねえ」

 高田が、どうしようかという顔で、私の方を見る。

「早い目に仕事切り上げて行こうかって、話はしてたんやけど」

「バスですか?」

 大原へは、京都駅からバスが出ている。田野倉は尋ねた。

「ううん、私の車でって言うてたんやけど」

「ほんまですか? 僕も一緒にいいですか? 車の調子が悪うて、今朝、検査に出して来てもうたんで……」

「もちろん、ええわよ」

 高田が微笑む。田野倉は軽く頭を下げた。

「助かりますわ。よろしくお願いします」


(6)


「えらい遅うなりましたねえ。晩飯、どうしはります?」

 田野倉が、腕時計を見ながら尋ねる。

「ごめんね、ほんまに」

 高田が、申し訳なさそうに頭を下げた。

 私達は今、陽子のお通夜でのお焼香を済ませて、車へと戻るところだった。時間は既に、9時を回っている。

「しかしまあ、ほんまによう、道を間違えはりましたね。同じとこ、3回くらい通りませんでした?」

 田野倉が、からかうように言う。

「せやから、ごめんって言うてるやん。今日は私がご馳走するから」

「お、ラッキー。ほんなら、どこに行くか考えますわ」

 車に乗り込みながら、田野倉が答えた。

「でも、車の運転もしていただいてるのに、ご馳走にまでなったんじゃ、申し訳ないですね」

 私が言うと、高田が車のキーを回して言った。

「そうやんか。田野倉君、よう考えたら、私、乗せてあげてる立場やったわ。ご馳走する必要なんか、ないやん」

「あー、星野さん、余計なこと言わんだら、今日の食費、浮いたのに」

 田野倉が、後ろから、私の頭を軽く叩く。

「ほら、出発するで」

 高田の威勢のいいかけ声と共に、車は進み始めた。


(7)


 食後のコーヒーを飲みながら、私達は今までの出来事について話し合っていた。結局、時間帯が遅かったこともあって、国際会議場のそばのファミリーレストランに腰を落ちつけている。

「何にしても、おかしな事件ですねえ」

 田野倉が、煙草に火をつけながら言った。

「今日、支社の人からちらっと聞いたんですけど、警察は波多野さんの息子さんを、本ボシとにらんでるみたいですよ」

「俊ちゃんを?」

 高田が、身を乗り出した。

「ええ。東京での足どりとか、追いかけてるらしいです」

 田野倉の言葉に、高田は口を閉ざしてうつむく。

「でもね、僕は、内部犯行説をとってるんですよ」

 彼は、自信ありげに、煙草の煙を吐き出した。

「ああ、祖父江さんのお通夜の時に、言うてはったことですか?」

 私が聞き返すと、田野倉はこちらの方を見て軽く頷いた。

「なぜ、波多野さんの息子さんが犯人として浮上したかっていうと、あの脅迫状があったからでしょ」

「あと、自転車もね」

 高田が、力無くつけ加える。

「脅迫状にせよ、自転車にせよ、いくらでも作り上げられるものやないですか。最も注目すべき点は、犯人が祖父江さんと顔見知りやったということと、細身の男やということ、それから、波多野さんの息子さんを知っているということ。あと、事務所の鍵も持っている。これらは、作ろうとしても作り出せない事柄やないですか」

「確かに」

 私は頷いた。

「で、この点に絞り込んで考えると、どうしても、うちの会社の――しかも、うちの事務所の人間ってことになってしまうんですよね。――宮島さんも井上所長も細身やし」

「井上所長は、若くないやないですか」

 私が反論すると、田野倉は言った。

「若作りなんて、しようと思えばできるやん」

 すると、高田も口を挟む。

「それなら、田野倉君も犯人候補に入るんと違う? 細身といえば細身やし」

「そうですね。僕も立派な容疑者でした」

 彼は苦笑いをすると、煙草をもみ消した。

「まあ、いずれはっきりするでしょう」

 3人の間に、重苦しい空気が流れる。

「ところで、明日のお葬式はどうするの?」

 高田が、沈黙を破った。

「明日は土曜日で、会社も休みですからね。――僕は、大原までゆっくりバスで行きます。確か、1時からでしたよね」

「そうよ。多恵ちゃんは?」

「私もバスで。午前中、三千院とかを訪れて、それから参列しようかなあと思ってます」

「この暑いのに?」

 田野倉が、驚いて聞き返した。

「ええ。だって、大原の方なんて、滅多に行ける場所やないですし」

「そうやね。綾子もお寺巡りが好きでねえ。明日は大原まで一緒に行って、私がお葬式に出ている間に、自分は三千院の方を見て回るって。バス代、浮かせようっていう魂胆やわ」

