「“もう任せて大丈夫”と言われた日」
第三十九話
梅雨が明けて、丸亀の空は真夏の青に塗り替えられていた。
管理課の窓から見える工場の敷地には、陽射しが照り返し、アスファルトの向こうで蝉が鳴き続けている。
「久保、お前、これ次からメインでやってみい」
昼過ぎ、課長・藤巻がそう言って差し出したのは、来月の防火訓練に関する進行計画書だった。
例年、藤巻が段取りしていた業務のひとつ。工場内の各部署と日程を調整し、業者と打ち合わせ、必要な備品の手配をし、全体の流れをまとめる。
久保あかりは、思わず手が止まった。
「え……私が、ですか?」
「そや。“久保なら大丈夫やろ”って、もう皆も言うとるしな」
藤巻は、煙草の箱を机の上でトントンと叩きながら、ちらりと目をやった。
「最初の頃と比べたら、顔つきもずいぶん変わったわ。ちょっとくらいプレッシャーかけても、踏ん張れるやろ?」
冗談とも本気ともつかない言い方に、久保は言葉を詰まらせる。
けれど、その胸の奥には、ほんの少しだけ“火”が灯った気がした。
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◆ 午後/資料と格闘
久保は、過去の訓練記録を開きながら、工程表と備品リスト、社内への事前通知文のテンプレートをひとつずつチェックした。
(去年と同じでいいわけじゃない。けど、勝手に変えすぎても混乱する。現場が動きやすい形で、でも安全基準もしっかり守って……)
目を通すほど、気を配るポイントの多さに圧倒された。
でも、どこかで自分が試されているのがわかる。これは、仕事としてだけじゃなく、“信頼”を背負うということだった。
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◆ 翌日/調整の壁
翌朝、さっそく各部署へのヒアリングに動いた久保。
しかし、製造部からはこんな声が返ってきた。
「うーん、その時間帯、ちょっと機械の連続稼働と重なってて厳しいかもな……」
「でも、その後だと空調整備とバッティングしませんか?」
「そっちを優先してくれるなら調整するけど……そっちはどれくらい融通利くの?」
“調整”とは、ただ中間に立つことじゃない。
それぞれの事情と優先順位を理解し、落とし所を見つけること。
久保はその夜、寮のノートにこう書いた。
・利害のある人同士をつなぐには、「正しさ」よりも「丁寧さ」が必要
・どちらかを説得するんじゃなくて、どちらにも“納得の余地”を用意する
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◆ 三日後/“任せた”という言葉
社内での調整を終えた久保は、最後に業者との打ち合わせに挑んだ。
藤巻はその場にはおらず、「お前がまとめてこい」と一任されていた。
業者の担当者は最初こそ少し戸惑っていたが、久保が資料を示しながら丁寧に説明すると、次第に納得した様子で頷いた。
「……いやあ、正直、最初は“若い子が対応?”って不安だったけど、説明きっちりしてくれるし、全然問題なさそうですね」
「ご協力ありがとうございます。何か気になる点があれば、遠慮なくご指摘ください」
久保の声は、かつてよりも少しだけ低く、静かに響いていた。
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◆ 打ち合わせ後/課長とのやり取り
「業者さん、協力的でした。配線の仮設ルートも案出してもらえそうです」
「ほぉ、そりゃええな。……ほらな、言うたやろ?」
藤巻は椅子の背に腕を組みながら、どこか満足そうに笑う。
「人間な、“あいつに任せたい”って思わせたら、一人前や。
久保、お前はもう、“補佐”やのうて、“任される側”になっとるわ」
それは、昇進でも表彰でもなかった。
でも、久保にとって、どんな報酬よりも誇らしい言葉だった。
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◆ 夜/寮での一節
・“大丈夫”って言われると、不安よりも“頑張ろう”が先に来た
・任される責任は重い。でも、その重さが、私の輪郭をはっきりさせてくれる
・失敗しないことより、“この人に頼みたい”と思ってもらえることが、何より嬉しい
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◆ 翌朝/何気ない風景のなかで
「久保さん、次の防火訓練の資料、今朝メールでもらえますか?」
「了解しました。最新版を整えて、10時までにお送りしますね」
そのやり取りのなかに、もう“新人らしさ”はなかった。
久保は今、確かに“仕事を任される側”として、その場に立っていた。




