第四十九話 「管理課から、一人いなくなる。」
十月最初の月曜日。
丸亀工場の正門脇に植えられた桜は、まだ葉を落とすには早いらしい。
けれど朝の空気だけは、はっきりと秋のものになっていた。
「おはようございます」
久保あかりが管理課の扉を開ける。
「おはよー」
八木原が、いつもの席から顔も上げずに返した。
藤巻課長は新聞を読み、水谷は給湯室でコーヒーを淹れている。
昨日と同じ朝だった。
たぶん明日も、同じ朝が来る。
久保はそう思っていた。
午前九時。
社内メールが届くまでは。
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◆ 人事異動のお知らせ
件名は、珍しく太字になっていた。
《10月16日付 人事異動について》
「あ、人事出ましたね」
水谷が声を上げる。
「この時期って異動あるんですか?」
「たまにあるよ。組織変更とか欠員補充とか」
八木原が答える。
久保は特に気にすることもなく、添付されたPDFを開いた。
営業部。
開発部。
製造課。
品質保証課。
名前がずらりと並んでいる。
そして。
最後の方に、管理課があった。
久保の目が止まった。
そこには、見慣れた三文字があった。
八木原。
その横には、
本社 経営企画部へ異動
と書かれていた。
「…………え?」
声が出た。
思っていたより、ずっと間抜けな声だった。
久保は画面を二度見した。
名前は変わらない。
所属先も変わらない。
「八木原さん」
「ん?」
「これ」
「ああ」
「ああ、じゃないですよ」
久保は思わず椅子から立ち上がった。
「異動って……聞いてたんですか?」
「まあ」
「いつから?」
「先週」
「先週!?」
水谷まで振り返った。
「八木原さん、なんで言ってくれなかったんですか!」
「正式に出る前に言うのもなあ」
本人だけが妙に平然としている。
それが、久保には少し腹立たしかった。
「本社って……高松ですよね」
「そう」
「毎日?」
「毎日」
「管理課は?」
「辞令を見る限り、卒業みたいだね」
八木原が笑った。
その言葉が。
なぜか久保には、笑えなかった。
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◆ いるのが当たり前だった
その日の午前中。
久保は仕事に集中できなかった。
「久保さん、この見積書――」
「あ、はい」
「これ、俺じゃなくて中田さんに返して」
「あっ……すみません」
普段ならしないような間違いをする。
コピー機の前でも紙を取り忘れた。
メールを書いている途中で、何を書こうとしていたのか分からなくなった。
(なんでこんなに動揺してるんだろう)
異動なんて会社では普通のことだ。
誰かが来て、誰かが去る。
八木原が退職するわけでもない。
高松なら、別に遠くもない。
なのに。
ふと横を見る。
そこには八木原がいる。
いつもの椅子。
いつものマグカップ。
机の端には、何年前から置いてあるのか分からない小さな卓上扇風機。
それらが二週間後にはなくなる。
そう考えた瞬間。
胸の奥に、ぽっかり穴が開いたような気がした。
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◆ 「前にも断ったんですよね?」
昼休み。
久保は八木原を捕まえた。
「ちょっと聞いていいですか」
「どうぞ」
「八木原さん、前にも本社異動の話、ありましたよね」
「よく覚えてるね」
「そのとき断ったって言ってましたよね」
「うん」
「じゃあ、今回は?」
八木原の箸が止まった。
「……断らなかった」
「なんでですか」
「尋問?」
「普通の質問です」
「顔が普通じゃないけど」
「答えてください」
八木原は困ったように笑った。
そして少し考えてから、弁当箱を閉じた。
「久保さんが来た頃さ」
「はい」
「俺、この部署から動けないと思ってたんだよ」
「……どういう意味ですか?」
「俺がいないと回らない仕事が結構あったから」
久保は黙った。
「設備関係の業者とのやり取りも、修繕の履歴も、工事の段取りも。俺の頭の中にしかないことが多かった」