「娘さん、まだお若いんですよねえ。寺巡りって、また風流な」

 田野倉が、呆れたように言った。

「ほんまに。学生時代も、神社とか仏閣とかを見て回るクラブに入ってたんよ」

「へえ、そんなクラブがあるんですねえ」

「京都の大学には、あるところも多いらしいけど。全国的に見たら、珍しいんかもしれへんね」

 高田が、レシートを手に立ち上がる。

「明日もあるし、そろそろ帰りましょう」

 私達も、カバンを持って腰を上げた。


(8)


「雨やなんて、あいにくやったねえ」

 後ろのシートから、綾子が声をかける。

「ほんまにねえ。涙雨なんと違う?」

 高田が、ハンドルを握りながら答えた。

「すみません、ほんまに。昨日も家まで送っていただいたのに」

 私は助手席で頭を下げた。

「気にせんといて。この雨の中、バスを乗り継いで帰るなんて、大変やわ。喪服も、濡れてしまってるでしょう」

「ええ。本当に助かります」

「で、お葬式の方は、どうやったん?」

 綾子は、この悪天候にもかかわらず、大原を散策してきたようで、濡れた髪をタオルで拭いていた。

「どうやったって聞かれてもねえ。陽子さんのご両親、泣き崩れてしまってお気の毒やったわ」

「ほんまに」

 髪の毛に白いものが混じったお母さんの、嘆き悲しむ姿を思い出しながら、私は頷いた。

「事件の方は、何か新たにわかったことってないの?」

 綾子が、タオルを置いて身を乗り出す。

「そんなもん、聞ける状況やなかったわ」

「マスコミも結構来てましたしね」

 私は同調した。

「そうなんや」

 会話がとぎれる。

「――多恵ちゃん、ラジオでもつけようか」

「そうですね」

 私は、ラジオのスイッチを入れた。ちょうど、ニュースをやっているところだった。台風が沖縄に上陸したというニュースの後に、私達は信じられない情報を耳にした。

『京都で起こっている連続殺人事件で、京都府警は今日、元従業員の長男、29歳を重要参考人とし、その行方を追っています』

「何やて?」

 綾子が大声を出す。

「元従業員の長男って、俊ちゃんのこと?」

「あんたの1つ上やから、29歳やしねえ」

 高田が、ハンドルを切りながら応じた。車はちょうど山道にさしかかってしまい、電波がうまく拾えない。山を抜けた頃には、既に次のニュースへと移っていた。

「お母さん、捜査本部ってどこにあるの?」

 綾子が尋ねる。

「京都府警察本部やったっけ? あの、丸太町通りをちょっと上がったとこの。あそこに置かれてるわ。私、あそこで事情聴取されたから」

 高田の答えに、綾子さんは言った。

「今からそこに行って、詳しい話を聞こう」

「は?」

 高田はバックミラー越しに、綾子の顔を見た。

「本気で言うてるの?」

「もちろんや。俊ちゃんが犯人なんてこと、あるわけがないでしょう」

 彼女はそう言うと、後ろのシートに身を沈めた。

「多恵ちゃん、付き合ってもらってもいい?」

 高田が、すまなそうな顔で尋ねてくる。

「ええ。私も気になってますし」

 私は答えた。

「ありがとう。じゃあ、府警の方へ向かうわね」

 高田はそう言うと、アクセルを踏み込んだ。


(9)


