事件の始まり
家に帰ってからというもの、再希は一日中あのウサギのシャープペンシルばかり眺めていた。
気づけば、もう翌朝になっていた。
再希は家を飛び出すと、まっすぐ脇道へ向かった。
もしかしたら、正宇がいるかもしれない。
そんな漠然とした期待を抱きながら、再希の足取りは少しずつ速くなっていく。
『いない。』
期待とは裏腹に、残念ながらそこに正宇の姿はなかった。
まあ、そりゃそうか。
もともと正宇はこの道で登校する子じゃないし。
再希はそう自分に言い聞かせながら、込み上げる失望を必死に押し込めた。
『……あれ? でも、これ何?』
脇道の側溝へたどり着いた再希の目の前に、側溝をまたぐように置かれた何かが見えた。
それは、とても丈夫そうな分厚い板だった。
「よっしゃ!」
再希の口から思わず大きな声が飛び出した。
いったい誰がこんな親切なものを置いてくれたんだろう。
再希は鼻歌まじりに、その板の上を軽やかに渡った。
そういえば、その板にはひとつ妙な点があった。
そこには大きな文字で、
『今回は絶対に触るな』
と書かれていたのだ。
『今回は……?』
ということは、この板を置いた人が、前にあった板も置いたのだろうか。
再希はふと、
『この人も私みたいに足を踏み外して転んだことがあるのかも。』
そんな妙な親近感を覚えた。
無事に側溝を渡った再希は、その場にしゃがみ込み、板に書かれた文字をぼんやり眺めた。
『それにしても、この人……“ㅅ”の書き方、すごく独特だな。』
普通なら「ㅅ」を書くとき、左側の線を右より高く長く引くものだ。
けれど、この板に書かれた「ㅅ」は逆だった。
左側の線が、右よりも下へ伸びている。
まあ、別に大事なことじゃないけど。
再希は特に深く考えることもなく、再び学校へ向かって歩き始めた。
教室のドアを開けると、すぐに正宇の姿が目に入った。
すでに登校していた正宇は、礼珍と世振の三人で何やら楽しそうに話していた。
教室の前扉が開く音に気づいた正宇は視線を向け、再希を見るなり嬉しそうに、
「あっ。」
という顔をした。
再希もそんな正宇に笑いかけ、嬉しそうに挨拶を返そうとした――その瞬間だった。
『……何あれ。』
再希の口元に浮かんでいた笑みが、一瞬で消えた。
礼珍の手に握られていた“見覚えのあるもの”が、目に入ってしまったからだ。
それは――
正宇が再希にプレゼントしてくれたものと、まったく同じウサギのシャープペンシルだった。
それを見た瞬間、再希の胸の奥が大きな石で塞がれたみたいに、ぎゅっと苦しくなった。
『何それ。あの子にも買ったの? 私だけじゃなかったの?』
再希の眉間がわずかに寄る。
そんな再希の内心など知る由もなく、正宇は何度も手を振りながら明るく挨拶していた。
けれど、すっかり拗ねた気分になってしまった再希は、
「ふん。」
小さく頷いただけで、そのまま席へどさっと座り込んでしまった。
胸の高鳴りと、妙な引っかかり。
そんな感情が入り混じったまま、昨夜の四つ目の夢も終わった。
――ピロン。
昨夜の夢にどっぷり浸っていた再希のスマホから、軽快な通知音が鳴った。
『世振から返事が来たのかな?』
ベッドにだらしなく寝転がっていた再希は、勢いよく身体を起こし、スマホを顔の近くまで持っていった。
【ヘアサロン5周年感謝イベント/カット35,000→20,000……】
「……ちぇっ。何だよ。」
通知音は、再希が待ち望んでいた世振からの返信ではなく、行きつけの美容院から届いたただの広告メッセージだった。
再希はむっとした顔でスマホを横へ放り投げた。
ただでさえウサギのシャープペンのことで機嫌が悪いのに、待ってる返事は来ないし。
どうでもいい広告ばっかり。
不満げな声が漏れた。
再希は再びベッドへ横になり、そっと目を閉じた。
『あの時、ウサギのシャープをもらってから……うーん……』
『次、何があったんだっけ。』
『……』
『もし今日もまた正宇の夢を見るなら……』
『次はどんな内容なんだろう。』
再希は頭の中で、次に見る夢をなんとなく予想し始めた。
あまりにも昔の記憶だから、ウサギのシャープみたいな小さな出来事はまったく思い出せない。
ただひとつ、ぼんやり覚えているのは、正宇とかなり激しく喧嘩した場面があったような気がすること。
でも――
何だったっけ。
何が原因で、あんなに大喧嘩したんだろう。
どれだけ考えても、うまく思い出せない。
気になって胸の奥がもやもやしてきた再希は、
『もういいや。とりあえずシャワー浴びよう。』
そう思いながら、ゆっくりベッドから身体を起こした。
とにかく温かいお湯でさっぱりして、そのまま眠ってしまいたかった。
正宇にも会いたいし。
次の話も気になるし。
自分の記憶が覚えていないことを、無意識が昨日の出来事みたいに鮮明に見せてくれることも不思議で。
夢、夢、夢。
頭の中は、もうそればかりだった。
シャワーを終えた再希は、すぐにスマホを確認した。
けれど、世振からの返信は相変わらず来ていない。
今ならもう読んでる気はするんだけど……。
