藤棚の下で起きたこと(2)
「ちゃんと昼ご飯食べた?」
どこからかジェヒの声が聞こえてくると、ジョンウは声のしたほうへ素早く顔を向けた。
「うん。ジェヒは? 美味しく食べた?」
「んー、まあね」
ジェヒが答えた。
「午後は、二人とも出る試合ないんだよね?」
「うん。ジェヒも?」
「うん。私は明日」
ジョンウが頷きながら言った。
「そっか。じゃあ、このあと何するの?
もし特に予定がないなら、俺たちと一緒に――」
ジョンウがそう尋ねた、そのときだった。
「じゃあさ、午後、俺の試合を見に来るのはどう?」
いつの間にか二人の後ろまで来ていたソンウンの声が聞こえた。
「わっ! びっくりした!」
「ご、ごめん、ごめん」
驚いたジェヒに向かって、ソンウンは無邪気な笑顔を見せた。
「俺、二時からバスケの試合があるんだ。よかったら見に来てほしいんだけど」
「なんで私が?」
「だって、仲良くなりたいから?」
警戒するように目に力を込めて自分を見つめるジェヒを見て、ソンウンが言った。
「ねえねえ~。ぶつかったことは本当に悪かったって。でも、ずっとそんなに冷たくするつもり?」
「俺、悪い奴じゃないんだけど……」
「それは……そうだけど」
「なんか傷ついちゃうな」
ソンウンは傷ついたような表情を一瞬だけ浮かべた。
そして――
「なんちゃって」
すぐにまた笑顔に戻り、言葉を続けた。
「俺の名前はソンウン。君は?」
そう言って、握手を求めるように右手を差し出した。
「……」
ジェヒは答えなかった。
やっぱり、そうだった。
やり方は違っても、過去にあった接点は、どういうわけか必ず起こる。
それなら今、この状況からどうやって抜け出せばいい?
どうすれば、ソンウンとの縁を完全に断ち切れる?
そんなことばかりが、ジェヒの頭の中を占めていた。
ジェヒが答えないでいると、セジンが先に口を開いた。
「俺はモ・セジン。よろしく」
「よろしく、セジン」
ジェヒが握ってくれなかったせいで、宙に浮いたままになっていたソンウンの右手を、セジンがすかさず掴み、上下に勢いよく振った。
ソンウンは、隣にいたジョンウにも名前を尋ねた。
「俺はイ・ジョンウ」
「よろしく、ジョンウ」
「うん」
ジョンウもソンウンと軽く握手を交わした。
二人とも笑ってはいる。
けれど、互いを見つめる目には、どこか妙な力がこもっているようだった。
「さて、次は君の名前」
そして、またジェヒの番になった。
ソンウンが手を差し出したまま、ジェヒに尋ねる。
「私は……」
どうしよう。
名前くらいなら、教えても大丈夫だろうか。
ジェヒが迷いながら答えを躊躇していた、そのときだった。
「おい、キム・ジェヒ!!! 待ってろって言ったじゃん!!!」
給食室から出てきたヒョンジュが、ジェヒの名前を大声で叫びながら、こちらへずんずん歩いてきた。
「ああ、ジェヒっていうんだ。君の名前」
「あ……うん」
ジェヒの意思などお構いなしに、ソンウンはヒョンジュの口からあっさりとジェヒの名前を知ってしまった。
ヒョンジュはソンウンを見つけると、声を上げた。
「あれ? さっきの子じゃん」
「こんにちは。また会ったね?」
「こんにちは」
「名前は? 俺はユ・ソンウン」
「あ、私はカン・ヒョンジュ。よろしくね」
ソンウンはヒョンジュにも握手を求めるように手を差し出した。
ヒョンジュは一切ためらうことなく、その手をがしっと掴んで尋ねた。
「あ、そういえば。あんた、さっきのあの飴……」
「ああ、これ?」
ソンウンがポケットから飴を一つ取り出した。
「そう、それ。それ、まだ残ってる?」
「うん、もちろん。食べてみる?」