 捜査本部に着いてからが大変だった。

「せやから、捜査の責任者の方に会わせて下さいって、お願いしてるんです」

 本部にいた若い刑事に何度断られても、綾子は1歩も引かなかった。

「善良な市民が、捜査に協力しようと思って、来てるんですよ。それを警察は、追い払おうっていうの? もう、世も末ですね」

 腕を組んで刑事とにらみ合う綾子のはるか後ろで、高田は私に耳打ちした。

「綾子の方が、私よりも恐いやろ? 私はあんな風に、お上に楯突くなんてこと、ようせえへんもん」

「ああ、たしかに迫力ありますねえ」

 私が頷くと、高田は言った。

「見かけが細いし、優しそうやから、みんな騙されるんやわ。普段は、外ヅラもええしね。人は見かけで判断したらあかん、いう典型みたいな子やね」

 私は思わず吹き出した。

「――あら、ほんまですか。いやあ、何や、無理言うてしまったみたいで、すみません」

 綾子の声が急に優しくなったので、驚いてそちらの方を向くと、彼女は私達に向かって手招きしている。

「お話、聞いてくれはんねんて。中に入ろう」

 言うが早いか、綾子は大股でドアの中に消えてしまう。私達は顔を見合わせると、慌てて後を追った。

 開けっ放しになっているドアから、おそるおそる足を入れる。本部の中には2、3人の刑事がいて、それぞれの作業をしているようだった。

「何やってんの。こっちやで」

 声の方向を見ると、奥に置かれたソファにちゃっかり腰を下ろしている、綾子がいた。

「我が娘ながら、厚かましい……」

 高田は小さな声でつぶやくと、私の手を取り、そちらへと向かった。綾子とテーブルを挟んで向かい側に、さっき綾子と戦っていた若い刑事と、お馴染みの木嶋刑事が立っている。

「こちらへどうぞ」

 綾子の隣のスペースを手で示しながら、木嶋刑事が言った。

「申し訳ありません」

 高田が、肉付きのいい体を小さくして、綾子の隣に座る。私も、その隣に腰を下ろした。ソファはかなり大きめのサイズで――多分、刑事達は、ここで仮眠でもとるのだろう---、3人並んでもまだ、余裕があった。

「その節は、どうもありがとうございました。――こちらは、私の部下で、横溝といいます」

 向かいのソファに座りながら、木嶋刑事が紹介する。彼は黙って頭を下げた。

「今日は申し訳ありません、娘の綾子が……」

 高田が、決まり悪そうに木嶋刑事を見た。

「いえいえ、情報の提供は有り難いことです。で、お話というのは」

 木嶋刑事に促され、綾子が切り出した。

「さっき、ラジオのニュースで、俊ちゃんが――波多野俊介さんが犯人扱いされていることを知りまして」

「名前は出していないはずですが」

 木嶋刑事が、静かな声で言う。

「聞く人が聞いたらわかります。――何で俊ちゃんが犯人なんか、その訳をお聞きしたいと思いまして」

 綾子がそう言ったところで、制服を着た女性が麦茶を出してくれた。私達は黙って頭を下げた。

「犯人とは言うてませんよ。ただ、参考人としてお話をお聞きしたいと、そういうわけです」

 横溝刑事が、不機嫌そうな顔で言い返す。

「参考人って、犯人とどう違うんですか」

 綾子が身を乗り出す。

「綾子、落ち着きなさい」

 高田が、綾子の服を引っ張った。

「――波多野俊介さんとは、どういうご関係なんですか?」

 木嶋刑事の質問に、高田が答える。

「俊介君のお母さんと――2年前に自殺しはった波多野圭子さんですけど、彼女と私が同期でして。今の会社に入社したんは20年近く前なんですが、その頃から家族ぐるみのお付き合いをさせて頂いてました。せやから、この子と俊介君は、幼なじみになるんです」

「ほう」

 木嶋刑事が頷いた。

「2年前に波多野俊介さんが行方不明になってから、会われたことはありますか?」

 綾子は目を伏せた。

「ありません。でも、俊ちゃんが殺人なんて……」

「お身内の方は、大抵、そうおっしゃいますよ。――波多野俊介が行方不明になってから2年です。その間に、どういうことがあったのか、そんなことわからないでしょう」

 横溝刑事が、馬鹿にしたような口調で言った。

「犯人って決まったわけでもないのに、俊ちゃんのこと呼び捨てにせんといて下さい。俊ちゃんがなんで参考人になったんか、さっさとその訳を聞かせてくれ、言うてるでしょ」

 綾子が、横溝刑事に食って掛かる。一言一言が気に触るようだ。よっぽど相性が悪いのだろう。横溝刑事も、挑みかかるような目で綾子をにらんでいる。

「横溝、いい加減にせんか」

 木嶋刑事がたしなめると、横溝刑事は小さく舌打ちをしながら横を向いた。

「お気持ちはわかります。――いいでしょう。お話しします。実は、私達の捜査の結果、波多野俊介さんが、青酸カリを入手していた可能性が、高いことがわかりました」

「大学の薬品庫から持ち出したようなんです」

 横溝刑事が、綾子の方をちらっと見て答えた。

「いつですか?」

「2年前です」

 木嶋刑事が綾子の方を向き、詳しい状況を説明してくれた。

「俊介さんが通っていた大学では、薬品庫は、心理学部と理工学部が共同で利用しているようなんです。規模の小さい大学では、そういうことも多々あるそうなんですが。当時、その薬品庫には青酸カリも入っていたそうです。理工学部が実験に利用するのでね。――薬品庫の鍵は、ある隠し場所に置いてあって、大学院生のみがその場所を知っていた。もちろん、俊介さんもです」

