第2章 違和感の正体
[アスペクト・経理課/午前]
新しい経理システムは、順調に稼働していた。
紙の帳簿をめくる必要もなくなり、Excelファイルを何重にも開くこともなくなった。
入力した数字は即座に反映され、月次の集計も、これまでとは比べものにならないほど早い。
「……楽になりましたね」
窪原瞳は、モニターを見つめながら小さく呟いた。
「ほんとだな。締め処理もスムーズだし」
隣の席で、上之原颯太が頷く。
アークシステムズが構築したシステムは、少なくとも“表面上は”、何の問題もなかった。
――そのはずだった。
◇◇◇
翌朝。
「……あれ?」
窪原は画面を見て、思わず声を漏らした。
前日に入力したはずの数字が、消えている。
「上之原さん……これ、昨日入力した数値ですよね?」
「え? どれ……」
上之原が覗き込み、眉をひそめた。
「……確かに。あったはずだ」
別の帳票を開く。
数字は存在しているが、段がずれている。
「入力ミス……?」
「いや、俺がチェックした時は、ちゃんと揃ってた」
2人は顔を見合わせた。
念のため、操作履歴を確認する。
「……誰か、触りました?」
「いや。昨日は俺と窪原さんだけのはずだ」
経理課しか修正できない項目。
権限も、ログインも、間違いはない。
それなのに。
「……誰も、触ってない?」
窪原の声が、少しだけ震えた。
(じゃあ、どうして……?)
2人で確認を重ねても、原因はわからない。
最終的に窪原は、静かに決断した。
「……アークシステムズに、連絡しましょう」
◇◇◇
[アークシステムズ/午後]
柊の端末に、アスペクトからの連絡が入ったのは、その日の午後だった。
「経理システムで、数値の不整合が出ている……?」
通話を切った柊は、凪と環を見た。
「入力したはずの数字が消える。
修正されているように見えるが、誰も触っていないそうだ」
「……それ、システム不具合ですかね」
凪が首を傾げる。
「ログが残らない変更って、ちょっと不自然ですね」
環は、胸の奥が小さく「チクッ」とするのを感じた。
(数字が……消える……?)
「一度、現地で確認しよう」
柊は即座に判断した。
「向こうで作業する」
◇◇◇
[アスペクト・仮設ミーティングルーム/夕方]
用意されたのは、急ごしらえのミーティングルームだった。
壁際に並べられた簡易デスク。
持ち込まれたノートPCとケーブル。
「すみません。急にお願いしてしまって」
窪原が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ。状況を直接見られる方が助かります」
柊は穏やかに答えた。
凪はすでに画面を覗き込み、環は横で資料を整理している。
「……ログ自体は、きれいですね」
凪が呟く。
「エラーも、改ざんの痕跡も……少なくとも表面上は、ない」
「でも、実際に数字はズレている」
窪原の言葉に、柊は小さく頷いた。
「原因を切り分けましょう」
作業はしばらく続いた。
その間、環は2人の会話を聞きながら、なぜか落ち着かない気持ちを抱えていた。
(誰も触っていないのに、変わる数字……それって……)
言葉にしようとすると、形にならない。
「環、少し休憩するか?」
柊が声をかける。
「あ、はい……では、コーヒーを買ってきますね」
◇◇◇
[アスペクトビル1階/カフェ]
カフェは、夕方の時間帯でほどよく賑わっていた。
環はカウンターで、3人分のコーヒーを注文する。
「……あの」
後ろから、控えめな声がした。
振り返ると、見覚えのある男性が立っていた。
(……デザイン部の方……?)
「システム開発会社の方、ですよね」
「はい。アークシステムズの如月です」
「……少し、お時間いいでしょうか」
その声には、迷いと決意が混じっていた。
「密かに、調べてほしいことがあるんです」
環は一瞬、言葉を選び、やさしく答えた。
「……私には判断する権限はありませんけど、お話を聞くことはできます」
コーヒーが、カウンターに並ぶ。
その横で、もう一つの違和感が、静かに動き始めていた。
◇
コーヒーのカップをトレーに載せたまま、環は八木尾と向かい合って席に座った。
「……立ち話もなんですし、どうぞ」
「ありがとうございます」
八木尾は、少し緊張した様子でカップを手に取ったが、すぐには口をつけなかった。
「……実は、社内で少し、気になっていることがありまして」
環は、小さく頷く。
「どういうことでしょうか」
「僕、デザイン部にいるんですが……
最近、社内コンペで採用されるデザインが、どうしても……」
言葉を探すように、八木尾は一度視線を落とした。
「……自分の出したデザインと、酷似していることが多いんです」
環の胸の奥が、また小さく「チクッ」とした。
(……似ている、ではなく……酷似……)
「それで……?」
「一度、本人に聞きました。そしたら……」
八木尾は、淡々と、しかし正確に説明した。
坂辻が認めたこと。
報酬を分けると言われたこと。
そして――金額。
「平均、1本10万円だと言われました」
環は、思わず首を傾げた。
「……それは……」
(少ない……?)
声には出さなかったが、違和感ははっきりしていた。
「会社の規定を考えると、どうしてもおかしい気がして……
差額が、どこに行っているのか」
八木尾は、環をまっすぐに見た。
「僕には、社内に相談できる人がいません。
でも……このまま黙っているのも、違うと思って」
環は、少しだけ考え、静かに言った。
「……私は、調べる権限も、判断する立場でもありません」
八木尾の表情が、一瞬だけ曇る。
「でも」
環は、やさしく続けた。
「お話を聞いて、『おかしい』と感じることを、伝えることはできます」
「……それだけでも、十分です」
八木尾は、少しだけ肩の力を抜いた。
そのとき。
「環?」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、柊が立っていた。
「……柊」
「戻ってこないから、様子を見に来た」
柊は、環の向かいに座る八木尾を見る。
「……何か、ありましたか」
八木尾は一瞬迷い、しかし、環が小さく頷くのを見て、口を開いた。
「アスペクトのデザイン部の八木尾です。少し……相談を」
柊は、最後まで遮らずに話を聞いた。
盗用の疑い。報酬の話。金額の違和感。
話し終えると、柊は静かにコーヒーに口をつけた。
「……なるほど」
一拍置いて、柊は言った。
「それは、システムの問題かもしれないし、人の問題かもしれない」
八木尾は息を呑む。
「ただ」
柊の視線が、はっきりと定まる。
「どちらにしても、数字が動いているなら、理由は必ずある」
環が、そっと柊を見る。
「柊……」
「調べてみる」
柊は、はっきりと言った。
「今すぐ結論は出せない。でも、事実確認はする」
八木尾の目が、わずかに見開かれる。
「……本当に、いいんですか」
「うちは、システムを作った会社だ」
柊は、静かに続けた。
「その中で起きていることなら、見過ごすわけにはいかない」
環は、胸の奥が少しだけ、あたたかくなるのを感じた。
(……柊、やっぱり……)
「ありがとうございます」
八木尾は深く頭を下げた。
「ただし」
柊は、やわらかいが、真剣な声で付け加える。
「これは、誰かを責めるためじゃない。事実を知るためだ」
「……はい」
柊は立ち上がり、環に目を向ける。
「環、ありがとう。戻ろう」
「……はい」
3人が席を立ったあと、カフェのテーブルには、空になったカップだけが残った。
だが、その場にはもう、引き返せない違和感が、確かに置かれていた。




