7.魔術
くすん、くすん。泣き声は次第に落ち着き、互いの身を案じる声を小さく掛け合う。
使用人として務めて長いクレアは泣いて体温のあがったローゼリアを心配して、ゆっくりとソファへ誘導する。冷たいタオルと、水分補給の水が欲しかった。初めての場所で勝手がわからずにローゼリアの手を握ったまま辺りを見回すと、タイミングよくノックの音がする。ぎゅ、とクレアの手を握る力が強くなり、その反応で来訪者を警戒するととびらから顔を覗かせたのはハロルドだった。完全に消えてはいない猜疑心が湧くが、わざとらしく腕まくりされた前腕の青さで記憶よりも異質な恐ろしさを抱かせた説得を思い出し責め立てるのはやめておく。
「これ以上近付きませんから、お話だけさせてください」
ローゼリアは泣いた顔を見られたくなくてハロルドを振り向かない。クレアは自分の顔がどれだけ崩れていても主人の盾となるべく、ハロルドを見据える。真っ赤になった鼻がおもしろい、とハロルドはクレアの顔を見て考えていた。
言葉通り、壁に背中を着けたまま最大限距離を空けてハロルドは二人が知りたいであろう情報を公開する。二人の反応を見ながら応接室では伝えきれなかったことまで。
ここはオルデガイン公爵の邸宅で、二日後の謁見までゆっくり休んでほしいこと。クレアも賓客として扱うが好きに過ごしてほしいこと。この邸宅で過ごすうえで不便がないよう主人より仰せつかっていること。
「オルデガイン公爵閣下は、奥様と私の事情をご存じということでしょうか」
「はい。閣下は二日後、謁見室に着くまでのすべてのサポートをするようにと仰せです」
ローゼリアは、オルデガイン公爵は王家の血を引く老人と聞いている。社交界や王家主催のパーティーにも顔を出さない厳格な老兵。亡き父は多少親交があり人柄が素晴らしいと褒めていた。見たことない老人より、オルデガイン公爵と聞いて浮かんだのは杖となることを望んでいた男だった。
彼の息子だろうか。しかし、オルデガイン公爵は子どもを持たず、夫人も若くして亡くなっていると記憶している。
ローゼリアはハロルドに背を向けたまま、謁見室とここで出会った男について聞いてみることにした。
「青い目のお方をご存じない?」
「……奥様?」
「ローブを深くして、口元も隠した方」
青い目、と聞いてクレアはそれを見たことがある気がした。記憶が鮮明じゃない。どこで見たか思い出せなくて、腹の奥がかき混ぜられるような不快感がする。
ヘイデ男爵邸でローゼリアを抱えたアロイスをクレアは見たはずだが、記憶の混濁が起こっているらしい。せっかく落ち着いているのにあの日の記憶を掘り起こすのはハロルドの望むところではない。
ローゼリアの問いかけに、「青い目の客人はいらっしゃいませんよ」と答えておく。嘘ではない。そもそもハロルドの一存で主人についてぺらぺらと語ることができないので、使用人の肩身の狭さを滲ませて困った顔をしておく。
フィリルが公爵邸の侍女長が深々と頭を下げる高貴な相手をハロルドが知らないはずがない。ローゼリアはすぐに彼の言葉が偽りだと見破ったが、言葉を噛み砕けば簡単に真意がわかった。
客人ではない、のなら。ある程度可能性は限られる。
「とにかく、お二人は本日と明日、ゆっくりとなさるのが私たちの望むところです。どうか、遠慮なさらず、馬車馬のようにこきつかってください」
これ以上の追及がされないようにハロルドは手を叩いて納得しきれない雰囲気を切り替える。腕が折れていることを知っているクレアは遠慮なく叩いた手にびくりとしたが、彼が痛みを感じている様子はない。
にこにこと穏やかな笑みで、「クレアさんもここでは賓客です。使用人を困らせるようなことをなさらないでくださいね」と名指しで釘を刺され、ぐっと唇を噛む。返事など期待していなかったようで、ハロルドはさっさと出て行ってしまった。
二人だけの空間に戻ると、ローゼリアとクレアの吐く息が重なった。
「……お疲れでしょう? 水を少し飲んで、身体を洗って、横になりましょうか」