「そんな杜撰な管理でいいんですか?」

 高田が、驚いたように言った。

「現在は別の場所で、厳重に管理されているそうです。――和歌山の事件があって以来ですから、1年ほど前からですか」

「つまり、2年前なら、青酸カリを容易に持ち出すことができた、ということですね」

 綾子が、唇を噛んだ。

「でも、鍵の在処を知っていたからって、俊ちゃんが持ち出したとは限らへんやないですか?」

「記録簿に、名前が残っていたんですよ。その棚から薬品を持ち出すときは、記録簿に日付と名前、そして薬品名を書き込むことになっているんです。――今から2年前の1997年7月1日、彼が青酸カリ持ち出したことが、本人の字で書かれていました」

 木嶋刑事が、手帳を見ながら答える。

「2年前の7月1日っていえば、ちょうど俊ちゃんが姿を消した頃やわ」

 高田が、思い出すように言った。

「圭子さんが亡くなりはったんが、6月29日の夜。30日のお通夜の時に俊ちゃんが現れて……。綾子と喧嘩して飛び出したきり、行方がわからなくなったんやから」

「翌日やね」

 綾子が、悔しそうにつぶやく。

「あの時、私があんなこと言わへんかったら……」

「でも」

 私は思わず、口を挟んだ。

「これからそれで人を殺そうっていう時に、自分の名前なんか書いたりするでしょうか。鍵の在処はわかってるんやし、黙って持ち出したってばれないでしょう?」

「そこなんですよ」

 横溝刑事が身を乗り出した。

「その頃、管理責任者をやってはった助手の方に、お話を聞いたんですよ。あの、普通、心理学の研究で青酸カリなんて使わないんで、印象に残っていたらしいんですけど」

 私達は頷いた。

「当時は、毎日必ず、記録簿をチェックしてはったらしいんですね。心理学部の院生が青酸カリを持ち出すなんて、おかしいなと思って薬品庫を確かめた。そしたら、その青酸カリの瓶は、きちんと所定の位置に戻されていたそうなんです。やましい目的で青酸カリを持ち出したんやったら、記録簿に堂々と名前を書くわけがないし、何かの実験に使ったんやろうと納得して、そのままにしていたらしいんですわ」

「それ、ほんまに俊ちゃんが書き込んだんですか?」

 綾子が口を出す。

「ええ。その記録簿はまだ残されていましてね。筆跡鑑定の結果、本人のものやとわかったんですよ。それに、当時、波多野俊介さんと同じ研究室だった院生が、彼は青酸カリを用いるような実験はしてへんかったと、はっきり証言しました」

 しばらく、誰もしゃべろうとはしなかった。

「――それで、俊ちゃんの行方、全然わからないんですか?」

 綾子が口を開く。

「京都の実家の方も、東京の下宿の方も、2年前の7月8日に引き払われています。そして、その後の消息はぷっつりと途絶えてしまって、現在では全くわからない状況です」

「大学院の方も、学費滞納で除籍処分になっていますし」

 木嶋刑事の説明に、横溝刑事がつけ加えた。

「もう、亡くなってるとか……」

 高田が、絞り出すような声で言う。みんな、驚いて彼女の顔を見た。

「だって、その青酸カリで自殺でもしてたら、消息がつかめなくて当たり前やないの」

「なに、アホなこと言うてんねん」

 綾子が言い放つ。

「確かに、自殺の可能性もないことはありません。でも、今回の事件では、本人の筆跡で脅迫状も届いており、姿も見られている。自転車も発見されています。可能性は低いですね」

 木嶋刑事も高田の考えを否定した。

「何にしても、俊ちゃんが犯人なわけないわ」

 綾子が顔を上げた。

「俊ちゃんは何でも几帳面で、なんて言うんかなあ、完璧主義者っていうんかなあ。とにかく、めっちゃ細かいことまできちんと計画をたてて、確実にこなしていくタイプなんですよ。せやけど、今起こっている事件、どれもこれも矛盾だらけで穴だらけ。陽子さんの事件かって、ほんまやったら宮島さんを殺したかったはずやのに、間違えて。――俊ちゃんやったら、そんなアホなこと、絶対せえへん」

