第6話:もみあげって髪?
「おい漣、今日からは松の『もみあげ』をやってもらうぞ」
六日目の朝。
現場の境内に入るなり、脚立の上から父・茂の呆れかえった声が降ってきた。
「……え? もみあげ?」
俺・漣は思わず、自分の白髪交じりのもみあげを両手でさすった。
「もみあげって……俺の髪型に何か不満でもあるの? 確かに最近床屋に行ってなくてボサボサだけどさ……」
昨日、脚立から派手に落下して枝の山に突っ込んだ一件以来、アカリちゃんの前では少しばかり気まずい思いをしていたが、今朝はまさかの自分の頭髪に関するダメ出しからスタートするのかと身構えてしまった。
「バカ者が! お前の頭の毛なんかどうでもいいわ! 植木の『揉み上げ』だ!」
茂の怒号が境内に響き渡る。
すると、昨日はさすがに青ざめていたものの、一日経てばすっかりケロッと元通りになっているアカリちゃんが、参道の脇で愛用の竹箒に顎を乗せながらクスクスと笑い出した。
「あはは、漣さん! 昨日あんな派手にすっ転んだから、いよいよ頭の回路までショートしちゃったの? 茂じいちゃんにヘアカットしてもらえるなんて、すごい特別サービスだね〜!」
「ち、違うよアカリちゃん! 父さんが急に『もみあげ』なんて意味深なワードを出すから、つい自分の頭を疑ったんだろ!」
からかうアカリちゃんにムキになって言い返すと、アカリちゃんはスマホを取り出しながら「ちょっと待って、今の『もみあげスタイリング希望の五十代おじさん』ってワード、ネタになりそう……!」と、相変わらずのZ世代らしい軽快なノリでキャッキャとはしゃいでいる。
その底抜けに明るいエネルギーに、昨日の落下事故のどんよりした空気も綺麗に吹き飛ばされていくのを感じた。
「おい、そこでおしゃべりしている暇があったらこっちに来い。お前は掃除をしてこい」
茂の冷ややかな一言に、アカリちゃんは「はーい、お仕事戻りまーす!」と軽やかにペロッと舌を出し、自分の持ち場である本堂周りの掃き掃除へと駆けていった。
残された俺は、気まずさを誤魔化すように鼻をこすりながら、茂の立つ足元へと歩み寄った。
「揉み上げってのはな」
茂は手元の松の枝を指し示しながら、低く落ち着いた声で説明を始めた。
「去年の古い葉――古葉を指でむしり取って、今年生えた新しい葉だけを残す作業のことだ。ハサミを使わずに、指先で一束ずつ揉むようにして抜き取るから『揉み上げ』って言うんだよ。これをやって風通しと日当たりを良くしてやらんと、木の内側が枯れるんだ」
「あ、そういうこと……。植物の手入れの名前だったのか」
「当たり前だ。お前は毎日何を見ておる」
俺は気まずさを振り払うように頭を切り替え、茂の手元をじっと覗き込んだ。
茂の太く節が浮き出た指先が、松の葉の根元を優しく、しかし的確に挟む。
キュッ、キュッという小気味よい音とともに、茶色く変色しかけた古葉だけが綺麗に、まるで魔法のように次々と抜き取られていく。
さきほどまで緑が密集して重苦しかった枝が、茂の手が通ったあとにだけ、パッと明るく軽やかな姿へと生まれ変わっていくのが分かった。
「ハサミを入れるだけが庭師の仕事じゃない。手仕事で木に触れて、要らない葉を取り除いてやる。これができなきゃ一人前とは言えん。そこの一番下の枝、やってみろ」
「ふっ、任せとけって。昨日今日で、俺も伊達に親父の背中を見てないからな。こういう地道な手作業系こそ、器用な俺の本領発揮よ」
何を思ったか、俺は昨日までのポンコツっぷりを棚に上げ、なぜか謎の自信満々スマイルを浮かべて胸を張ってみせた。
「……何を調子に乗っとる。軍手は外せ、素手でやれ」
