【Episode】ジョンウの夏
ジョンウは、小学校に入学して間もなく、母親の強い勧めによってバレーボールを始めた。
そして中学三年生の一学期が終わる頃まで、有望な選手として名の知れたバレーボール部に所属し続けていた。
ジョンウが通っていたソウルのとある学校のバレーボール部は、いわゆる「エリートコース」と呼ばれる名門チームとして知られていた。
母親がジョンウをその学校へ進学させるために払った努力は、とても言葉では表せないほどのものだった。
ジョンウが大会で好成績を収めて帰ってくるたびに、いつも不安と緊張に曇っていた母親の表情には光が差した。
まるで世界のすべてを手に入れたかのような、そんな輝きだった。
父親も同じだった。
最初こそ、母親が想像以上にバレーボールへ執着する姿を快く思っていなかったが、時間が経つにつれ、そしてジョンウが結果を出せば出すほど、家の中には笑顔が増え、周囲の人々も口を揃えて称賛した。
そうなれば当然、ジョンウに寄せる期待も大きくなっていった。
しかし当のジョンウ自身は、バレーボールを特別好きだったわけではない。
同じチームの仲間たちは皆、
「バレーが楽しい」
「もっと強くなりたい」
「憧れの高校へ進学したい」
「理想のチームに入りたい」
そんな明確な目標を持っていた。
チームの中でも特に将来を期待されていたジョンウだったが、それでも彼はバレーボールそのものに強い興味を抱けなかった。
ただ、自分がバレーを続けることで父と母が笑顔になり、誇らしそうにしてくれる。
その事実だけが大切だった。
だから、
言われた通りに頑張ればいい。
そうすれば家族は笑ってくれる。
その程度の、単純な考えだった。
正確な記憶は曖昧だが、ジョンウが幼い頃から両親はよく喧嘩をしていた。
何が原因だったのか、その頃のジョンウにはわからなかった。
けれど今になって思えば、おそらく二人の間にはほとんど愛情が残っていなかったのだろう。
だからこそ何気ない日常会話でさえ、
刺々しい口調と無関心そうな態度になり、
それがまた互いの神経を逆撫でする。
そんな関係だった。
だがジョンウがバレーボールを始めてから、両親の間には少しだけ変化が生まれた。
ほとんど途絶えていた会話が、
「バレーボール」
という共通の話題を通じて少しずつ増えていったのだ。
もちろん相変わらず喧嘩は多かった。
それでもジョンウが大会で良い成績を残した日には、三人で食卓を囲み、美味しい夕食を食べることもあった。
だから幼いジョンウにとってバレーボールとは、
家族が一緒に笑うための理由。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
それだけで十分だった。
――しかし。
中学三年生の一学期が終わろうとしていた頃、
事件は起きた。
その日はジョンウの所属するチームが全国大会最後の試合を迎える日だった。
今日の結果で優勝、準優勝、三位が決まる。
まさに最終決戦だった。
「今日も来られないんでしょ?」
緊張するなと言いながら、ジョンウ以上に緊張しているように見える母親が父親へ尋ねた。
父親は申し訳なさそうに答えた。
「ああ。どうしても予定が調整できなくてな。知ってるだろ?仕事は山ほどあるのに人手が足りないんだ」
「やっぱりね」
「息子の大会だから何とかならないかって頼んでみたんだけどな……」
父親は苦笑しながらジョンウの頭を撫でた。
「悪いな、ジョンウ」
母親はそんな二人を、何の感情も浮かばない顔で見ていた。
大手自動車整備会社で働く父親は、実のところ今まで一度もジョンウの試合を見に来たことがなかった。
正確には、来なかったのではなく来られなかった。
仕事量が多いだけでなく、残業も休日出勤も当たり前の職場だった。
さらに母親は、
「ジョンウを完璧にサポートする」
という信念のもと、かなりの金額を教育費や遠征費につぎ込んでいた。
父親だって息子の試合を見たかった。
それでも家族のためには、自分が働く方が合理的だと判断していた。
ところが最近になって母親は、父親が試合に来るかどうかを頻繁に確認するようになった。
ただ念のため。
そう言っていたが――なぜ今さら?
