第1話:親父
「バカヤロウ!」
鋭く乾いた怒声が、神社の境内に響き渡った。
五十二歳。
都会で三十年近く揉まれ、それなりに修羅場も潜ってきたはずの俺、漣の身体が、ビクッと跳ね上がる。
「言ったろうが! 松の枝はな、人間で言えば肘だ! お前は自分の肘を明後日の方向に曲げるか! えぇ!?」
高所作業用の脚立の上から怒鳴り散らしているのは、御ん歳七十二歳になる我が父、茂だ。
頑固、偏屈、時代錯誤。
三拍子そろった現役バリバリの庭師である。
都会の会社を早期退職し、父の腰痛の知らせを聞いて「まあ、少し実家の手伝いでもしてやるか」と軽い気持ちで帰郷したのが運の尽きだった。
実家の敷居を跨いでからわずか三十分後には、なぜか作業着に着替えさせられ、このプロ仕様の地下足袋を履かされて境内の黒松の前に立たされていたのだ。
「いや、父さん。俺はただ、混み合ってる枝をスッキリさせようと思ってハサミをだな……」
「それが『ブツ切り』だってんだバカ! 風が通る道を作れと言ったろ! 髪の毛を丸坊主にするのと、オシャレにすくのは違うんだよ!」
心の中で『オシャレって年齢かよ』とツッコミを入れつつ、俺は手に付いたベタベタする樹液――松脂を拭おうとした。
が、ジーンズに擦り付けると、今度は手がズボンにへばりついて取れなくなる。
「うおっ、なにこれ!? くっついた!」
「当たり前だ、松脂だ! 水じゃ落ちんぞ! 触るなと言ったろ!」
「聞いてないよ! なんだよこの強力粘着剤! 携帯も触れないじゃん!」
地上であたふたする五十二歳の息子を、父は脚立の上から呆れ果てた顔で見下ろした。
その手には、まるで父の身体の一部のように馴染んだ、黒光りする植木鋏が握られている。
茂の手つきは、怒声とは裏腹に驚くほど繊細だ。
チョキ、チョキ、とリズム良く響く刃の音。
無駄な力は一切入っていないのに、混み合っていた松の枝葉が、まるで魔法のように軽やかなシルエットへと変わっていく。
「いいか、漣。松ってのはな、自分で光を遮らんように、下の枝へ日を譲りながら育つんだ。上の枝が我を張って好き勝手に伸びれば、下の枝は光を失って枯れてっちまう。切り落とすのは『いらん枝』じゃない。『伸びすぎた我だ』」
父の言葉に、俺は思わず手を止めた。
……が、ジーンズにへばりついた右手が引き剥がせず、結局情けない格好のまま固まることになる。
「……うん、いいこと言ってる風だけど、俺いまズボンから手が離れないから入ってこない」
「だっからバカと言うんだ!」
再び境内を揺るがす大音量。
その時、参道の奥から軽快な足音が近づいてきた。
「おーい、茂じいちゃん! 今日の分の差し入れ持って……って、え、誰?」
現れたのは、色あせたスウェットにカラフルなスニーカーを履いた若い女の子だった。
地元の高校生で、境内の掃除アルバイトをしているアカリちゃんだ。
「あ、アカリちゃん。俺、息子の漣。手伝いに来たんだけど……」
「あはは! おじさん、手、ジーンズにくっついて動けなくなってるじゃん! 超ウケるんだけど!」
「笑ってないで助けてくれよ……これ、どうすんだよ」
情けなさに顔を引きつらせる俺に、アカリちゃんは「しょうがないなー」とポケットから小さなプラスチック製の容器を取り出した。
「はい、これ。おじいちゃんの剪定道具の手入れに使ってる特製の油に、ちょっと秘密の成分を混ぜたやつ。松脂が一発でするっと落ちるから、そこに塗ってみて」
「おっ、マジか! ……って、高校生がこんなの持ち歩いてるのか?」
「常備品だよ、ここじゃ必須科目だからね!」
アカリちゃんがニカッと笑って手渡してくれた容器の液体をジーンズとの接着面に数滴垂らすと、頑固にくっついていた松脂が嘘のようにスッと溶けていき、無事に手を引き剥がすことができた。
「アカリ、そいつを甘やかすな。五十二にもなって、ハサミの握り方も知らんタコだ」
「茂じいちゃん相変わらず厳しい〜! でもさ、茂じいちゃんの剪定ってマジで芸術だよね。ほら、見てよこの角度。超バエる」
アカリちゃんがスマホの画面をかざす。
そこには、夕日に照らされて鮮やかに力強く枝を広げる黒松と、その上でハサミを振るう父のシルエットが収まっていた。
プロの庭師として半世紀以上、一本の木と向き合ってきた男の背中。
そこには、都会のオフィスでは決して見ることのなかった「圧倒的な職人の佇まい」があった。
「ふん。バエるだの何だの、妙な言葉を使うな」
茂はぷいっと横を向いたが、耳の裏が少し赤くなっているのを俺は見逃さなかった。
この雷親父、若い女の子の褒め言葉には弱いらしい。
作業が終わり、すっかり陽が落ちた境内のベンチ。
俺は洗剤と油を使ってようやく手から松脂を落とし、赤くなった掌をさすっていた。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
たった一日、父の指導(というか怒声)に付き合っただけで、フルマラソンを走ったような疲労感だ。
「おい」
疲れ果ててベンチに深く腰掛け、項垂れていた俺の頭上で、低い声がした。
驚いて顔を上げると、いつの間にか側に立っていた茂が、温かい缶コーヒーを一本、無造作に突き出していた。
「……サンキュ」
受け取ると、缶の温もりが冷え切った指先にじわじわと伝わってくる。
茂は隣にどっかりと腰を下ろし、自分も缶コーヒーのプルタブを静かに開けた。
言葉はない。
二人で並んで、夕闇に包まれていく境内の大松を見上げる。
昼間はあんなに怒鳴り散らしていたのに、今の父は、まるで風の音を聞くように静かな背中だった。
その横顔には、三十年の月日で刻まれた深い皺と、松脂で黒く汚れたゴツゴツとした手があった。
自分の父親ながら、これまでその手をじっくり見たことなどなかったことに、俺は今更のように気づく。
結局、初日は一日中「バカヤロウ」を二十四回聞き、手の松脂はなかなか落ちなかった。
だけど、冷えた缶コーヒーを握りしめながら、俺は心の中で思ったのだ。
父は、挨拶代わりに雷を落とす人だった。
(第1話・おわり)