「本当? いいの?」
ヒョンジュは嬉しそうな声を上げながら、飴をぱっと受け取った。
「わあ、美味しい! これ」
「だろ? それ、俺が作ったんだよ?」
「えっ? 嘘!」
ヒョンジュの明るい反応につられるように、ソンウンの声もさらに弾んだ。
「本当だって。うち、家でお菓子屋やってるんだ。そこで俺が作った飴も一緒に売ったりしてる」
「うわ、すごいじゃん」
「だろ、だろ?」
ヒョンジュとソンウンが飴の話でどんどん盛り上がり始める。
――今だ。
そう思ったジェヒは、ジョンウの袖をそっと引っ張り、その場を離れようと目で合図した。
『これはチャンスだ。
どうせ全部知ってる話だし、これ以上ここにいたって、関わりが増えるだけだ』
ジョンウの袖を掴んだジェヒの手に、さらに力がこもった。
それを察したジョンウが、小さく頷いた。
そしてジェヒについて歩き出そうとした、その瞬間だった。
「ヒョンジュ、この飴、本当に美味しいって、甘いものが嫌いな君の友達にも、ぜっっったい、も・う・一・回、言っておいて」
「誰? ジェヒ?」
「うん」
ソンウンがジェヒを指差した。
すると、ヒョンジュの視線が、逃げようとしていたジェヒの両足へと正確に落ちた。
「ちょっと待って!」
「ねえ! また一人でどこ行こうとしてんの!」
ヒョンジュの大きな声が、藤棚の下いっぱいに響き渡った。
『くそっ』
結局、ジェヒは動きかけていた足を止めるしかなかった。
そうして足止めされたジェヒが、再び彼らのほうへ顔を向ける。
その視線の先に、ほんのわずかに上がったソンウンの口角が見えた。
『こいつ……私たちが行こうとしてるのに気づいて、わざと……』
一瞬、ジェヒの中で苛立ちが一気に込み上げてきた。
そのせいか、意図せず少し険しい顔になっていたのだろう。
それを見たソンウンが口を開いた。
「ジェヒ。もしかして、俺、君に何か悪いことした?」
「今日ぶつかったこと以外にもさ。もっと前に、俺が覚えてない何か……」
ソンウンが言い終えるよりも早く、ジェヒが即答した。
「ううん。そんなのない」
「うーん……」
ジェヒのきっぱりとした答えに、ソンウンは質問を変えた。
「じゃあ、なんでそんなに俺を避けてるように感じるんだろう?」
「もしかして……俺のこと、ただ嫌い?」
「いや、そういうわけじゃ……」
嫌い、というわけじゃない。
ただ、関わりたくないだけ。
でも、それをそのまま言うわけにもいかない。
じゃあ、どうして? と聞かれたら、何と答えればいいのか分からない。
『はあ……なんて答えるのがいいかな』
ジェヒが無難な答えを探している間に、今回もソンウンのほうが先に口を開いた。
「あ、分かった!」
「急だったから、戸惑ったんだな! うん、そういうことか」
ソンウンは声を上げて笑った。
「心配しないで。ゆっくり知っていけばいいんだから!」
「もしかしたら俺、君が思ってるよりずっといい奴かもしれないだろ? な?」
「え?」
「君はまだ分からないだろうけど、俺にはなんとなく分かるんだ!」
そう言うと、ソンウンはポケットからスマートフォンを取り出した。
「俺、君のこと、すごく好きになりそうなんだよね」
「だからさ、連絡先。教えてくれない?」
そう言って、ソンウンはジェヒにスマートフォンを差し出した。
画面には、番号を入力するためのダイヤル画面が表示されていた。
そして――ほんの一瞬。
『断ろう』
ジェヒの頭に、真っ先にその言葉が浮かんだ。
その、たった一秒にも満たないわずかな時間。
驚くべきことに、隣にいたジョンウがジェヒよりも早く動いた。
パシッ――。
