第2話:親父の手
「おい漣、横着すんじゃない! 素手で松を触る奴があるか!」
翌朝。
境内に響き渡ったのは、昨日と寸分違わぬ父・茂の大声だった。
「いや、だって手袋してたら細かくて掴みにくいんだよ! 芽を摘むだけだろ?」
「だからバカと言うんだ! 松は生きてんだぞ。自分の身体を守るために、傷つけば血を流す。それが松脂だ!」
言われた時にはもう遅かった。
俺が良かれと思って「緑摘み(春に伸びた新芽を摘み取る作業)」を手伝おうと柔らかい新芽に触れた瞬間、プツリと切れた断面から透明でドロッとした濃い樹液が滲み出し、指先にねっとりと絡みついていた。
「うわっ……マジかよ、またやった……!」
「当たり前だ。新芽の時期の樹液は特に濃いんだ。一回つけば、そう簡単には離れん」
茂は呆れたように鼻を鳴らすと、腰の道具袋から取り出した布巾で、手慣れた様子で自分のハサミを拭いた。
父の使うハサミの刃には、不思議と樹液がこびりついていない。
俺は焦って両手をこすり合わせたが、昨日と同じ悪夢が繰り返される。
右手と左手が「ボンドで接着されたのか」というレベルでくっつき、引き剥がしようとするとペリペリと皮膚が引っ張られた。
「あたたた! 離れない! 父さん、水! 水どこ!?」
「水なんかで落ちるか、大バカ者! 昨日教わったばかりだろうが!」
両手を胸の前で固め、またしてもカマキリのような姿勢で立ち尽くす五十二歳。
都会ではそれなりに部下を従え、トラブル対応には定評のあった元課長である。
それが学習能力ゼロの失態で再び身動きが取れなくなっているのだから救いがない。
「携帯……ポケットの携帯が……鳴ってるのに出られない……!」
「仕事も辞めた男に何の用だ。ほっとけ」
「そういう問題じゃないよ!」
そこへ、境内を竹箒で掃いていたアカリちゃんが、呆れたような、しかし面白がるような顔で近づいてきた。
「あははは! 漣さん、昨日あんなに苦労したのに、なんでまた素手で触るの? 学習能力なさすぎでしょ!」
「笑ってないで助けてアカリちゃん! 昨日と同じで手が離れないんだ!」
「しょーがないなー」
アカリちゃんは慣れた手つきで、制服のポケットから昨日と同じ小さめのプラスチック容器を取り出した。
「昨日貸してあげた特製の油、今日もちゃんと持ち歩いてるんだからね。」
アカリちゃんが容器から透明な油を俺の固まった手にトトロッと垂らす。
半信半疑で馴染ませていくと――不思議なことに、昨日と同様、あれほど頑固だったベタベタがまるで嘘のようにスルリと溶けて解けていった。
「すごっ……離れた! 助かったよ、アカリちゃん」
「ふん。昨日教わった油の頼り方だけは、しっかり覚えてやがる」
脚立の上から茂が鼻を鳴らす。
だが、俺は見逃さなかった。アカリちゃんが油を出した瞬間、茂がどこか「ドヤ顔」気味に胸を張っていたのを。
「……父さん。知ってるなら最初から教えてくれればいいだろ」
「自分で痛い目を見なきゃ、体で覚えんのだ。昨日忘れたから今日も同じ目を見たんだろうが」
「ぐうの音も出ないけどさ……!」
俺が油でベタつく手をハンカチで拭いていると、茂が脚立からスリリと軽やかに降りてきた。
七十二歳とは思えない無駄のない動きだ。
父は自分のごつごつした手を見つめ、静かに言った。
「松脂はな、木が自分で傷を治そうとして出すカサブタみたいなもんだ。虫が入らんように、病気にならんように、必死で固めようとしてる。それを準備もなしに雑に触れば、木も傷つくし、お前の手も汚れる」
茂は、松の幹にそっと手を添えた。
ゴツゴツとした父の手の皮膚は、長年の作業で鍛え上げられ、松の皮と同じような質感をしている。
「庭師の手ってのはな、木の痛みを代わりに引き受ける手なんだよ。ベタつくのが嫌なら、半端な気持ちで木に触るな」
その言葉には、今度こそぐうの音も出なかった。
俺は「手入れをしてやる」という軽い気持ちで木に触れていた。
だが父は、木という命の都合に、自分の身体を合わせに行っていたのだ。
「ね? 茂じいちゃん、本物の職人だもん、かっこいいよね」
俺の隣でアカリちゃんはご満悦だった。
茂は「うるさい、掃除に戻れ!」と照れ隠しに怒鳴り、再びハサミを手に取った。
その日の夜、実家の洗面所で何度も手を洗った。
石鹸を泡立ててゴシゴシ擦っても、指先にはどこか松の青々しい匂いと、しつこいペタつきが残っている気がした。
ふと居間を覗くと、父が縁側に腰掛け、無言で植木鋏を研いでいた。
シャリ、シャリと夜の静けさに規則正しい音が響く。
油と樹液で黒ずんだ父の掌は、まるで長年使われた革製品のように分厚く、硬そうだった。
三十年間キーボードしか叩いてこなかった俺の柔らかい手とは、まるで違う生き物の手のようだった。
父の手は、樹液の鎧をまとっていた。
(第2話・おわり)




