SNS
「ジェヒさん、来ました?」
「おはようございます。」
ジェヒがオフィスの中へ入ると、同期入社のチェ・イヒョンが明るく声をかけてきた。
まるでジェヒが来るのを待っていたかのように、イヒョンは急かすような仕草で彼女を席へと導いた。
イヒョンはジェヒより一つ年上の先輩だったが、何事にも落ち着きがなく、いたずら好きな性格だった。良く言えば愛嬌があり、悪く言えばミスが多い人物。
それでも多くの同僚たちが彼女に親切なのには理由があった。入社前から「役員の一人の姪らしい」という噂が広まっていたからだ。
しかも社内のゴシップ事情をほとんど把握しているため、皆「敵に回すよりは味方につけておいた方がいい」と思っていた。
ジェヒもその一人だった。
少し面倒ではあっても、そばに置いておけば厄介な噂に巻き込まれる可能性を少しは減らせる気がしたからだ。
イヒョンはジェヒが席に座ってパソコンの電源を入れる前から、ぴったり隣に椅子を寄せて言った。
「品質管理チームのキム課長、知ってますよね? あの、9歳年下の彼女と結婚するって言ってた人。」
イヒョンは秘密話でもするように、ジェヒの耳元へ小声で囁き始めた。
「ああ、はい。その人がどうかしたんですか?」
「婚約破棄したらしいですよ! やばくないですか?」
イヒョンは周囲をちらりと確認すると、さらに身体を寄せてきた。
「理由、知ってます?」
「さあ……。」
ジェヒは半分聞き流しながらパソコンを起動し、引き出しから午前の会議で使う資料と手帳を取り出して机に広げ始めた。
それでもイヒョンは気にすることなく話を続けた。
「数日前に彼女さんが同窓会に行ったらしいんですよ。中学だったか高校だったか、とにかく同窓会。そこで、ばったり再会したんですって。」
「誰とですか?」
「誰って、初恋の相手ですよ。」
イヒョンは照れたように肩をすくめ、小さくくすくす笑った。
初恋――。
その言葉に、ジェヒの脳裏に夢で見たジョンウの顔が再び浮かんだ。
「初恋って、思い出すだけで胸がドキドキしたり、ちょっと切なくなったりする存在じゃないですか。
その本人と久しぶりに再会したんだから、そりゃ特別な気分にもなりますよね。」
「それで? どうなったんですか?」
ジェヒがイヒョンを見ながら尋ねた。
普段なら「そうなんですね」とか「へえ」で終わらせていただろう。だが、“初恋”という言葉が引き金になったのか、妙に気になってしまった。
珍しく食いついてくるジェヒを見て、イヒョンは意外そうな顔をしたあと、さらに楽しそうに続けた。
「その日、目が合った瞬間に火がついたみたいですよ。『同窓会行ってくる』って言ってた彼女は途中から連絡つかなくなるし、友達も『知らない』ってはぐらかすし。あとで分かったんですけど、その男と二人で別の場所に移動してたんですって。」
「あ……。」
「その後どうなったかなんて、見なくても分かるでしょ。結果、婚約破棄エンド。しかもその彼女さん、すぐその初恋相手と付き合い始めたのか何なのか、この前SNSに男と二人でカフェでコーヒー飲んでる写真まで載せてたらしいですよ?」
「そうなんですね……。キム課長、かなり傷ついたでしょうね。」
ジェヒが適当に相槌を打っていた、その時だった。
「初恋には勝てないよ。誰が勝てるっていうんだ?」
いつの間にか、二人の後ろにチーム長が立っていた。
「うわっ、びっくりした! いつ来たんですか?」
「今。」
驚いたイヒョンが胸を押さえながら、チーム長に向かって「シーッ」と人差し指を口元に当てた。
するとチーム長は呆れたように笑いながら、彼女を指差した。
「気をつけるのは君の方だよ。ここに耳が何個あると思ってるんだ。」
「うぅ……。」
「はいはい、雑談はそこまで!
