4.監視
ハロルド・デインはワインをグラスに注ぐが、匂っただけで顔から離して傾けた。
趣味の悪い銅像が置かれた応接室の柔らかいソファに一人で座っている。長い足を組むのに邪魔なローテーブルを蹴り、傾けたグラスから零れたワインが床に倒れている女の顔に落ちる。
「これも薬入りか。もったいない」
顔の整った女が運んできたワインはすべて栓が開けられており、怪しいと思っていたが十本ほどもあるのにすべて罠が仕掛けられていた。
アーゼンの思惑とは異なり、ハロルドは女に手を出しておらず、罠に引っかかってもいない。彼は主人の命令でヘイデ男爵の屋敷を訪れた魔術師だった。
女たちが倒れているのも彼の魔術によるもので、殺すことは許可されていないので窒息させ無理やり気絶させたのだ。数日しか滞在していないが、この屋敷の人間は誰も彼も腐っているのがわかる。その中で根を腐らせていないローゼリアとクレアにハロルドは感心した。
一週間という与えられた猶予期間が終わろうとする今日こそは何か行動を起こすだろうとワインも飲まずにただ待っていれば、屋敷の中で魔術の気配がした。
その場所がローゼリアの執務室だということは、主人が判断をされたのだろう。自分の役目が終わったことを告げる合図でもあるので、立ち上がって大きく伸びをし、応接室を出ようとしたところで壁に寄りかかりながら歩くクレアを見つけた。
頬が腫れて、鼻から血が出ており、唇も切れている。泥に汚れた頬に涙の跡が残っていた。
クレアがハロルドに気付くと、一瞬泣きそうな顔になり、すぐに眉を吊り上げる。
「あれだけお嬢様に纏わりついていたのに、ここにいるなんて!」
夜にローゼリアの部屋に入るなと口うるさく言っていたのに。そう言い返したかったが、ハロルドは気迫に負けて黙る。
「早くお嬢様の部屋に行ってください! きっと、いや、絶対に危険な目にあってます! 私を、部屋に行かせないようにして……っ! 悪だくみをしているはずです! 早くお嬢様を助けに行って!」
大きく開いた口の隙間から、血のついた白い歯が見えた。
おそらく女性の力ではない。男に、勢いよく殴られたに違いない。いつも清潔感が漂っている服は汚れ、いくつかのボタンはなく、乱れている。泥がついているということは外に連れ出されて暴力を振るわれ、気力だけで屋敷の中まで来たのだろうか。
状況を冷静に推察しているハロルドを、助けてくれないのだと判断したクレアが「あなたも旦那様と同じだわ」と睨み、隣を通り過ぎようとする。
ハロルドは彼女をどうしようか悩んだが、執務室の辺りで主人の魔術の気配が複数回感じられた。クレアの様子を見ると這ってでも執務室へ辿り着いてしまいそうだ。そして主人の魔術の巻き添えになると、ローゼリアに悪いし、何より目覚めが悪い。
「クレアさん」
ハロルドが引きとめようと呼べば「呼ばないで」と跳ねのけられる。
「クレアさん、手当てをしましょう」
主人のことや執務室の状況をハロルドの判断で話すわけにはいかず、腕を掴もうとすればさっと避けられた。
ライトブラウンの目が大柄な男をまったく恐れず、睨む。
「触らないで」
取り付く島もない拒絶に、手が行き場を失う。怒るなら、今までに見たクレアの、あの顔で怒ってほしい。片手で拘束できる細い腕で背中を押して追い出して、ローゼリアを守ろうとする慈愛の顔が見たい。
「邪魔をしないで」
鬼気迫る表情の抜けた顔が、完全に心を閉ざしたことを突き付ける。もっと縋ればいいのに、と思い通りにならないクレアへ八つ当たりに近い感情が湧くものの、言葉や態度に出せるはずがない。
「クレアさん、夫人は無事です」
少しでも話を聞いてほしくて伝えたのに、クレアは「信じない」とまた足を進める。その隣を付き纏い、一生懸命話しかけるが無視をされる。身を屈めて視線を合わせようとしても、クレアの瞳は遠くを見ていてはほとんど前が見えていないようだった。
このまま放っておくわけにはいかず、こうなれば気絶してくれるのを待つつもりでクレアに付きまとう。
階段にまで辿り着き、さすがに危ないと落ちてきたときに受け止められる背後で構えていると、コツコツと革靴の音がした。エントランスの真正面の幅の広い中央階段へ向かってくる男に気付くとハロルドは胸に手を当てて頭を下げる。
「公爵閣下」
「お、お嬢様……」
