3.覚悟
ローゼリアは監視の件を覚えていたが、一晩経てばアーゼンはすっかり忘れたようだ。
目が覚めると三年間と変わらない生活が待っていた。具体的にはローゼリアが執務をこなし、男爵夫人でありながら使用人には無視をされ、ベラにはマウントをとられて嫌がらせをされ、アーゼンから理不尽な怒号と暴力を受ける。
だが、アーゼンが監視の件を忘れるのも無理はない。使用人の顔ぶれはやはり変わらず、執務室にいても廊下にいてもどこにいても、ローゼリアは視線を感じない。
まさか、王太子は既に見限っているのだろうか。そういう選択をしたのだろうか。一人で執務室にいるとき、不安に襲われて宙へ窓の外へ向かって「ねえ」と声をかけてみたこともあったが、返事はない。
日に日に不安は募り、食事が喉を通らなくなった謁見から三日目。王城から手紙と人材が届いた。手紙の内容は先日の通り監視役を送るというもので、監視役として派遣されたのは王太子が選んだ侍従のハロルド・デインだ。
ハロルドは三十代前半であり、王太子の補佐として働いている平民だ。姓があるのは代々侍従を輩出する子爵家の養子となったためだ。血の繋がらない兄弟がたくさんいるのだと大きな身体で穏やかに笑う彼にローゼリアは安心した顔を、アーゼンは不満そうな顔をして屋敷へ迎え入れた。
監視らしく、ハロルドは屋敷へ滞在し始めてからローゼリアのそばに控えた。常にそばにいるのでクレアからは不審な目で見られて身体を小さくし、着替えや入浴後などは執務室から広い背を押されて追い出されてしまった。
監視と聞いて倒れるほどに驚き、怒ったクレアにこれ以上心配をかけたくなくてハロルドが退室することを許可したが、本当ならば常に監視をしてほしかった。いつ、どこで自分の身に危険が迫るかわからない。
たったの一週間が長く感じる。王太子が監視を派遣したということはローゼリアの嘆願を聞き入れてくれる可能性があるということ。希望を持てるということ。
ハロルドが訪れてからアーゼンとの時間とスキンシップがわざとらしいほどに増えたが、ローゼリアは決して彼に心を許さなかった。好きでもないものを好物と紹介され、ベラに買った似合わないドレスをプレゼントしたのだと話す。それらすべて否定したかったが、王城からの客人の前で醜態を晒したくなくて最低限の相槌だけをした。その素っ気ない態度がアーゼンは気に入らず、隠しきれない怒りがマナーのなっていない手付きをいつもよりも乱暴にしていた。
突き刺す視線を浴びながら、ローゼリアはハロルドがいることで安心して少しだけ食事の量が増えて睡眠の質が上がった。あと数日待てば、王太子と謁見し彼の答えを聞くことができる。
そのために最後までローゼリアはローゼリアを守らなければならなかった。
ハロルドが訪れて三日目。翌日に謁見を控えた、ローゼリアが思い悩む最後の夜がきた。
いつもよりも念入りに身体を磨き、髪に櫛を通す。緊張と不安と期待で眠れずに窓際の椅子に座って月を眺めていると、乱暴にとびらが開かれた。
クレアとは考えらず、無礼な来訪者を叱責するつもりで薄いネグリジェの前を隠しながら立ち上がる。厳しい眼差しで、想像していた最悪のパターンを好転させるべく考える。
「……何の用でしょうか、旦那様」
上半身裸で、酔っぱらったアーゼンが立っていた。だらしない腹を揺らし大股で近付いてくる彼から逃げる。机を大回りして、浴室に逃げ込むが鍵を閉める前に強い力でとびらを開かれた。浴槽を真ん中にしてぐるぐると逃げていると、アーゼンの下半身が猛っていることに気付く。
怯えた顔をしたローゼリアににたりと下品な笑みを浮かべたアーゼンはその場で服を脱いだ。ローゼリアが軽蔑していることに気付かず、全裸の腰に手を当てて誇らしげに胸を張る。
「ローゼリア。ベラがな、お前を一回抱くだけで問題は解決するというのだ」
アーゼンはローゼリアを散々罵った。その罵った相手を抱くほど女に困っておらず、ローゼリアを無視することで彼女の矜持を傷つけていた。ローゼリアの目が届く場所で使用人を口説き、抱く。アーゼンは女としてのプライドを傷つけていたつもりだが、ローゼリアは自分が女主人としての責務を果たせないという貴族としての矜持を傷つけられていたのだ。
嫁いだばかりの頃に一度でも抱いてくれたらと思ったこともある。自分から頼むことはしなかった。あの男に下げる頭は持ち合わせていない。
その誇りに今は感謝している。この身体と血はアーゼンに渡すにはもったいない。
「ベラは良い女だ。お前では勃たんだろうからと、な、こうして準備までしてくれた」
ベラに褒め称えられたのだろうそこを撫でる手付きに虫唾が走る。近付いた分だけ距離を取る。浴室から出て助けを呼びたいが、とびらへ向かい、開いている間に捕まりそうだ。無駄にすばやく、腹が立つ。
「監視の目があることをお忘れですか。このような状況で強引に迫っては、旦那様の立場が危ういのでは? 今のお姿を見られては、言い逃れできませんよ」
