第11話:二本でひとつの松の針
「……おい、ぼさっと立っとらんできやがれ。手が止まっとるぞ」
十一日目の朝。
台風一過の青空が広がる境内には、昨夜の嵐が嘘のような静けさと、強烈なまでの太陽光が戻っていた。
御神木の足元に立った俺・漣は、鼻を突くような独特の匂いに思わず顔をしかめた。
ツンと鼻腔をくすぐる、濃密で甘やかな、そしてどこか生々しい樹木の体液の匂いは、松脂だ。
「昨日の嵐で、あの古い赤松の枝が裂けてな。そこからヤニが滲み出しておる。放置すればそこから病気が入る。今日と明日は、松のヤニ仕事だ」
茂はそう言いながら、使い古された手ぬぐいで額の汗を拭い、専用のヘラと消毒液を放り投げた。
十日間の過酷な修業を経て、俺の身体はボロボロだったが、不思議と「逃げ出したい」という焦りは消えていた。
都会での激務にすり減り、父の体調不良という現実から目を背けたくて仕方なく戻ってきた実家。
あの頃の息苦しさは、この庭の土とハサミの金属音の中で、少しずつ別の形に変わり始めていた。
「松脂ってさ……触るとベタベタして厄介だけど、木にとっては傷口を塞ぐ絆創膏みたいなもんだよな」
俺が呟くと、茂は作業の手を止め、ちらりと俺を一瞥した。
「……ほう。少しは木の声が聞こえるようになったか。その通りだ。松は自分で流す樹脂で傷を癒やし、外敵から身を守る。だがな、人間が手を入れて枝を剪定したときは、その余分なヤニが逆に木の呼吸を邪魔することがある。綺麗に拭い、適正な処置をしてやらんと、木は自らのヤニで窒息する」
茂は無骨な手で御神木の幹の裂け目を優しく撫でた。
その指先には、長年の作業で刻まれた無数の傷と、松脂の染み込んだ深い年輪のような黒ずみがあった。
七十二歳を迎えた父の身体もまた、人生という名の無数の傷とヤニを纏いながら、この庭に立ち続けている。
「俺の手も、すっかりハサミダコとヤニまみれだよ」
俺が手のひらを差し出すと、茂はフンと鼻を鳴らした。
「当たり前だ。職人の手とはそういうものだ。綺麗に洗ったところで、染み込んだ匂いは一生落ちん」
午後。
俺は御神木の下に座り込み、細かなヤニの除去と切り口の保護剤塗りを黙々と続けていた。
不意に、茂が俺の背後に歩み寄ってきた。影がすっと落ちる。
「……漣」
「ん?」
「お前、東京に戻る気はあるのか」
唐突な問いかけだった。
手元を動かしていた俺の指が、ピタリと止まる。
台風の夜、命がけで御神木を守り、息を弾ませて並んで座ったあの瞬間から、心のどこかで分かっていた問いだった。
俺はいつまでもここにいるわけではない。
父の体調が落ち着けば、いつかはあの都会の喧騒へ、自分の生活へ戻るべきなのだと。
だが、その「戻る」という言葉が、なぜか今はひどく重く、足枷のように感じられた。
「……分かんないよ。最初は、父さんの体調が悪いって聞いて、仕方なく顔を出して、すぐに仕事に戻るつもりだった。でもさ……」
俺は目の前の松の木を見上げた。
何百年もの間、この土地の風雪に耐え、根を張り続けてきた巨大な幹。
その生命力の前では、俺が都会で抱えていた悩みなんて、ほんのちっぽけな塵のようなものに思えた。
「ここで木に触って、ハサミを研いで、父さんの背中を見てるとさ……自分がどれだけ薄っぺらい生き方をしてたのか思い知らされるんだ。こんな重労働、もう二度とごめんだって思う反面、この匂いや音から離れたくない気もする」
俺の言葉に、茂はすぐには答えなかった。
ただ、ゴツゴツとした手で自分の腰をトントンと叩き、青空を見上げた。
「……人間、生きる場所なんてどこでもいい。だがな、自分がどこに根を張って、何を支えにして生きているのか分からなくなったときは、この地に帰ってくればいい」
それは不器用な父が絞り出した、精一杯の肯定の言葉だった。
「仕方なく戻ってきた」はずのこの場所が、いつの間にか、凍りついていた心を解きほぐす唯一の土壌になっていたことに気づく。
翌日の朝。
御神木の根元に散らばった無数の落ち葉を竹箒で掃いていた俺に、茂が声をかけた。
手にした箒を止め、足元を覗き込むと、そこには茶色く枯れた松葉が何層にも重なっていた。
「松葉ってさ、こうして落ちるときも、バラバラじゃなくて必ず二本一対になって落ちるんだよな」
俺が拾い上げた一組の松葉を示すと、茂は無言でうなずき、愛用のハサミの刃を布で拭い始めた。
「そうだ。松の葉は『二葉』と言う。一本では風に耐えられず、二本が寄り添うことで初めて枝にしがみつき、四季の風雪を耐え抜く。……人間も同じだ。一人で生きているつもりでも、気づけば誰かと対になって、支え合わなければ到底立っていられない」
その言葉は、東京での仕事に疲れて一人で意地を張っていた自分の背中を、静かに突かれているような気がした。
妻を亡くし、この広大な境内と庭を守りながら、不器用な背中でずっと孤独と向き合ってきたように見えた父。
だが、この無数の松葉のように、茂の人生の傍らにも常に木々があり、そして不器用ながらも繋がってきた絆があったはずだ。
見上げれば、青空に向かって力強く広がる御神木の枝葉は、すべてが対になり、見事な調和を保っていた。
幾重もの葉がしっかりと寄り添い、どんな嵐にも耐え抜く父は、大地に根を張る一対の太い双幹の松のようであった。
(第11話・おわり)




