6.献身
ローゼリアの部屋は三階建ての邸宅の、最上階の端にある。応接室として案内された部屋、ローゼリアを歩かせないために急遽応接室という役割を与えられた客室だった。
クレアが運ばれたのは二階の客室だ。ローゼリアの部屋よりは狭いが、貴賓が泊まるには十分な調度品が準備されている。実はローゼリアよりも先にクレアは何度か目を覚ましていた。正確には、ハロルドが訪れるたびに目を覚めさせられ、ハロルドが部屋を出るたびにまた魔術で眠らされた。
ローゼリアは恐怖を押さえつけることができたが、クレアにはそれが難しかった。見知らぬ場所で目を覚ました混乱、身体に残る暴力の痕跡、男という存在、それらに怯えて心は竦んでいる。
応接室から出たハロルドはまたクレアが眠る部屋へ向かった。魔術で静かに眠るクレアの顔はガーゼで覆われ痛々しかった。瞼が開けば、恐怖と怒りに満ちた視線で貫かれ、ハロルドの言葉は少しも届かない。彼女にとってハロルドはローゼリアを見捨てた男という烙印が押されてしまっていた。
面倒くさいと思いながら魔術をかけていた。ベッド際に椅子を寄せて腰かけ、穏やかに上下する胸を眺めているとこのまま目が覚めないほうが彼女にとって幸せではないかとさえ考えてしまう。それが面倒くささによるものか、本心なのかはハロルド自身もわからない。
魔術は触れれば触れるほど、その対象は魔術を認識し、魔術に影響されやすくなる。そのため、魔術を弾くすべを学ばなくては生きにくくなってしまう。あの魔窟へ赴く義務が生まれてしまう。
魔術師は魔術師にしか基本的に魔術を連続してかけない。非魔術師からは認識されずに生き、次へ繋ぎ、死んでいくのが魔術師の美徳とされているのだ。魔術を認識すれば必然的に魔術師としての道を強いられる。クレアに魔術をかけ続け、そろそろ限界が近いとハロルドは気付いていた。
彼女を魔術師として覚醒させないためにも、魔術をやめなくてはならない。だがそれは、クレアが目を覚ましたときのあの恐怖と怒りに向き合わなくてはならないことを意味している。
ため息を吐いた。あの時、ヘイデ男爵の邸宅に置いて来ればよかっただろうか。とんとんと頬を指で叩きながら、その自問には否と自答する。
いい大人であるハロルドは、自分がクレアに惚れていることを苦々しく自覚していた。最悪な気分だった。
魔術師は恋に向いていない。恋をした魔術師の愚行や暴走は数多く伝えられている。共通している特徴は、誰も彼もが一目惚れということだ。そして、恋の成就は難しい。魔術師の家系だけでなく、元非魔術師も多くの逸話を残しているおかげで、元非魔術師のハロルドも自身の恋に期待が持てない。
粗雑に足を組む。ここでクレアを目覚めさせなければ、ハロルドの愚行も魔窟の逸話の一つになるだろう。
だらだらと時間を引き延ばしていると、自分の影から主人の声がした。その使用人を起こせ、とたったそれだけを伝えて主人はとっととあるべき場所へ戻っていく。ハロルドの機微に気付いているだろうに、それに配慮をしてくれない主人へ文句を言いそうな唇を舌で舐めた。
淡く色づいた頬が、緩んだ眉が、規則正しい呼吸が、目を開いた瞬間に変わる様は何度見ても面白くない。急かしてくる主人を今度こらしめてやろうと心に決めた。
魔術を解いた。
緩んでいた瞼が一瞬で開き、起き上がると同時にお嬢様、と悲痛に呼ぶ声がする。ベッドを抜け出そうとするクレアの腕をハロルドが掴んだ。揺れる瞳がハロルドを映すと、恐怖に怒りの色が混ざる。
「触らないで!」
もう寝かせてしまいたい。びくともしないハロルドの手から一心不乱に逃げ出そうともがくから、クレアの腕を折ってしまいそうで今までは手加減をしていたのだが、今回は腹をくくるしかない。
「クレアさん、夫人は無事です」
「信じない! 信じられるはずがない!!」
「夫人が今のあなたを見たら不安に思うはずです。だから、一度落ち着いてください」
ハロルドはクレアの特効薬がローゼリアだと気付いていたが、主人の許可がおりなかった。まだ男爵邸に心が取り残されているクレアが、ローゼリアにとって悪影響だと考えているらしい。
暴れるクレアの爪でハロルドの皮膚に赤い線が引かれる。痛い気がするが、簡単に耐えられる。クレアにとってはその余裕な態度が、あの気弱なハロルドと乖離があって恐ろしいのに。
「夫人は無事です」
「信じられるわけないでしょ!」
「ここにいれば、何も心配いらないんです。男爵邸とは違うでしょう? 夫人とあなたは、助け出されたんです」
ほら、ベッドもさらさらで、枕もふかふかでしょう? 着ている服も貴族御用達のナイトドレスです。手当てをして、痛み止めの軟膏も塗りました。痛くないでしょう?