隙を作りたくてあえて挑発的に言った。いつものように怒り任せに暴れればいい。
「愚かな真似はおやめください。まるで、発情した獣のようです」
換気のために窓が開き、天窓からは明るい月の光が差す。後で掃除に来るつもりだったのだろう、クレアが残した燭台のせいで浴室は明るかった。
アーゼンはローゼリアの挑発を耳にしているはずなのに、やけに静かだった。酔って理性も脆いはずなのに、いつもとは違う。
不思議に思いながら近付いてくるアーゼンから距離を取っていると、浴槽の影に隠れていた股間の手が動いていることに気付いた。アーゼンの濁った目はローゼリアを見つめ、じろじろと薄いネグリジェに透ける肌に釘付けになっている。
アーゼンが、自分の身体を性的に見て自身を慰めていると脳が理解すると、ローゼリアは吐き気がした。ショックを受けて指摘することも罵ることもできず、身体をぶるりと震わせた。
「ローゼリア。ローゼリア……。監視の、あの男はな、今頃アンナとソフィアと酒を飲んでな、楽しんどるはずだ。なあ……誰も、助けにはこんぞ。ひひっ」
浴室に熱を帯びた興奮した息遣いが響いて悪寒がするローゼリアとは反対に、アーゼンは熱を帯びていた。抱き心地の悪そうな娘だと思っていたが、ネグリジェ姿はそそるものがある。表情を取り繕う余裕もなく、挑発をしながらも怯えているのがわかる。
あれを組み敷いて、自分の下で喘ぐ姿を想像すると扱く手が速くなった。
視線で犯されるのを代償にして、チャンスはやってくる。ローゼリアが最もとびらに近い位置で、アーゼンが欲を解放した。その隙に浴室を出る。廊下へ出ようとして、――とびらが開かなかった。
息を呑む。迷う時間はない。浴室のとびらが開く直前で、ローゼリアはクローゼットへと身を隠す。
「ローゼリア。ローゼリア!」
覚束ない足音と、大きな声が響く。とびらが開かないのは使用人が主人の愚行に協力しているせいだろう。使用人の中で盗みや平民を相手にした詐欺が横行していた現状を正したのが嫁いできたローゼリアだ。
その腹いせか、金で動いたのか、どちらかはわからない。
何かが倒れる音がする。名前を呼ぶ声は近づいては離れ、離れては近づく。
ベラは賢い。ローゼリアは自分がアーゼンに抱かれると自分の計画すべてが水の泡になるとわかっていた。ハロルドが今来てくれたら、と思うが、アーゼンが名前をあげた女は使用人として雇われているが元は娼婦だった。あの穏やかで気の弱そうな男がはたして敵うだろうか。この屋敷には行為を盛り上げるための薬や道具もあり、ベラの毒に侵されて身動きができない状態かもしれない。
彼が見ていない状況で、この行為が合意でなかったと一人で主張しても王太子殿下は納得してくれるだろうか。
否、そんな都合のいいことになるはずがない。ただの痴話喧嘩で終わってしまう。ローゼリアの矜持がそこで終わってしまう。
涙の膜が張って、ローゼリアの視界が滲む。悩んでいる暇はない。声は、すぐそこだ。
クローゼットの中を静かに手探る。ブラウスの袖やタイやスカーフを一か所に集めて、ハンガーパイプに結び付ける。狭い空間で自分の息が荒くなり、大きくなっていることに気付いていた。急がなければ、と震える指先で上質で丈夫な布を何重にも重ね、輪ができた。
深呼吸をしようとすればするほど、呼吸の間隔が浅くなる。全体重をかけてぶら下がっても解けず、千切れないことを確認する。ぎ、い、とパイプが軋んで、心臓が止まる心地がした。
脳裏に両親と、妹と、優しくしてくれたクレアの顔が浮かんだ。もしかして今、この時が夢じゃないかと現実逃避もしてみるが、何度瞼を閉じて開いても暗いクローゼットの中。苛立ったアーゼンの声に肩を竦めて、涙が零れた。
「出てこい、出てこいローゼリア! 俺が、夜が明けても、昼になっても、可愛がってやろう!!」
今、助けが来てくれたらいい。今。今。今。
もう少し待ってみたら、と、考えながら、クローゼットの中にある足台を引き寄せて上に立つ。いつもクローゼットからドレスを出すときにクレアが使っていたものだ。こんなことに使われたと知ったら悲しむだろうか。だから、もう少し待ってみようか。
「旦那様! どうしておひとりでいらっしゃるの!」
ローゼリアが押してもとびらは開かなかったのに、さっきまでいなかったはずのベラの声がした。
酔っぱらった間抜けな男だけであれば朝まで待てたかもしれないが、狡賢いベラも加わって逃げられるはずがない。声がぴたりと止むと、不安が襲ってくる。
しばらくして、「やはりベラは賢いな!」と笑う声がした。
ドンッ、と欲望に満ちた大きな足音が近づいてくる。耳鳴りがして、頭が痛い。
コンッ、コンッ。
ローゼリアの心を弄ぶノックの音がした。息が止まる。心臓が叫ぶように急いている。
鍵のないクローゼットのとびらを叩かれて、その音を聞いて、ローゼリアは目を閉じて足台を蹴った。




