第二16話 分岐点
第二16話
水鏡に映し出されたのは、天界の理すら揺るがす異常。
ネヴァは、目の前の事実をどうしても受け入れられずにいた。
『ばかな……! ヤーファウ様が……全能の神が……!』
「ネヴァ様! お気を確かに……!」
青髪をかき乱し、明らかに狼狽するネヴァへ、数人の天使が心配そうに駆け寄った。
取り乱すのも無理はない。
“世界”が最初の神を生み出してから今日に至るまで――
役目を終えて退位する神や、人間として転生する物好きな神こそいれど――魂ごと完全に消滅した神など、一柱として存在しなかった。
それも、消滅したのはヤーファウである。
『そんな……あり得ないのだ……!』
「あぁ……これから天界は、どうなってしまうのでしょうか……」
ネヴァの狼狽が伝播し、周囲の天使たちにも不安が広がった。
そんな中、ただ一柱だけ、水鏡から目を離さない神がいた。
『まさか、あのヤーファウが消えるとはなぁ』
私は水鏡を眺めながら、ぼそりと呟く。
ヤーファウは、現存するどの神よりも絶対的な存在として君臨し続けてきた。
“全能の神”ヤーファウ。
神が彼一柱しか存在しなかった時代には、唯一神として。
新たな神々が生まれてからも、絶対神として。
地獄を管理し、下界を保存し、世界を観測する。
ガイア=カオス派の盟主にして、天界の支配者。
ありとあらゆる万象を“可能”にする、その御業に支えられていた機構も数え切れない。
『こりゃ、天界がどうなるって程度の話じゃねえな』
「アティナ様……?」
『悪魔どもを痩せ細らせ、地獄へ押さえ込んでいたのもヤーファウだ。クロノス派の神々を黙らせていたのもな』
『アティナ……』
『地獄も、下界も、天界も。争いのない絶対支配を維持できていたのは、全能があったからだ!』
『おい、アティナ……お前――』
ネヴァが私を見る。
その目に浮かんでいるのは、困惑ではない。
畏怖だった。
『なんで……笑っているのだ?』
『え……?』
私は水面に映る自分を見る。
確かに、笑っている。
『……本当だ』
笑ってる。そうか、私は笑ってるのか。
口角が、抑えきれずに吊り上がっている。
頬まで熱を帯びている。
『見つけちまったみたいだ』
『は?』
そして私は、下界への門を開く。
『オイ!何を――』
『運命の相手を、迎えに行かないと』
『ハァ!?ふざけてる場合か!?』
そう言って、ネヴァが門を閉じようと手を伸ばす。
ガシッ
『うっ……!?』
ネヴァの首は、見た目以上に細い。
『ぐっ……!?』
少し力を加えれば、簡単に折れてしまいそうなほど――
『な……ア゙……ティナ……!!』
『あぁ、すまない。どうも、昂ぶってるみてえだ』
『がはっ!ハァッ、ハア!』
私は門へ足を踏み入れた。
体が光を纏い、下界への降臨が始まる。
薄れゆく天界を背に、横目でネヴァを見た。
『……ふざけてなんかねえよ。私は初めて、恋を知ったんだ』
ブォンッ
残された天使たちは、困惑を浮かべたまま言葉を失う。
その沈黙の中、ネヴァだけが掠れた声を落とす。
『意味が……分からないのだ』
◆
悪魔は叫びながら、猛スピードで迫ってくる。
その悪魔は長槍を肩に担ぎ、一直線にオレサマへ。
『今までの恨みだ!!死ねええェエエエエ――
マズイ。
ミートロフとの戦いで光もとうに尽きている。
死ぬことはない。
だが、それでもこの場から離れるわけには――
「オルァ!!!」
――ギャベブッ!!?』
迫る悪魔の顔面を、戦鎚で叩き潰す少女。
肩には身の丈ほどの大弓。燃えるような赤髪。
「あ、アナタは……アティナ様……!?」
少女は燃える赤髪を揺らし、弓を構える。
放たれた矢は、飛び回る悪魔たちを一度に十体撃ち落とした。
「アティナ様!大変ですにゃ!ヤーファウ様が……」
アティナは更に弓を構えて、豪快に笑った。
「ハッハハハ!!知ってるよ」
そして小さく屈み、オレサマをひょいと抱き上げた。
「おもしれぇ、おもしれえことになったな!!?ニャニャエル!!」
「えぇ!?な、何を」
「そもそもが、退屈してたんだよ。悪魔を支配して、地獄を管理して、下界を保存して……」
「全て、全能の神様がやってくれるイージーモード!他の神様はのんびり眺めててください、だァ?そんなの、戦争の神である私には似合わねえ!!」
ガガガガギュンっっ
大弓が唸る。
次々に下界へと飛び出す悪魔を、絶え間なく撃ち落とす。
「それに……それにだ!!」
アティナは神骸を見て、また笑った。
「神でさえ、殺せる。……つまり、"アイツ"がいれば神とだって――」
その笑顔は。
隠すことのない狂気を孕んでいる。
「殺し合えるってことだろ?」
その幼い顔つきには似合わない、あまりにも歪んだ口角。
「私はアイツが欲しい。アイツは私のものだ!!」
これが――恋ってやつなんだな?
