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ACT78・ここではない世界、光ふたつ

 大きな球体がある。

 直径は、両手を広げたほどの大きさだろうか。まるで生きているように、青みがかったそれを、球状の盤面に揺らめかせている。例えるのなら、水の上に一滴、絵の具を垂らしてそれが水面を伝うような。

 その球体の表面を、犬が見ている。

「・・・『羅針盤』が奇妙な動きを見せているが」

 深く、渋い声でその犬は語る。

 問いかけられたその背中。

 ひとりの少女は一生懸命、分厚い本を相手取り、首をしきりに左右を往復しながらもノートに文字を書き込んでいく。

「・・・そりゃ動くでしょ。」

 少女は犬の言葉を意に介さないように、文字の書き取りをやめようとしない。

 だが、少女は気になり、椅子を回転させ背後に目を向ける。

 自室に設えた魔道具。

 大きな球状の道具に目をやる。

「・・・え。なにこれ」

 犬の言葉通り、その球体は奇妙な反応を見せていた。

 青い盤面に漂うのは、例えば空に流れる白い雲のような。霞がかった白い動きがその盤面が示すはずだ。

 その白い動きが途絶え、目を枯らさなければわからないほど、動きを緩やかにさせていた。

 地上に流れる『気』を捉えるための道具。羅針盤と呼ばれる魔道具で、ある特定の事象を捉え、監視できる。

 上級魔道具で、一般の人間になど手の届かない高級品だが、今の少女ならばそれを生み出すことが可能だ。

「君が地上の様子が気になって仕方がないからと設えたものだが、目立った反応を示すのははじめてだ」

 その言葉に、少女は露骨に顔を真赤にさせ、

「だ、誰がよ!わ、私は万能エネルギーである『願いの欠片(ウィッシュガスト)』が気になっているだけだから!」

 詰め寄らんばかりに顔を押し迫る。だが、すぐに真顔に戻り、横の羅針盤に目をやる。

「・・・確かに妙ね。『願いの欠片(ウィッシュガスト)』の流れが滞っている」

 不可視のエネルギーの流動の証である白いモヤの動きが鈍化している。

「地上で何かがあったのかも知れないな」

「何かって、何?」

 その問いに、犬は答えない。

「どちらにせよ、願いの欠片(ウィッシュガスト)の動きが滞るほどの異変だ。ただごとではないだろう」

 どこかで人が生き続ける限り、生命のエネルギーは回り、動き続ける。それが人のエネルギーであり、星のエネルギーでもある。

「・・・様子を見に行ってみる?」

 少女のその提案に、犬は深い半眼で隣を見やる。

「試験以外での仕様での他次元への干渉は、法に触れる可能性がある」

 犬の言葉ももっともだ。少女も試験の時でしか外の世界に出たことはない。

「でも、ここまでの羅針盤の反応は、異常よ」

「気になっているのなら、はっきりそう言ったらどうだ。だからこそ、羅針盤を造ったのではないのかね?」

 少女は再度顔を真っ赤にさせ、

「コレは!あくまで外の世界の様子を伺うため!今日も世界は平和だなー、って安心するためのものに過ぎないんだから!」

 必死の言い訳に、犬は元々垂れた目を更に深め、疑惑めいた目を少女へと向けた。

 常々、犬は少女に対しそう思っていた。

 友人でも仲間でもない。どう形容していいかわからない関係性の中で、少女の性格を図り見ると、ズバリ素直ではない天邪鬼な傾向が見える。内心、『外の世界』の様子が気になっているのだろう。それを素直に口にできないややこしさも。

 だからこそ、羅針盤を私財をなげうって造ったのだ。向こうの世界でつながった少年のことを心配して。

 犬は、少女がどのような感情を抱いているのかはわからない。それはもしかしたら情愛の類であるかも知れないし、あるいは兄を心配する妹のようなものなのかも知れない。あるいは親のいない境遇を、『彼』に重ねたのかも知れない。

 ただひとつ分かるのならば、少女は彼との接触で、人と人の繋がりの何たるかを知った。

 少女にとって、彼は大切な存在だ。心配になるのは当然だろう。

「・・・でも、学校の勉強もあるし」

 少女はひとつの高みへと到達した、魔法使いの完成形だ。だが、その能力は限定的で、未完成だ。

 本人はまだ、それに至っていない、未熟であると自覚をしている。だからこそ、毎日こうして机に向かって自習を欠かさない。

「・・・私も、久しぶりに顔を見たい」

 懐かしむほど、時は経っていない。でも、こうでもしないと意外と意固地な性格の少女は動かないだろう。事実、向こうでの長期休みの情報があるというのに、こちらからは動かなかった。