どうにか話を聞いてもらいたくてハロルドは淡々と声をかけ続けた。それでもクレアはすべてを拒絶する。掴まれた腕一本以外の身体はハロルドから遠ざかり、力を込め過ぎて握った指先が白くなっている。泣くのを堪えているのか、顔は耳まで真っ赤で息が苦しそうだ。
「……クレアさん。あの、私、嘘をつきません」
「信じ、られない、って、言ってるでしょ! 放しなさい!」
「あのー、だから、うーん……」
ハロルドは賢い頭を回転させて、良い言葉と方法を選ぶ。その結果が「私があなたに嘘をつくと、私の骨が一本折れる魔法をかけました」だ。
当然クレアは激昂した。魔法だのなんだのと子ども騙しをこんな状況で持ち出されて、怒らないはずがない。ハロルドを睨むクレアに対し、ハロルドはけろりとした顔を見せる。
「私はクレアさんが嫌いです」
そして、クレアの目の前で、クレアを掴んでいた腕が不自然に歪んだ。掴まれている腕から骨が歪む、ごりごり、とした背筋が凍る音と振動がして言葉が止まった。
折れた骨が組織を傷つけて次第に肌の色が変わっていく。いてて、と言うくせに表情も声色も変わっていないが、折れた事実が視覚から伝わってくる。
混乱して、力が抜けた。恐怖も怒りも驚きで塗り潰され、クレアは腕を見つめて固まってしまう。骨一本を折ったはずのハロルドは平然として、折れてないほうの手でクレアの頬に汗で貼りつく髪の毛を耳にかけて整えた。
「夫人は無事です。ここは安全です。誰にもあなたたちも傷つけさせません」
クレアは恐ろしくてハロルドの手から逃げようとしたのに、折れた骨が軋む音がしてすぐに身動きを止めた。新たに骨が折れた音はしない。ハロルドの身体を隅々まで見ても、腕も足も無事なように見える。
「私は夫人のために男爵邸に赴きました。あなたを助けました。ここはオルデガイン公爵閣下の王都の邸宅です。夫人は三階にいます。ここは二階です。二日後に夫人は王太子殿下との謁見を控えています。食事も着替えも入浴もあなたが望めばすぐに準備をします」
ハロルドの言葉が途端に身体を強張らせたが、骨が折れた様子はない。何が起きているのかわからず、骨が折れたのも偶然だったのでは? と魔法を疑えば、ハロルドはその考えを見透かしてまたなんてことない顔で「クレアさんが嫌いです」と告げる。
同時にシャツの襟から覗く右側の鎖骨が目に見えて歪んだ。あーあ、とどうでもよさそうに服を開けさせると、薄い皮膚が腫れて、折れた骨の形が浮かんでいる。
「うーん。これ、肋骨折れたら肺に刺さるのかな」
クレアはもう、目の前の男が怪物にでも思えてきた。悲鳴が出そうと口元を自由な手で押さえ、ふるふると震えながら「信じます」と言うしかない。
そうすれば、ハロルドは情けなく笑う。
「よかった。詳しい説明は夫人にも一緒に聞いてもらいましょう。クレアさんの身支度からしましょうね」
縮こまるクレアから手を放し、とびらの外へ声をかければ使用人が入ってくる。失礼が無いようにね、と言いつつ折れた腕で折れた鎖骨を隠すようにシャツを整える男に、クレアは呆然として、されるがままに不慣れなもてなしを受けた。
部屋を出たハロルドは、うーんと首を傾げる。彼は告白をしたつもりだが、クレアにまったく気持ちが通じていないこともわかっていた。クレアが信じるまで嘘を吐く可能性が多いと考えて骨一本自身で折ったが、誠意を見せるなら腕一本落としたほうがよかっただろうか。
折れた部分が歪んでくっつかないように、皮膚の上から圧を加えてずれを整えておく。使用人に医者を呼ぶかと聞かれたが断った。簡単に治るより、傷が残ったほうがいい気がした。