その一言は、オレサマに問うたのか。それとも自らに説いているのか。
狂気の中に、純真な眼差しが混じる。
見る角度さえ変えれば、まるで年相応の可憐な少女のような、煌めく笑顔。
アティナは叫び、悪魔たちが積み上がる屍の山頂へと駆け上がる。
「始められるんだ。終わりへと向かう戦いがッ」
アティナは腰に携えていた輝く剣を抜く。
そして神骸の前に立つ、太郎だった何かに歩み寄る。
「太郎――いや、名も知らぬ神殺しよ」
「お前のおかげで、審判の刻が動き出した」
「天魔大戦への――カウントダウンがな」
そう言い放ったアティナは、顔を赤らめて抵抗無き太郎に口づけた。
太郎は動かない。返事もしない。
「よし、約束だ。私と一緒に戦う」
だがアティナは、太郎の返事が聞こえているかのように話し続ける。
「だってお前は――」
「私が探し求めていた、神殺ノ槍なんだからな!!」
◆
溢れ出す悪魔を、アティナが嬉々として殲滅する。
アティナは矢筒へすら手を伸ばさない。
ただ、大弓の弦を引き絞る。
ギリ――
その瞬間。
光が弦へ集束する。
一本。
二本。
十本。
百。
幾千もの光刃が夜空を覆った。
「消えろ」
放たれたのは矢ではない。
戦神の殺意そのもの。
夜空が閃光で裂け、
飛び出した悪魔たちは悲鳴すら上げられぬまま、光の雨に飲み込まれた。
『アッハハハ!足りねえ足りねえな!!見ろ太郎!私の実力を!』
影が蠢く。
地面から悪魔が飛び出す。
しかし、その首は既になかった。
キィン――
銀の軌跡だけが遅れて夜を裂く。
一歩。
二歩。
アティナが歩くたび、
影という影から血飛沫が舞う。
悪魔たちは、自分が斬られたことすら理解できない。
『どうだ!?お前を使いこなせるのは私しかいない!そうだろ!?』
少女は踊るように、それでいて求愛行動のように。
キラキラと悪魔たちの体を切り刻んでいく。
その全てを眺めていたのは、アティナの背に掴まるニャニャエルと、神骸。
そして――太郎。
〜
夜の中心。
そこは太郎の精神世界であり、心の中であり、ヤーファウを誘った客間でもある。
そこで一人。俺は佇んでいた。
目の前には巨大な画面。
その画面越しに、微動だにしない太郎の視界が映っている。
『あの女神。イカれてんなぁ……』
その声は空虚に響く。
太郎の権能によって生まれたこの空間は、全ての声が憂いを帯びている。
『なぁ……太郎。生まれておいて何だけどよ』
『俺が、この体貰っちまっても良いのかよ?』
俺は心を通して、"太郎"に問いかける。
ヤーファウの極光によって、消滅したはずの太郎。
だが、微かに感じる。残っている。
『返事しろよ。殻に閉じこもりやがって』
理屈は、分からない。
"心"までは消滅しなかったのか。
俺という別存在が、微かに太郎を維持しているのか。
『俺は、お前の心から生まれた罪であり、悪魔だ。お前の欲望を叶える義務がある』
返事は期待していない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
『だからよ、お前は俺に、何をさせたいんだよ』
復讐か?
だが、戌亥を殺したヤーファウは死んだ。
そもそも――
『太郎。お前って"何"なんだよ。天使が、なぜ心を持ってるんだよ。お前は、どこから、何のために生まれてきたんだ』
太郎のことなのに、何も分からない。
『"全能"の神じゃなくて、"全知"の神でも居ればな……』
そのとき、突然俺の心が叫んだ。
それは太郎の記憶なのか。それとも知識なのか。
全知――その単語に呼応するように。
俺と太郎の感覚が断片的にリンクする。
智慧の熾天使にのみ閲覧を許された、神すらも触れられない部屋がある。
それは、"アカシック・レコード"。
全ての事実と、あらゆる"可能性"すら記録された天上の禁忌。
『……太郎、これがお前の答えか?』
『そこに行けば、お前のことも……お前の欲望も分かるのか』
返事はない。
だが、少しだけ胸のつかえがとれた気がした。




