第8話:愛情のバカヤロウ
「痛っ……あたたたた……っ!」
八日目の朝。
目が覚めた瞬間、俺・漣は湿布の匂いが充満する布団の上で、思わず短く悲鳴をあげた。
あの日、脚立の高所から真っ逆さまに落ちて痛めた背中と腰は、昨日の大雨の中でのハサミ研ぎの冷たい土間で丸椅子にへばりついて作業したせいで、完全にとどめを刺されていた。
起き上がる動作ひとつにも激痛が走り、両手の指先は連日の過酷な作業で擦りむけ、絆創膏だらけの痛々しい姿だ。
だが、昨日父・茂の手によって研ぎ澄まされた自分の剪定ハサミは、腰のサックの中で恐ろしいほど美しく白銀色に輝いている。
「おいタコ! いつまで寝とるかバカヤロウ!」
作業場の土間から、さっそく茂の威圧感あふれる怒号が飛んできた。
「はいはい、今行きますよ……」
俺は痛む腰を庇いながら、ジャージ姿から作業着へと這うように着替えた。
五十二歳にもなって、七十二歳の頑固親父に毎日「バカヤロウ」と怒鳴られるセカンドライフ。
都会でオフィスワークをしていた頃には想像もつかなかったドタバタな日常だ。
だが、この八日間、朝から晩まで茂の背中を追いかけてハサミを握り続けてきた俺は、ある「重大な発見」をしつつあった。
茂が口にする「バカヤロウ」には、実は明確なバリエーションが存在するのだ。
雨が上がってすっきりと晴れ渡った八日目の現場は、境内の南側にある古い黒松の前だった。
昨日の大雨で洗われた松の針が、朝日に照らされて鮮やかに光っている。
「漣さん、おはよ〜っ! 今日も腰、爆発しそう?」
境内に入ると、竹箒を手にしたバイトの高校生・アカリちゃんが、屈託のない笑顔で声をかけてきた。
「爆発どころか、昨日のハサミ研ぎで冷えて完全に粉々だよ……。アカリちゃんは若いから元気に動けていいよね」
「若いとか関係ないし! 茂じいちゃんの『バカヤロウ!』の音圧で、毎朝私の鼓膜も爆発しそうだし!」
アカリちゃんがケラケラと笑うと、案の定、松の樹上から雷が落ちてきた。
「ガタガタ騒ぐなバカヤロウ! 手を動かせ手を!」
(……出た。これが【タイプA:威嚇と発破のバカヤロウ】だ)
声のトーンは低く、語尾が鋭く跳ね上がる。
現場全体の緊張感を一気に高め、作業の安全を確保するための、いわば危険予知の警報音だ。
俺はあの日打ちつけた腰をさすりながら、サックからハサミを抜いて脚立に足をかけた。
「おい漣! そこは古い葉をむしるだけじゃねえ。芽の勢いを見極めて間引けと言っただろうが!」
脚立の上に登った俺の手元を見て、下から茂が怒鳴りつけてくる。
「怒鳴らなくたって聞こえてるよ! この勢いの強い芽を摘めばいいんでしょ!?」
「違うわバカヤロウ! それは『一番芽』じゃなくて、来年の枝を支える『引き立て役の芽』だ! それを摘んだら来年の枝振りが台無しになるんだろうが!」
(これが【タイプB:指導と呆れのバカヤロウ】)
語尾が少し重く伸び、呆れを含んだトーンになる。
素人の浅はかな自己判断をバッサリと斬り捨て、職人の理を叩き込むときの音だ。
「うぐっ……じゃあ、こっちの陰になっている小さい芽を残すの?」
「そうだ。目先の見た目だけじゃなく、来年そいつがどう伸びるかを見ろ。手元しか見ん奴は三流だ」
言われた通りにハサミを入れる。
昨日、茂の手で命を吹き返したハサミは、吸い付くような切れ味で枝を捉え、カチリと心地よい音を立てて芽を摘み取った。
手のひらに伝わる感触があまりにも滑らかで、腰の痛みを一瞬忘れそうになる。
昼過ぎ、作業がひと段落したところで、俺たちは境内の大きな樟の木陰にあるベンチに腰を下ろし、冷たい缶コーヒーを開けた。
「そういえばさ、茂じいちゃんってさ」
アカリちゃんが紙パックのジュースをストローで吸いながら、ヒソヒソ話で言ってきた。
「漣さんが来る前、近所のおばちゃんたちに『息子が都会から帰ってきて手伝ってくれてる』って、めちゃくちゃドヤ顔で自慢してたらしいよ?」
「えっ? 父さんが……? 嘘でしょ、毎日バカヤロウしか言われてないよ」
「本当だって! 『うちのタコがなぁ、不器用だけど現場に出てなぁ』って言いながら、鼻の下伸ばしてたって!」
俺が驚いて作業台の方を見ると、茂は日陰で一人、長年使い込んだ大きな刈込ハサミを雑巾で黙々と拭いていた。
俺とアカリちゃんの視線に気づいた茂は、急に不機嫌そうな顔になり、プイッと明後日の方向を向いた。
「おい、アカリ! 余計な口を叩いとらんで箒をかけろ!」
「はーい! 茂じいちゃん照れてる〜!」
「黙れバカヤロウ!」
(……そしてこれが、【タイプC:照れ隠しのバカヤロウ】だ)
顔を耳まで真っ赤にし、声のピッチが不自然に高く上ずる。
自分の素直な心情や好意をストレートに表現できないときの、頑固親父特有の防御壁の音だ。
語彙力が極端に乏しいのではない。
五十二歳になって実家に戻ってきた情けない息子に対する不器用な愛着も、Z世代のバイト少女に対する気恥ずかしさも、近所の噂話に対する照れくささも、すべてこの「バカヤロウ」という五文字に集約されているのだ。
「父さん、午後の現場、奥のサツキの剪定で合ってる?」
俺がハサミを腰のサックに戻しながら声をかけると、茂は背中を向けたまま、フンと短く鼻を鳴らした。
「……腹が減った。飯だ、バカヤロウ」
それは、今日聞こえた中で一番低く、どこか柔らかい響きだった。
不器用で、頑固で、言葉が圧倒的に足りなくて、毎日雷ばかり落とす親父。
だが、その雷の裏側にある「本当の温度」が、ハサミを手入れし、同じ木の前に立つ時間を重ねるごとに、少しずつ解読できるようになってきた。
夕方、オレンジ色に染まる境内を掃除しながら、俺は冷えて痛む腰をもう一度そっとさすった。
暴言ばかりを吐く父は、照れ隠しのバリエーションが豊富な名将であった。
(第8話・おわり)




