第6章 寝耳に水
[アスペクト・デザイン部/朝]
坂辻陸斗がフロアに入った瞬間、空気がわずかに変わった。
――いや。
変わった、というより。
(……薄い?)
いつもなら、誰かしらが声をかけてくる。
「坂辻さん、おはようございます」
「昨日の案、さすがでした」
そういう、軽いノリの賛辞が、当たり前のように飛んでくる。
だが今朝は違った。
誰もが、忙しそうにしている。
目が合っても、すぐ逸らされる。
坂辻は何でもないふりをして席に着き、PCを立ち上げた。
(気のせいだ)
そう思おうとした。
けれど――
背後で小さな声がした。
「……ねぇ、聞いた?」
「……うん。……あれ、ほんとかな」
「でもさ、数字が……」
数字?
坂辻は一瞬、キーボードを打つ手を止めた。
(数字って、何の話だ?)
耳を澄ませても、言葉は途切れ途切れで、はっきりとは聞こえない。
誰かが近づく気配がすると、会話はすぐに消えた。
坂辻は舌打ちしそうになるのを、飲み込んだ。
(……何なんだよ)
自分の中にある“エースとしてのプライド”が、ざらりと嫌な音を立てる。
――俺が、何かしたっていうのか。
いや、した。
(……デザインは、借りた)
八木尾のデザインを“少し直して”提出した。
それが一度きりじゃないことも、自分が一番わかっている。
だが――それは、あくまで“デザイン”の話だ。
(叩くなら、そこだろ)
坂辻は思う。
もし八木尾が告げ口でもしたなら、噂になるのは「盗用」だ。
それなのに。
「数字」「金」「流れ」
聞こえてくる単語が、どれも噛み合わない。
(……待て。金?)
報酬の話なら、覚えがある。
社内コンペで採用され、プレゼンに勝てば、報酬が出る。
それは会社の規定で決まっている。
だが、坂辻がもらっているのは――
「平均10万程度」
たいした額じゃない。
大きな広告案件でも、デザイン部の取り分は決して派手じゃない。
(そんなもんで、何を騒ぐんだよ)
坂辻は苛立ちを抑えながら、画面のデータを開く。
だが、集中できない。
背中に刺さる、視線。
明らかに“見られている”感覚。
そして、また声。
「……半分、どこ行ってんだろ」
「……いや、もっと……」
坂辻の心臓が、一瞬だけ強く跳ねた。
(半分?)
――何の半分だ。
報酬は、10万だ。
半分にしたところで5万。
(……笑える)
そう思った瞬間、喉が乾いた。
“半分”という言葉が、別の意味に聞こえたからだ。
(……俺が、何かを抜いてるってことか?)
その可能性が頭をよぎり、坂辻の背筋が、冷えた。
――そんなこと、してない。
少なくとも、金に関してはしていない。
(俺は……金のことなんて、興味ない)
興味があるのは、評価だ。
採用されること。勝ち取ること。
そこに金がついてくるのは、おまけだ。
なのに。
“金の噂”が先に立ち、自分の周りの空気を変えている。
坂辻は、ペンを握り、机を軽く叩いた。
カツ、と乾いた音。
周囲の会話が、一瞬止まる。
誰かが咳払いをして、また作業に戻る。
……戻った、というより、逃げた。
坂辻は、口の中で舌を転がした。
(何なんだ……)
◇◇◇
[アスペクト・廊下/昼]
昼休憩の時間。
坂辻は飲み物を買いに行くふりをして、廊下を歩いた。
普段なら、すれ違う社員が軽く会釈をする。
だが今日は、会釈の角度が深すぎる。
丁寧すぎる。
距離がある。
まるで、触れてはいけないものに触れないように。
(……俺が、汚れてるみたいじゃねぇか)
坂辻は、無意識に拳を握った。
自販機の前で足を止めたとき、背後で声がした。
「……坂辻さんってさ、ああいうタイプだったんだね」
「……意外だった」
意外?
坂辻は、息を止めた。
“どの部分”が意外なんだ。
盗用のことなのか。
金のことなのか。
それとも、何か別のことなのか。
坂辻は振り返りたくなった。
だが、振り返れなかった。
ここで顔を上げた瞬間、自分が“認めた”ことになる気がしたからだ。
(……ちがう)
(俺は、知らない)
知らないのに、知らないまま、追い詰められていく。
この感覚が、坂辻を焦らせた。
◇
[アスペクト・デザイン部/夕方]
午後の作業が進むにつれ、フロアはさらに息苦しくなった。
指示が回ってこない。
会議に呼ばれない。
頼まれていた確認が、別ルートに変わっている。
――排除されている。
坂辻はそれを、肌で感じた。
(俺がいなくても回るって言いたいのか)
そんなこと、あるわけがない。
エースとして積み上げてきた実績がある。
勝ち取ってきた案件がある。
それなのに。
一つの噂で、空気が変わる。人の態度が変わる。
坂辻は、ふと、八木尾の顔を探した。
だが八木尾は、いつも通り黙々と作業をしているだけだった。
(……おまえ、何をした)
そう言いたいのに、言えない。
八木尾は何もしていないように見える。
けれど、坂辻は知っている。
“何もしていない”人間が、一番怖いこともある、と。
そのとき、不意にあの声が頭の中に蘇った。
――「今回のプレゼン、必ず勝ち取ってください」
――「そのあとで、全部ちゃんと確かめますから」
(……確かめる?)
あの時は、鼻で笑って流した。
何を言ってるんだ、って。
だが今になって、その言葉が、骨の中にひっかかる。
(何を確かめるんだ)
(……何を、知ってるんだ)
坂辻は、視線を落とした。
自分の画面に映るデザインが、急に薄っぺらく見えた。
“借りて作ったもの”だからではない。
この会社の中で、自分の立ち位置が、急に宙に浮いたからだ。
(俺は……)
(俺は、何も知らない)
なのに。
“俺の名前”だけが、勝手に歩き回っている。
坂辻陸斗。
――エース。
――勝ち続ける男。
――そして今は、何かを“抜いている男”。
坂辻は、唇を噛んだ。
喉の奥が熱いのに、胸の奥は冷える。
(……誰か、教えろよ)
(何が起きてるんだよ)
その答えを持っているのが、八木尾なのか。
それとも、別の誰かなのか。
坂辻には、まだ何もわからなかった。
ただ一つだけ、確かなのは――
このまま何も起きないふりは、もうできないということだった。




