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5.孤高



 ローゼリアは悪い夢を見ていた。両親が死ぬ夢から目覚めて、ベッドの中で顔を動かす。

 肌をなめらかに滑るシーツと、身体を柔らかく包むマットレスと、顔を横に向けたときに見えた薄絹の天蓋。伯爵邸の朝のようで、両親が死んだところから夢だったのではないかと、本気で勘違いをして昔のように枕をぎゅうと抱き締めて顔を埋め、陽射しから逃げようとした。

 しばらく子どものようにぐずり、ゆっくりと時間をかけて悪い夢と現実を認識しぱっちりと目を見開く。勢いよく身体を起こすと、そこは男爵邸の自室とは天と地の差がある広々とした部屋だった。ベッドも最高級の素材が使われていることがわかる。狭いクローゼットで記憶が終わっているローゼリアは混乱して、身動きが取れなかった。自分の身体を見下ろすと、記憶にあるネグリジェではない。それよりももっと肌馴染みのいい丈が十分ある品のいいナイトドレスだ。

 アーゼンに抱かれて彼の部屋に連れられたのか。いや、彼がそんな手厚く対応するはずがないし、露出の少ないナイトドレスは彼の趣味じゃない。裸のまま執務室に転がしていてもおかしくないのに。

 くくったはずの首に触れても痛みどころか違和感すらない。

 死んでしまったのだろうか。

 そうなら、両親が迎えに来てくれてもいいだろうに。

 一人、ベッドに座ってぼうっとしているローゼリアの耳にノックの音が届いた。あの瞬間を思い出させる音に身体を跳ねさせ、震えて返事ができない。目の前がぐらぐらと揺れて、息が詰まってしまう。

 ローゼリアはひどく混乱していた。その中で、今日がどれだけ大事な日なのかを思い出して、無理やり自分を奮い立たせる。

 ノックの音は止まり、ローゼリアの反応を待っているようだった。ベッドから降りてとびらへ向かい、その奥へ意識を向けても静かで何もわからない。静かで穏やかな朝が満ちた部屋だが、ここにずっといてもローゼリアの不安は解消されない。

 肺に溜まった息を吐き、強張った顔の力を抜いていつものように表情を作る。どこであろうと、相手が誰であろうと、ローゼリアは自身の品格を崩したくない。

 取ってを掴むと手に滲む汗のせいで少しだけ滑った。一度とびらに隙間を作ってしまうと後戻りはできず、そのまま引くと見慣れない使用人が数人ローゼリアに頭を下げる。着ている揃いの服もヘイデ男爵家の使用人とは違う。

「お休みのところ失礼いたします。お支度のお手伝いにまいりました」

 挨拶をした手前の使用人だけ服装がわずかに異なっていた。口調は平坦で感情を見出せず、その言葉の本質を考えて沈黙を返した。

 引き結んだくちびるから何を話せばいいのか悩む、その困惑を察した使用人はローゼリアを決して責め立てない声音で言葉を続ける。

「詳細は私の口からは申し上げられませんが、夫人を丁重にもてなし、すべてのご要望に応えるようにと主人から仰せつかっております」

「主人……と、いうと」

 知らない場所で、知らない人間からもてなされるのは気味が悪い。ローゼリアが主人について聞くと、謝罪とともに己の口からは伝えられないという返事が返ってくる。

 これ以上追及したところでこの使用人の口から情報を聞き出すことはできないだろう。腑に落ちないことばかりだが、ローゼリアにはやらなくてはならないことがある。すべての要望に応えてくれるのであれば、今、ローゼリアが望むことはたった一つだけだ。

 時間は多く残されていない。

「身支度を、手伝ってちょうだい。王城へ向かいたいの」

「かしこまりました」

 ローゼリアの要望が最初からわかっていたかのように、使用人は俊敏に役割分担をして動き始めた。

 だが、ローゼリアは自身の傷を理解していなかった。まずはご入浴を、と勧められた開かれたとびらを前にして足が動かなかった。ヘイデ男爵家とは違う造りだとしても、浴室という空間が嫌でもあの記憶を蘇らせる。数人の使用人が立ち竦むローゼリアをもう一度促そうとしたところで、先頭にいた使用人が浴室のとびらを閉めた。

「お身体を拭きましょう」

「……王城に行くのに、それでは」

「皆、下がりなさい」

 身体を拭くだけで済ます日もあるが、王太子と謁見をするのならば相応の身嗜みがある。自分の身体が綺麗とは思えず入浴をしたいのに身体がついてこない。葛藤が弱音になりかけて口を噤むと、数人の使用人が指示とともに部屋から出て行く。

 残されたのは研ぎ澄まされた顔立ちの、凛とした使用人。

「侍女長のフィリルでございます。夫人、王太子殿下との謁見は二日後に延期しておりますので、まずはお身体とお心をお休めくださいませ。本来であれば私の口から申し上げるべきことではございませんので、詳細はご容赦ください」