「それ、八木原さんがすごいってことじゃ」
「違うよ」
珍しく、八木原がすぐ否定した。
「それって、組織としては結構まずいんだよ」
久保は何も言えなかった。
「誰か一人が休んだら回らない。異動したら分からない。辞めたら終わる。それを“ベテランだから”って褒めるのは、ちょっと違う」
「……だから、引き継ぎとか増やしてたんですか?」
「そう」
思い返せば。
八木原はここ数ヶ月、やけに資料を残すようになっていた。
業者一覧。
設備台帳。
工事履歴。
毎年行う点検の手順。
久保にも何度か、「これ一回やってみる?」と仕事を渡してきた。
あれは。
全部――。
「まさか、ずっと異動するつもりだったんですか」
「そこまでは考えてなかったよ」
八木原は笑った。
「でもさ」
そして久保を見た。
「もう、俺がいなくても大丈夫だなって思った」
その一言に。
久保は、何も返せなくなった。
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◆ 嬉しくない褒め言葉
「それ、全然嬉しくないです」
「え?」
「“大丈夫”って言われても」
久保は自分でも驚くほど、はっきり言った。
「私はまだ八木原さんに聞くこといっぱいありますし。分からないことだってあるし。設備関係なんて全然――」
「うん」
「それに、水谷さんだってまだ――」
「うん」
「だから……」
続きが出なかった。
だから行かないでください。
そんなことを言える立場ではない。
八木原には八木原の人生がある。
それくらい分かっている。
分かっているから、余計に言葉にならなかった。
八木原が少しだけ笑った。
「久保さん」
「はい」
「“一人でできる”から大丈夫って言ってるんじゃないよ」
久保が顔を上げる。
「分からないときに誰に聞けばいいか知ってる。困ったら助けてって言える。現場の人と話せる。水谷さんにも仕事を渡せる」
八木原は指を折りながら続けた。
「それができる人が一人いれば、組織って意外と回るんだよ」
「…………」
「俺がいなくても大丈夫っていうのは、俺の仕事を全部できるって意味じゃない」
少し間を置いて。
「久保さんなら、久保さんの管理課を作れるって意味。」
久保は俯いた。
ずるいと思った。
そんな言い方をされたら。
寂しいなんて言えなくなる。
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◆ 藤巻課長は知っていた
午後。
久保は書類を届けるついでに、藤巻の席で足を止めた。
「課長」
「ん?」
「八木原さんの異動、知ってたんですよね」
「まあな」
「いつからですか」
「一ヶ月くらい前」
「みんな秘密にするの上手すぎません?」
「会社いうんはそういうところや」
藤巻は書類から目を上げた。
「寂しいか?」
「……別に」
「嘘つけ」
一秒で見抜かれた。
「でもまあ、ええことや」
「八木原さんがいなくなるのが?」
「違う」
藤巻は椅子にもたれた。
「あいつが、ここから出てもええと思えたことがや」
「……?」
「八木原は仕事できるけどな。できるからこそ、ずっと自分で抱え込んどった」
久保は昼休みの会話を思い出した。
「何年か前から本社は欲しがっとった。でも本人が“今抜けたら管理課が困る”言うて断っとった」
「それで今回……」
「お前らがおるからやろ」
藤巻は、それだけ言って再び書類に目を落とした。
「人を育てるいうんはな、自分がおらんでも大丈夫な場所を作ることでもある」
「……なんか、寂しいですね」
「せやな」
藤巻は笑った。
「でも、悪い寂しさやない」
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◆ 最後の二週間
それからの日々は、妙に速かった。
久保は八木原から設備管理の引き継ぎを受けた。
「この業者さん、メールより電話の方が早い」
「はい」
「ただし月曜の朝は機嫌悪い」
「それ業務情報に入れていいんですか?」
「重要情報です」
「じゃあ書きます」
「書くな」
