第18話:動き出す歯車
親父から受け取った「技を盗め」という言葉は、翌日以降も俺の中で重く、そして温かく響き続けていた。
これまで逃げるようにこの境内を飛び出し、戻ってきてからもどこか距離を測っていた俺だったが、あの日のやり取りを境に、世界の見え方が少しだけ変わり始めていた。
親父が老いていくという現実から目を背けるのではなく、その背中が刻んできた時間の重みを、これからは自分の目でしっかりと見据えなければならない。
そう覚悟を新たにした朝のことだった。
「おーい、漣くん! お疲れ様ー!」
境内の掃き掃除を終えて額の汗をぬぐっていると、愛用の竹箒を片手に持ったアカリが、軽快な足取りで近づいてきた。
いつもの制服姿ではなく、作業用の動きやすい格好をしているところを見ると、今日も朝からしっかりバイトに励んでいたらしい。
「お疲れ。今日も元気だな、アカリ」
「そりゃあね! 二年もここでバイトしてたら、境内の気の流れで朝のテンションが決まる身体になっちゃったんだからさ。……で? あれからじいちゃんの調子は?」
アカリはコソコソと声を潜めながら、御神木の脇で黙々と松の手入れをしている茂の方を盗み見た。
その声音には、軽口を叩きつつも、茂の身体を本気で気遣う温かさが滲み出ている。
「まあ……相変わらず頑固だけどな。でも、昨日よりは少し表情が柔らかい気がするよ。お前が昨日、怒鳴られたおかげ……ってわけじゃないか」
「ちょっ、そこ蒸し返さないの!」
プッと頬を膨らませるアカリに、俺は思わず苦笑いを漏らした。
だが、その軽妙なやり取りのおかげで、昨日から張り詰めていた胸の緊張がスッと和らいでいくのを感じる。
この境内には、親父の厳格な空気だけでなく、こうしたアカリの明るさという救いも確かに存在していた。
「こら、そこの二人。いつまでそんなところで雑談に興じている。」
背後から飛んできた低く通る声に、俺とアカリはビクッと肩を跳ね上げた。
振り返ると、いつの間にか作業を一段落させた茂が、厳しい視線をこちらに向けて立っている。
「ひゃっ! すみません、今すぐ掃除戻ります!」
アカリは慌てて自分の竹箒を掴み、「それじゃ!」と小走りで参道の方へと逃げていった。
残された俺は、気まずそうに鼻をこすりながら親父に向き直る。
「……サボってたわけじゃないさ。ちょうど一服しようと思ってたところでな」
「言い訳をするな。庭は正直だ。お前が心の中で迷っていると、その迷いがそのまま木の剪定や掃除の乱れに出る」
茂はそう言い捨てるやいなや、愛用の剪定バサミを腰の鞘に収め、厳しい眼光を俺に向けた。
その視線には、ただ若い者を叱りつけるのとは違う、もっと深い真剣さが宿っていた。
「いつまでも親父の後ろ姿を眺めているだけで満足するつもりか、漣」
「……え?」
思いがけない言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
茂は竹箒を握りしめたまま固くなっている俺の足元を一瞥し、低く、しかしはっきりとと言い放つ。
「いつまでも竹箒をいじって、ただ先輩風を吹かせたり、他人の心配ばかりしていては、生粋の職人への成長などあり得ん。お前が見るべきなのは俺の老いではない。この庭の未来をどう背負うかだ」
その言葉は、痛いほど真っ直ぐに俺の胸を突き刺さった。
図星だった。
親父が衰えていくことばかりに気を取られ、自分自身がこの庭にどう向き合うべきか、肝心の覚悟から目を背けていたのは他ならぬ自分自身だったのだ。
それからの日々、俺の日常はガラリと変わった。
朝は親父よりも早く起きて境内の隅々まで目を配り、落ち葉の溜まりやすい癖や、木々一本一本の枝の張り方を体に叩き込む。
日中はアカリの他愛のないおしゃべりに軽くいなされつつも、手は休めず、親父が作業している脇に立ってはその一挙手一投足を盗むように見つめた。
夕方には、自分の剪定バサミを砥石で丹念に研ぎ澄ます。
かつては形だけの真似ごとに過ぎなかったその作業に、今は自分の意志と責任が宿っているのが分かる。
道具が砥石を滑る「シャリ、シャリ」という乾いた音が、今の俺にとっては新しい職人への一歩を踏み出す鼓動のように聞こえた。
「……分かってるよ。見てるだけじゃなく、俺もこの庭を継ぐって決めたんだからな」
俺が歯を食いしばりながら言い返すと、茂はわずかに鼻を鳴らし、しかしその瞳の奥には確かな肯定の色を浮かべた。
「口だけなら誰にでも言える。その手で結果を示してみせろ」
茂はそれ以上何も言わず、背筋をピンと伸ばして母屋へと歩いて行った。
その背中は、大きく、頼もしく見えた。
親父が自分の老いを受け入れ、前を向いているのなら、俺もいつまでも立ち止まってはいられない。
境内を吹き抜ける風が、黒松の葉をざわめかせ、まるで新たな季節の訪れを告げるように優しく頬を撫でていった。
(第18話・おわり)