涙の跡が乾いた頬を撫で、優しく問いかける。ハロルドの言った通り主人に必要なものは休息だ。王太子と何についての謁見をするのかまでクレアは把握していないが、彼女が最高のコンディションで臨めるように尽力したい。
「オルデガイン公爵閣下へのご挨拶も不要なのでしょうね。私はまだ、すべてを信用できませんが、あの男が助けたのは、間違いないのでしょうし……」
独り言のようにクレアがささやく。まだ夢を見ているようだった。
それはローゼリアも一緒だが、入浴を促されるとたちまち進まない足が今も、あの時も夢でなかったと思い知らされる。だが、クレアの手を握っていると先ほどよりも呼吸が楽だった。難しい顔でローゼリアのことだけを考えている、信頼できる彼女がそばにいると弱い部分を委ねてしまう。
腕の中で泣いてしまったせいで、少し箍が甘い。ぎゅ、とクレアの手を握り、ローゼリアは上目遣いでクレアを見る。
「お風呂、一緒にきてくれる?」
「もちろんお手伝いしますよ」
当たり前のことを確認されて、少し不思議そうに、だが安心させるようにクレアが笑う。ローゼリアの手を両手で包んで視線を合わせれば、赤い瞳が不安に揺れていることに気付いた。
「奥様?」
主人の気持ちを掬いきれずクレアが首を傾げると、ローゼリアはぽつんと「一緒に入ってほしい」と言う。
使用人の自分が主人と入浴できるはずがない。驚いて恐縮したが、ローゼリアはクレアの手を握りハロルドが言った言葉を繰り返す。この邸宅にいるうちは、クレアは使用人ではない。自分が望んでいるのだと念を押せば、ローゼリアに甘いクレアが折れるのは早かった。
浴室でクレアの身体にある暴力の痕跡にローゼリアは怒りに燃え、そしてクレアもまたローゼリアが珍しいお願いをした理由を聞いて泣きながら浴槽に張った湯を叩いた。
真っ白に磨かれた陶器の浴槽は女二人が浸かっても窮屈ではない。準備された石鹸は花の香りがして、ヘアオイルやパウダーも石鹸と喧嘩をしない控え目な香りがする。
ローゼリアの飾らない高めの声と、クレアの落ち着いた声が浴室に響く。湯が跳ねる音、瑞々しい肌が当たる音、ひたりと裸足がタイルを打つ音。
ローゼリアに用意された部屋とは真逆の位置にあるこの邸宅の主人の部屋で、男二人は無言で聴覚と嗅覚に脳を焼かれていた。
決して変態的な趣味ではない。すべては魔術のせいだ。
アロイスには『次の謁見まで監視をする』という魔術がかかっているせいでこの邸宅内でもローゼリアは彼の目から逃れられない。とびらの向こうで二人の話を聞いていたハロルドが、入浴の準備をしている間に主人を呼びつけ、一波乱あった。
その結果、アロイスとハロルドはローテーブルを向かい合って座っており、そのローテーブルに互いに足をかけて押し付け合っている。ガラスの天板が今にも割れそうな力は、忍耐力を表していた。
「こういうの、犯罪ですよ。閣下」
ぱちっ、と火花が散る。アロイスは目元に手を当て、ハロルドの阻害を受け入れていた。
アロイスの頭上にゆっくりと回る青白い魔術の陣を繊細にハロルドが操作する。魔術師は万能じゃない。魔術の陣に干渉すると影響を受ける。その結果、二人ともが浴室の音、匂いを遠くにいて感じていた。
決して、彼らが意図してのことではない。
「他人の魔術って本当に吐き気がします。いっそもうその魔術消してもいいですか。だんだんイライラしてきました」
「いいわけないだろう」
「王太子殿下に許可をいただきましょうよ。もうここ男爵邸じゃないんですから」
「お前が喚かなければいいだけの話だ」
影に潜んでいたアロイスを強引に引きはがし、阻害の魔術をかけたハロルドを剣呑な眼差しで睨む。会話をしながら脳には相変わらず溶けるような女の声が響いていた。
アロイスは男爵邸で二十四時間ローゼリアを監視していた。今更彼女の入浴に動揺することはなく、クレアが入浴を共にすることに動揺し、私情で邪魔をしているハロルドが迷惑で仕方ない。
「うーん。それが、無理な話なんです」
他人事のようにハロルドは笑う。足には依然力を込めて、ローテーブルは哀れに軋む。
「知ってます? 私、クレアさんが好きなんですよ」
「知るか」
「閣下は夫人が好きでしょう? 私は知ってますよ」