ジョンウがバレーを始めてからもう八、九年になる。
今になって父親の出席を気にする理由など見当たらなかった。
ジョンウには理解できなかった。
だが父親自身も特に疑問を口にしなかったため、
きっと大したことではないのだろう。
その頃のジョンウはそう考えていた。
その日も結局、ジョンウは母親と二人で大会会場へ向かった。
「今日も頑張ってきなさい。お母さん、ちゃんと応援してるから」
「うん」
「試合まではまだ時間があるわね。少し車で休んでおこうかしら」
「うん」
やがて二人を乗せた車は体育館の駐車場へ到着した。
多くの車の間を慎重に進み、駐車を終えた母親が言う。
「時間になったら入るから。何かあったら電話しなさい」
「わかった」
「今日勝てば全国一位よ。わかってるでしょう?」
「うん」
母親はじっとジョンウを見つめた。
「お母さんはあんたを信じてる」
「……」
「できるわよね?」
「……」
言葉にできない圧力だった。
ジョンウは返事の代わりに荷物をまとめ、車のドアを開けた。
そして振り返ることなく体育館へ向かって歩き出した。
背後から母親は、
「ファイト!」
「あなたならできる!」
と何度も声をかけていた。
だが、その言葉は少しも力にならなかった。
もし優勝できなかったら?
母親の応援という名の重圧は、ジョンウの心を不安で満たしていく。
もし今日負けたら。
父さんと母さんはまた喧嘩するのだろうか。
何があっても優勝しなければ。
そうすればまた三人で笑いながら夕飯を食べられる。
大会で勝てば勝つほど。
大きな大会へ出場するたびに。
母親の期待は膨れ上がり、
まだ中学生だったジョンウにとって、それは巨大な石の塊のように重くのしかかっていた。
今日に限って目の前の体育館が、
今にも大きく膨れ上がり、自分を押し潰してしまいそうに見えた。
体育館へ入ったジョンウは控室へ向かった。
試合開始まではまだ時間がある。
それでもチームメイトたちは一秒たりとも無駄にしたくないというように、すでに激しく身体を動かしていた。
ジョンウも同じだった。
外で自分の試合を待ちながら、誰より緊張しているであろう母親を思い浮かべながら、
失敗するな。
優勝しろ。
そんな不安と重圧で頭をいっぱいにしながら、固くなった身体を少しずつほぐしていった。
そして――
長い時間が過ぎた後。
ついにジョンウたちの試合が始まった。
母親もいつの間にか体育館の一角に席を取り、じっとジョンウを見つめていた。
ジョンウは、いつも以上に試合へ集中していた。
どれほど勝ちたかったのだろう。
膝が床に擦れて皮がむけることさえ気づかないまま、飛んでくるボールを絶対に落とすまいと歯を食いしばって食らいつく。
身体はあっという間に汗で濡れ、指の関節は普段以上にじんじんと痛んだ。
それでも止まることはできなかった。
これまでのどんな試合よりも目の色を変え、必死にボールを追い続けた。
そんなジョンウの気迫が伝わったのだろう。
チームメイトたちも、それに応えるように身体を張った。
いつも以上に積極的なプレー。
士気を高める大きな声援。
飛んでくるボールを恐れない勇敢さ。
その結果――
ジョンウのチームは、全国大会決勝進出という快挙を成し遂げた。
勝利を告げる審判のジェスチャーが示された瞬間、あちこちから大きな歓声が沸き起こる。
ジョンウたち選手はもちろん、遠くの観客席からも同時に歓声が上がった。
母親は親指を高く立てながら、誰よりも興奮した様子でジョンウへ向かって何かを叫んでいた。
――よかった。
まだ安心するには早い。
それでも、決勝まで勝ち上がったということは、一位へ一歩近づいたということだ。
ジョンウは汗で背中に張り付いたユニフォームをぱたぱたと揺らしながら、大きく息を吐いた。
このままでいい。
このままいけばいい。
