第15話:消えたハサミ
ある朝、いつもより早く起きて境内に出た俺は、妙な静けさに違和感を覚えた。
いつもなら、早朝から手入れの音が響いているはずの時間なのに、御神木の脇に父・茂の姿がない。
どうしたのかと母屋の方へ戻ろうとした時、縁側の隅から何やらボソボソと呟く声が聞こえてきた。
覗き込むと、そこにはいつもは背筋をピンと伸ばしている茂が、小さく肩を落として膝を抱えるように座り込んでいた。
「おい、親父……どうしたんだ? 朝飯の時間だぞ」
声をかけると、茂はぎこちなく顔を上げ、青白い顔でぶるぶると頭を振った。
「……ない。どこを探しても……ないんだ」
「何がだ?」
「ハサミだ。俺の……あのハサミが、どこにも見当たらん」
茂が指さした腰のあたりには、いつもなら漆黒の輝きを放っている愛用の剪定バサミがぽっかりと抜けていた。
それは、茂が若かりし頃から何十年も使い込み、手のひらの形と完全に一体化していたいわば「相棒」だった。
昨日の夕方、境内のどこかで手入れをしたのを最後に、行方が分からなくなったらしい。
「まさか……昨日のうちに境内のどこかで落としたのか?」
「分からん……。草むらか、それともあの若造が来たときに……いや、誰のせいでもない、俺の不注意だ」
茂はそれきり言葉を失い、まるで大切な一部分をもぎ取られたかのように、ぐったりと項垂れてしまった。
いつもの威勢の良さや、頑固な職人としての気概はすっかり消え失せ、そこにいたのはただの老いた一人の男だった。
その余りにも弱々しい背中を見て、俺は胸が締め付けられるような焦燥感を覚えた。
(親父があんな顔をするなんて……!)
だが、心の片隅で、俺は小さな違和感を覚えていた。
あの親父が、長年身体の一部のように肌身離さず使ってきた相棒を、うっかりどこかに置き忘れるなどあり得るだろうか。
どれほど疲れていようとも、使い終わった道具の収まり具合や重さは、無意識のうちに体に染み込んでいるはずだ。
物をなくすことなど絶対にないはずの親父が、まるで最初からそこになかったかのように慌てふためいている。
(なんだこの違和感は……まるで、道具をなくしたこと自体に怯えているような……)
胸のざわめきを押し殺し、俺は作業着の袖をまくり上げた。
「父さん、探してくる! 絶対にこの境内の中にあるはずだから、心配するな!」
俺は境内の捜索を開始した。
昨夜の雨の名残か、植え込みの奥や苔むした地面はどこもぐしょぐしょに濡れていた。
俺は御神木の根元から、本堂の裏手、境内の隅々に至るまで、這いつくばるようにして草をかき分けていった。
「くそっ、どこだ……!」
服の裾や膝はみるみるうちに泥まみれになり、顔に枯れ葉や土がへばりついても気にならなかった。
ただ、「あのハサミを見つけなければ、親父の心が折れてしまう」という一心で、泥だらけになりながら地面を夢中で手探ししていった。
見えない草むらにむやみやたらに手を伸ばし、ガサゴソと探り続ける。
どれくらい時間が経っただろうか。
おびただしい汗をかきながら、御神木の裏手にある深い茂みの根元にグッと手を突っ込んだ時、指先に冷たく硬い金属の感触が触れた。
「……っ!」
引っ張り出してみると、それは紛れもなく、泥と落ち葉まみれになったあの愛用の剪定バサミだった。
昨日の夕立の泥に埋もれ、すっかり隠れていたのだ。
俺はハサミをしっかりと握り締めると、泥だらけの足で急いで縁側へと駆け戻った。
「父さんっ! あったぞ!」
息を切らせて差し出した俺の手のひらを見て、茂は目を見開いた。
そこには、泥にまみれながらも、大切に抱えられた愛用のハサミがあった。
茂の震える手が、ゆっくりとそれを受け取る。
金属の冷たさを確かめるように指で撫でた瞬間、茂の目に深い安堵の色が浮かんだ。
「……お前、泥だらけじゃないか。それに……おい、指から血が出てるぞ」
差し出した手の先を見て、俺は初めて自分の人差し指が切れていることに気づいた。
いつの間にか、生傷から赤い血がじわりと滲み出ていたのだ。
「あぁ、これか。夢中で探したから、どこかにぶつけたんだろ。そんなのどうだっていいだろ。……無事に見つかってよかったよ」
俺がはぁはぁと荒い息を整えながら笑うと、茂はしばらく俺の泥だらけの姿と、出血している指、そしてボロボロになった服をじっと見つめ、それから小さく、しかし深く息を吐き出した。
「……馬鹿者だな。人の道具を探すのに、自分の体を傷つける奴があるか。だが……よく探してくれた」
その声には、いつもの頑固さはなく、ただ底知れない温かさと、息子に向ける確かな誇らしさが滲んでいた。
ハサミを取り戻し、少しずつ表情を取り戻していく父の横顔を見つめながら、俺の胸の奥が熱く満たされていくのを感じた。
だが、その胸の熱さの裏側で、先ほど感じた得体の知れない違和感だけが、消えずに残っていた。
(第15話・おわり)