 最後の方は、ほとんど涙声になっていた。高田が背中をさすると、綾子は鼻をすすりあげた。

「お嬢さんのご意見も、参考にさせて頂きますよ。――何か思い当たることがあったら、この捜査本部にご連絡下さい。電話番号、書いておきますから」

 木嶋刑事は、いたわるように言いながら名刺を取り出すと、裏返してペンを走らせた。

「すみません。よろしくお願いします」

 消え入りそうな声でその名刺を受け取ると、綾子は立ち上がった。高田と私も立ち上がり、頭を下げる。

 2人の刑事に見送られて捜査本部を出ると、雨は一層強くなっていた。


(10)


「俊ちゃんのはずないわ」

 夕食をとるために立ち寄ったレストランで、私達は食事をしていた。綾子は、やはり俊介のことが気になるらしく、目の前に置かれたスパゲティにもほとんど手を付けていない。

「わかったから、早よ食べんと冷めてしまうで」

 高田が、チキンピラフを口に運びながら言った。綾子は、フォークを手にしたまま、一点を見つめて考え込んでいる。

「それにしても、青酸カリを持ち出したって、何でやろ?」

 綾子が、ぼそっとつぶやいた。

「何でやろうねえ」

 高田が、顔を上げて言う。

「あの」

 私は思いきって、自分の意見を言ってみることにした。

「お母さんが自分のせいで自殺したって、相当ショックやったんやないかと思うんです。せやから、発作的に、おかしなことを考えたんかも……。でも、結局は生きてはる訳ですから、青酸カリは使わなかったということですよね」

 私の意見に、綾子は頷いた。

「今回の事件に、使われていなければね」

「何やの、あんたは。俊ちゃんのこと、信じてるんと違うの?」

 高田が、眉をひそめて綾子を見た。

「信じてるわよ。でも、今でもずっと、私達が知ってる俊ちゃんでいてくれてるんか、不安もあるのよ」

 綾子が溜息をつく。

「あ、そうそう、田野倉君が内部犯行説とか言うてはったね」

 高田が、思い出したように私の方を見た。

「内部犯行説?」

 綾子が顔を上げる。

「何、それ?」

「私も、何かよくわかれへんかってんけど、多恵ちゃん、説明してあげてくれる?」

「ええ」

 私は、高田の方を見て頷くと、昨日、田野倉が言っていた考えを説明した。

 話し終わった後も、綾子はしばらく目を閉じたまま口を聞かなかったが、やがて目を開けた。

「なるほどね。事務所の3人の男性の中に犯人がいる、か」

 彼女は一口、お水を飲んだ。

「でも、そうなると、何で俊ちゃんが出てきたかってことよね。その犯人は、俊ちゃんの名を語ることで、何かメリットがあるんかな」

「さあ」

 私と高田は、同時に首を傾げた。

「2年前に自殺した従業員の息子。なんで、そんな人を持ち出す必要があるのよ、今さら」

 綾子は、しばらくフォークを弄んでいたが、やがて手帳から、1枚の便せんを取り出した。

「何やの、それ」

 高田が尋ねる。

「これ? 俊ちゃんのおばちゃんの遺書よ」

 綾子は、波多野のことを、俊ちゃんのおばちゃんと呼んでいたらしい。

「何でそんなもの、持ってるのよ」

 高田が、驚いて尋ねた。

「どこで俊ちゃんに会うか、わかれへんやろ? せやから、いつでも渡せるように、持ち歩いてるんよ」

「はあ、知らんかったわ」

 高田は目を丸くした。

「俊ちゃんに、おばちゃんが亡くなったことを知らせた時、この文章を読み上げたんよ。そしたら俊ちゃん、一言も言わずに電話を切って、すぐ京都に飛んできて……。ひっぱたくつもりなんかなかったのに、あの子の顔を見たとたん、おばちゃんの無念を感じちゃって」

 綾子は、便せんを広げながら言った。

「あれ以来、読んでへんねん。持ち歩いてるだけ。でも、なんか急に、もう一度目を通してみたくなっちゃった」

 私が黙っていると、綾子は小さい声で、その文面を読み出した。


『俊介、ごめんなさい。私が間違っていました。あなたにはあなたの人生があるのだから、自分の信じた道を行きなさい。私は、あなたのお荷物になる気はありません。ただ、心の片隅に置いてもらえたら、それでいいと思っています。これからは、何があっても、負けずに1人の力で乗り越えなさい。あなたは、それができる子だから。  母より』


