第9話 デパート建設地の選定
レオポルトの屋敷、書斎。
重厚なオーク材の机の上には、王都の精緻な地図が広げられていた。羊皮紙にインクで描かれたその図面は、王宮の尖塔から貧民街の細い路地裏、堅牢な外壁に至るまで、都市の呼吸をそのまま写し取ったかのように正確だ。
通りの一本一本に名前が書き込まれ、主要な建物には用途と所有者の記号が添えられている。この地図だけでも相当な価値があった。
窓から差し込む午前の光が羊皮紙の表面を照らし、インクの線を浮かび上がらせている。書斎には古い書物と革の匂いが満ちており、壁一面の本棚には王国の法典から商業史、建築学の文献に至るまで、あらゆる分野の書物が整然と並んでいた。
魔導建築技師オスカー・ブラウエルは、地図の上に太い指を走らせ、三つの場所に赤いインクで印をつけた。
「候補地は、この三箇所だ」
オスカーの声は低く、そして的確だった。無駄な前置きをしない男だ。
「一つ目は王宮に隣接する一等地。二つ目は商業地区の心臓部。そして三つ目は、商業地区と一般住宅地区の境界にあたるエリアだ。それぞれに一長一短がある。どれを選ぶかで、デパートの性格そのものが決まると言っていい。建物の設計は立地に従属する。立地を決めることは、設計を決めることと同義だと思ってくれ」
彼はそれぞれの印を太い指でなぞった。爪の先に染みついた鋳鉄の黒ずみが、この男の仕事を無言で物語っている。
「まず王宮近くだ。貴族のアクセスは抜群で、王権の威光を看板代わりに使うには最適な場所だろう。だが、土地代は法外に高い。王都で最も地価の高い区画だからな。何より、庶民にとっては心理的にも物理的にも遠すぎる。衛兵の巡回路にも近い。買い物に来た庶民が衛兵に睨まれるようでは、二度と足を運ぶまい」
一拍おいて、技師としての視点を加えた。
「建築の観点からも問題がある。王宮周辺は景観条例が厳しい。建物の高さにも意匠にも細かい制限がかかる。王宮より高い尖塔は許されんし、外観の色彩も限定される。自由な設計は望めん。お前の構想するガラスの天井も、条例に引っかかる可能性が高い」
レオポルトは黙ってうなずいた。
第一周目の記憶が鮮やかに蘇る。あの時、彼は迷わず王宮近くを選んだ。若さと野心に突き動かされ、王の権威を後ろ盾にすることが成功への最短路だと信じて疑わなかったのだ。
だが、その選択こそが破滅の始まりだった。
庶民は豪奢な建物を「貴族の遊戯場」と呼んで遠巻きにし、デパートは透明性を失って特権階級のサロンへと変貌していった。やがて革命の炎が王都を焼いた日、まっさきに民衆の怒りの標的となったのは、王宮の隣に建つあの建物だったのだ。
「……ええ。王宮の隣では、どれほど『平等』を謳っても、建物そのものが権力の象徴に見えてしまう。庶民は門をくぐる前に、もう萎縮している。それでは意味がない。デパートの敷居をまたぐのに勇気が要るようでは、理念そのものが破綻します」
「ほう。てっきり貴族様は王宮の隣を選ぶものと思っていたが」
オスカーが意外そうに片眉を上げた。
「王の権威を背負って商売する方が、何かと都合がいいだろうに。資金も集めやすい。反対する貴族どもを黙らせるにも手っ取り早い。それが貴族の常套手段じゃないのか。現に、この国の大きな事業はみな王宮の影の中で行われてきた」
「短期的にはそうかもしれません」
レオポルトの声は静かだったが、その奥に揺るがない確信があった。
「ですが、王権に依存した施設は、王権が揺らいだ瞬間に崩壊する。自立した基盤を持たなければ、いずれ足元を掬われます。……私は、それを学んだのです」
「学んだ、か。誰に教わったんだ、その若さで」
オスカーの鋭い目がレオポルトを射抜いた。
「……歴史に、です」
レオポルトは短く答え、それ以上は語らなかった。オスカーもそれ以上は追及しない。技師は沈黙の価値を知る男だ。
