第5話:形から入る男の敗北
「お前は形から入るバカの典型だな」
五日目の朝。
神社の境内に入るなり、脚立の上から父・茂の呆れかえった声が降ってきた。
「形から入って何が悪いんだよ! 道具や身なりを整えるのはプロの第一歩だろ! 都会のビジネスでも『形から入る』のは基本中の基本なんだからな!」
俺・漣は胸を張り、新調したばかりの「フル装備」を誇らしげに見せつけた。
昨日までのヨレヨレのジャージとスニーカーは捨て去った。
地元で一番大きな作業服屋に駆け込み、プロの職人が愛用する紺色の『鳶服』を買い揃え、腰には本革製の『道具袋』を装着。
さらに足元には、つま先に鉄芯が入った最新型の『プロ用地下足袋』を輝かせていた。
作業服屋のレジで財布をすっかり軽くさせた、五十二歳・形から入る男の悲哀と本気である。
「見てよ父さん、この地下足袋。衝撃吸収エアクッション入りだぞ。これなら足も疲れないし、高所作業も余裕だって店員さんが……」
「能引きのタコが何を力説しとるか。道具に金かけたって、足腰が追いついてなきゃただの『案山子』だ」
茂はふんと鼻を鳴らすと、さっさと自分の作業に戻ってしまった。
そこへ、境内を竹箒で掃除しに来たアカリちゃんが通りかかった。
俺の姿を見るなり、箒を抱えたままお腹を抱えて爆笑し始めた。
「あはははは! 漣さん、なにその格好!? 本物の職人さん気取りじゃん! でもなんか……服に着られててウケる!」
「笑うなアカリちゃん! これはカタチからプロの意識を高めてるの! 形が整えば、自ずと心も整うんだよ!」
「へー、じゃあ茂じいちゃんみたいにスイスイ登れるの〜?」
アカリちゃんが指さす先では、茂が脚立の最高段へ本来なら恐怖で足がすくむような高さで、両手を使って軽やかにハサミを動かしていた。
父の足元を見ると、長年履き古されて擦り切れた、ごく普通の薄い地下足袋だ。
だが、その足指はまるで鳥の爪のように脚立のステップをしっかりと掴み、微動だにしない。
「ふん、登れるに決まってるだろ。」
俺は腰の道具袋をバシッと叩き、大松に立てかけられた脚立へ向かった。
エアクッション入りの地下足袋は、確かに地面を歩くときには快適だった。
だが、脚立の細い鉄パイプに足をかけた瞬間、違和感が走る。
(……あれ? クッションが効きすぎて、足の裏の感覚が掴みにくい……?)
鉄芯と分厚いソールが邪魔をして、パイプを『足指で掴む』感覚がまったく伝わってこないのだ。
だが、下ではアカリちゃんがスマホを構えて見上げている。
引くに引けない五十二歳は、強がりながら一段、また一段と登っていった。
「ほら見ろ、余裕……あっ」
五段目に差し掛かった時だった。
目線の高さは三メートルを超え、下を見るだけで少し足元がすくむ。
横に伸びた松の小枝を避けようと、無理に身体を捻った瞬間。
足元のエアクッションがニュッと滑り、重心が大きく崩れた。
「うわあっ!?」
世界が逆さになる。
視界がぐるりと回転し、俺は空中へ投げ出された。
「漣さんっ!?」というアカリちゃんの悲鳴。
直後、ドスン!という重い音とともに、背中に強烈な衝撃が走った。
「ぐふっ……!?」
死んだ。
そう思って目を開けると、俺は地面の上に転がっていた。
だが、硬い砂利の上ではない。
直前まで俺たちが切り落として積み上げていた、フカフカの「松の枝葉の山」の上だった。
実のところ、俺が脚立の上で体勢を崩した一瞬、地上で作業していた茂は即座に落下点を察知していたのだ。
茂は枝の山の位置へ瞬時に踏み込み、落ちてくる俺の服の襟を強引に引き寄せて、直接地面に叩きつけられないよう、クッションとなる枝の山へ一緒に転がり込んで受け止めてくれたのだった。
「て、父さん……!?」
「バカ者が……! 脚立の上でフラフラし始めた時から、落ちてくるのは分かってたわ!」
茂は荒い息を吐きながら、作業着についた泥と松葉を払って立ち上がった。
七十二歳の体に相当な負担がかかったはずなのに、その足取りはしっかりとしている。
「地上の土を感じられん足袋なんて履いてるから、重心の置き場所も解らんのだ。道具の性能に頼って自分の体を信じん奴が、落っこちるのは当たり前だろ」
俺は枝の山の上で仰向けになったまま、ガタガタと膝を震わせていた。
「……漣さん、間一髪だったね……」
アカリちゃんも、さすがに今回は笑うのを忘れて青ざめていた。
「もういい、お前は今日は地上で落ち葉でも拾ってろ」
茂は吐き捨てると、何事もなかったかのように再び脚立の上へ登り、ハサミを動かし始めた。
その足元を、俺は枝の山の中から改めて見上げる。
父の履いている古びた地下足袋は、布一枚のように薄い。
だからこそ、地面の凹凸も、脚立の冷たさも、木の幹の弾力も、すべて足の裏を通じて父の体に伝わっているのだ。
父の身体は、見えない根っこのような力で、いつでもしっかり地面や木とつながっていた。
大金を叩いて揃えた最新装備に身を包んだ自分が、あまりにも滑稽で、恥ずかしかった。
夕方。
すっかり意気消沈した俺は、新調したばかりの地下足袋を脱ぎ、境内の水道で洗っていた。
エアクッションのついた靴底には、泥と松の葉が虚しくへばりついている。
ふと横を見ると、茂が作業を終え、使い古した自分の地下足袋を脱いでいた。
その足は、長年の作業で親指と人差し指の間が大きく開き、足の裏の皮膚はまるで革靴の底のように黄色く硬く角質化していた。
父は、特別な装備など何一つ身につけていない。
自分の足そのものを、半世紀かけて『職人の足』へと鍛え上げてきたのだ。
膝の震えがようやく収まった足元を見つめながら、俺は深く溜息をついた。
父の足腰は、根っこのように丈夫でぶれない芯があった。
(第5話・おわり)




