2.積年
王太子の監視がつくというので、てっきり侍従や騎士がそばに控えるのかと思ったが、とびらを出てもヘイデ男爵夫妻に付いてくる者はおらず、王都にある別邸に着いてもその顔ぶれは変わらない。
ヘイデ男爵はまだ監視役が派遣されていないと思い、既にローゼリアへの態度は謁見室で見せたときとは異なっている。馬車の中ではローゼリアへ怒号を飛ばし、壁や床へ怒りをぶつけ大きな音を立てる。馬車を下りれば乱れた髪の毛を引っ張り手綱のように引っ張る。そこに愛は感じられない。
「この、女……! 俺の顔に泥を塗りやがって! 王太子殿下が味方になったつもりでいるだろうが、お前の思い通りにはさせんからな!!」
無駄に飾られたエントランスホールに投げられ、細い身体が柔らかな絨毯に沈む。冷めた眼差しに睨まれると、ヘイデ男爵の怒りはますます大きくなる。ぴかぴかに磨かれた革靴に手が踏まれそうになった時、ローゼリアは声を張り上げた。
「王太子殿下は監視をつけるとおっしゃいました! 今、どこに、殿下の目が潜んでいるかわからないことをお忘れですか。旦那様」
とってつけたような旦那様という呼び方も癇に障る。二十歳近く年齢の離れたローゼリアを三年前に妻に迎えてから、毎日のようにアーゼン・ヘイデは苛立っていた。
初めて見たときにはその美貌と若さに骨抜きになったが、すぐに貴族との婚姻の意味を分からせられた。ヘイデガン商会の会長の三男であるアーゼンはその財力で女関係がだらしなかった。財力を求めて女性から近付くことが多く、アーゼンの言葉に逆らう女はいないに等しかった。
しかし、ローゼリアは違う。
貴族の血を次世代へ混ぜるためにローゼリアと結婚したが、彼女は決してアーゼンに媚びなかった。機嫌を取ることをせず、むしろアーゼンの機嫌を損ねることばかりをした。
結婚した当日からヘイデ男爵家の領地の経営や、財政について小言が始まった。結婚が決まってから既に調べていたようで、男爵夫人、ヘイデ家の女主人という立場を得るとすぐさま行動に移した。それは結果的に領民や財政困難を救う手立てとなったが、アーゼンにとって印象は最悪となった。
初夜ですら小言、追及に嫌気がさして自室へ戻り、以降も関係はない。その結果、アーゼンは使用人に手を出し、夫の浮気を正して二年、黙認して一年が経ち、私生児を使用人が授かったことを知った。
アーゼンの腕に抱かれた使用人はローゼリアへ勝ち誇った顔していたが、二人の予想に反してローゼリアの反応はほどく落ち着いたものだった。今後、その子どもはどうするつもりか、自分の立場は、ヘイデ家の行く末は、その子を成した女をどうするつもりか、とこんこんと問われ続け、二人は激昂した。
ローゼリアへ汚い言葉を浴びせ、使用人の女はゆくゆくは自分が女主人になるつもりでローゼリアを詰った。アーゼンも自分の味方をしてくれる豊満な使用人の口車に乗せられて、ローゼリアを追い詰める。
不貞、裏切りをしたというのに、潔白の我が身が貶されることがあってはならない。ローゼリアはすぐさま謁見の申請を行い、そして今に至るのだ。
ローゼリアの言葉に振り上げていた足を止めたアーゼンは、辺りをきょろきょろと見回し、ふっと鼻で笑った。それなのに蹴ることはしない、小心者。
「明日は俺が謁見に行く。そのときに俺が話をすればお前のたくらみも終わりだからな!」
「謁見したって無駄です。監視ほど確実なものはないんですから」
「監視こそが無駄だと伝えに行くんだよ! お前のような嘘つき女のくだらない話で迷惑をかけるわけにはいかないってな!」
起き上がろうとしたローゼリアを突き飛ばし、自分の言葉が信じてもらえると確信してアーゼンは笑う。
王太子との謁見のために高いヒールを履いたせいで、大きくバランスを崩した身体を支えきれずローゼリアはまた倒れ込んだ。エントランスに控える使用人も、辺りで仕事をしている使用人も、誰もローゼリアに手を貸さない。庇う者もいない。
今までの三年間と変わらないようでいて、床に這うローゼリアを見る目がひとつ増えていることを信じるしかない。
何度突き飛ばされても決して媚びないローゼリアを次々と罵倒するアーゼンに、女が一人近付いた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
甘ったるい口調に敬愛はなく、子が出来てからは使用人の服ではなく貴族のように着飾っている。まだ膨らんでいないベラの腹に、アーゼンの子がいた。
ベラはルージュが艶やかな唇をアーゼンの頬に当て、ぴったりと隙間なく寄り添ってローゼリアを見下し、くすくすと笑う。優越感に浸っているようだが、ローゼリアは何一つ羨ましくない。