「……なんですって?」

 フィリルの言葉をローゼリアは理解できず、赤い目を見開いた。様々な憶測が脳裏に浮かぶ。その中でも計画の破綻が赤く点滅し、眩暈がして目元を押さえる。

 浴室を前にして青白くなっていた肌から更に血の気が引いて、身体が後ろへ傾くとフィリルが慌てて肩を支えた。

「応接室にてデイン子爵様がお待ちです。どうぞ、詳細は子爵様よりお聞きください」

「デイン……? ハロルド・デインがここにいるというの?」

「はい。ですが、お休みになられるのでしたらご準備いたします。私どもは、夫人の意のままに」

「ここは、デイン子爵の邸宅ということ?」

 ローゼリアはますます混乱した。王太子の監視役が、危機に気付いて助けてくれたのか。もしくは、事後を、か。フィリルは返事をせず、ローゼリアの胸に不安が広がる。

 こんな状態では休むことなどできない。いち早く事態を知りたくて、ローゼリアは身支度を整えるようにフィリルへ伝えた。数名に使用人がフィリルの合図で再度部屋へ入り、温かいタオルで身体を拭かれ、落ち着いた色合いだが上質とわかるドレスへ袖を通す。白金の髪を丁寧に梳かれ、緩く編まれて青い石で飾られた。鏡で確認すると少し貴族としての威厳が足りない気がしたが謁見が不要なのであれば拘る必要はない。

 そもそも本当に謁見は延期になったのか。自分は、いったいどうなったのか。記憶から欠けている部分を確認することは恐ろしくもあったが逃げ出すわけにはいない。

 フィリルの前で情けない姿を見せてしまったが、今一度表情を引き締めて、部屋を出る。先導するフィリルに背筋を伸ばしてついていく。すれ違う使用人はローゼリアに気付くと仕事の手を止めて礼をし、通り過ぎると静かに自らの仕事へ戻る。その姿に男爵邸の使用人がどれだけ教育が足りていないか痛感する。

 もしまた使用人のことで口を出せばまた反感を買うだろう。そして、また、ローゼリアのとびらは悪意によって閉ざされてしまうのかもしれない。

 そして、今度こそ……。

「夫人!」

 ついてくる足音が乱れたことに気付いたフィリルが振り返ったときには、ローゼリアは真っ青な顔で倒れかかっていた。後ろに付き従う使用人が手を伸ばしても届く前に壁へ頭がぶつかってしまう――その寸前で大きな手が頭を包み、首に負担がかからないよう身体を包み込むように肩を抱く腕があった。

 ごつ、と耳元で壁と硬いものがぶつかる音がした。真っ暗だった視界が鮮明になるとローゼリアの視界は傾いており、二本の黒い棒が遮っている。その隙間から焦った顔のフィリルが見えた。彼女は礼をしようと頭を下げ、すぐに何かに気付いて上半身を起こす。

 ゆっくりと視界から二本の棒が消えた。髪の毛に擦れる感触が離れて、視線を下に動かして、ようやく自分の頭が誰かに庇われ、身体を支えられていることを自覚する。太く、逞しい腕だ。ローブからはみ出ている前腕だけ見ても体格の良さは見て取れる。

 爪先が床に当てられてもローゼリアは自分の足で立てる気がしなかった。それが恥ずかしくて無理やりにでも自分で立とうと腕から離れようとすれば、より強い力で引き寄せられる。虚勢だとしても侮られたくなくて、力が抜けた舌を噛んで、目尻を吊り上げた。

「離しなさい」

 あれだけローゼリアに対して丁重だったフィリルが背後の男を看過しているということは、彼がこの邸宅の主人なのだろう。

 助けてくれた恩があるかもしれない。そうだとしても自身を軽んじることは血が許さない。

 肩を掴む手をはがそうとするが、両腕ごと抱き込まれているせいで上手く腕が扱えない。男の手が恐ろしく、思う。だが背後から香る冷たくて静かな香りが、あの醜悪な男ではないとどうにか理解して、醜態を晒すのを耐えている。

 男の腕がそっとローゼリアを床に下ろしたが、自分で立ちたいローゼリアの意思とは裏腹に膝がかくんと折れて結局男の一本に体重を委ねてしまう。

 恥ずかしくて、掠れた喉が痛かった。いつの間にかフィリルを含む使用人が全員頭を下げているが、背後の男にはローゼリアの無駄な足掻きがすべて見えているはずだ。

 恥ずかしさと屈辱でうなじが汗をかく。髪をおろしていてよかった、と心の底から思った。このままでいても、腕を放されても、ローゼリアにとっては苦痛だ。ぎぢり、と奥歯が嫌な音が立てた。

「私は、あなたの杖だ」

 低く掠れた声が聞こえた。背中に触れている胸板が響いていなければ、その感情の起伏がない声が人間のものとは判断できなかったかもしれない。

「手を煩わせない杖だと思えばいい。あなたの足となる馬でも、方向を指す羅針盤でもいい。だから、このまま、あなたに使われていてもいいだろうか」

 男爵夫人でしかないローゼリアよりも地位のある立場だとなんとなくわかっていた。しかし彼はあくまでローゼリアの杖であり、足の代わりになると言う。媚びる意味もないというのに下手に出てまでローゼリアを支えようとしている。そんな酔狂で物好きで、あるいは悪趣味な男の顔を見ようと顔を上向かせると、青い目と視線が交わった。

