ウサギのシャープペンシル
入学式を終えて家に帰ったその日、ジェヒはずっと後悔していた。
『席……交換しなきゃよかった。』
制服をきちんと脱いで掛け、温かいお湯で一日の疲れを洗い流したジェヒは、夕飯も食べず、そのままベッドへ直行した。
『窓際だろうが壁際だろうが、風が入ってくるのは同じじゃん。』
今思えば、理由としてはあまりにも弱かった。
まだ少し肌寒い早春の気候だったから、日当たりが良いぶん、窓の隙間から冷たい風だって入ってきたはずなのに。
『まさか……ジョンウに気があるとかじゃないよね?』
ジェヒの胸の奥底から、正体の分からない苛立ちが湧き上がってきた。
もしそうだとしたら、イェジンはかなり警戒すべき相手に違いない。
複雑な気持ちのまま、隣に置いてあった枕を何度も叩いた。
『いや、まさか。私の番号が何番かも知らなかったんだし、本当に壁際の席が嫌だっただけだよね。』
そうやって自分を納得させたものの、それでもイライラは消えない。
夢の中の出来事だったにもかかわらず、その感情はあまりにも鮮烈で、目覚めたあともしばらく尾を引いていた。
家に着いたジェヒは、喉が渇いていたのか、鞄も下ろさないまま水をがぶがぶと飲み干した。
息が上がるほど水を飲み切ったジェヒは、ふうっと深く息を吐く。
『やっぱり……きっとこの時からなんだ。』
ジェヒは考えた。
自分とジョンウが、どうしてこんな風になってしまったのか。
どうして連絡一本もしない関係になってしまったのか。
どうしてここまで、すれ違ってしまったのか。
きっとあの日。
席替え――そう、あそこから始まっていたのかもしれない。
ジェヒはテーブルの上に置いたスマホの中、ジョンウの顔をじっと見つめた。
『まずはセジンに連絡してみようかな。』
強い衝動が湧き上がる。
久しぶりだね、と。
SNSを始めたら君のアカウントを見つけた、と。
元気にしてる? と。
そんな形式的な挨拶くらいなら、別におかしくないんじゃないか。
セジンとまた連絡を取るようになれば、いつかジョンウとも話せる日が来るんじゃないか。
そんな淡い期待を抱きながら、ジェヒはメッセージ画面を開いた。
『久しぶり、セジン。ジェヒだよ。』
震える指で、一文字ずつ丁寧に打ち込んでいく。
そういえば、セジンともどうして連絡が途絶えたんだっけ。
送信する前に、ジェヒは十年以上前のぼやけた記憶を辿ってみた。
もちろん記憶は、そんな問いにちゃんとした答えを返してはくれなかったけれど。
それでも仕方ない。
ジョンウのことが知りたかった。
せめて「元気にしてるよ」――そんな簡単な近況だけでも聞きたくてたまらなかった。
幸運なのか不運なのか、はっきり思い出せない記憶は、逆にジェヒの決意を固くしていた。
止まっていた指先が、再びスマホをタタタッと打ち始める。
『アカウント見つけて嬉しくなって、つい連絡してみた。元気にしてる?』
ジェヒは着替えもせず、そのままベッドへ倒れ込んだ。
まだ時間は午前10時47分。
何をしたわけでもないのに妙に疲れる朝だったが、かといって眠る時間でもない。
お腹も空いていないし、溜まった家事をする気力もない。
だからジェヒは、来るかも分からないセジンからの返信だけを待ちながら、ぼうっと、まるで目を開けたままの死体みたいにベッドへ横たわっていた。
『そういえば、あの時もらったウサギのシャープ、どこいったんだろ。捨てたっけ。』
ジェヒはベッドの向かい側、机の上のペン立てを見つめた。
ジェヒの言う“ウサギのシャープ”とは、ジョンウから初めてもらったプレゼントだった。
すごく大事にしていた気がする。
なのに、いつ捨てたのか覚えていないどころか、夢で見るまで“存在自体”を思い出しもしなかった。
もし昨日まで二日連続で見た三つ目、四つ目の夢がなかったら、たぶん死ぬまで思い出さなかっただろう。
記憶にも残っていないウサギのシャープの行方を追いながら、ジェヒは静かに目を閉じた。
三つ目の夢は、決して楽しいものではなかった。
翌日学校へ行ってみると、すでにグループができあがっていた。
それはジェヒもジョンウも同じだった。
ジェヒは昔からの地元の友達と変わらない関係を続け、ジョンウのほうは前の席になったイェジンをはじめ、隣の席になったセジン、さらに後ろの席の男子たちと自然に仲良くなっているようだった。
何をそんなに楽しそうに話しているのか、しばらくの間ジョンウはジェヒが教室に入ってきたことにも気づかないほどだった。
三つ目の夢は、そんな風に一日中まともに言葉も交わせず、お互いにこっそり視線だけを送り合う日々を繰り返し見せる夢だった。
一日。
二日。
三日。
四日――。
そうして丸々一週間を無駄にしてしまった、息苦しくてイライラする夢。