 高田が、そっと目頭を押さえる。

「圭子さん、どんな気持ちでこの遺書を書いたんやろね」

 綾子が、便せんをたたみ、再び手帳の間に挟んだ。

「早く、俊ちゃんに渡してやりたいわ。この遺書も、それを望んでいるやろうし」

「――何だか、遺書っぽくないですね」

 私の言葉に、2人がこちらを向いた。

「遺書と言うより、ただの手紙みたいな気がしますね。――自分の道を選んだ子供に宛てた、激励の手紙って感じ」

 私は、自分の感想を素直に述べた。と、綾子は再び便せんを取り出し、文章を読み返した。

「ほんまやわ。おばちゃんの遺体の横に置いてあったから、てっきり遺書やと思いこんでたけど……。そんな背景が全くなくて、この文章を読んだら、ただの手紙でも十分通用するわ。ううん、むしろその方がしっくり来る」

 綾子は顔を上げると、私の方を見た。

「もし、これが遺書ではなくて、ただの手紙やとしたら……」

「波多野さんの自殺自体、疑いが出てきますよね」

 私も綾子の方を見ながら、答えた。

「お母さん、おばちゃんの遺体を発見したとき、どんな感じやったん?」

 波多野の遺体を発見したのは、どうやら高田だったらしい。私は高田の顔を見た。彼女は、スプーンをお皿の上に置くと、溜息をついた。

「前の日に、私の携帯に圭子さんから電話があったんやわ。俊ちゃんが、大学院をやめて、それまで趣味で続けていた演劇を、本格的にやりたいって電話で言ってきたって。俊ちゃん、ドクターコースの2回生やったし、あと1年頑張れば博士号もとれるんやから、それから後でもって説得したんやけど、駄目やったって。今のままやったら、どちらも中途半端になるって、聞かなかったらしいんよ」

「俊ちゃん、何にしても、いい加減なことができへん性格やったからねえ。どちらかひとつに絞ろうと思って、役者の道を選んだんやね」

 綾子がつぶやく。

「いい加減にしなさいって怒鳴ったら、電話を切られてしまったわって、圭子さん、元気なく笑ってた。子供には子供の人生があるからって、私がそう言うたら、圭子さんも、そう思ってあきらめるって、結構さばさばした感じで言うてはったんよ。それからちょっとの間、考え込んでる様子やったんたけど、真剣な声で今すぐ来れないかって言い出さはって」

 鼻をすすって続ける。

「でも、私、その時ちょうど事務所の社員旅行の最中で、富山にいてて。その電話を受けたのも、旅館の部屋でやったんよ。夜遅かったから電車もないし、翌日の夕方には帰る予定になってたから、帰ったらすぐに寄るって約束したんやけど」

 高田は、お水を飲んで一呼吸置いた。

「翌日の夕方5時頃、京都に戻って家に荷物だけ置いて、急いで圭子さんの家に行ったんよ。そしたら、圭子さん、テーブルに突っ伏してて……」

 高田は涙声になった。

「俊介さんのこと、さばさばした感じで話してはったんですね」

 私が確認すると、綾子は言った。

「俊ちゃんのやりたいようにやればいいって、あきらめはったんやろね。それで、あの文章を書いて、自分の気持ちを伝えようとした。――ますます、遺書ではない可能性が強まってくるわね」

「――あの、波多野さんの家に入りはる時、玄関の鍵はどうしはったんですか?」

 私が高田の方を向いて尋ねると、綾子が代わりに答えた。

「開いてたって、言うてたわよねえ」

 高田が、ハンカチで鼻を押さえながら頷く。

「呼び鈴を鳴らしても出て来はらへんし、変やなあと思ったらドアの鍵が開いててね。それで、圭子さんの名前を呼びながら中に入ったんよ。そしたら……」

「母は、すぐに私に連絡を入れてきたんやわ。大分取り乱してたし、急いで警察に連絡するように言うてから、私も慌てて波多野家に向かったの」

 ついに本格的に泣き出してしまった高田を気遣いながら、綾子が後を続けた。

「車は母が乗っていってしまってたし、私はタクシーで駆けつけたんやけど、マンションに着いたときには、もう警察が入ってて。おばちゃんの遺体が運び出されるところやった」