ハロルドは男に礼をし、クレアは男の腕に抱かれたローゼリアに目を見張った。焦りから乱れた足取りのせいで段差に躓き、傾いた身体をハロルドが受け止める。びくりと怯えて身体が震える。ハロルドを見上げる目が恐怖で染まり、暴れそうな予感に魔術を使った。
直後、腕の中でくったりと力が抜けた身体を抱え、ため息を吐く。クレアをどうするか悩むが腕に抱いてしまった以上放り投げるわけにはいかない。
「閣下、この使用人も連れて行ってよろしいですか」
階段を下りてくる男へハロルドが問いかける。
薄いネグリジェ一枚のローゼリアに男は自身のローブをかけていた。そのせいで隠していた黒髪と青い目と、王太子に似た顔立ちがあらわになっている。
逞しい腕にローゼリアを丁寧に抱き、ハロルドの言葉に頷くだけで足は止めない。屋敷の外で待っていた馬車に乗り、膝に女を乗せた男たちは向かい合う。
「夫人はご無事ですか」
ローブに覆われて顔しか見えないが、涙の跡が見える。見た目はクレアのほうが派手だが、彼女の寝室である執務室で何が行われたか簡単に想像できた。
ハロルドは王太子から派遣された監視役ではない。闇と同化する魔術が使える公爵のアロイス・オルデガインが、あの謁見室を出た瞬間からローゼリアの影に潜んで監視していた。
謁見室でアーゼンに剣を向けたのもアロイスであり、ローゼリアが足台を蹴った瞬間に魔術で意識を奪い、身体を支えたのもアロイスだ。本来ならば一週間の間影に潜むというのが王太子からの命令だったが、命を失う瞬間を目前にしては動かずにはいられなかった。
クローゼットの暗闇で声を殺して震え、泣く二十歳のローゼリアを、見殺しにできるはずがない。
「男爵たちは?」
「死んではいない」
「それは当然です。謁見できる程度にまで無事でしょうね?」
「五感に手を加えてはいない」
ハロルドの問いに最低限の言葉で返答するアロイスだったが、彼が言うのであれば一先ずは無事ということだろう。国家の裏に通じるハロルドとしては死んでしまったほうが処理をしやすいのだが、それでは王太子の命令に背くことになってしまう。
姿を見せて介入してしまっている以上、命令に背いているのだが事情を説明すればさすがの王太子も酌量減軽してくれるはずだ。魔術で意識を飛ばしている二人がちょっとやそっとの刺激では起きないのをいいことに、ハロルドは彼女たちについて話をする。
ローゼリアの強さ。賢さ。クレアといるときに見せる柔らかな顔。あの男爵の妻を三年間も務めた責任感。クレアが殴られてもローゼリアを助けようとしていたこと。
それらはハロルド以上に、アロイスも知っていることだった。謁見室でも男爵に乱暴をされても毅然としていたのに、執務室でクレアと二人でいるとき、一人になったときにふと見せる柔らかさや心細さがアロイスの胸に残っている。
ドレスを脱いだあの薄着の頼りなさや、裸体の清らかさも脳に焼き付いているが、あの男に追いかけ回されて怯える姿がよぎると魔術がぱちんと弾けて馬車の中で火花を散らす。
「……魔術暴走ですか? 初心者がすることですよ」
ハロルドが笑みを浮かべて指摘すると、青い目がじろりと睨む。
「お前も屋敷でしていただろ」
「うーん」
魔術は魔術師にしか視認できないものがある。今の火花も非魔術師からすれば光も音も感じることができず、衝撃のみ身体に届く。魔術暴走は感情の乱れによって制御が外れる事象を差し、魔術に触れ合たばかりの初心者によく起こるものだ。
それを起こすほどに先ほどアロイスは感情を揺らし、また、ハロルドは傷だらけになったクレアを見たときに魔術暴走を起こすほどに感情を昂らせていた。
こればかりはお互いのことは言えない、と黙り込む。
魔術によって馬は静かに速く道を駆ける。王都にあるオルデガインの別邸へ誰にも気付かれないうちに到着すれば、残り短い夜を快適に過ごすために無駄な装飾がなくともすべてが高品質とわかる部屋に向かい、柔らかく広々としたベッドへローゼリアを下ろす。
魔術で意識を奪っておいて、目が開かないかと期待し見つめてしまう。細い首筋は雪のように真っ白だが、アロイスが少しでもタイミングが遅れていればここに赤い跡が残っていたかもしれない。
クローゼットで彼女の覚悟を見た。閉じる瞬間まで赤い瞳も、彼女も美しかった。
月の光を遮るように立ち、アロイスはローゼリアの寝顔を眺める。
そうしていると、朝はすぐにやってきた。アロイスが望んだ瞼が開く瞬間を、真正面からようやく見た。




