第9話:『透かし』の技術
「ぐ、ぬぬぬ……っ!」
九日目の朝。
俺・漣は境内の西側にあるイロハモミジの前で、不格好に首を傾げたまま唸っていた。
昨日発症した酷い寝違えは、一晩明けても全く治まる気配がない。
相変わらず腰の奥には鈍い悲鳴が残り、両手の指先は連日の過酷な作業による擦り傷と絆創膏でボロボロだ。
首が右斜め三〇度に固定された俺の姿は、境内に佇むどの歪んだ老木よりも不自然な格好をしていた。
「漣さん、おはよう! 今日は首の角度がさらにマシマシになってるじゃん!」
竹箒を肩に担いだアカリちゃんが、朝から眩しい笑顔で声をかけてくる。
「笑うなよ……首が回らないんだよ、物理的にも、人生のやりくり的にもさ」
「うわ、急にリアルな自虐入れてきた! ウケる!」
アカリちゃんが爆笑した瞬間、背後から腹に響くような茂の怒号が飛んできた。
「朝からヘラヘラ喋っとらんで手を動かせバカヤロウ!」
(……はい、【タイプA:発破のバカヤロウ】だ)
昨日の今日で「バカヤロウ」のバリエーションを解読したおかげで、茂の雷にも少しだけ耐性がついていた。
「漣, 今日はそのモミジの『透かし』をやってもらうぞ」
茂は作業台から角型の脚立を引きずってくると、モミジの脇にドンと立てた。
見上げたイロハモミジは、青々と美しい葉が重なり合い、見事な緑の屋根を作っている。
素人目には、今すぐに手を加える必要などどこにもなさそうな、完成された樹形に見えた。
「透かし……? 別にどこも邪魔になってないし、綺麗に見えるけど」
「バカ者が。表面のツラだけ見てるからそう思うんだ」
茂は鼻で笑うと、脚立の下から枝ぶりを覗き込んだ。
「中を見てみろ。葉が混み合いすぎて内側に光が届いておらん。風通しも悪くて蒸れておるぞ。このまま夏を越せば、内側の細い枝は全部腐って枯れて、病虫害の巣窟になる。表の見た目を保つために、中の余分な枝を間引いて空を見せる――それが『透かし』だ」
「なるほど……中を間引いてスッキリさせるわけか」
俺は痛む腰と曲がらない首を庇いながら、慎重に脚立の三段目へ登った。
脚立の上から枝葉を覗き込むと、外側からは見えなかった複雑な枝組が広がっていた。
確かに内側は葉が重なり合い、薄暗い影になっている。
だが、どの枝も青々と元気で、どれを切るべきなのかまったく分からない。
「ええと……この、手前に伸びてる目立つ長い枝を切れば、光が入ってスッキリするかな」
俺がハサミを伸ばすと、下から茂の怒号が飛んできた。
「待てバカヤロウ! それは幹から綺麗に光を受け取っている一番良い主枝だ! それを切ったら全体が枯れ込むぞ!」
「えっ!? じゃあ、この下の細い枝は?」
「それは来年、下の空間を埋めるための貴重な芽吹きだ! 切るな!」
「じゃあどれを切ればいいんだよ!」
俺はハサミを持ったまま脚立の上で途方に暮れた。
切っていい枝と切ってはいけない枝の区別が、素人の俺には全くつかないのだ。
「枝の『筋』を見ろ」
茂の声が、急にトーンを落として下から響いた。
「内側に突っ込んでおる『懐枝』や、他の枝と重なって光を奪っとる『交差枝』を探せ。木が『ここが重くて息が詰まる、風を通したい』と言っている場所があるはずだ」
俺は深呼吸をし、右斜め三〇度に固定された視線でモミジの枝組みをじっと見つめた。
枝の伸びている方向、重なって擦れ合っている部分、日光を遮られて不自然に陰になっている一筋を探す。
(あ……ここか)
二本の枝が互いに交差するように伸び、上の枝が下の枝に完全に覆いかぶさっている場所があった。
下の枝は光を奪われ、葉の色が不憫なほど薄くなっている。
「父さん……この、内側に伸びて上の枝と喧嘩してる『懐枝』。これ、元の分かれ目から切ってもいいか?」
茂が下から目を細めてその場所を見上げた。
「……フン。ようやく一本見つけたか」
GOサインだ。
俺は六日目の雨の日に何度も研ぎ直したハサミを構えた。
枝の途中ではなく、分かれ目の付け根に刃をぴったりにあてがう。
(皮を裂かないように……一発で)
チョキン――。
澄んだ金属音とともに、固いモミジの枝が気持ちよく落ちた。
研ぎ直されたハサミは枝を押し潰すことなく、吸い付くような切れ味で綺麗な切り口を残した。
落ちた枝の隙間から、サラサラと柔らかな日光が内側の薄暗い葉へと差し込む。
小さな風が吹き抜け、モミジの葉が「助かった」と言わんばかりに心地よさそうに揺れた。
「おお……! 光が入って、風が抜けた……!」
「喜ぶのはまだ早い。それは何百本とあるうちの一本だ」
茂は相変わらずぶっきらぼうだったが、その声にはかすかに満足そうな色が混ざっていた。
夕方。
数時間に及ぶ大苦戦の末、ようやく作業が終わった。
見上げたイロハモミジは、朝の「重苦しい茂み」から一変し、まるで涼やかな風を身にまとったかのように爽やかな姿に変わっていた。
外側の美しい樹形はそのままに、葉と葉の隙間からは澄み渡った青空と、柔らかな木漏れ日が透けて見える。
「すごーい! 漣さん、モミジの向こうに空が見えるよ! 風が通ってめちゃくちゃ気持ちいい!」
アカリちゃんがパチパチと拍手を送ってくれた。
俺は脚立を降り、汗を拭いながらモミジを見上げた。
込み入った枝を間引き、光と風の通り道を作る。
それはただ見た目を整えるだけでなく、木がこれから先も健やかに生きていくための「余白」を作る作業だった。
「……フン。まあ、初日にしては上出来だ」
茂は足元に落ちた大量の切枝を静かに拾い集めながら、ぼそりとつぶやいた。
縁側で冷たい麦茶を飲みながら、夕日に透けるモミジの影を眺める。
首と腰の痛みに耐えながらハサミを握り続けた一日だったが、胸の中には爽快な風が吹き抜けていた。
過剰なものを削ぎ落とし、心地よい風と光を通す。
それは木だけでなく、都会の忙しさに追われて息詰まっていた俺の人生にとっても、一番必要な作業だったのかもしれない。
枝の隙間に爽やかな風を通す父は、立ち止まった息子の足元を静かに支える、太く揺るぎない一本の柱であった。
(第9話・おわり)