今日は朝から会議あるの分かってるだろ? 急いで準備しよう。」
「はーい。」
イヒョンは唇を尖らせながら自分の席へ戻っていった。
ジェヒも急いで会議資料を見直し始めた。
初恋、か――。
ジェヒはさっきイヒョンが話していた内容を、もう一度頭の中で反芻した。
今ごろ、ジョンウは何をしてるんだろう。
十九歳の夏、最後に会って以来、一度も会っていない初恋の人。
高校卒業後、数年の間は「軍隊に行ったらしい」とか、「大学に復学したらしい」といった小さな噂を耳にしたこともあった。
けれどそれすら、本当に彼の話だったのか分からないくらい、遠い存在になっていた。
気づけば、ジョンウの消息はぱったり途絶えていた。
まあ、当然といえば当然だった。
大学時代は新しくできた友人たちと遊ぶのに夢中で、高校時代の友達は後回しになっていたし、卒業して就職してからは「忙しいから」を理由に、友人たちからの連絡を次第に無視するようになっていた。
そのうえ、別部署の人と社内恋愛までしていたのだから、意識はそちらへ向きっぱなしだった。高校時代の友達のことなど、ほとんど頭になかった。
きっとあの頃からだ。
ジェヒが大半の友達と自然に疎遠になっていったのは。
今でも連絡を取り合っている数少ない知人の中で、ジョンウを知っているのはヒョンジュくらいだった。
でも、ヒョンジュに電話して彼のことを聞くのも、なんだか妙に気まずい。
もし「なんで?」と聞かれたら、答えようがない。
「四日連続で夢に出てきて、昔の感情が蘇ってきておかしくなりそうだから」
なんて、絶対に言えるわけがなかった。
せいぜい、
「うーん、ただ元気かなって気になって。」
くらいだろう。
そもそも、ジョンウとジェヒは付き合っていたわけでもない。
二人の間に流れていたあの曖昧な感情は、当人たちだけが知っているものだった。だからヒョンジュからすれば、突然すぎる質問に聞こえるかもしれない。
あれこれ気まずくなりそうだと思い、ジェヒはひとまずヒョンジュにジョンウのことを聞くのはやめておこうと考えた。
それでも、ジョンウへの想いは日を追うごとに強くなっていった。
今の彼のことを全部知りたかった。
元気にしているのか。
辛いことはないのか。
どんな毎日を送っているのか。
そして何より――。
そう。
今、隣に誰かいるのかどうか。
気になって仕方がなかった。
「ジェヒさん。」
その時だった。
いつの間にかチーム長がジェヒの後ろに来て声をかけた。
「はい! 何かありましたか?」
「うーん。」
ジェヒは手に持っていた資料を机に置き、身体ごとチーム長の方へ向き直った。
チーム長は心配そうな顔で言った。
「さっきから同じページずっと見てるよ。目も全然動いてなかった。」
「あ……私、そうでした?」
ジェヒは慌てて視線を上下に動かした。
「ちょっと寝不足で……。一瞬ぼーっとしてたみたいです。」
「ふむ。」
チーム長は返事の代わりに、机の上の資料をひょいと持ち上げた。
「俺に送ってくれたものから変更はないんだよね?」
「はい。同じです。最終版です。」
「分かった。」
資料をぱらりと確認したあと、決めたように頷いた。
「じゃあ、今日は帰りなさい。」
「え?」
ジェヒが驚いて聞き返す。
「送ってもらった資料は全部確認済みだから、会議は俺が進行するよ。
ジェヒさんは家に帰って休みなさい。どうせ明日から週末だろ? 三日間しっかり休んで、また元のコンディションに戻ってこいってこと。」
チーム長はジェヒの肩をぽんぽんと叩いた。
「最近、いくつもプロジェクト抱えて無理してるの、ちゃんと分かってる。休む時は休まないと。」
「……ありがとうございます。」
「ここ数日、顔色もかなり悪かったしね。次のために一回休憩だ。」
「はい。」
ジェヒは小さく頭を下げた。
チーム長は微笑んでから資料を持ち、会議室へ向かって歩き出した。途中でイヒョンの背中を軽く叩きながら、
「早く片付けて来いよ。」
と言うのも忘れなかった。
通勤ラッシュを過ぎた地下鉄は驚くほど空いていた。
一時間前まで人でごった返していた場所とは思えないほど、静かだった。
ジェヒは車両の隅に腰を下ろし、イヒョンの言葉を思い返した。
『SNSに男と二人でカフェでコーヒー飲んでる写真を載せてたらしいですよ?』