次の試合さえ勝てば、一位だ。
しかも全国一位。
母親が嬉しそうに笑う姿が、もう頭の中に浮かんでいた。
しかし――
「今大会、優勝チームは――」
「……」
ジョンウの切実な願いは、その瞬間、別の形へと変わった。
切実だったぶんだけ、残酷な形へと。
――全国大会準優勝。
言葉では言い表せないほど大きな失望が押し寄せた。
もっと頑張れたはずなのに。
もっとできたはずなのに。
そんな自己嫌悪が、全身を重く締め付けていくようだった。
試合終了後もコートの上で呆然と立ち尽くしているジョンウのもとへ、母親が近づいてきた。
「お母さん、先に駐車場で待ってるから。」
「……はい。」
「コーチやみんなと片付けして、挨拶してから来なさい。」
「はい……お母さん……一位になれなくて……ごめ――」
だが母親は、ジョンウが言い終える前にくるりと背を向け、そのまま体育館を出て行ってしまった。
笑顔など一切ない冷たい表情。
全身から伝わってくる失望。
ジョンウの肩が小さく縮こまった。
「ジョンウ、こっち来い。みんな集まれ。」
コーチが手招きをする。
「よく頑張ったな、お前たち。」
選手たちが輪になる。
コーチは一人ひとりの肩を軽く叩きながら続けた。
「二位だって本当に立派な成績だ。」
「悔しくないと言ったら嘘になる。でもな、全国大会で二位ってことは、お前たちが全国の中学生で二番目に強いってことなんだ。」
「そして、一番になれる可能性もあるってことだ。」
「上がることはあっても、下がることはない。わかるな?」
子どもたちは黙ってうなずいた。
コーチは穏やかに笑った。
「俺はお前たちを誇りに思う。本当によく頑張った。」
悔しさのあまり涙を流している選手もいた。
けれどコーチの言う通り、全国大会準優勝という結果は十分に誇れるものだった。
多くの選手たちと保護者たちは、お互いの健闘を称え合い、労いの言葉を交わしていた。
この瞬間が意味のあるものになるように。
そう願いながら。
ただ一人――
ジョンウだけを除いて。
ジョンウは体育館の出入口を見つめた。
そこにはもう、母親の姿はなかった。
失望したまま先に帰ってしまった母親。
その背中を思い浮かべる。
――苦いな。
そんな気持ちが胸を満たした、その時だった。
遠くから、荒い息を切らしながら体育館へ駆け込んでくる人影が見えた。
「お父さん?」
ジョンウは目を丸くし、思わず駆け出した。
「もう終わったんだな?」
父親は近づいてきたジョンウを軽く抱き寄せながら言った。
「うん。どうしたの? 来られないって言ってたのに。」
「どうしたも何も、お前の試合を見に来たんだよ。」
父親は照れくさそうに後頭部を掻いた。
「まあ、結局間に合わなかったけどな。ははは。」
豪快な笑い声だった。
ジョンウは父親と一緒に、みんなが集まっている場所へ向かった。
「僕の父です。」
「こんにちは。」
「初めまして、お父様。ジョンウのチームのコーチです。」
父親とコーチは軽く握手を交わした。
「できるだけ急いで来たんですが……遅くなってしまいました。」
「子どもたちはどうでしたか?」
すると周囲の保護者たちも加わり、今日の試合について話し始めた。
試合を見られなかった父親のために、誰もが詳しく説明してくれる。
選手たちがどれだけ頑張ったか。
ジョンウがどれほど必死にプレーしていたか。
そんな話が次々と語られていった。
父親の顔に、嬉しそうな笑い皺が刻まれる。
「しかも準優勝ですよ。うちの子たち、本当にすごいでしょう?」
「えっ、本当ですか?」
父親は目を丸くした。
そしてすぐにジョンウの頭を優しく撫でた。
「すごいじゃないか、うちの息子。」
「全国で二位なんて、本当に立派だぞ。」
「……本当に?」
ジョンウがおそるおそる尋ねる。
「当たり前だろ。」
父親は即座に答えた。