 不穏ではあるが、羅針盤の動きが、少女の腰を浮かせる一端にはなったのはある種好機だった。

「教師への休暇申請は私が済ませておこう」

「ちょ、何勝手に話を進めてるのよ!私は了承してないわ!」

 犬は半眼を差し向け、

「なら、その緩んだ顔は何だ?」

 思わず少女は、自分の頬を両手で挟む。

 本当に、人の心は意なるものよ。

 その弛んだ表情に、微かな笑みを浮かべる少女の姿を見て、そう思った。


「姫」

 黒い外套に身を包んだ影が居る。まるで君主に傅くように片膝を磨き上げられた床に付けて。

 見渡しの良い、黒い結晶で設えた巨大な建造物。それは山の峰のようでもあり、城のようでもあった。

 その外が一望できる窓際。外は荒野のように寂しく、草木の影すら見えない。

 その少女の憂うような目が、その寂しい世界に手向けられている。

 少女は声を掛けられた方へと振り返る。

 髪を機械で正確に切りそろえたような、儚げで美しい少女。だが、その表情は逆に晴れない。

「・・・姫って呼ぶの、やめて欲しい」

 その端麗な表情を僅かに歪め、少女は言う。

「いえ、この世界を実質統治しているのは貴方様に御座います。我らを導く王に違いありません」

 心酔するように頭を垂れる外套。そのフードの奥は、忠誠心に満ち満ちている。

 少女は、かつてこの世界を治めていた王の忘れ形見だ。

 異分子だと忌み嫌われ、上の世界と対立していたが、今は少女がふたつの世界を取り持ち、荒廃したこの世界の復興や進展に尽力してくれる。

 緑の無いこの地も、いずれ人間の手が加わり豊かな自然の芽が現れるだろう。

 それは、自分たちの性質とは相反するものだが。その新たな扉をくぐる勇気を宿さなければ、何時まで経ってもこの世界は闇で閉ざされ、閉鎖した空間であり続けたであろう。

 それをこじ開け、光をもたらしたのは、この世界の住人でもなければ、上の世界の人間でもない。

 ここより異なる世界から訪れた少年によるものだ。

 まあ、いいとでも言いたげに、少女は軽く息を吐く。

「・・・なに?」

「グランティールの人間との交流で分かったことですが、『地上』で妙な反応が観測されたようです」

「・・・地上?」

 ここで言う地上とは、グランティールを含むマギアスを示す意味ではなく、ここより空間で隔たれた別の世界のことを言う。その少年も、そこからやってきた。

「大気に禍々しい瘴気とでも言うのでしょうか。・・・まあ、こちらの世界にまで影響は及ばないだろうから、さしたる問題では無いでしょうが」

 その言葉に、少女は何かを考えるように表情に思慮を含ませる。外套は言葉を続ける。

「だが、考え方によってはチャンスですぞ。地上で何かトラブルがあれば、ここでグランティールに恩を売っておくのもよいかもしれません」

 外套の奥に含ませた下卑た笑みに、少女は思わず嘆息した。

「なにしろ、順当に行けばこの世界で花香剣(フレイバー)の使い手は姫しか存在しえなくなります」

 黒と白の神官に告げられたのは、この世界を救った花の騎士(プリマエクス)がいずれその力を失う事実。遅かれ早かれ、それは起きると。

 その時、今の時代に残る花の騎士(プリマエクス)は少女しか居なくなる。

 それを外套はチャンスと捕えているようで。

「・・・まさか、また良からぬことを企んでいるのではないわよね?」

 胡乱な少女の目が外套を捉える。

「め、滅相もない」

 外套は慌てて手を振る。

・・・花の騎士(プリマエクス)の力をかざして、グランティールとの交渉を優位に図ろうとする心づもりが見透かされた。

「もう、そんなことをしている場合ではないの。グランティールと黒の花園(ヘルバイラル)が手を取り合い、この先の未来を進んでいかなくてはならない」

 闇に満ちたこの世界に光をもたらした。それは、凝り固まった価値観と共に、歪んだ思いを打ち砕いた。

 光と闇。

 相反する存在は、ひとつのきっかけで溶け合い同質の世界へと変容した。今、この場に立つ少女こそがその証明だ。

 そのきっかけを造ったのは、自分以外の花の騎士(プリマエクス)でもなければグランティールの神官でもない。

ここでも向こうの世界でもない地から来た、ひとりの少年だ。

「行きましょう」

 少女はドレスの裾を翻して踵を返す。

「地上への侵攻ですか?」

 嬉しそうに頬を緩ませる外套の笑みを、少女の視線が一閃し。怯んだ顔に、改めて少女は口を開く。

「何か困ったことが起きたのなら、助けましょう。今度は私が赴く番です」

 薄く、花が綻ぶような笑みを浮かべて、少女はそう言った。

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