アーゼンは今日の出来事を誇張して、ローゼリアを悪者に仕立て上げてベラへ話して聞かせた。機嫌取りが上手い彼女はアーゼンが求める反応をして見せる。時には目を丸くして驚き、時にはうっとりと眦を蕩けさせて、見事な技でアーゼンの機嫌を取る。舞台女優にでもなれそうな演技力だけは尊敬するが、薄っぺらい二人のやり取り見る義務はない。さっさと自室へ戻ろうと立ち上がる。
階段を昇り始めたローゼリアを追いかけてまで文句を言おうとするローゼンをベラが引きとめた。柔らかく張り出た胸を腕に押し付け、愛情を請う。子ができてしまっては、よりアーゼンの愛情が必要なのだろう。妊娠をした愛人は、いかに愛情が続くかによって立場が変わってくる。痴情の縺れの果てに血が流れることは少なくない。
乱れた姿を見ても、誰にも声をかけられずに自室へ辿り着く。自室といっても、実際は執務室だ。ローゼリアを疎みながらその経営の手腕に頼るしかないアーゼンは様々なものをローゼリアから奪ったが、女主人の座だけは奪わなかった。半日留守にしただけで机には書類が溜まっていた。雑な補佐官の誤字脱字、計算ミスの多い書類に負担は大きい。それでも貴族の責任を果たすためにローゼリアが手を止めることはできない。
日が沈んだ薄暗い部屋で立ったまま書類に目を通していると、この屋敷で唯一ローゼリアの味方である使用人、クレアが部屋を訪れた。
ノックの後にカートに燭台と簡単な食事を用意して入ると、ローゼリアの姿に小さく悲鳴をあげる。
「お、奥様。まずは手当てとお着替えからです……!」
三年間、ローゼリアがどのような扱いを受けているか知っているクレアは、もう怪我をしていることにも、身嗜みが崩れていることにも驚かなくなってしまった。
ただいつも自分のことを後回しにするローゼリアの心配をすることだけは怠らない。部屋に明かりを灯し、ローゼリアの手を優しく掴んで椅子へと誘導する。
学んだことはないのに、長い間手当てをしているのでクレアの手付きは慣れたものだった。濡らした布で血を拭い、傷の深さを見て消毒をする。幸い血は止まっており、傷はほとんど塞がっていた。
それでも心配性なクレアはガーゼを当てて包帯を巻く。これはローゼリアに無理をするなという彼女なりの小言だった。髪をまとめていたピンや紐を外すと、癖のついた白金の髪が背中へ流れる。ドレスを脱ぎ、コルセットを外せば、青白い肌に薄い肉付きの身体が晒された。
「ご入浴されますか? それとも、お身体を拭きましょうか?」
執務室には風呂場もトイレも隣接している。クレアはいつローゼリアが帰ってきてもいいように入浴の準備を済ませていたらしく、先に入浴をしても言いようにと運んできた食事はサンドイッチにしたようだ。
気が利く彼女にふっと笑う。この屋敷で、クレアといるときだけが気を抜くことができた。
「お風呂に入るわ」
「はい! すぐに準備してまいりますね」
ローゼリアに問いかけたものの、疲労の滲むローゼリアにゆっくりと浴槽に浸かってほしかったクレアはぱっと満面の笑みを浮かべて浴室へ向かう。
コルセットも外し、ドロワーズを下肢に纏うだけの無防備なローゼリアはふと窓が近いことが気になって執務室の隅に置かれたベッドへ移動する。肌を隠すようにシーツを手繰り寄せ、視線だけで部屋の中を見回す。どこも変わったところはなく、視線も感じないが、今も王太子の目は見ているのだろうか。
ローゼリアが二十四時間ずっと、と言った。自分の身を守るためとはいえ、入浴中も、もしかすれば排泄中でさえ見られるかもしれないと思うと少しだけ後悔するのも仕方ないだろう。矜持を守るためなら何だってできる、その覚悟をしているのに、一人になると心細くなる。誰にも見られていないと思うと弱音をひとつ、ふたつ、吐きたくなる。
成人しているとはいえ、胸の奥に厳重に鍵をかけて隠している本当のローゼリアはまだ幼い。エイフォルネ家のために大人の真似事をしているだけで、舞台女優のように演技がうまいだけで、油断をすると二十歳相応の柔らかい部分が溢れてしまいそうだった。
今夜初夜かと思うような恥じらいで身を隠し、もぞもぞと身動ぎをしているとクレアが準備を済ませて戻ってくる。誰にもいないのにシーツに隠れるローゼリアをくすりと笑う彼女はローゼリアと年齢が近いように見えて二十六歳と年上で、時折見せるローゼリアの幼い部分が可愛くて仕方なかった。
