第23話:受け継がれる間合い
奉納剪定までの残された日数は、早朝の冷たい風に急かされるように、着々と少なくなっていった。
境内には朝早くから、乾いた剪定バサミの音が響き渡る。
パチン、シャリッ、と規則正しく刻まれるその音は、俺と親父の二つの呼吸が重なり合う音でもあった。
親父は俺の横に立ち、じっと手元を見つめながら、時に厳しく、時に短い言葉で問いを投げかけてくる。
「漣、その枝の先を見ろ。来年、その芽がどっちに向かって伸びる?」
「……南側、本堂の屋根に向かって伸びます」
「そうだ。ならば今、どこで止めるのが木にとって一番自然だ?」
「……この節の少し上、外側に伸びる芽を残して落とします」
「……フン、動作が遅い。迷いを削ぎ落とし、的確な判断と手が一体にならんと、奉納の日の限られた時間内に境内全体を仕上げ切ることはできんぞ」
容赦のない言葉が飛んでくる。
だが、以前のようにそこに冷たさや突き放すようなニュアンスは一切なかった。
それは職人が弟子に、あるいは師匠が次の代を担う者にだけ向ける、濃密で容赦のない「伝授」の時間だった。
汗が額から垂れ落ち、目に入って染みる。
それを腕で拭いながら、俺は一心不乱にハサミを動かし続けた。
「はいはーい! 休憩タイムですよー! 職人さんたち、一回ハサミを置きなさーい!」
本堂の縁側から、甲高いアカリの声が響いた。
見上げれば、お盆の上に冷えたお茶の湯呑みと、大きなお煎餅の袋を載せたアカリが、ニコニコと手招きをしている。
手元のハサミを止め、俺は深々と息を吐き出した。
肩の筋肉がパンパンに張り、ハサミを握りしめていた右手のひらは、すっかり硬いタコと小さな傷で覆われている。
「お疲れ様です、漣くん! じいちゃんも、ほらお茶淹れたよ!」
アカリは手際よく湯呑みを並べると、額の汗を拭いながら自慢げに胸を張った。
「見てよ二人とも! 今日の参道、落ち葉一枚落ちてないでしょ? 境内のコケも、根っこを傷つけないように竹串で綺麗に手入れしておいたから!」
「……ほう」
親父は差し出された茶碗を受け取り、一口すすってから、参道へと視線を送った。
木漏れ日が落ちる石畳は、細かな砂利に至るまで美しく整えられ、掃き清められた空間が凛とした静けさを醸し出している。
派手さはないが、訪れる者の心をすっと鎮めるような、丁寧で心の行き届いた仕事だった。
「……まぁ、及第点だな。掃除の仕事に妥協がないのは良いことだ」
親父の珍しい褒め言葉に、アカリの目がまん丸になった。
「えっ……!? い、いまじいちゃん、なんて言った……!? あたしの仕事、認めてくれたってこと……!?」
「よかったじゃん、あの茂さんが直接褒めてくれるなんてさ」
「やったー! 二年間、怒られながらも踏ん張ってきた甲斐があったー!」
縁側でピョンピョンと跳ねて喜ぶアカリの姿に、境内を吹き抜ける秋一番の冷ややかな風が、少しだけ温かく感じられた。
親父はそんなアカリの騒ぎようを呆れたように見つめながらも、どこか穏やかな目をしてお茶を口に含んでいた。
「親父」
お煎餅を一枚口に運びながら、俺はふと疑問に思っていたことを口に出した。
「奉納剪定の当日、一番のメインになるのは、やっぱり拝殿横の『五葉松』だよな?」
拝殿のすぐ脇に鎮座する五葉松。
樹齢三百年を超えると言われるその大木は、この神社の御神木に次ぐ象徴であり、奉納剪定において最も高い技術と集中力を要する最大の難所だった。
「そうだ」
親父は静かに頷き、遥か上の枝葉を広げる五葉松を見上げた。
「あの松は、この神社の歴史そのものだ。歴代の職人たちが手を入れ、形を整え、守り抜いてきた。枝一本の乱れが、神社全体の風格を左右する。……あそこは、俺が切る」
親父の声には、一切の迷いがなかった。
自分の体の衰えを自覚し、俺に助けを求めた親父だったが、あの五葉松だけは譲る気がないらしい。
