第24話:神木の息吹
境内を包み込む空気が、いつになく張り詰めていた。
秋の祭りを翌日に控え、今日は総仕上げとなる奉納剪定の当日。
朝一番の冷えた空気の中、俺たちは拝殿の横にそびえ立つ樹齢三百年の五葉松の前に立っていた。
圧倒的な存在感を放つその大木は、歴史の重みをそのまま形にしたかのように空へと枝を広げている。
「漣、準備はいいか」
親父――茂が、ヘルメットの顎紐を締めながら低い声で言った。
その顔には、いつもの頑固さだけでなく、長年この神社を守り抜いてきた宮司や氏子たちへの責任感が深く刻まれていた。
「ああ、いつでもいける」
俺は腰に下げた剪定バサミの重みを確認し、大きく息を吸い込んだ。
昨晩、砥石で何度も研ぎ澄ました刃先は、今の俺の意志と同じように鋭く光っている。
「よし。予定通り、俺が上から全体の骨組みと頭を押さえる。お前は地上から、下組みの枝張りと全体のバランスを支えろ。俺の動きの半歩先を読め」
「分かってる。指示はいらない、俺が親父の動きに合わせてやるよ」
「……ほざけ。だが、その意気だ」
茂はフッと鼻を鳴らすと、手際よく命綱とハサミを携え、スルスルと五葉松の太い幹を登っていった。
あっという間に中層、そして上層へと消えていく親父の背中。
かつてはただ圧倒されるばかりだったその背中を、いまの俺は冷静に見据えていた。
「――おい、漣くん! じいちゃん!」
ふと声がして振り返ると、境内の掃き掃除を終えたアカリが、手ぬぐいを首に巻いた姿で駆け寄ってきた。
その手には、温かいお茶の入った水筒とタオルが握られている。
「二人とも、いよいよ本番だね……! あたし、境内の方の準備は完璧に済ませてきたから! 二人は安心して、この大木をカッコよく仕上げてきてよ!」
アカリの底抜けに明るい声援が、張り詰めていた空気を優しくほぐしてくれる。
「おう、任せとけ。最高の景色にしてやるよ」
「まったく、あいつは相変わらず騒がしい奴だ……。だが、助かるな」
上の枝葉の隙間から聞こえてきた茂の呟きには、どこか柔らかな響きがあった。
よし、と俺は気合いを入れ直し、五葉松の根元へと一歩踏み出した。
「――そこだ、漣!」
上空から飛んできた茂の鋭い声。
同時に、上の枝がシャリッと音を立てて切り落とされ、ふわりと光の通り道が生まれた。
(来た……!)
親父が上から落とした光と風の流れ。
それを地上で受け止めた瞬間、この大木がどこを詰まらせているのかが手に取るように分かった。
俺は迷うことなくハサミを抜き、下草に近い枝を捉える。
シャリ、と乾いた音が境内に響く。
そこから逆算して、次の枝の角度を調整する。
言葉はなくとも、上空の親父と地上の俺の呼吸が完全にリンクしていくのがわかる。
茂がどの位置を切り、次にどこを欲しているのかが、ハサミの振動や枝の揺れを通じてダイレクトに伝わってきたり、あるいは俺の切った枝の抜け方を見て親父が次の位置を微調整しているのが感じられた。
これが、二人で一本の木を切るということだ。
自分の不器用さや、親父のコピーになろうと空回りしていた過去の自分が嘘のように消えていく。
俺はただの「息子の漣」ではなく、同じ庭に立つ一人の職人として、この五葉松の命と向き合っていた。
時間がどれほど経ったのかも分からない。
額から汗が滝のように流れ落ち、手のひらは自分の握る力で痛み始めていたが、手が止まることはなかった。
「……ラストだ、漣!」
上空から響いた茂の叫び声に合わせ、俺は最後の枝にハサミをあてがった。
全体のシルエット、風の通り道、光の差し込み方。
すべてが完璧に調和する瞬間を狙い、一気に力を込める。
シュッ……!
最後の切断音が響いた直後、それまで鬱蒼と茂っていた五葉松の全体像が、まるで息を吹き返したかのようにふわりと軽やかに広がった。
吹き抜けた秋風が、新しく整えられた無数の葉を揺らし、心地よい葉擦れの音を奏でる。
それは、ただ木が綺麗になったというレベルではなく、境内全体の空気が一変するほどの圧倒的な美しさだった。
「……ふう」
俺がハサミを鞘に収め、荒い息を整えながら見上げると、上の枝から茂が軽やかに飛び降りてきた。
長年の勘と技を出し切ったはずの茂の顔には、うっすらと汗が滲んでいたが、その目にはこれまでに見たこともないほどの鮮烈な光が宿っていた。
二人は並んで、自分たちが仕上げた五葉松をじっと見上げた。
「……どうだ、親父」
俺が少し緊張しながら問いかけると、茂はしばらく無言で木全体を眺め渡し、それからゆっくりと口元を緩めた。
「……文句なしだ。完璧な仕上がりだな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
親父の隣で、同じ仕事をやり遂げたという確かな手応えが、全身の疲労感を心地よい達成感へと変えていく。
「やったぁぁぁ――っ! じいちゃん、漣くん、めちゃくちゃ綺麗だよ!」
少し離れた場所でずっと見守っていたアカリが、両手を大きく広げて飛び跳ねながら駆け寄ってきた。
アカリの指さす先には、透き通るような青空を背景に、堂々と誇らしく枝を広げる見事な五葉松がそびえ立っていた。
境内を包む風が、新しい季節の訪れを告げるように、俺たちの背中を優しく押し包んでいった。
(第24話・おわり)




