「“見てくれてる人がいた”と気づいた日」
第三十八話
七月下旬。蝉の声が響く工場の朝。
暑さに負けじと動き出す現場とは対照的に、管理課では静かな作業が続いていた。
久保あかりは、庶務業務の合間に「社内満足度アンケート」の集計作業を任されていた。
全社員を対象にした匿名アンケート。項目は「業務環境」「支援体制」「人間関係」など幅広い。
Excelに無心で打ち込んでいたそのときだった。
一つのフリーコメント欄に、ふと目が留まった。
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◆ “ある一文”との出会い
コメントはこう書かれていた。
「事務所の久保さんにはいつも助けられています。
備品や資料の準備を誰よりも早く整えてくれるおかげで、現場は安心して仕事に集中できます。
声に出して言ったことはありませんが、いつも感謝しています。」
文末には、名前も署名もない。
けれど、“久保さん”と明記されているその文章は、まっすぐに彼女の胸へ届いた。
心臓の奥が、ほんの少し温かくなるような、くすぐったいような。
そんな不思議な気持ちだった。
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◆ 昼休み/声にしなかった感謝
「声に出して言ったことはありませんが」
その一文が、久保の中で何度も反響していた。
(誰かが、私を見てくれていたんだ)
(見返りなんて求めてなかったけど……でも、気づいてくれてたんだ)
それは、大声の賞賛ではなかった。
でも、それ以上に価値のある、静かな“信頼の証”だった。
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◆ 午後/八木原との会話
「……久保さん、なんか顔赤くない?」
コピー機の前で、八木原が冗談混じりに聞いてきた。
「ちょっと……感動してしまっただけです。アンケートに、私のことを書いてくれた方がいて」
「へぇ、すごいじゃん。良かったね」
八木原はにやりと笑いながらも、どこか嬉しそうだった。
「やっぱり、ちゃんと見てる人はいるんだね。
派手な仕事じゃなくても、丁寧な仕事って、誰かの記憶に残るんだよ」
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◆ 夕方/一人きりの事務所
夕方、他のメンバーが外出し、ふと一人になった時間。
久保はそっと、さきほどのコメントをプリントして、引き出しにしまった。
(いつか、迷ったときに読み返そう)
“この仕事に意味があるのか”と悩んだ日々。
“もっと評価される場所に行くべきか”と考えた夜。
そんな時間を、静かに肯定してくれる一枚の言葉だった。
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◆ 夜/メモ帳に残した言葉
・誰かの“ありがとう”は、聞こえなくても、届いてることがある
・“目立たないけど助かってる”という信頼は、何よりの報酬
・私はまだ名もない誰かの“安心”を作れている。だから、この仕事が好きだと思えた
“見てくれてる人がいた”――それは、言葉以上に心を満たす実感だった。
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◆ 翌朝/いつも通りの仕事
「久保さん、昨日の会議資料、助かりました」
製造課の男性が、ぽつりとそう言って去っていった。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
久保は静かに頭を下げながら、胸の奥で、そっと微笑んでいた。