職人としての最後の意地、そして誇りが、その言葉には凝縮されていた。
「でも、親父……手の震えは……」
俺が懸念を口にしようとすると、親父は静かに片手を上げて俺の言葉を遮った。
「分かっている。だからこそ、お前が必要なのだ」
親父は自分の右手を見つめた。
日焼けし、節立ち、長年の苦労が刻み込まれた無骨な手。
そこには確かに、かすかな小刻みな震えが走っていた。
「俺が幹に登り、全体の骨組みと一番重要な頭(頂上部)を仕留める。だが、下組みの枝張りと、全体のバランスを調整する仕上げはお前がやれ。俺が上から指示を出す。お前は下で俺の手となり、目となれ」
その言葉の意味を理解した瞬間、俺の背筋にゾクゾクとした熱い戦慄が走った。
それは、親父の作業を単に手伝うという意味ではなかった。
高所で大枠を決める親父と、地上でその意図を汲み取りながら細部を完成させる俺。
二人で一つのハサミとなり、ひとつの命である大松に向き合う――完全な連動作業の提案だった。
「……二人で、一本の木を切るのか」
「そうだ。片方が狂えば、すべてが台無しになる。お前が俺の意図を半歩先まで汲み取れなければ、あの五葉松は破綻するぞ。……できるか、漣」
親父の鋭い視線が、真っ直ぐに俺の眼腔を射抜く。
昔の俺なら、そのプレッシャーに押し潰されて逃げ出していただろう。
そんな大役、自分には到底無理だと下を向いていただろう。
だが、今の俺の手には、数日間にわたって叩き込まれた親父の間合いと、自分自身の足で立った職人としての覚悟があった。
「……できるか、じゃない。やってみせるよ」
俺は親父の目を逃げずに見返し、はっきりと答えた。
「あんたが長年守ってきた五葉松だ。俺と親父の二人で、今までで一番綺麗な姿にしてやろうぜ」
一瞬の静寂の後、親父はフッと小さく鼻を鳴らした。
「相変わらず、減らず口だけは達者な奴だ」
そう言いながらも、その横顔には、息子に対する確かな信頼の色がにじみ出ていた。
夕暮れ時、作業を終えた境内には、傾いた太陽が放つ深いオレンジ色の光が長く差し込んでいた。
アカリは「明日に備えて早く寝ます!」と元気よく挨拶をして自転車で帰っていき、境内には再び俺と親父の二人だけが残された。
道具小屋でハサミの手入れをする。
砥石に油を垂らし、刃先を慎重に滑らせていく。
シャリ、シャリと、硬質な金属を研ぐ音が、静かな小屋の中に響く。
「漣」
小屋の入り口に立っていた親父が、ふと足を止めて声をかけてきた。
「なんだよ、親父」
「……お前が都会から帰ってきた時、正直、すぐにまた泣きついて逃げ出すと思っていた」
突然の親父の告白に、俺はハサミを研ぐ手を止めた。
「だが……お前は逃げなかった。ハサミを失くした日も、泥まみれになって探していた。自分の不器用さに苛立ちながらも、毎日ハサミを握り続けている。……根が生えたな、漣」
「根が生えた」
それは、庭師にとって最高の褒め言葉だった。
場所に縛られるという意味ではなく、その土地、その仕事にしっかりと自分の命を張って生き始めたという証だ。
「……親父が厳しすぎるから、逃げるヒマもなかっただけだよ」
俺は照れ隠しに軽口を叩きながら、再び砥石にハサミを当てた。
「ふん。明日は早朝から奉納剪定の最終準備だ。遅れるなよ」
「わかってるよ。親父こそ、途中で腰痛めたりするなよ」
親父は何も答えず、背中を向けたまま母屋の方へと歩いて行った。
その背中はどこか小さくなったようにも見えたが、同時にこれまでで一番大きく、頼もしく感じられた。
研ぎ澄まされたハサミの刃が、夕日を受けてギラリと光る。
自分の中にある迷いは、もう完全に消えていた。
職人としての自分の腕、親父との絆、そしてアカリが整えてくれたこの境内。
すべての準備は整った。
明日、いよいよ俺たちの「奉納剪定」が始まる。
(第23話・おわり)