非常に迷惑だった。けろりとした顔が忌々しくて舌打ちをする。耳の奥で水音がする。視覚が阻害されている分、いらぬ妄想をしてしまいそうでため息を吐く。ようやくそれぞれが気に掛ける女が落ち着いてくれたと思ったのに、こんなことで頭を悩ませたくない。
「お前、私の部下ということを忘れたのか」
アロイスが無礼な態度を咎めれば、わざとらしく肩を竦める。
「おや。閣下は私に魔術の腕で敵わないことをお忘れではないですよね」
公爵と子爵という立場もあれば、魔術師の位の差もある。
青い目に凄まれてもあっけらかんとしているハロルドに、アロイスは腹が立つものの事実を否定できない。口論のように会話をしていれば、不意に聞こえたクレアの話にハロルドが口を閉じた。
『新しいタオルを取りに行く途中で、荷物運びのサムと馬小屋番のオーディーンに腕を掴まれて、引きずられました。女もそうでしたが、男もろくでもない使用人ばかりです』
『それで、その傷跡ができたのね』
『殴られたので、一回は殴りました。奥様、私が意外と喧嘩に強いことをご存じないでしょう? 痣は派手ですが、自分で転んだ分もあるんです。この顔とかは、あの中央の階段から落ちてしまって……』
ハロルドの緑の目が不穏に光る。わざとらしい明るい声だ。中央階段から落ちる前にクレアを抱き上げたハロルドは、彼女の健気な献身が少し気に入らない。
『私のせいで危ない目にあわせてしまったのよね』
ぽつりと、ローゼリアが呟く。ぱしゃんと大きく水の音がして、クレアがいいえ! と強く否定した。
『奥様のせいではありません! なんてことを言うのです。すべて、あの……』
はしたない罵倒の言葉が響いてハロルドは笑った。クレアはずいぶんと逞しく育ったらしい。
『二日後、謁見が終わってもおそばにおいてください。私はどんな場所でもついていきますから』
『……ありがとう、クレア。あなたがいて心強いわ』
ふふ、と笑う音がする。
『あなたを助けてくれたのがハロルドだったなんて。お礼をしなくてはね』
『……あの男より、奥様を助けてくださった方へお礼をするのが先です』
ローゼリアの申し出を断るクレアの苦々しい顔が容易に想像できた。話題が主人に移り、ちらりと正面のアロイスを窺えば反応のすべてを抑え込んでいるようで、ローテーブルから伝わる力が揺らいでいた。
『青い目のお方ですよね』
『たぶん、そうだと思うのだけど』
男爵邸でアロイスの姿を見てはいないが、ローゼリアはこの公爵邸で身体を支えた人物がクローゼットで命を助けてくれた人物と同一人物だと仮定していた。ただの勘なのか、一度の接触で記憶の蓋が緩んだのかはわからない。本来であれば監視に徹するべきだったのに、惚れた魔術師は本当に、色々と上手くいかない。その考えはアロイスとハロルド双方に共通している。相手をからかえば反撃されると知っているからこそ、笑わずに黙る。
『……不思議。まだ夢を見ているみたい』
『今までがお忙しく、休めなかったのですから、謁見の日までありがたく夢を見させていただきましょう』
『夢を?』
『ええ、奥様。私も、夢と思わなければ奥様と同じ浴槽だなんて到底ご一緒できません』
ふふ、ふふ。悪戯をするかのようなひそひそとした声が耳をくすぐる。さあそろそろ、というクレアの声と共に水音が跳ねた。十分に身体を温め、磨いて、浴室から出て行くようだ。
アロイスは青い目の印象しかないとしても、ローゼリアの記憶に残っていることに無表情の下で歓喜を抱いた。ハロルドは絵本の読み聞かせを思わせるクレアの口調に笑みを浮かべながら、彼女を殴った男の名前をしっかり脳にメモしておく。
「閣下。私、少し野暮用を済ませてまいります」
二人が浴室から出れば、阻害の魔術を消した。無理やり引きずり出されていたアロイスの身体がローゼリアの影に戻ろうと輪郭を滲ませる。
ハロルドは立ち上がって大きく伸びをし、消える寸前のアロイスに報告をしておく。
「私は彼女の監視ができないので、悪い芽を摘んでおかないと」
男爵邸ではないから監視はいらないといった口が、都合よく回る。止められないことを都合よく捉え、ハロルドは使用人に馬車の準備を指示した。




