第四十八話 「変わっていく場所」と、変わらないもの
九月も半ばを過ぎた。
丸亀の朝はまだ暑い。けれど、駐車場から事務所へ向かう途中、頬を撫でる風だけは少し秋らしくなっていた。
そんな季節の変わり目に、丸亀工場にも大きな変化が訪れようとしていた。
「――ということで、来年度からC棟の大規模改修を行います」
月曜日の朝礼。
工場長の言葉と同時に、スクリーンへ完成予想図が映し出された。
古くなった事務スペースの刷新。休憩室の拡張。照明のLED化。空調設備の更新。
そして、製造ラインの一部移設。
「へえ……めっちゃ綺麗になるんですね」
隣で水谷が小声を漏らす。
久保あかりも、思わず画面を見つめた。
白い壁。広い窓。新しい机。
今のC棟とはまるで別物だった。
「なんか、違う会社みたい」
そう呟いた久保の後ろから、八木原の声がした。
「完成予想図って、だいたい観葉植物置きすぎなんだよ」
「そこですか?」
「今の事務所に観葉植物、一個もないでしょ」
「夢くらい見させてあげましょうよ」
そんなことを話していた、この時までは。
久保はまだ知らなかった。
この改修計画が、管理課にとって半年以上に及ぶ一大プロジェクトになることを。
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◆ 管理課に降ってきた仕事
「で、管理課が担当するのはこれな」
朝礼から戻るなり、藤巻課長が一冊のファイルを久保の机に置いた。
どん。
嫌な音がした。
「……厚くないですか?」
「まだ第一版や」
「これで?」
「これから育つ」
「育たなくていいです」
中身を開く。
仮設事務所の設置。
什器移設。
工事業者との調整。
社員の動線確保。
駐車場の一部閉鎖。
騒音工事の日程調整。
ネットワーク移設。
廃棄備品の選定。
久保は静かにファイルを閉じた。
「課長」
「ん?」
「これ、建物を改修するんですよね?」
「そうや」
「管理課を改修する計画じゃないですよね?」
藤巻は笑った。
「管理課いうんはな、会社で“誰がやるん?”ってなった仕事が最後に流れ着く場所や」
「夢のない部署ですね……」
「逆や。何でもできる部署や」
都合のいい言い換えだった。
しかし、一年前ならその言葉に「なんで私たちが」と思っていたかもしれない。
今は少し違った。
――じゃあ、どうやって回そう。
そんなことを考えている自分がいた。
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◆ 「変えんでええやろ」
改修に向けた現場ヒアリングが始まった。
新しい休憩室については若手社員から好意的な声が多かった。
「コンセント増えるんですよね?」
「ロッカーも新しくなる?」
「自販機、もう一台置けません?」
一方、ベテラン社員たちの反応は少し違った。
「今ので困ってないけどなあ」
製造課の中田が図面を眺めながら言った。
「この棚も撤去するん?」
「はい。新しい保管庫に集約する予定です」
「ここにあるから便利なんやけど」
「でも通路が狭くなってますし、安全面では――」
「三十年これでやっとるぞ」
そう言われると、久保は言葉に詰まった。
三十年。
自分が生まれるより前から、この工場で働いている人がいる。
古い棚も、傷だらけの机も、その人たちにとっては単なる設備ではないのかもしれない。
「新しくすればええってもんでもないけんな」
中田はそう言って現場へ戻っていった。
久保は図面を抱えたまま、その背中を見送った。
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◆ 変わるのが嫌なのではなく
「反対されました」
管理課へ戻るなり、久保は机に突っ伏した。
「誰に?」
「中田さんです。棚を動かしたくないって」
「ああ」
八木原は驚かなかった。
「まあ、そうなるよね」
「でも安全通路を広げるには、あそこを撤去しないといけないんです」
「うん」
「じゃあ説得するしかないですよね」
「……説得、かなあ」
八木原が首を傾げる。
「久保さんさ。中田さん、棚そのものが好きなのかな」
「え?」
「三十年前から使ってる棚に恋してるとは思えないんだよね」
「それは……まあ」
「だったら、嫌なのは棚を捨てることじゃないんじゃない?」
久保は少し考えた。
――ここにあるから便利。
中田はそう言った。
「……場所?」
「たぶんね」
八木原はコーヒーを一口飲んだ。
「変化が嫌なんじゃなくて、変わったあとに今より不便になるのが嫌なんじゃないかな」
久保は、もう一度図面を開いた。
新しい保管庫は確かに綺麗だった。
けれど、製造ラインから十五メートルほど遠くなる。
「あ……」
「図面だけ見てると、そういうの見えないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
