第21話:託された言葉
茂のその一言は、夕暮れ時の冷んやりとした境内の空気を一瞬で引き締めた。
奉納剪定。
それは、この神社の歴史と氏子たちの祈りを一身に背負い、境内全体の「気」を最高のかたちで調和させる、神職と庭師の魂が交わる大舞台だ。
これまでずっと、茂はそのすべてをたった一人で背負い、完璧な美しさを守り抜いてきた。
「……父さん、話ってなんだよ」
俺は手にしていた剪定バサミをゆっくりと鞘に収め、緊張を押し隠すようにしながら茂へと歩み寄った。
茂は縁側の柱に背を預け、夕日に染まる境内の黒松をじっと見つめている。
その横顔には、長年この庭を守り抜いてきた者だけが持つ圧倒的な重みと、どこか深い安堵のようなものが入り交じっていた。
「座れ」
短くそう促され、俺は茂の隣に腰を下ろした。
木の香りと、かすかに湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。
かつてはこの並び方にすら居心地の悪さを覚え、すぐに逃げ出したというのに、今の俺の心には奇妙なほど確かな静けさがあった。
「今年の奉納剪定についてだが……」
茂はゆっくりと口を開いた。
その声はかすれてはいないが、どこか遠くを見据えるような響きを含んでいる。
「村の連中は、今年も例年通り俺が完璧にやり遂げるものだと思っている。だが、今の俺の体で、あの境内のすべての木々を最高の状態で仕上げきれるかと言われれば……正直、自信は無い」
はっきりと「自信は無い」と口にした親父の姿に、俺は息を呑んだ。
あんなにも誇り高く、弱みなど決して見せなかった生粋の職人が、自分の衰えと限界を、こうして自分の口で息子に認めたのだ。
現実を直視した上で未来へバトンを渡そうとする、あまりにも潔い覚悟の表れだった。
「父さん……」
「隠す必要などないさ。ハサミの重さに戸惑い、手元が狂う恐怖を知った時から、潮時が近いことくらい分かっていた。……だが、ここでこの境内をみすぼらしくさせるわけにはいかん。神様に失礼だし、何より俺が愛してきた木々に申し訳が立たんからな」
茂の言葉には、妥協を許さない職人のプライドと、植物に対する深い愛情が痛いほどに詰まっていた。
自分の老いすらも木の一部として受け入れると言ったあの日の言葉が、いま改めて深く胸に突き刺さる。
「だから、今年の奉納剪定は、お前と一緒にやる」
「……俺と?」
「そうだ。すべての木をお前一人に任せるわけにはいかん。まだお前の腕は未熟だし、この神社の歴史の重みを完全に背負うには早い。だが、俺の目の黒いうちに、お前にしか切れない木を見つけ、この庭の息吹を覚え込ませる必要がある」
茂はそこで言葉を切り、初めてまっすぐに俺の目を見た。
その濁りのない鋭い眼光の奥に、確かな期待の色が揺れていた。
「俺がすべてを教え込むわけではない。お前がこの庭を見て、何を感じ、どう切るかだ。……分かっているな、漣」
その言葉は、一人の庭師として対等に認められた証だった。
胸の奥で、熱いものがこみ上げてくる。
逃げ出したいとばかり思っていたこの場所で、俺は今、次の時代を背負う者へと変わろうとしている。
「……分かってるよ。父さんの背中をただ見てるだけなんて、もうごめんだからな」
俺が力強くそう答えると、茂はふっと息を漏らし、ほんのわずかに、しかし確かに口元を緩めた。
長年見慣れていたはずの、だが最近では滅多に見ることのなかった、親父の誇らしげな笑みだった。
「口だけは一人前だな。……明日から、みっちりとしごいてやる。覚悟しておけ」
「望むところだ」
その時、参道の向こうから、いつの間にか仕事を終えたアカリがひょっこりと顔を出した。
二人が真剣な顔で話しているのを見て気まずくなったのか、その場でピタッと足を止め、「あ、もしかして邪魔だった? ええと、あたしはまだ掃き残しがあるんで、失礼しまーす!」と慌てて踵を返そうとする。
「こら、アカリ。そこにいろ」
茂の低く通る声に、アカリはビクッと肩を跳ね上げ、まるで塩を塗られたナメクジのようにその場で固まった。
「ひゃっ! すみません、サボってないです、ちゃんと隅っこまで綺麗に……!」
「掃除の話をしておるのではない」
茂は少し呆れたような、しかしどこか面倒見の良い親方のような顔をしながら、ふっとため息をついた。
「お前も、今年の奉納剪定のときは手伝え。境内全体の案内や、日頃の掃除の腕で、祭りを裏から支えてもらう。ここで二年バイトを続けてきたんだろう。お前なしではこの祭りは成り立たん」
茂からの思いがけない言葉に、アカリは目を丸くし、それから信じられないものを見るように何度も瞬きをした。
「え……あたしが? じいちゃん、それって本当……?」
「嘘を言ってどうする。お前がこの境内をどれだけ真剣に見てきたかくらい、俺にも分かっている」
その言葉を聞いた瞬間、アカリの顔にパッと花が咲いたような、満面の笑みが広がった。
「やったぁ! 任せてよ、あたしが境内の隅々までピカピカに磨き上げてみせるから!」
その場で飛び跳ねそうな勢いで小さくガッツポーズを作っている。
その底抜けに明るい笑顔を見ていると、さっきまでの張り詰めた緊張感が嘘のようにほどけていき、胸の底から温かい活力が湧いてくるのを感じた。
老いていく父と、その背中を継ぐ俺。
そして、いつも傍らでこの場所を愛し支えてくれる高校生のバイト。
それぞれの想いを乗せた歯車が、いよいよ音を立てて大きく、力強く動き出そうとしていた。
(第21話・おわり)