工事関係のフォルダを整理した。
「この『最終版』ってファイルが四つあります」
「社会人あるあるだね」
「最終版2、最終版確定、最終版確定2……」
「人類は最終版を作れない生き物なんだよ」
「消しますね」
「あっ、待って、それはいる」
「どれですか!」
いつもと同じ会話だった。
だからこそ。
久保は一つ一つを覚えておこうと思った。
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◆ 十月十五日
八木原が管理課で働く最後の日。
大げさな送別会はしないと言っていたのに、夕方になると製造課や開発部の人たちが次々と顔を出した。
「八木原さん、本社行っても忘れんといてよ」
「設備止まったら電話するからな」
「いや、それは久保さんにしてください」
「もう冷たいなあ」
笑い声が事務所に響く。
八木原の机から、私物が少しずつ消えていく。
マグカップ。
卓上扇風機。
引き出しのお菓子。
最後に八木原は社員証を首から外した。
「じゃ、藤巻さん。お世話になりました」
「おう。向こうで使い物にならんかったら戻ってこい」
「その言い方、送り出す気あります?」
みんなが笑う。
そして。
八木原は久保の前に来た。
「久保さん」
「はい」
「これ」
差し出されたのは、一冊の銀色のファイルだった。
「何ですか?」
「俺が新人の頃から書いてたメモ」
「え?」
「業者のこととか、設備の癖とか、失敗したこととか。まあ、半分くらい役に立たないけど」
表紙には、油性ペンで雑に文字が書かれていた。
管理課 困ったとき用
「……ネーミング雑ですね」
「分かりやすさ重視」
久保は笑った。
でも。
ファイルを受け取った瞬間、泣きそうになった。
「久保さん」
「はい」
「最初の日、覚えてる?」
「……覚えてます」
「めちゃくちゃ不安そうだった」
「そんなに?」
「コピー機にまで敬語使いそうな顔してた」
「使いませんよ」
二人で笑う。
八木原は、最後に言った。
「いい管理課員になったね」
それだけだった。
久保は唇を噛んだ。
「……ありがとうございました」
「こちらこそ」
「本当に」
「うん」
「……困ったら電話していいですか」
「もちろん」
「月曜の朝でも?」
「俺は機嫌悪くないから」
久保は笑った。
今度は少しだけ、目が熱かった。
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◆ 翌朝
十月十六日。
久保は管理課の扉を開けた。
「おはようございます」
「おはようございます!」
水谷の声が返ってくる。
藤巻は新聞を読んでいる。
いつもの朝。
ただ一つ。
隣の席だけが、空いていた。
久保は自分の椅子に座る。
机の横には、昨日もらった銀色のファイル。
少し迷ってから、一ページ目を開いた。
八木原の字があった。
分からないことがあったら、まず現場へ行く。
それでも分からなかったら、人に聞く。
一人で分かったふりをするのが、一番危ない。
「……八木原さんらしい」
久保は小さく笑った。
そのとき。
「久保さん!」
水谷が駆けてくる。
「B棟の空調から変な音がするって連絡が来ました! どうしましょう?」
久保は反射的に隣を見る。
空席。
一秒だけ。
ほんの一秒だけ、心細くなった。
それから。
銀色のファイルを閉じた。
「水谷さん」
「はい」
「とりあえず、見に行こう」
「え?」
「現場見ないと分からないから」
自分で言ってから。
久保は少し笑った。
「行こっか」
「はい!」
二人で管理課を出る。
廊下の向こうから、機械の音が聞こえてくる。
八木原はいない。
だからといって。
教えてもらったものまで、いなくなったわけじゃない。
誰かが去った場所には。
その人が残した仕事と、言葉と、考え方が残る。
そしていつか。
それを受け取った人が、自分なりの形に変えて、次の誰かへ渡していく。
久保はまだ知らない。
今日から始まる日々が、これまでとは少し違うことを。
教えてもらう側から。
誰かに渡していく側へ。
久保あかりの会社員生活は、静かに次の季節へ入ろうとしていた。