SNS――。
ジェヒはすぐにスマホを取り出し、最近流行っているというSNSアプリをダウンロードし始めた。
友達と連絡を取ることすら面倒に感じるジェヒだったから、こういうアプリは絶対入れないと決めていたのに。
でも、仕方なかった。
どう考えても、ジョンウの痕跡を探す方法はこれしか思いつかなかったからだ。
たとえ本人がSNSをやっていなかったとしても、きっと一人くらいは――。
ジョンウへ繋がる人が、“一人くらい”はいるはずだから。
登録を終えたジェヒは、すぐ検索欄に「イ・ジョンウ」と入力した。
同じ名前のアカウントが無数に並ぶ。
けれど、その中にジェヒが探しているジョンウはいなかった。
「はぁ……。」
やっぱりSNSなんてやっていないのだろうか。
ある程度予想していたとはいえ、虚しさと焦りが胸を掠めた。
それでも、まだ諦めるには早かった。
アプリを見ていると、メイン画面のおすすめ一覧にヒョンジュのアカウントが表示されているのが目に入った。
そうだ。
今度はヒョンジュの友達一覧を見てみよう。
ジェヒはヒョンジュの友達リストをゆっくりスクロールしながら、「イ・ジョンウ、イ・ジョンウ……」と見慣れた名前を探した。
その時だった。
「あれ……?」
ジョンウではない。
だが、別の懐かしい名前が目に入った。
モ・セジン。
セジンは当時、他地域から来た転校生だった。
入学式の日、ジョンウの隣の席になったことをきっかけに、二人は親友になった。ジェヒともかなり仲が良かったが、いつの間にか十年以上連絡を取っていなかった。
今でも二人は仲がいいのだろうか。
期待半分、不安半分でジェヒは彼のアカウントを開いた。
投稿は四つだけだった。
最新の投稿は複数枚の写真で構成されていて、一ヶ月ほど前にアップされた比較的新しいものだった。
一枚目は肉の写真。
艶やかな脂が美味しそうに光る高級そうな牛肉だった。
ジェヒは二枚目へスワイプした。
セジンが親指を立てて笑っている写真だった。
首には国内有名出版社の社員証が下がっている。
本文にはこう書かれていた。
『締切終わり! やっとご褒美の打ち上げ!』
高校時代に見ていた幼いセジンが、もうこんな立派な社会人になっているなんて。
昔の面影が重なり、不思議な気持ちになるジェヒだった。
出版社、か――。
その瞬間、過去の記憶が頭をよぎった。
『お前が作家になるなら、俺は編集者になる。お前の最初の作品は絶対俺が出版してやる!』
『本当に?』
『当たり前だろ。お前の最初の作品なんだから、絶対俺がやる。』
ジョンウとの約束だった。
幼い頃のジェヒの夢は、作家になることだった。
今では全く関係のない広告業界で働いているけれど、かつては五百ウォンのノートを何十冊も埋め尽くすほど、本気で作家を夢見ていた。
その記憶を思い出し、ジェヒはふっと小さく笑った。
次の写真へ画面を切り替える。
三枚目は、セジンと会社の同僚らしき人物が一緒に写っている写真だった。
何気なく眺めていた、その時だった。
「……え。」
セジンの後ろに、一人の横顔がぼんやり写っていた。
ピントが合っていない、ぼやけた姿。
でも――。
この人は。
その横顔を食い入るように見つめるジェヒの心臓が、ドクンドクンと激しく鳴り始めた。
鼓動に合わせるように、彼女の両脚まで小刻みに震え始める。
『お前が作家になるなら、俺は編集者になる。お前の最初の作品は絶対俺が出版してやる!』
編集者になると言っていたジョンウ。
二人の約束。
セジンの社員証に書かれた出版社名。
そして、その隣にいる見覚えのある人物。
ジェヒは震える手で、次の写真へゆっくりと画面を送った。
四枚目の写真が少しずつ画面に現れ始めると、彼女の心臓は先ほどよりさらに激しく、狂ったように鳴り始めた。
四枚目の写真は、三枚目とほとんど同じだった。
ただ、一つだけ違うことがあるとすれば――。
三枚目ではぼやけた横顔だった人物が、今度は正面を向き、明るく笑っている姿で、はっきりと写っていたこと。
整った髪。
綺麗な肌。
そして、相変わらず意地悪そうなのに愛らしい笑顔。
セジンの隣で笑っているその男は――。
「見つけた。」
ジェヒの初恋。
数日間ずっと夢に現れ、彼女の心をかき乱していた張本人。
――ジョンウだった。