ジョンウが、スマートフォンを持っていたソンウンの手を軽く払いのけた。
「ジェヒ、嫌がってるみたいだから。もうやめたら」
これまで一度も見たことのない、冷たい表情をしたジョンウだった。
その表情に驚くのも束の間、ジョンウはもう一度、ソンウンに釘を刺すように言った。
「相手の気持ちや立場をまったく尊重せず、一方的に行動するのは、相手にとってかなり失礼なことだと思う」
「俺には、今のお前の行動がそう見える」
ジョンウが言い終えるや否や、ソンウンが言い返した。
「じゃあ、お前は今、ジェヒの気持ちや立場を尊重して、そんなことしてるの?」
「ジェヒが番号を教えたいと思ってるのかどうか、お前はちゃんと……確認したの?」
「それは……」
「それは?」
思いのほか鋭い問いだった。
ジョンウは思わず言葉に詰まった。
ただへらへら笑って、飴なんか持ち歩きながら女の子の気を引いているだけの奴だと思っていた。
けれど、思っていたよりずっと芯がある。
それどころか、相手の隙を正確に突いてくるだけの『勘』まで持ち合わせているらしい。
それに、正直なところジョンウ自身も分かっていた。
ただ自分から見てジェヒが困っているように思えた――それだけの理由で、ジェヒ本人の意思や気持ちを確かめることもなく、二人の間に割って入ったのだ。
だから、すぐに言い返せるような適切な言葉が思い浮かばないのも、無理のないことだった。
二人の間に、わずかな沈黙が落ちた。
そして、妙な緊張感が漂い始める。
その空気を感じ取ったのか、隣にいたヒョンジュとセジンの表情も、みるみる強張っていった。
――これ以上、感情的になったらまずい。
そんな思いが、二人の顔にはありありと浮かんでいた。
「おい、二人とも。ちょっと待って」
見かねたセジンが間に入ろうとした、その瞬間だった。
不快感と戸惑いが入り混じった表情でソンウンを見つめるジョンウ。
そして同時に、まるでジェヒを守ろうとするかのように、袖を掴まれている腕を大きく広げ、ソンウンとジェヒの間にまるでバリケードでも築くように立っているジョンウ。
その姿を見つめていたジェヒが、何かを決意したように、芯のある声で彼らに向かって叫んだ。
「ごめん。でも、私、ジョンウが好き!」
ジェヒの声が、藤棚の下いっぱいに大きく響き渡った。
そして同時に――
凄まじい静寂が訪れた。
突然のジェヒの告白に、その場にいたジョンウ、セジン、ヒョンジュはもちろん。
給食室から出てきたばかりのイェジンをはじめ、藤棚の周辺で休んでいた何人かの生徒たちまでもが、全員ジェヒへと視線を集中させていたからだ。
『しまった。ちょっと大きな声で言いすぎたかな?』
ジェヒは少し戸惑った。
けれど――このくらい、どうってことない。
これが、どうやって手に入れたチャンスだと思っているのか。
恥ずかしいというだけの理由で、ジョンウとの過去を変えることに全力を尽くさなければ、この先の未来だって望めなくなるかもしれない。
この夢から目覚めたとき、後悔するようなことだけは――
ジェヒは絶対に。
絶対に、絶対に、作りたくなかった。
そこでジェヒは、さらにもう一つ、突拍子もない行動に出た。
それは――
突然の告白に顔を真っ赤にしているジョンウの腕に、勢いよく腕を絡めることだった。
ジェヒの身体が自分の腕にぴったりと寄り添った瞬間、ジョンウの全身がそのまま硬直した。
ジェヒは目の前に立つソンウンへ、ひとつひとつ言葉を選ぶように、自分の『意思』をはっきりと伝えた。
「私はジョンウが一番好き」
「ずっと好きだったし、これからもずっと好き」
「……」
「だから、気持ちを向けてくれたことは本当にありがたいけど」