さあさあ、とローゼリアの手を取って、シーツを外す。浴室に入った後も脱衣をしないローゼリアに首を傾げる。お疲れですか、と心配をされても、事情を話してクレアが何かに巻き込まれると困るので、首を振っておく。誰の視線も感じないので、ローゼリアは思い切って服を脱いだ。右手が濡れないようにクレアに身体を洗ってもらい、浴槽に浸かると凝り固まった筋肉がじわじわと溶けていくようだ。
白金の髪も櫛と石鹸で整えられながらうとうとと瞼を閉じる。
その姿を、闇が見ているとも知らず。
ローゼリア・エイフォルネ。
エイフォルネ伯爵家の長女であり、本来ならば平民上がりの男爵にこのような扱いを受ける立場ではない。しかし両親が他界して叔父夫婦がエイフォルネ家を継ぐと、ローゼリアと次女のエリナは叔父夫婦に粗雑に扱われた。両親と誇り高く守り続けていたエイフォルネ家の矜持を傷つけ、湯水のように金を使った挙句に売り払われるように美しいローゼリアは四十歳に近いアーゼンに嫁がされた。
あの叔父夫婦の元にエリナを残すことは考えられず、両親へ忠誠を誓う使用人とともに叔父夫婦と仲の悪い母の生家へと逃げる手はずを整えた。きっと今頃、暖かな南部で不自由なく暮らしているはずだ。
ローゼリアは現状についてマシだと思っている。貴族との闘いに比べれば、アーゼンを相手にすることは難しくない。ただ痛みに耐えればいいだけと思っていたのに、彼は不貞を働いた。
誓って、ローゼリアは夜を拒んでいない。ただアーゼンの気が乗らなかっただけだ。夜を過ごす覚悟も、好きでもない男の子どもを産む覚悟もして、ヘイデ男爵夫人として責務を果たしていたのに、それを裏切った。
ベラが妊娠したという報告とともに告げられたのは、ローゼリアを侮辱する言葉だ。ベラを正妻とし、ローゼリアは愛人の地位へと落ちる。子どものために、領地のために不正まで指示をされた。仮にも商人であるアーゼンが不正の話をし始めるはずもなく、金と地位に目が眩んだベラが悪魔のようにアーゼンを誘惑していた。
使用人が最も広く日当たりのいい部屋を使い、ローゼリアが使うはずの化粧品やドレスを独占する。ローゼリアにとって無価値なものはいくらでも譲ることができたが、ローゼリアの生き方を否定し悪事に手を染めろという指示にも、このローゼリア・エイフォルネが矜持と誇りを軽んじられて黙っていられるはずがなかった。
尊い血は尊きを高め、尊さを違わず尊く在れ。
領民と王を守るために生まれたのだと両親は語っていた。その教えをローゼリアは忘れたことがない。長女であるローゼリアはエリナよりも苦難が多いだろうと、厳しく教育した両親のおかげで王太子との謁見もうまくいったのだろう。
ローゼリアの生き方は、誇りは、矜持は誰にも傷つけさせない。
あとは王太子を信じるしかない。一介の男爵夫人の嘆願をどう処理するかは彼にかかっている。
余所の男と関係を持った王太子妃を三人処刑した王太子だからこそ不貞を強調したのだが、効果があったのか逆効果であったのかはわからない。王太子の座を巡って兄弟を皆殺しにしたと聞く血の王太子。
謁見の場では優しそうに見えたが、情に流されるひとではないのだ。
油断はできない。どんな形であれローゼリアの覚悟は決まっている。
「奥様、湯冷めしてしまいますよ」
優しい温度に溶けていると、クレアに声をかけられて瞼を持ち上げた。髪の毛は水気を拭いてタオルに包まれており、浴槽には花弁が浮かべられている。
湯冷めをする温度ではないのに声をかけたのは、ローゼリアが本格的に眠ってしまいそうだったからだろう。タオルを広げて身体を拭く準備をしているクレアをとろんとした目で見つめて、浴槽に手をかけて立ち上がる。
「お疲れですね。ベッドでゆっくりお休みください」
ふわふわしたタオルに包まれて、心地よさそうに目を細める。眠気が強いときのローゼリアのこの姿を知るのは、エイフォルネ家の使用人と家族と、クレアだけだ。瞼が閉じないように声をかけて、拭いた身体にネグリジェをかぶせてベッドへ倒す。
硬いマットレスと枕の上で寝心地のいい位置を探すと、布団をかけずに寝入ってしまうのでクレアがそっと細い身体へ布団をかける。
化粧を落としたあどけない寝顔が、クレアの胸をつきんと刺した。
王太子の謁見はうまくいったのだろうか。帰って早々アーゼンに暴力を振られていたということは、ローゼリアの思った通りにことが運んでいるのだろうか。
色々と気になるが、クレアは仕事やヘイデ男爵の話を自分からすることはなかった。ローゼリアと何気ない話をして、少しでも気を抜いてほしかったからだ。
「おやすみなさいませ、お嬢様」
奥様と呼ぶには違和感のある年下の女主人。
ローゼリアが眠っている時だけクレアはお嬢様と呼び、頭を撫でる。そうすると、ローゼリアの表情がほわりと綻ぶのを知っていた。