魔術師の恋の成就は困難を極める。魔術師たちは自覚が薄いが、彼らのアプローチは率直に言っておかしいのだ。恋を伝えるために命を散らす魔術師もいるほどに。ハロルドはそんな逸話を頭がおかしいなと思って聞いていたし、今でもそう思っているが同じ穴の狢でしかない。
正気を取り戻してくれてよかった、とこつこつ爪先でリズムを取るくらいには上機嫌なハロルドは、人体の骨の数を思い出しながらクレアを待っていた。
準備を終えたクレアは、装飾の少ない深いグリーンのドレスを身に纏っていた。とびらから出てすぐそばで控えているハロルドを視界に入れると、そのまま部屋へ戻ってしまいそうな勢いで後退るので、思わず笑ってしまった。
警戒する子猫のようで可愛らしかったのだが、クレアはそれを嘲笑と受け取り、唇を噛む。
「早く、奥様のところへ案内してください」
「はい。かしこまりました」
唸るように言えば、ハロルドはにこりと笑って案内を始める。捲っていた袖も広げていた鎖骨も整えられて肌が見えないが、あの布の下で折れた骨を思い出すとついクレアの視線は廊下の先よりもハロルドの身体に向かう。
混乱していた。今でも信じられない。それでも、クレアはあの場でハロルドを拒絶し続けるほど強くなかった。今もこの進む先が本当にローゼリアのいる場所なのか疑っている。二人分の距離を空け、廊下を進み、階段を昇り、また廊下を進み、最奥のとびらをハロルドがノックをする。
中から返事がなかった。まさか騙されたのかと強張ったクレアだが、ハロルドは一歩横にずれてクレアととびらの間から抜け出す。
「クレアさんが、いつものように声をかけてください」
もしもこれでとびらの向こうが無人であれば、滑稽だろう。
しかしクレアはなんとなく向こう側にローゼリアがいる気がした。あの夜には辿り着けなかった主人がここにいると思うと、泣きそうになってしまう。
クレアはいつも通りにノックをした。そして、返事がなくとも部屋へ入る。それはクレアにだけ許された特権だ。
「……奥様、また食事を抜いていらっしゃるのでしょう?」
知らない邸宅、知らない人間。そんな場所でローゼリアが気を抜けるとは思えない。部屋の中を見渡し、ソファの背もたれからはみ出る白金を見つけて、そっと声をかけた。
その声に反応して勢いよく顔を上げたローゼリアが、クレアの名前を呼ぼうとして喉で詰まる。眉が下がり、赤い目を真ん丸にして、唇を震わせている主人に、クレアのほうがぼろりと先に涙を零した。ひく、ひく、と肩を震わせて手で顔を覆う。
きっと大変な目にあっただろう。それでも、姿を見て安心した。うれしい。
「奥様……っ。よ、よかったあ……!」
安堵で涙腺が緩み、指の隙間から涙が落ちる。ソファから立ちあがったローゼリアも赤い目をうるうるとさせて、クレアの前まで歩いた。
「た、助けに、行けなくて、ごめんなさい……!」
謝罪をくちにするクレアだが、その頬は手からはみ出す大きさのガーゼが貼られている。彼女だってひどい目にあったはずなのに、ローゼリアを一心に心配して、想っている。クレアの前ではそんなことより、と自分を雑に扱うことができなかった。震えながら、声を出さずに涙を零す。止まらなかった。こうしてぼろぼろと泣くのは、両親が死んで以来だ。
「クレアも、……よかった……」
ローゼリアも同じように泣いていると気付くと、クレアは無礼と知りつつローゼリアを抱き締めた。そして二人はよく泣いた。
とびらの向こうに立つ男と影で待つ男は、ようやくため息から解放されそうだった。