「もし私に誰かと向き合う時間が与えられたとしても、私はその時間を、あなたじゃなくてジョンウに使いたい」
「あ……そっか」
ジェヒの真剣な表情。
乱れのない姿勢。
そして、嘘のない声。
ソンウンは、今のジェヒの姿から、その心がどこへ向いているのか。
そして、その想いがどれほど揺るぎないものなのかを、おおよそ察することができた。
そして、それゆえに――
自分が入り込む隙など、ほんの少しもないのだということも。
ようやく理解した。
それからソンウンは、ふっと苦笑を浮かべると、仕方がないとでも言うように首を左右に振った。
「あ~、なんだよ。残念だな」
ソンウンが言った。
「君って可愛いだけじゃなくて、カッコいいんだな」
「ありがとう」
「残念だけど、仕方ないか。たまに会ったら、挨拶くらいしよう」
「うん」
ソンウンはどこか寂しげな笑顔を残し、それきりジェヒへの興味を引っ込めた。
ソンウンが完全にその場を離れてから、ようやくジェヒは絡めていた腕をほどいた。
そして、ほっと息をついた。
たぶん、ソンウンとの接点は、これで綺麗さっぱり片付いたはず。
そう思いながら。
『うまくやった。よくやった、キム・ジェヒ』
『予想するに、今回の夢から目覚めたあとは、きっと……』
『まあ……セジンのブロックが解除されるとか、ジョンウと会えるきっかけができるとか』
『とにかく、かなり目に見える変化があるはず。絶対に、そうじゃなきゃ』
一つの問題を無事に解決できたことへの安堵。
そして、その問題を解決したことで、これから起こるかもしれない前向きな変化を想像すると――
ジェヒは、なんともいえない達成感を覚えていた。
そんなふうに、ジェヒがしばらく甘い想像に浸っていた、そのときだった。
左耳のすぐそばから、ジョンウの低い声が、そっと入り込んできた。
「はぁ……キム・ジェヒ」
たった今、何が起きたんだ。
信じられない現実に、ひどく緊張しているような、震える声だった。
『しまった』
そこでようやく、ジェヒはジョンウの顔を見上げた。
その視線の先には、真っ赤に火照った顔を手で覆いながら、ふっと息を吐き出しているジョンウの姿があった。
顔を覆っている大きな手が、ほんのわずかに震えている。
そして同時に、脇腹に小さな手が触れた。
ヒョンジュがジェヒを指でつんつんしながら言った。
「ねえ……周り見て」
「え?」
ヒョンジュに言われ、ジェヒはすぐさま周囲を見回し始めた。
そして――
「えっ……」
思わず息を呑んだ。
いつの間に集まったのか。
ものすごい数の生徒たちが押し寄せ、彼らの周りをぐるりと取り囲んでいたのだ。
ジョンウとジェヒを見つめる生徒たちの仕草には、これでもかというほどの『大騒ぎ』が滲み出ていた。
その顔には、それぞれ好奇心や胸の高鳴りがありありと浮かんでいる。
口元を手で覆いながら「ふぅ~ん」と声を漏らす女子生徒たち。
親指を立てたり、拍手をしたりしている男子生徒たちも何人もいる。
まるで、とんでもない見ものでも見つけたかのように、みんな楽しそうだった。
その光景を目にした瞬間、ジェヒはようやく我に返った。
「ひょ、ヒョンジュ……これ、何?」
困惑するほどの人だかり。
そこから生まれる、なんともいえない違和感。
足先から頭のてっぺんまで、何かがぞわぞわと這い上がってくるような、ピリピリとした感覚に襲われ、ジェヒがわずかに後ずさり始める。
そんなジェヒに向かって、ヒョンジュが答えた。
「何って……」
「アンタ、今ここで公開告白しちゃったんだよ」
そして――
「しかも、『全校生徒』の前で」