本当なら自分の席だったはずの場所に座るイェジンを見つめながら、後悔して、嫉妬する。
そんな情けない日々を振り返る夢。
それでも幸いだったのは、苦しい夢を耐え抜いたご褒美だったのだろうか。
四つ目の夢は、忘れていたウサギのシャープの思い出を鮮明に見せてくれた。
その日は入学式から二週間後の月曜日だった。
週末、友達と街へ遊びに行って楽しい時間を過ごし、母親と一緒に大好きな銭湯にも行ってきたジェヒ。
本来なら、気分が飛び上がるくらい爽やかでいるはずだった。
けれど、その日のジェヒは違った。
入学式の日、偶然あの脇道で出会って、ほんの少し会話を交わしただけのクラスメイト――そう思い込もうとしても、一度芽生えてしまったときめきは、なかなか簡単には消えてくれなかった。
このままずっと、一言も話せなかったらどうしよう。
そんな不安ばかりが募っていった。
そして案の定、ジェヒの不安は的中した。
今日も結局、ジョンウとまともに話せないまま一日が終わった。
教室を移動する音楽の授業や体育の時間にチャンスを掴めないかとも思ったけれど、ジョンウの隣にはセジンとイェジンがいて、ジェヒの隣にはヒョンジュや他の友達がずっと一緒だった。
『キム・ジェヒのバカ、バカ、バカ! そんなの関係ないじゃん。ただ話しかければいいだけなのに!』
ジェヒが両手で顔を覆って苦しみ始めた、その時だった。
「帰るの?」
ジョンウの声が聞こえた。
「わっ、びっくりした!」
驚いて飛び上がるジェヒを見て、ジョンウがくすっと笑った。
ずっと待っていたジョンウの声。
ジェヒの鼓動が一気に速くなる。
「い、いつからいたの?」
「んー、さっきから?」
ジョンウは脇道の方を見ながら答えた。
「あっちから帰るの?」
ジェヒの視線も、ジョンウにつられて脇道へ向かう。
「うん。」
激しく脈打つ心臓とは裏腹に、なぜか意地を張るように、ぶっきらぼうに返事をするジェヒ。
「そっか。」
「そこ飛び越えるの、大丈夫そう?」
「ちょっと不安かも。」
「だよね。」
ジョンウが少し心配そうな顔でジェヒを見つめた。
「行こう。送ってくよ。」
ジョンウはジェヒより先に歩き出し、早く来いと言うように首を傾けた。
「ほんとに? 送ってくれるの?」
さっきまで不機嫌だったのはどこへやら。
“送ってく”という言葉だけで、ジェヒは子供みたいにはしゃぎ始めた。
「ほんと? ほんとに?」と何度も聞き返すジェヒを見ながら、ジョンウの口元に薄い笑みが浮かぶ。
「ほんとだよ。ほんと。脇道渡るの手伝うだけだけど。」
ジェヒはジョンウの後を追って、小走りに歩みを速めた。
ぴょこぴょこと可愛らしく歩くジェヒを見て、ジョンウの口元も自然と緩む。
「鞄、貸して。」
脇道の排水路に着くと、ジョンウはジェヒの鞄を受け取った。
そして軽やかな動きで、一気に排水路を飛び越える。
「ほら、掴まって。」
ジョンウが手を差し出した。
ジェヒはその手を握り、勢いよく地面を蹴った。
緊張していたせいだろうか。身体に力が入りすぎて、少し前のめりになった拍子に、そのままジョンウへぶつかるようにもたれかかってしまった。
「大丈夫?」
ジェヒの手を握るジョンウの手に、さらに力がこもる。
ジョンウの胸元に左頬を押し当てたまま、抱きついたのか寄りかかったのか分からない微妙な姿勢で固まっていたジェヒは、状況を理解した瞬間、はっとして後ずさった。
「ご、ごめん!」
ジェヒの頬が真っ赤に染まる。
「いや、全然。」
ジョンウは俯いたまま答えた。
微妙な沈黙がしばらく流れる。
ジョンウは持っていたジェヒの鞄を返し、二、三度空咳をすると、自分の鞄を探り始めた。
「あ、そうだ。君に渡したいものがあったんだ。」
「え?」
ジェヒが聞き返す。
「昨日、ノートを何冊か買いにターミナルの文房具屋に行ったんだけど。そこで可愛いの見つけてさ……」
ジョンウがしばらく鞄を探ったあと、
「あ、あった!」
と言って何かを取り出した。
「はい、プレゼント。」
ジョンウの手にあったのは、上にウサギの顔がついた銀色のシャープペンシルだった。
「私に?」
ジェヒが尋ねると、ジョンウは言葉の代わりに頷いた。
ジェヒは自分の手の中にあるウサギのシャープをじっと見つめた。
「じゃ、じゃあまた明日!」
ジョンウが慌てるように挨拶をする。
少し赤くなった顔、不自然な仕草。
そんなジョンウを見ていると、ジェヒの両頬もまた熱くなっていく気がした。
「う、うん! またね。ありがとう。」
恥ずかしくてジョンウの方をまともに見られないまま、適当に手を振るジェヒ。
ジョンウはふっと微笑むと、軽やかな身のこなしで再び排水路を飛び越えていった。




