第10話:嵐の夜
「ごおぉぉぉぉぉっ……!」
十日目の夜。
実家の古い木造家屋を、不気味な地鳴りのような風音が揺らしていた。
大型で強い台風12号が、この地域を直撃していた。
雨戸を叩きつける雨粒の音は激しい水飛沫をあげて絶え間なく打ち付け、庭の木々が狂ったように暴れる音が響き渡っている。
居間でテレビの台風情報を眺めていた俺・漣は、痛む腰を庇いながら湿布を貼り直していた。
九日間の現場作業で体はボロボロだ。
落下事故の腰痛、長時間のハサミ研ぎによる凝り、そして昨日のモミジの『透かし』作業で固定された首の痛みが、低気圧のせいか一層重く沈み込んでいた。
「すごい風だな……。明日の現場は片付けで大変そうだ」
その時だった。
「ぬうっ……ぐっ……!」
隣の部屋から、低く短い呻き声が聞こえた。
引き戸をあけると、茂が畳の上に膝をつき、腰を深く折り曲げて身悶えしていた。
その額には大きな汗の粒が浮かび、顔色は蒼白だった。
「父さん!? どうした!?」
「……なんでも、ない……。引っ込んでろ、バカヤロウ……」
強がる声は弱々しく震えていた。
茂は長年抱えている持病の重度な腰痛が、この急激な気圧変化と連日の無理で限界を迎えていたのだ。
立つことすらおぼつかない状態だった。
その時、激しい風の合間を縫って、外から甲高い金属音が響いた。
カンッ! カンッ! ガラガラガラっ!
「っ……境内の、足場板か……! 御神木の……」
茂の目がカッと見開かれた。
境内の御神木――樹齢数百年を誇る大松の周囲には、今週から取りかかっていた大掛かりな手入れのための金属製足場と、飛散防止のブルーシートが組んであったのだ。
突風でシートが煽られ、足場を揺らしている音だった。
もしあの巨大な足場が崩れれば、御神木の貴重な枝を叩き折り、最悪の場合は境内の本堂まで倒れ込む危険がある。
「待て、どこへ行く!」
「見に行ってくる! 父さんは寝ててくれ!」
茂が止めるのも聞かず、俺は玄関へ走り出た。
レインコートを羽織り、懐中電灯とロープ、そして剪定用の大きな鋸を掴む。
五十二歳、腰痛と首痛を抱えた身体だが、いま境内に向かえるのは俺しかいなかった。
外はまさに地獄絵図だった。
横殴りの猛烈な雨が視界を奪い、風が身体を吹き飛ばそうとする。
境内に辿り着くと、懐中電灯の光の先で、巨大な御神木が嵐に揉まれていた。
そして案の定、御神木の幹に沿って組まれた足場の上部で、固定ロープが一本切れ、ブルーシートが巨大な帆のように風を孕んで足場全体を激しく揺さぶっていた。
金属が軋む嫌な音が闇に響く。
「くそっ……シートを切って風を逃がすか、ロープを縛り直さないと……!」
俺は恐怖で足がすくむのを必死に抑え、足場に手をかけた。
脚立から落ちたトラウマが脳裏をよぎり、足元が震える。
だが、見上げる大松は、まるで嵐の中で必死に耐えている老人のように見えた。
茂が何十年も守り続けてきた、この街の象徴だ。
「うおおぉぉっ!」
意を決して足場を登る。
一段、二段。
叩きつける雨で金属のパイプは恐ろしいほど滑る。
腰と背中に激痛が走るが、無我夢中で登り切った。
暴風に煽られるシートを必死で掴み寄せ、懐から出した刃物でシートの縄を力任せに断ち切る。
バサバサバサッ! と音を立ててシートが風に吹き飛ばされ、足場にかかっていた強烈な風圧が一気に抜けた。
「よし……! あとは足場を御神木に固定し直せば……!」
その時だった。
「漣ーッ! 横の枝だ! 折れかかっとる枝を落とせーッ!」
闇の底から、聞き覚えのある怒号が響いた。
驚いて下を照らすと、濡れねずみになった茂が、杖代わりに竹箒を突いて境内に立っていた。
腰を深く曲げ、激痛に耐えながら、狂ったような嵐の中で下から俺を見上げていていた。
「父さん!? なんで来たんだよ! 」
「うるさいバカヤロウ! あの大松の東側の枝だ! 前から枯れ込みが入っとった! 嵐の重みで折れて幹を傷つける前に、鋸で叩き落とせ!」
自分の身の危険など丸ごと忘れ去り、ただ木を守ることだけを目に宿して、茂は雨の中で叫んでいた。
俺はハッと息をのんだ。
恐怖も腰の痛みも、一瞬で吹き飛んだ。
「分かった!」
俺は腰のサックから鋸を抜き、風に揺れる御神木の手すりへ身を乗り出した。
茂の指示した枝は、豪雨を含んで重く垂れ下がり、ミシミシと悲鳴をあげていた。
枝の付け根に鋸の刃をあてがう。
濡れた木肌に刃を喰い込ませ、引く。
ギコッ、ギコッ、ギコッ――!
風音に消されそうな鋸の音。
「ひくな! 引くときに力を入れろ!」
下の茂が叫ぶ。
バキキッ!
最後の皮が一枚裂け、太い枯れ枝がドスンと地面に落ちた。
直後、突風が駆け抜けたが、重みを捨てた御神木の主枝は、しなやかに風をいなして無事に立ち躍った。
嵐が過ぎ去った深夜四時。
激しい暴風雨は遠ざかり、雨は嘘のように上がっていた。
疲れ果てた俺と茂は、境内の拝殿の軒下に並んで座り込んでいた。
二人とも全身泥と雨水まみれで、息を荒らげている。
御神木は何事もなかったかのように、濡れた葉を夜空に輝かせて静かに佇んでいた。
足場も無事だった。
「……バカ者が。怪我でもしたらどうするんだ」
茂が横で、ぽつりとつぶやいた。
膝を抱え、痛む腰を押さえながら、どこか遠くを見るような目だった。
「父さんこそさ……あの腰で飛び出してくるなんて無茶だよ。自分の身体のこと、何か忘れてない?」
俺が苦笑しながら言うと、茂はフンと鼻を鳴らし、濡れた顔を背けた。
「木が傷つくくらいなら、俺の骨の一本や二本、どうということはない」
どこまでも愚直で、自分の命や安全よりも、目の前の木を守ることを優先してしまう男。
冷たい夜風が通り抜ける境内の中で、息を弾ませる父の横顔は、呆れるほどに真っ直ぐだった。
身の痛みをこらえ、父子二人で力を合わせて荒れ狂う大木を守り抜いたその姿は、決して折れることのない二本の頑丈な大樹そのものであった。
(第10話・おわり)