 あの謁見室で、アーゼンに剣を向けていたローブの男がそこにいた。暗がりで青い目が泳ぐ。睫毛で青が陰り、口元を隠しているせいでまったく表情が読み取れない。

「部屋へ戻ってもいい。デインは帰らない」

「いいえ」

 ほとんど反射で返事をした。ローゼリアの中でその選択肢だけはなかった。

 靴の中で足の爪先を丸めたり、伸ばしたりと動かしてみる。腕の中で身じろぐと慎重に身体を下ろされて、足が床につく。膝は折れず、一人で立てている。

 ひっそりと安堵の息を吐き、ローゼリアは男の手を借りずに一歩踏み出した。

「案内して」

 ローゼリアは振り向かなかった。この邸宅の主人に対して無礼な態度をとってもフィリルは何も言わずに案内を再開する。拳を握り、足の筋肉を普段よりも意識しながら歩く。

 素っ気なく低い声が耳に残った。使用人の軽く静かな足音しかしないことにローゼリアは安心した。

 応接室はそう遠くない場所にあり、ソファに座るハロルド・デインは初めて会ったときと変わらない礼をしてローゼリアを出迎えた。しかし男爵邸で監視をしていたときのような距離ではなく、一定の距離感を保っている。

 ローゼリアの身に何が起きたのか知っているのだと簡単に推察できた。

「お加減はいかがですか、夫人」

 微笑みかけられても、今はそれが胡散臭く見える。彼の正体が分からないうえに見当がつかないローゼリアの対応は自然と慎重になる。

「それよりも、謁見がどうなったのか教えてください。王太子殿下は、私を見限られたのでしょうか」

 自身の身を些細として捨てたローゼリアに、ハロルドは眉を下げる。ぴりりとした緊張はローゼリアにとっても毒になりそうで、彼女の求めるものを惜しげもなく挙げていく。

「そのようなことはありません。大変失礼とは思いますが、私の判断で謁見を延期させていただきました。王太子殿下にこのことをお伝えすると、夫人のことを大変心配されておりました。男爵様も延期については異論なく、むしろ喜んでおられましたのでこの延期が夫人にとって不利に働くことはあり得ません。夫人が、ご無事でよかったです」

 ローゼリアが欲しい情報が端的に詰め込まれていて、質問も出てこない。すべてを知っているだろう彼が、ローゼリアに彼女自身の無事を言い聞かせるように前のめりになった意味もきちんと理解した。握り締めていた手から力を抜くと震えてしまいそうで、そうですか、と返事をしても姿勢を崩せない。

 短い付き合いでハロルドはローゼリアの性格を見抜いているようで、無理に会話を続けることはしない。彼女が部屋へ戻りやすいようにおどけて立ち上がった。「大事な仕事が残っておりますので、先に失礼します」と一礼し、ローゼリアが入ってきたとびらとは別のとびらから出て行く。

 応接室にはフィリルしか残っていないが、彼女の前でも気が抜けない。クレアがここにいてくれたらどれだけ嬉しいか。せっかくの二日間という猶予を持て余してしまいそうだ。

「お食事をお部屋へお持ちいたしましょうか」

 姿勢を正し、手を膝に揃え、人形のように動かないローゼリアにフィリルが声をかける。よくよく考えれば、ハロルドからここがどこなのか聞かなかった。だが、きっとここは、あの男のものなのだろう。

 杖に、馬に、羅針盤になりたいと言った、青い目の男。

 客として丁重にもてなされているのに、居心地が悪い。蜘蛛の糸に絡まっているような不自由さが付きまとう。

「いらないわ」

 すっと立ち上がり、とびらに向かえばフィリルは頭を下げた後、数歩前を先導する。不安は尽きず、安心は訪れては消えていく。食事を断ったことに言及はせず、一人になりたいローゼリアを尊重するように部屋の中にまで入ることはしなかった。

 乱れたシーツは整えられ、衝立の奥に温かいタオルとナイトドレスやもっと身軽なドレスが準備されていた。食事はいらないと言ったのにテーブルの上に少しのパンと菓子がある。

 そろり、と足音を立てないように慎重に歩いて、二人掛けのソファの端に座った。ローテーブルには使用人を呼ぶためのベルがある。日の当たらない場所には本棚と絵画。日の当たる場所には花瓶がいくつも置かれ、色とりどりの花が飾られている。

 廊下や応接室の色合いが冷たく感じたのは、この部屋が彩られているせいだろうか。男爵邸の執務室にはない、心を癒すような柔らかな色が添えられている。

 だがクレアが摘んでくるささやかな野の花もローゼリアは好きだった。花瓶に差すとすっぽりと身を隠してしまうような小さな花を二人でくすくすと笑った日を思い出す。

行儀が悪いと思いつつ、ソファの上で膝を抱え、顔を伏せた。

 クレア、と呼んだ泣きそうな声を、彼女の影に潜んだ男は聞いていた。



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