久保は立ち上がった。
「ちょっと、現場行ってきます」
「いってらっしゃい」
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◆ 百二十七歩
久保は実際に歩いてみることにした。
現在の棚から製造ラインまで。
二十三歩。
新しい保管庫予定地から製造ラインまで。
六十四歩。
往復すると百二十八歩。
「……倍どころじゃないじゃん」
一日に五回取りに行けば、それだけで六百歩以上になる。
次の日。
久保は中田のところへ行った。
「中田さん。棚の件なんですけど」
「ん?」
「撤去はするんですけど、よく使う物だけ置ける小型棚を、今と同じ位置に残す案はどうですか?」
中田が顔を上げた。
「小型?」
「はい。昨日、実際に歩いてみたんです。新しい保管庫だと遠すぎます」
「歩いたん?」
「百二十七歩でした」
「細かいなあ」
中田が笑う。
「帰りもあるので二百五十四歩です」
「もっと細かいな」
しばらく図面を眺めたあと、中田は言った。
「それなら、ええんちゃう?」
たった、それだけだった。
あれほど難しそうに見えた問題が、一枚の図面と百二十七歩で解決した。
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◆ 残すもの
それから久保は、改修計画を見る目を少し変えた。
古いから捨てる。
新しいから採用する。
そういう二択では考えなくなった。
使い込まれたホワイトボードは、新しい事務所でも使うことにした。
休憩室に貼られていた歴代の工場写真は、額を新調して移設することにした。
何十年も社員が使ってきた大きな掛け時計も残した。
「これ、新しいの買ってもいいんじゃないですか?」
水谷が尋ねる。
「うん。でもこれ、まだ動くし」
「だいぶ黄ばんでますよ?」
「それも味」
「久保さん、急にベテランみたいなこと言いますね」
二人で笑った。
新しくすることと、全部を捨てることは違う。
建物は変わる。
机も変わる。
仕事のやり方だって、これから変わっていく。
それでも。
誰かが誰かを気にかけること。
困っている人がいたら声をかけること。
現場の声を聞いて、少しでも働きやすくしようとすること。
そういうものまで、新しくする必要はない。
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◆ 夕暮れのC棟
その日の夕方。
久保は一人、C棟の前に立っていた。
西日を受けた古い建物。
壁には雨垂れの跡があり、角の塗装は少し剥げている。
入社したばかりの頃。
この建物は、ただの「古い工場」にしか見えなかった。
でも今は違う。
あの扉の向こうで失敗した。
誰かに助けてもらった。
初めて「ありがとう」と言われた。
悔しくてトイレで一人になった日もあった。
八木原に励まされた日も。
水谷に頼られた日も。
全部、この建物の中だった。
「……なくなるわけじゃないんだけどな」
久保は小さく呟いた。
それでも、少し寂しかった。
「何してんの?」
振り返ると、八木原がいた。
「ちょっと見てただけです」
「C棟を?」
「はい」
「来年にはピカピカだね」
「……ですね」
二人で並んで建物を見る。
しばらくして、久保が言った。
「八木原さん」
「ん?」
「場所って、変わっても大丈夫なんですかね」
八木原は少し考えた。
「大丈夫じゃない?」
「軽いですね」
「だってさ」
八木原は工場を見たまま続けた。
「建物が俺たちを管理課にしてるわけじゃないから」
久保は黙った。
「机が変わっても、壁が綺麗になっても。困ってる人がいたら誰かが動いて、面倒な仕事が来たらみんなで文句言って、それでも最後には何とかする」
八木原が笑った。
「それが残ってれば、たぶん管理課は管理課だよ」
夕暮れの中、工場のチャイムが鳴った。
久保はもう一度、古いC棟を見る。
変わっていくものがある。
だからこそ、変わらないものが見えてくる。
そしてきっと。
変わらないものを守るために、変わらなければならないこともある。
久保は、そんなことを少しだけ理解した。
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その夜。
いつものノートに、久保は一行だけ書いた。
「残したいものが分かれば、変わることはそんなに怖くない。」
その下に、少し考えてからもう一行。
「たぶん会社も、人も同じ。」
ペンを置く。
窓の外では、夏の終わりの虫が鳴いていた。
丸亀工場の景色は、これから大きく変わる。
そして久保自身もまた、少しずつ変わり続けている。
ただ――。
初めて誰かに「ありがとう」と言われたときの嬉しさだけは。
これから先も、変わらない気がした。