「もっと早く来て、その立派な姿を見てやりたかったな。」
「ごめんな。」
その言葉を聞いた瞬間。
ずっと強張っていたジョンウの表情に、ようやく笑みが浮かんだ。
「それにしても、その膝どうした?」
「え? ああ……これ。」
父親はすぐにしゃがみ込み、ジョンウの膝を覗き込んだ。
皮膚が大きく擦りむけている。
試合が終わって緊張が解けたからだろうか。
今になってようやく痛みを感じ始めていた。
ジョンウが照れくさそうに足を引くと、父親はにやりと笑った。
「勲章だな。」
その笑顔には、先ほどよりさらに深い皺が刻まれていた。
安心させてくれるような。
温かな笑顔だった。
ジョンウもつられるように笑う。
「帰ったら薬を塗ろう。」
「よく頑張ったな。」
「うん。」
父親は周囲の人々へ「お疲れさまでした」と挨拶をし、ジョンウを連れて体育館を後にした。
「ところで、お母さんは?」
父親が辺りを見回しながらジョンウに尋ねた。
「えっと……お母さんなら先に駐車場で待ってるって。」
「そうか?」
「うん。ほら、あそこ。」
ジョンウは遠くの駐車場の中央あたり、母親の車が停められている方向を指差した。
しばらく歩いて駐車場へ近づくと、車のそばに立つ母親の姿がぼんやりと見えてきた。
だが――
どこかおかしかった。
当然、一人で待っているものだと思っていた母親の隣に、見知らぬ男性が立っていたのだ。
――あの人、誰だろう……。
――あれ、でも前にも一度見たことがあるような……。
記憶をたどる。
もしジョンウの記憶が正しければ、その男性は今日決勝で戦った相手チームの選手の父親だったはずだ。
以前、その学校との練習試合があった日に、母親に紹介されて軽く挨拶を交わした記憶がかすかによみがえった。
だが、問題はそこではなかった。
問題だったのは――
母親と、その見知らぬ男性の様子だった。
どこか不機嫌そうな顔をしている母親。
そして、その母親の手を優しく撫でながら微笑んでいる男性。
ただの保護者同士だと言うには、あまりにも不自然な光景だった。
「お母さん。」
ジョンウが声をかけると、二人の視線が同時にこちらへ向いた。
「な、なによっ!」
母親が飛び上がるように驚き、思わず大きな声を上げた。
まるで、自分たちの目の前に立っている“父親”という予想外の存在に反射的に反応したかのようだった。
隣の男性も同じだった。
つい先ほどまで母親の手を不自然なほど親しげに撫でていた両手を慌てて背中の後ろへ隠し、落ち着きなく足を動かしている。
見るからに狼狽していた。
ジョンウは父親の顔を見上げた。
――っ。
思わず息を呑んだ。
ついさっきまで穏やかに笑っていた父親の表情が、跡形もなく消えていたからだ。
目元にも。
顎にも。
強い力が入っている。
その表情を一言で表すなら――
そう。
軽蔑。
まさに、人を軽蔑する表情だった。
「どうしてここに来たの?」
母親が震える声で尋ねた。
「いつも忙しくて来られなかったじゃない。」
父親は短く答えた。
「車に乗れ。」
「……」
「話は家に帰ってからだ。」
有無を言わせない声だった。
母親はそれ以上何も言わなかった。
ただ黙って運転席のドアを開け、そのまま滑り込むように車へ乗り込む。
「じゃ、じゃあ私は……その……失礼します……。」
隣にいた男性も慌てて頭を下げた。
母親がドアを――バタン、と強く閉めた瞬間。
男性もまた、無数に並ぶ車の間へと逃げるように姿を消していった。
その様子は、どこか滑稽ですらあった。
ジョンウは、その名も知らない男性の後ろ姿をじっと見つめ続けた。
遠ざかっていく背中。
中学三年生の一学期が終わろうとしていた初夏。
全国大会の日。
バレーボールというものに抱いていた、ほんのわずかな意味さえも――
完全に消し去ってしまった、
その後ろ姿を。