 綾子は、高田の背中をさすりながら、鼻をすすった。

「テーブルの上にはコーヒーがこぼれて、カップが倒れてた。それから、宝石の鑑定書と遺書が、置かれてたわ」

「宝石の鑑定書?」

 私が聞くと、綾子は頷いた。

「亡くなったときにね、おばちゃん、指に大きなダイヤの指輪をはめてはったんよ。そのダイヤの鑑定書やったの」

 ダイヤの話は陽子からも聞いている。私は黙って頷いた。

「遺体を解剖しても、何の不明な点も出てこなかった。遺書もあったし、俊ちゃんのことで悩んでいたのを、同じ事務所の人にも相談していたらしいんよ。青酸カリの入手ルートが、どうしてもつかめなかったらしいんやけど、結局、おばちゃんの死は自殺ということで片付けられてしまった」

「その2日後、社内監査が入ったとき、圭子さんの事務所で500万ほど、架空の会社に振り込まれていたお金があることがわかってね」

 高田が、顔を上げて話し始めた。目は真っ赤に腫れている。

「圭子さんの事務所のロッカーから、その架空の会社名義の通帳と印鑑が見つかったんよ。それで、彼女が本社の経理に請求するとき、架空の会社名で請求書を作り、その金額を振り込ませていたと判断された。それから……」

 高田は、溜息をひとつつくと、話を続けた。

「あのダイヤモンド。会社の方で色々調べたらしいんやけど、あのダイヤは亡くなるひと月ほど前、京都の四条河原町にある宝石店で、100万円で買われたものやってことが明らかになったの。しかも、一括で支払われていた。普段のお給料では、とてもやないけどそんな高い買い物、できへん。結局、圭子さんの横領の傍証とされてしまって」

 高田は一息ついて、また話を続けた。

「金額自体、会社から見ればそう大きな額ではなかったし、社員が横領していたなんてことになったら、世間体も悪い。会社は、その500万を圭子さんの退職金にあて、横領の事実をもみ消してしまったんよ。あの人が、横領なんて信じられへんかったけど、深刻な声で話したいことがあるって言うてはったん、そのことを私に打ち明けようとしはったんかなって。私もそう思ってしまったんよね」

「――そのダイヤモンド、波多野さんご自身が、買われたものやったんですか?」

 私の質問に、今度は綾子が答える。

「それが、ちょうどブライダルフェアとかいうのをやっててね、お客さんが多くて、買った人が誰なんか、特定できへんかったらしいねん」

「それやったら、波多野さんに罪をなすりつけようとした誰かが、細工をした可能性かって、ありますよねえ」

 私が言うと、綾子は手を叩いた。

「その通りやわ。通帳かって、おばちゃんのロッカーに入っていたっていうだけで、誰が使ったかなんて、わかれへんもん。それに、事務所の内部の人やったら、目を盗んでおばちゃんのロッカーに通帳を放り込むことくらい、簡単なことやんか」

 綾子と高田が、顔を見合わせる。

「なるほどね、そういうことやったんやね」

 綾子は、フォークを手に持つと、スパゲティを巻き付けた。

「遺書が遺書やなくて、横領の犯人がおばちゃんやないとしたら、おばちゃんが自殺する理由自体、なくなるやん。こんなところで、うじうじしている場合やないわ。おばちゃんの死の真相、つかまないと。――これから忙しくなるで」

 綾子は高田の方を向いてそう言い、スパゲティを口の中に放り込んだ。

「うわっ!冷めきっててまずい」

 綾子が顔をしかめる。

「せやから、さっきから冷めるでって、言うてたやんか。ちゃんと責任もって、最後まで食べなさいよ」

 高田が、ハンカチで涙を拭きながら言った。


(11)


 その翌日、仕事が終わると、私達はまた捜査本部に顔を出していた。昨夜、あのレストランから綾子が木嶋刑事に電話をかけ、波多野が亡くなった時にとられた調書を、見せてもらえるように頼み込んだのだ。初めは渋っていた木嶋刑事も、今回の事件に関わりがあるかもしれないということで、最後には首を縦に振ってくれた。

 今日の午後、調書が手に入ったとの連絡があり、私達3人は、またこうしてここに来たというわけだ。

「昨日、お嬢さんから電話を頂きまして、今朝一番で、管轄署へ行って調べてきました。これが、その時の調書の写しです」

 木嶋刑事は、コピー用紙を閉じたものをめくりながら言った。

「まず、第一発見者の高田さんの証言が書かれています。それから、宮島さんの証言もありますね」

「宮島さんが、何を証言されたんですか?」

 綾子が尋ねる。

「波多野さんが自殺された当日の午前中、彼女から電話をもらい、息子さんが大学院を辞めたいと言っている、という話を聞いたそうです。そして、ゆっくり相談に乗ってもらいたいから、夕方、是非来てくれと言われた。しかし、彼はその日は用事があったので、翌日、会社で聞くからと断ってしまった、という内容ですね。もし自分が行っていればと、大変悔やまれたようです」

