第7章 静かな確認
[アスペクト・デザイン部/午後]
社内の空気が、確実に変わっていた。
八木尾航は、自分の席で作業をしながら、それを感じていた。
直接、何かを言われることはない。
だが、会話の切れ目。視線の動き。
名前が出た瞬間に、音が落ちる感じ。
(……坂辻さんの噂だ)
それは、もうはっきりしていた。
だが――
噂の内容が、八木尾の知っているものと噛み合わない。
「……お金、結構もらってるらしいよ」
「……いや、抜いてるとか……」
「……額が合わないんだって」
(……違う)
八木尾は、画面を見つめたまま、胸の奥でそう呟いた。
坂辻が言っていた報酬額は、会社規定から見ても、むしろ“少ない”。
半分。ほぼ、半分だった。
(……じゃあ、残りはどこに行ったんだ)
八木尾が疑問に思っていたのは、そこだ。
それなのに、噂は逆方向へ膨らんでいる。
“坂辻が多くもらっている”
“裏で金を動かしている”
(……そんな話じゃない)
八木尾は、無意識にペンを強く握った。
自分が知っているのは、デザインを使われたこと。
報酬を半分やると言われたこと。
そして、その“金額が少なすぎた”という事実だけ。
それ以上のことは、知らない。
(でも……)
“知らない”ことが、もう許されない段階に来ている気がした。
そのとき。
「……八木尾さん」
背後から、やさしい声がした。
振り返ると、如月環が立っていた。
「環さん……」
「突然すみません。少し、お時間よろしいでしょうか」
環の表情は、いつも通り穏やかだった。
だが、その奥に、仕事の顔があるのがわかる。
「……はい」
環は小さく頷いた。
「もう一度、お話をお伺いしたいと思いまして」
八木尾の胸が、きゅっと縮む。
(……来た)
逃げられない、と思った。
◇◇◇
[アスペクト・仮設ミーティングルーム]
ミーティングルームの扉を開けると、中にはすでに人がいた。
「……どうも」
如月柊が、席を立って会釈をする。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
その隣で、凪が軽く手を上げた。
「こんにちは。
今日は確認だけなので、緊張しなくて大丈夫ですよ」
その言葉が、逆に八木尾の緊張を浮き彫りにした。
環も席に着き、静かに扉を閉める。
「……今日は、前回のお話を踏まえて、事実確認をさせていただきたいんです」
柊の声は、低く、落ち着いている。
「責めるためでも、結論を出すためでもありません」
凪が続ける。
「“数字がどう動いているか”を、正確に知るためです」
八木尾は、ゆっくりと息を吐いた。
「……わかりました」
柊は、メモを取りながら切り出した。
「坂辻さんから聞いた、報酬額について。
平均、10万円程度と聞いています」
「……はい」
「それは、会社の規定と照らすと、ほぼ半分です」
八木尾の指が、膝の上でわずかに動いた。
「……そうだと思います」
環が、静かに言う。
「その“もう半分”について、何か、心当たりはありますか」
八木尾は、首を振った。
「……ありません。だから……おかしいと思いました」
「噂について、耳に入っていることはありますか」
凪が尋ねる。
八木尾は、少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……あります」
視線を落としながら、言葉を選ぶ。
「……坂辻さんが、“多くお金をもらっている”とか、“金を抜いている”とか……」
環の胸が、また小さく「チクッ」と鳴った。
「……それは、八木尾さんの知っている事実と、一致しますか」
「……いいえ」
八木尾は、はっきりと言った。
「むしろ、逆です。……少なすぎると思っていました」
柊と凪が、視線を交わす。
「……なるほど」
柊が、静かに頷いた。
「つまり、“少ないはずの報酬”と、“多くもらっているという噂”が、同時に存在している」
凪が、苦笑する。
「……きれいに食い違ってますね」
八木尾は、拳を握った。
「……僕は、坂辻さんを陥れたいわけじゃありません」
環が、すっと顔を上げる。
「それは、わかっています」
八木尾は続けた。
「ただ……あの金額は、どう考えてもおかしい。
……だから、確かめたかったんです」
その言葉に、ミーティングルームの空気が、少しだけ引き締まった。
柊は、ペンを置く。
「ありがとうございます。とても、助かりました」
「……坂辻さんには」
八木尾が、ぽつりと尋ねた。
「……まだ、何も伝えていません」
柊は、即答した。
「今は、伝える段階ではありません」
凪が、画面を操作しながら言う。
「数字の流れを、こちらで確認してからです」
八木尾は、少しだけ安心したように、そして同時に、不安そうに頷いた。
(……あの人は、何も知らない)
それを思うと、胸が痛んだ。
◇◇◇
[ミーティングルーム]
八木尾が部屋を出たあと、3人は、しばらく黙っていた。
「……噂と実態が、完全に逆だな」
凪が、静かに言う。
「うん」
柊が頷く。
「だからこそ、“誰かが意図的に歪めている”可能性が高い」
環は、胸の前で手を組んだ。
「……坂辻さんは、まだ何も知らないんですよね」
「ああ」
柊は答える。
「今はまだ、知らないほうがいい」
凪が、画面を見つめたまま言った。
「……じゃあ、次は“数字”ですね」
柊は、短く頷いた。
「灯さんに、入ってもらおう」
環の胸の奥が、少しだけ、あたたかくなった。
(……はは)
事実を見つめる準備が、整い始めていた。




