第16話:誇りと葛藤
ハサミが見つかったその日から、父・茂はどこか以前よりも口数が少なくなった。
相変わらず毎朝早くから境内に出て、黒松の手入れを続けてはいるものの、その作業を目の当たりにするたび、俺の胸に去来する不安は大きくなるばかりだった。
かつてのような、迷いのない一息で枝を落とす切れ味が失われているわけではない。
しかし、そこにはどこか、自分の身体の輪郭や感覚を見失ったかのような、言い知れぬ頼りなさが漂っていた。
「父さん、今日の午後は本堂裏の剪定の続きでいいよな?」
縁側で冷たいお茶をすすりながら声をかけると、茂は手元の湯呑みからゆっくりと顔を上げた。
「……ああ、そうだ。だが、今日は無理をするな。お前も……その指の傷がまだ痛むだろ」
そう言って茂は、昨日の捜索で俺が切ってしまった人差し指の包帯をちらりと視線でかすめた。
普段なら「怪我をするような奴は引っ込んでろ、バカヤロウ」と一喝されるところだが、今の父の声にはどこか湿った優しさと、隠しきれない重さが混ざっている。
その不自然な優しさに触れたからこそ、あの朝に見せた「ハサミを失った恐怖」と、その後の様子が頭から離れず、言いようのない引っかかりを覚えていた。
ただ物をなくしたことへの怯えではない。
あれはまるで、「自分の身体の延長であるはずの道具すら、まともに管理できなくなった自分」そのものに対する、底知れない恐怖だったのではないか。
嫌な予感が、胸の奥で冷たく渦を巻く。
あんなにも誇り高く、境内という宇宙の主として君臨していた親父が、少しずつ老いという現実の波に足元をすくわれ始めている。
その残酷な事実が、まざまざと突きつけられている気がした。
「……父さん」
「なんだ」
俺は少し迷ったが、意を決して声を絞り出した。
「最近、その……ハサミの重さ、変わったか?」
俺がふとそう問いかけると、茂の手がピタリと止まった。
ほんの一瞬、その背中が強張ったように見えたが、茂はすぐに湯呑みを置き、ぶっきらぼうに首を横に振った。
「バカを言うな。何十年も握ってきた相棒だ。重さが変わるわけがなかろう。鉄の塊の重さなんて変わらん、俺の手がおかしいわけでも……いや」
言葉の途中で、茂はふっと口をつぐんだ。
それ以上、突っ込むことはできなかった。
否定する茂の横顔には、老いた職人が意地でも手放そうとしない、しかし崩れかけた防壁のような「誇り」が張り付いていたからだ。
お互いにそれ以上は何も言わず、重い沈黙だけが縁側の空気を満たした。
このままでは湿っぽい空気のまま終わってしまいそうになり、俺は慌てて話題を変えるべく、自分の手のひらをひらひらと見せた。
「いやさ、ハサミといえばさ、昨日アカリちゃんが『おじいちゃんの剪定バサミ、魔剣みたいでカッコいいですね!』って言ってたぞ。今度、磨きすぎて光りすぎたらサングラス必要かもな」
俺が冗談めかしてそう言うと、茂は動きをピタリと止め、ゆっくりとこちらを向いた。
「……まけん、だと?」
「あぁ、ゲームとかに出てくる、強い武器みたいなもんらしいよ」
俺の言葉に、茂はフンと鼻で強く息を吐き出し、忌々しそうに顔をしかめた。
「ふざけたことを抜かすな。木を斬り倒すための武器と一緒にされてたまるか。ハサミというのはな、命を奪うためのもんじゃない。樹木の息吹を整え、不要な枝を払って次の命を繋ぐための道具だ。それをあろうことか、人を斬る刀の真似事のように……! バカヤロウ、そんな不吉な名で呼ぶなら、今すぐあの小娘の頭を丸めて庭仕事の基礎から叩き直してやると伝えろ」
茂は不満そうにぶつぶつと呟きながらも、どこか呆れたように茶碗を傾けた。
生きるために木を慈しみ、ハサミに祈るような職人にとって、刃物を「武器」に例えられるのはよほど許しがたかったらしい。
その頑ななまでのこだわりを聞きながら、俺は苦笑しつつも、相変わらずの親父の頑固さに、胸の奥でふっと微かな安堵を覚えていた。
そして夕暮れ時。
片付けを終えて道具箱にハサミを収めようとした茂の手元が、ほんのわずかに、しかし確実に震えているのを、俺は見逃さなかった。
何十年もの間、数万の枝を命のままに切り刻んできたその頑健な手が、いまや自分の意思とは裏腹に微かに痙攣している。
隠し通そうとする父の背中を見つめながら、俺は胸の奥で重く冷たいものを飲み込むしかなかった。
(第16話・おわり)




