第17話:継承の重み
ハサミの震えを目撃してから数日が経っても、俺の胸の奥にある澱のような不安は消えなかった。
親父は相変わらず誰よりも早く起き、誰よりも真摯に木々と向き合っている。
だが、その背中がほんの少しずつ、しかし確実に小さくなっているような気がしてならなかった。
これまで「絶対的な存在」として君臨していた壁が、音を立てずにひび割れていくような焦燥感。
それが俺を縛り付けていた。
「おい、漣。ぼおっとしてないで、そこを掃き清めろ」
境内の中央、掃き掃除をしていた俺に、茂の低く乾いた声が飛ぶ。
振り返ると、茂はすでに御神木の脇に立ち、愛用の剪定バサミを手にしていた。
その手元は昨日のような震えこそ隠されているものの、どこか動きが硬い。
「あ、ああ、分かってるよ」
慌てて竹箒を動かしながらも、俺の視線は自然と茂の手元へと吸い寄せられていた。
いつまでこの時間が続くのだろうか。
いつか来る「その日」が現実味を帯びるたび、俺がこの庭を、そしてあの親父の背中を背負わなければならないというプレッシャーが、ずしりと肩にのしかかる。
かつて俺はこの境内から逃げ出した。
親父の不器用な厳しさと、自分の居場所のなさに耐えきれず、都会の喧騒へ身を投げたのだ。
だが、こうして戻ってきた今、目の当たりにしているのは、老いていく父親の背中と、引き継がれるべき途方もない技の重みだった。
「おーい、漣くーん! またそんな難しい顔して、眉間にしわ寄せてさー!」
考え込みながら竹箒を動かしていると、境内の入り口の方からひょっこりと顔を出したアカリが、愛用のスマホを片手にひらひらと手を振ってきた。
ここで庭掃除のアルバイトを始めて丸二年、すっかりこの境内の景色の一部になっているあいつは、相変わらずマイペースに歩み寄ってくる。
「……なんだよ、アカリ。仕事中だろ、サボってないでちゃんと参道掃いたのかよ」
「掃いてるし! ちょっと一息入れてただけだって。ていうか、今日の漣さんは、朝からずっと、『うーん』とか『はぁ』とか変なうめき声出しながら箒を縦に突き刺したりして、まるで地面と真剣勝負してるみたいだったけど?」
「してねぇよ! ……って、見てたのかよ」
「バッチリ見てたよー。もしかして、また茂じいちゃんに雷落とされてビビってるわけ?」
ニヤニヤと悪戯っぽく笑うアカリに、俺は思わず竹箒を杖のように突いてため息をついた。
「違うわ。……親父のことだよ。最近、なんだか見えないものと戦ってるみたいでさ。見ていて妙に落ち着かないんだよな」
俺がぼそっと本音を漏らすと、アカリはふっとふざけた表情を引っ込め、少しだけ目を細めて境内の一番奥、親父の背中へと視線を向けた。
あの二年間、毎日熱心に茂の作業を間近で見つめ続けてきたあいつなら、今の親父の微妙な変化にも何か気づいているかもしれない。
「ふーん……。茂じいちゃんが?」
「ああ。……何ていうか、あの親父が小さく見えちまう瞬間があってさ。なんだか怖くなるんだよな。あんなに完璧だった背中が、いつか崩れちまうじゃないかって」
俺が珍しく弱音を吐くと、アカリは少し驚いたような顔をした後、ふっといつもの調子に戻って俺の肩を軽く叩いた。
「なに弱気になってるのさ! じいちゃんはいつだって『本物』なんだから、そう簡単に崩れたりしないって。でもさ……」
アカリは言葉を切り、少しだけ真剣な瞳で茂の背中を見つめた。
「二年近く、あたしがここで庭掃除しなが仕事を間近で見てきて思うけどさ。じいちゃんはいつだって命がけで木と向き合ってる。だからこそ、その背中を一番近くで見てる漣さんにしか分からない『変化』も、あるのかもしれないよね」
「お前なぁ……いつの間にそんな大人びたこと言うようになったんだよ」
「なによ、これでも茂じいちゃんのすごさを一番近くで見てきたファンなんだからね!」
アカリがそこまで言った時、境内の空気を切り裂くような低い声が響いた。
「アカリ。参道の落ち葉を全部拾え」
「ひゃっ! じ、じいちゃん! すみません、今すぐやります!」
いつの間に背後に立っていたのか、茂の鋭い一喝にアカリはびくりと肩を跳ねさせ、慌てて自分の竹箒へとダッシュしていった。
あいつの変わらない明るさと、あの二年間で見続けてきたという確信に満ちた言葉のおかげで、さっきまで胸を重くしていた澱のような緊張感が、ほんの少しだけ薄れた気がした。
「ふっ……相変わらず怒られてやがる」
苦笑いを浮かべながら呟いた俺の背中に、茂の視線が向けられる。
「おい、漣」
作業の手を止め、茂がこちらを振り返った。
鋭い眼光は健在だが、その奥にあるかすかな疲労の色を、いまの俺は見逃さない。
「なんだよ、親父」
「お前、さっきからよそ見ばかりして、まったく仕事になっておらんぞ。」
「べつに! サボってたわけじゃないだろ!」
「ふん。……お前、最近俺の手元ばかり気にしているな。そんなに俺がボロを出しているように見えるか」
図星を突かれ、俺は思わず言葉に詰まった。
ごまかそうと口を開きかけたが、茂はフッと息を吐き、静かに首を横に振った。
「隠したところで、老いぼれていく姿なんてのは隠しきれんさ。だがな、漣。庭師ってのは、自分の老いすらも木の一部として組み込んでいくもんだ。……お前はまだ、そこまで見えていまい」
その言葉には、叱責ではなく、妙な重みと深い達観があった。
自分の衰えを隠すのではなく、すべてを受け入れた上でなお妥協を許さない。
それが生粋の職人の生き様なのだと、茂の背中が語っていた。
「……分からないさ。俺にはまだ、そんな境地は遠すぎてな」
俺が苦笑いしながら答えると、茂は珍しくわずかに口元を緩め、それから再び厳しい表情に戻って黒松へと向き直った。
「なら、早く追いつけ。俺が倒れる前に、その目でしっかり技盗んでおけよ」
その言葉は、突き放すようなものではなく、確かなバトンを渡そうとする重みを持っていた。
胸の奥で、熱いものがこみ上げてくる。
逃げ出したいと思っていたはずのこの場所で、俺は今、父から受け継ぐべき誇りを真っ正面から受け止めようとしていた。
(第17話・おわり)