その代わり、同じチームの李賢からだけ、
『どこか具合悪いんですか? 病気になっちゃダメですよ〜』
という可愛いメッセージが届いていた。
再希はお礼を返したあと、少し空腹を感じて簡単な食事を用意し始めた。
軽く麺をすすっている間も、再希は隙あらばスマホを確認した。
返信は来ない。
シャワー後も。
濡れた髪を乾かしている間も。
ご飯を食べ終えたあとも。
食後にコーヒーを淹れて飲んだあとも。
ずっと。
来ない。
そうして、来るはずのない返信を待ちながらぼんやりしているうちに、気づけばもう夜だった。
結局、世振からの返信は、再希が眠りにつく瞬間まで届かなかった。
【そして翌朝】
「やばい、やばい、やばい、やばい、やばいっ!!!!!」
再希は叫びながら、ベッドから飛び起きた。
『何これ……!?』
興奮状態の再希は、すぐさまスマホのメモ帳を開き、昨夜の夢で気づいた驚くべき事実を支離滅裂なまま書き殴り始めた。
両手はぶるぶる震え、心臓はまるで耳元で直接鳴っているみたいに激しく鼓動していた。
再希が今メモ帳に書き込んでいる昨夜――五つ目の夢の内容自体は、過去と大きく違うものではなかった。
いつも通り、正宇と再希の過去を見せるだけの、ごく普通の夢。
ただ――
その中でも特に目立つ点がいくつかあった。
ひとつは、夢の中で初めて再希が“考える”という行為をしたこと。
そしてもうひとつは、過去の記憶には存在しない“新しい出来事を夢の中で作り出した”ことだった。
つまり――
夢が映し出している時代は高校時代のままなのに、その中にいる再希の中身は“現在の再希”だったのだ。
まるでタイムスリップでもしたみたいに。
つまりこの夢は、ただ過去を映像のように再生しているだけではない。
三十を過ぎた今の再希として、“考え”、“行動できる”世界だった。
そして、その事実に気づいた再希は、昨夜の夢の中で、本来存在しなかった新しい出来事を生み出してしまったのだ。
本来の記憶とは違う流れ。
存在しなかった過去が、新たに作り変えられていく感覚。
夢とはいえ、こんな体験は初めてだった。
興奮しないわけがない。
正宇の夢を連続で見るだけでも十分異常なのに、今度は夢の中で自分の意思で過去を変えられるなんて。
面白すぎるし、不思議すぎる。
次々起こる信じ難い出来事に、再希の心臓はまったく落ち着く気配を見せなかった。
だが――
驚くべきことは、それだけでは終わらなかった。
『そういえば、世振から連絡来てるかな?』
昨夜届かなかった返信を期待しながら、メッセージ画面を開いた再希の目の前に――
本当に信じられない光景が広がっていた。
同じ人の夢を見続けることよりも。
夢の中で自由に考え、行動できると知ったことよりも。
さらに信じられないこと。
「……嘘でしょ。」
再希は、見てはいけないものを見てしまったかのように全身を強張らせ、そのままスマホを床へ落としてしまった。
『見間違いだ。』
何度も目をこすり、スマホを再起動してみても、状況は変わらない。
「返信が来てる……しかも昨日……」
信じられない言葉が、再希の口から漏れた。
昨日、眠りにつく瞬間まで、世振から返信なんて来ていなかった。
それは確かに覚えている。
なのに、今朝スマホを確認すると、世振からの返信が届いているではないか。
しかもそれは、再希がメッセージを送ってから、たった三分後に送られてきていた。
『うん、まあそんな感じ。』
素っ気ない。
あまりにも簡潔な返事。
画面に映る世振の返信を見つめながら、再希の頭は急激に混乱していった。
「私、昨日こんなメッセージ見てない。」
こんな警戒するような返事をもらっていたなら、絶対に昨日の自分は、
『何か失礼なことでもしたかな。』
そう悩み続けていたはずだ。
なのに、そんな記憶は一切ない。
返信時刻は昨日の午前10時50分。
再希がメッセージを送ったのは午前10時47分。
たった三分で返信が来た?
ありえない。
絶対にありえない。
昨日、眠る瞬間まで返信なんて来ていなかった。
何これ。
まさかスマホの電波が悪かった?
でも他のアプリは普通に使えていたし。
アプリ自体の不具合?
信じられない現実に、それらしい理由を無理やり並べながら、再希は頭の中をぐるぐる回転させた。
その時だった。
ひとつの考えが、ふっと頭をよぎった。
『まさか……』
『昨日、夢の中で私が本来の過去と違う行動をしたから……』
『未来が変わった……?』
再希はごくりと唾を飲み込んだ。
口の中はカラカラに乾き、心臓は激しく脈打っている。
『もし……もし本当にそうなら。』
『今、この過去を繰り返している夢の中で、私がうまく行動できたなら……』
『正宇と私がすれ違ってしまったあのタイミングを、一つずつ正しくやり直せたなら……』
考えれば考えるほど、鼓動はさらに速く、大きくなっていく。
再希はもう一度乾いた唾を飲み込み、震えるほど小さな声で呟いた。
「もし……そうなったら……」
「私たち二人の未来も……変えられるのかな。」




