第7話:雨の日は休みたい
「痛たたた……っ!」
七日目の朝。
目が覚めた瞬間、体に走った激痛に俺・漣は思わず布団の上で悶絶した。
あの日、脚立の五段目の高さ三メートルを超える高所から真っ逆さまに落ちて痛めた背中と腰だ。
父・茂がとっさに抱きかかえるようにして「松の枝葉の山」へ引き込んでくれたおかげで骨折こそ免れたものの、打ちつけた体は二日経った今もなお鈍い悲鳴をあげ続けている。
起き上がるだけで腰の奥がズキリと痛み、首を横に振るのすら億劫だった。
おまけに昨日の「揉み上げ」作業のせいで、両手の指先は擦りむけ、刺さった松の針とネバつく松脂のせいで湿布と絆創膏だらけの無惨な姿になっている。
だが、重い体を起こして窓の外を覗いた瞬間、俺の胸にパッと大きな安堵が広がった。
ザァァァァ――……。
トタン屋根を激しく叩きつける、まとまった大雨だった。
空はどんよりと低い雲に覆われ、境内の大松も雨に煙っている。
(助かった……! 今日は完全にドシャ降りだ。さすがにこの身体で現場は無理だし、作業は休みに決まってる……!)
五十二歳、都会のオフィスワークに慣れきった軟弱な体には、この雨が天からの恵みに思えた。
俺は痛む腰を庇いながら、少しルンルンとした気分で部屋着のジャージのまま居間へと向かった。
温かいお茶でも飲んで、一日ゆっくり体を休めよう。
そう甘く考えていたのだ。
だが、作業場の土間へ通じる扉を開けた瞬間、俺の淡い期待は脆くも崩れ去った。
薄暗い土間にはすでに蛍光灯が点灯しており、作業台の前で重々しく腰を下ろす茂の背中があった。
「……え? 父さん、なにしてるの? 今日、大雨だよ?」
「タコが。何をボケッとしとるか」
茂は振り返りもせず、低い声で吐き捨てた。
「現場に行けんから作業場でやるんだろうが。濡れた服で木を触れば滑って怪我をするし、雨の日に切り口を開ければ木が病気になる。だから現場には行かん。だがな、庭師の仕事は木を切ることだけじゃねえ。雨の日は『道具の命』を吹き返す日だ」
茂の目の前には、水をたっぷり含んだ角型の砥石と、水を入れたプラスチックのバケツ。
そして、長年使い込まれて黒ずんだ剪定ハサミ、大きな刈込ハサミ、そして鋸が整然とズラリと並べられていた。
土間には、湿った土の匂いと、砥石が発する独特の鉱物的な匂い、そして長年染み付いた油の香りが充満している。
「……ハサミ研ぎ?」
「そうだ。晴れた日にハサミを振り回すことしか頭にない奴は二流だ。雨の日に刃物をどう育てるかで、晴れの日の仕事のすべてが決まるんだよ」
茂は静かに息を整えると、長年連れ添った剪定ハサミの片刃を砥石にあてがった。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ
静まり返った作業場に、心地よい金属と石の擦れ合う音が響き渡る。
茂の視線は一点、刃先だけに注がれ、一切の無駄がない。
その太い指先は、まるで刃物の痛みを確かめるかのように繊細に圧力をコントロールしていた。
「おい、お前もそこに座れ。昨日使ったハサミを出せ」
「えっ、俺もやるの? 腰がちょっと……」
「黙って座れ」
二言目はなかった。
言われるがまま、俺はあの日痛めた腰をかばいながら、冷たい土間の丸椅子に腰を下ろした。
昨日松脂と樹液でベタベタになり、刃先が茶色く汚れた自分のハサミを恐る恐る差し出す。
茂は俺のハサミを手に取るなり、露骨に眉をひそめた。
「汚いな。樹液も脂もそのまま放置か。刃が泣いとるぞ。道具をいじめる奴に、木を触る資格はない」
茂は深いため息をつくと、俺の手元に使い古した砥石と、水の入った洗面器をポンと置いた。