 木嶋刑事が、ページをめくりながら答える。大変悔やまれた――この言葉が、私の心に残った。

「宮島さんと波多野さんは、そんなに親しくしてはったんですか?」

 私が顔を上げて尋ねると、木嶋刑事は少し微笑んだ。

「同僚の方達のお話によると、波多野さんは宮島さんのことを、息子のように可愛がっておられたそうです。宮島さんも、郷里を離れて1人暮らしやそうで、2人目の母親みたいに思っていると、よく言われていたようですね」

「ええ。私も波多野さんから、そんな話を聞いたことがあります」

 黙って話を聞いていた高田が、頷きながら言った。

「青酸カリについては、何かわかりましたか?」

 綾子が質問を続ける。

「自殺と断定されてから後も、引き続き捜査したようですが、結局、わからないまま打ち切られています」

「そうですか」

 彼女は悔しそうに頷いた。どうやら、青酸カリのルートから犯人を探り出すのは、難しいようだ。

「指輪については、どうですか?」

 綾子は少しでも手がかりを得ようと、食らいつく。

「指輪、ですか?」

 木嶋刑事は、調書をぱらぱらとめくったが、首を傾げて答えた。

「指輪については、何も書かれていませんね。それは、何か事件と関係のあることなんですか?」

 逆に質問され、綾子は少しとまどった様子だったが、すぐに口を開いた。

「社内の監査で、波多野さんが横領していたんやないかってことになったそうなんです。それで、警察の方ではどう対処されたんかなと、思いまして」

「横領、ですか」

 木嶋刑事は、困ったような表情をして調書を閉じた。

「会社の方から訴えがなければ、捜査に入ることは難しいですねえ。この時は、会社からは何のお話もなかったようですから」

「どういうことですか?」

 綾子が尋ねた。

「社員が横領していたとなると、会社の信用に関わるでしょう? よほど金額が大きいか、悪質なものでない限り、大抵は社内で握りつぶされてしまう、というのが現状ですわ。ほんまは、そんなことではあかんのでしょうけどね」

 木嶋刑事が説明する。

「500万っていうと、金額自体はそう大きいものではないですしね」

 高田が、顎をさすりながら続けた。

「今、私が内部告発という形でお願いしても、捜査していただくことはできませんか?」

「お母さん、そんなことしたら、クビになるで」

 綾子が、驚いて高田を見る。

「でも、それで圭子さんの無実が明らかになるんやったら、私はクビになってもかめへん」

 高田が、ハンカチを握りしめて言う。

「罪をなすりつけられて死んでいくなんて、あんまりやないの。あんなに、一生懸命生きてはった人やのに」

 私は、高田のその言葉に胸を打たれた。木嶋刑事は、腕組みをして尋ねる。

「その、500万は、どういう処理をされたんですか?」

 高田は顔を上げた。

「圭子さんの、退職金ということにされました」

「そうですか」

 木嶋刑事は、残念そうに唇をかんだ。

「退職金として渡したものやと主張されたら、それ以上踏み込むことはできませんね。ただ、波多野さんの死が他殺かもしれへんということになれば……。一度結論が出た事件を蒸し返すと、上から何やかんや言われるんですけどね。私が個人的に、調べてみることにしましょう」

「ありがとうございます」

 私達は、3人揃って頭を下げた。

「それでは、その当時、波多野さんと同じ事務所にいらっしゃった方々のお名前を教えていただけますか? もう一度、お話を聞いてみます」

 木嶋刑事が、手帳を開く。

「えっと」

 高田は、慎重に話し出した。

「当時、山科営業所の所長は、安永さんという方でした。1年半程前に、うちのライバル会社のオリオン電機に引き抜かれて……。それ以後のことはよく知りません」

「他には?」

 木嶋刑事が続きを促す。

「男性社員は、竹本課長と、宮島君と祖父江君、それから田野倉君も多分、いてはったと思います」

「ええ。波多野さんとは何カ月か一緒に仕事されたって、前におっしゃってました」

 私が言うと、高田は頷いた。

「女性の社員は、横山さんと稲垣さんの2人です」

「となると、今生きていらっしゃるのは、他の会社に移られた安永元所長と、宮島さん、そして田野倉さんの3人ですね。それでは早速、この3人の方にお話を伺いましょう。何かわかりましたら、またご連絡します」

「よろしくお願いします」

 私達は、頭を下げると腰を上げた。

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