「え、素手? いやいや父さん、このベタベタする松脂、一度ついたら水じゃ絶対落ちない厄介なやつだって、俺はもう学習済み」
「いいから素手でやれ」
「はい、すみません」
有無を言わせぬ茂の低音に押し切られ、俺は渋々素手で松の枝へと手を伸ばした。
触れた瞬間、鋭い針のような葉が容赦なく指先や指の腹に突き刺さる。
「痛っ……!?」
「痛いのは木も一緒だ。力任せに引っ張るな。根元を指の腹で挟んで、滑らせるように抜くんだよ」
言われた通りにやってみるが、頭で理解しているのと実際に動かすのとは訳が違う。
古い葉を抜こうと指を滑らせた瞬間、来年の命になるはずの柔らかい『新芽』の感触を勘違いし、ブチッと一緒に引きちぎってしまった。
「ああっ……!?」
「何をやっとるかバカ者が!!」
頭上から、本日二度目の茂の雷が落ちた。
「命の目を摘んでどうする! 古い葉と新しい芽の区別もつかんのか!」
「だ、だって、松脂で指がくっついて、どれがどれだか分からないんだよ!」
「指先で探れと言ったろうが! 目じゃない、指の感覚で聴くんだ!」
怒鳴られて焦れば焦るほど、指先は余計にこわばり、ネバネバの松脂で思うように動かなくなる。
さっきまでの「器用な俺の本領発揮」発言が完全に音を立てて崩れ去っていく。
一時間、二時間と時が過ぎても、俺の手が進むペースは一向に上がらなかった。
古葉どころか指の皮がむけ、松脂で真っ黒に汚れた指先は感覚を失い、チクチクとした痛みに耐えるだけで精一杯だ。
ふと視線を横にやると、アカリちゃんが通りがかりに心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「漣さん、さっきの自信はどこへ……? 指、真っ黒だよ……」
最初のうちは「ウケる!」なんて笑っていたアカリちゃんも、あまりの俺の下手さと、それに容赦なく浴びせられる茂の厳しい指導を見ていられなくなったのか、最後はすっかり気の毒そうな顔で見守るしかなかったようだ。
結局、日が暮れるまでに俺が仕上げられたのは、たった一本の小さな枝の半分だけ。
それも、力任せに引っ張ったせいで葉っぱが不揃いになり、あちこちがスカスカになった哀れな姿の残骸だった。
夕方。
すべての作業が終わり、ぐったりとした足取りで母屋の縁側に戻る。
俺の手は、松脂で真っ黒に汚れ、擦りむけた指先がじんじんと赤く腫れ上がっていた。
水じゃ落ちないと分かっているので、最初から無駄な抵抗はせず、そっと横に置かれたボトルに手を伸ばす。
「はいよ」
縁側に腰を下ろした茂が、ふっと鼻を鳴らし、一瓶のサラダ油のボトルを放り投げよこした。
言われるがまま、手のひらにドロッと油を垂らして擦り合わせると、頑固な松脂がゆっくりと溶け出し、黒い汚れが浮き上がってきた。
「痛たた……」
擦りむけた傷口に油が染みて、思わず情けない声で顔を顰める。
そんな俺の情けない姿を、茂は冷ややかな、しかしどこか深い色を宿した目で見下ろした。
「指の皮が三回むけて、ようやくスタートラインだ。たった一日で職人の手が手に入ると思うなよ」
茂の吐き捨てた言葉は、ずっしりと重く胸に響いた。
自分の爪の間に詰まった黒い松脂と、真っ赤に腫れ上がった不器用な両手を見つめる。
サラダ油で綺麗に洗い流しても、ヒリヒリと疼く指先の激痛は消えない。
何万という硬い針を素手で優しく撫で、木と対話しながら呼吸を整えてきた父の指先。
自分の腫れ上がった両手を力なく握りしめながら、俺は言葉を失っていた。
あの日の地下足袋と同じだ。
父の指先そのものが、木を生かすための研ぎ澄された刃物であり、道具だったのだ。
(第6話・おわり)