「刃の角度は二〇度だ。ブレさせずに、一定の力で手前に滑らせろ。角度が変われば刃先が丸くなり、二度と切れなくなる。砥石の表面に水を切らすなよ」
「は、はい……」
俺も見よう見まねで、ハサミの刃を砥石にあてがった。
だが、あの日痛めた背中と腰に鈍い痛みが響き、絆創膏だらけの指先が悲鳴をあげる。
ガリッ、ギギッ、ガリッ
茂の鳴らす「シュッ、シュッ」という軽やかな音とは似ても似つかない、鈍く濁った不快な音が土間に響いた。
「力を入れるなと言っとろうが! 砥石の面に刃を『乗せる』んだ! 削り落とすんじゃない、刃の筋を『整える』んだ!」
「くそっ……! 言うのは簡単だけど、角度が固定できないんだよ!」
少しでも手元がブレると、刃先が砥石の角に引っかかり、刃こぼれを作ってしまう。
体の痛みに汗をかき、指先の絆創膏を松脂と研ぎ汁で黒く濡らしながら、俺は必死にハサミを砥石にこすりつけた。
しかし、見よう見まねで力を入れたのが災いし、ほんの数分研いだだけでハサミの刃は余計に鈍くなり、白銀色だった金属の表面はガタガタの傷だらけになってしまった。
「……貸してみろ。これ以上やられたらハサミが死ぬ」
見かねた茂が、俺の手からハサミをひったくるように奪い取った。
茂は濡れた雑巾でハサミの表面の研ぎ汁と汚れをサッと拭き取ると、自分の研ぎ石の前に置き直した。
そして、手首の力を絶妙に抜き、刃先を滑らかにあてがう。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ
音色が、劇的に変わった。
軽やかで、澄んでいて、どこか清々しい金属音。
茂の太い指先がハサミを滑らせるたびに、樹液で黒ずんでいた刃先が、皮を一枚剥ぐようにして綺麗な白銀の輝きを取り戻していく。
「見ろ。ハサミってのは『切る』んじゃない。刃と刃が擦れ合って『噛み合う』んだ」
茂は砥石から刃を離すと、仕上げに油を一滴差した。
そして、研ぎ上がったハサミを持ち上げ、俺の耳元でチョキッと一回、空切りしてみせた。
キィン―――……。
高く、透明感のある金属音が作業場に響き渡り、すうっと雨音の中に溶けていった。
「……すげえ。音が全然違う……」
茂は研ぎ上がったハサミを、俺の手に無造作に押し戻した。
「ハサミは自分の指の延長だ。切れ味の悪い刃物で切れば、木の切り口は潰れ、病原菌が入って枯れる。研ぎ澄された刃物で切れば、切り口は綺麗に塞がり、木は命を繋ぐ。道具を手入れすることは、木を守ることと同じなんだよ」
外では雨音が一段と強まり、屋根を叩く水滴の音が土間にまで激しく届いていた。
だが茂は、もう俺のことなど意に介さず、次の大きな刈込ハサミを手に取り、静かに研ぎ石に向かい直した。
シュッ、シュッ、シュッ
俺は自分の手に戻ってきたハサミをじっと見つめた。
手に入れたばかりの時よりも冷たく、美しく輝く刃先。
軽く刃を開閉させると、さっきまでのベタついた重さは嘘のように消え去り、吸い付くような刃離れの良さが、湿布だらけの俺の手のひらに鮮烈に伝わってきた。
痛む背中をさすりながら、俺は深く理解した。
雨の日、庭師は休んでいるのではなかった。
晴れの日に木と向き合い、その命を奪わずに活かすための「刃」と「心」を、黙々と研ぎ澄んでいたのだ。
外の土を叩くどしゃ降りの雨。
その雨音に寄り添うように、父の砥石を滑る音が規則正しく響いていた。
俺は絆創膏だらけの手でハサミを強く握り直し、痛む腰に気合を入れ直して、自分の砥石へと向かい合った。
薄暗い土間で背筋を伸ばす父の姿は、研ぎ澄まされた銘刀のように静かで、圧倒的な存在感を放っていた。
(第7話・おわり)