「二つ目だ」
オスカーは地図の上に指を滑らせた。
「商業地区の中心。物流の拠点としては申し分ない立地だな。仕入れた商品を運び込むのに、馬車一台分の距離が近いだけでも年間の輸送費は相当変わる。石畳の状態も良く、大型の荷車が入れる道幅もある。だが、ここにもやはり問題がある」
太い指が地図上の狭い路地をたどった。
「庶民の生活圏からは離れている。商業地区の中心は商人のための場所であって、庶民の日常動線の外にある。それに、貴族がわざわざ馬車を乗り入れるには道が狭すぎるのも厄介だ。馬車同士がすれ違えない通りが何本もある。大型の馬車なら、なおさらだ」
さらに声を低くした。
「何より、既存の商人たちの縄張りのど真ん中に巨大な施設を建てるとなると、反発は避けられん。自分たちの客を根こそぎ奪われると、商人どもは大騒ぎするだろう。ギルドが一斉に抗議行動に出る可能性すらある」
「マルクスも同じことを言っていました」
レオポルトがうなずいた。
「商人たちとは敵対ではなく共存を目指す以上、彼らの庭に土足で踏み込むような立地は避けるべきだ、と。マルクスの言葉を借りれば、『隣に巨人が引っ越してきたら、誰だって不安になる。だが、少し離れた場所にいて、しかも自分の商売にも客を回してくれるなら、話は別だ』と」
「シュトラウスの旦那がそう言ったか。あの男は商売の現場を知っている。正しい判断だな。机の上で理屈をこねる学者より、よほど当てになる」
そして、三つ目の赤い印を指差した。
「最後だ。境界エリア。商業地区と一般住宅地区の間に位置する一帯で、ここに噴水広場がある。全ての層にアクセスしやすいのが最大の利点だ。貴族街からも、庶民の住宅地からも、商業地区からも、おおむね等距離にある。噴水広場があるおかげで日常的に人の流れが途切れない場所でもある」
オスカーの声のトーンがわずかに変わった。技師としての本音がにじんでいる。
「だが、土地が狭い。広場に面した空き地はおよそ八千平米。四階建てにするには手狭すぎるし、お前が構想するガラス天井の吹き抜けを設ければ、有効床面積はさらに減る。率直に言って、当初の設計プランをそのまま実現するには面積が足りん」
「ただし、逆に言えば欠点はそれだけだ、ということですね」
レオポルトが静かに確認した。
「アクセス、人の流れ、周辺環境。立地としての条件は、三候補の中で最も優れている」
「ああ。建築家としては、理想的な環境だと認めざるを得んな。南向きの日照は抜群だ。広場の開放感が建物の正面ファサードに生きる。地面の傾斜もほぼゼロで、基礎工事の難度が低い。施工のしやすさという点でも三候補の中では群を抜いている」
レオポルトは地図を見つめ、深く息を吸い込んだ。
今回は違う。過去の轍は踏まない。あの時の失敗を、一つ残らず修正する。
「境界を選びます」
静かに、しかし揺るぎない声で告げた。
「貴族も庶民も、誰もが気兼ねなく訪れられる場所。それが、私の目指すデパートの理念に最も合致する立地です。噴水広場で子供たちが水遊びをし、母親が買い物袋を提げて歩き、退役軍人がベンチに腰かけて日向ぼっこをする。その日常の風景の中にデパートがある。特別な場所ではなく、暮らしの一部として溶け込んでいる。それが正しい姿です」
オスカーは太い眉を寄せた。
「理念は分かった。お前の考えには筋が通っている。だが物理的な制約はどうする。八千平米では、お前の望む品揃えを実現するには床面積が足りんぞ。食料品、衣類、家具、書籍、図書室。全部詰め込むとなれば、最低でも一万二千平米の有効床面積が要る。四階建てでは到底届かん」
レオポルトは不敵に微笑んだ。
「ならば、上に伸ばします」
「……何だと」
「五階建てにするのです」
レオポルトは地図の上に手をかざし、空想の塔を積み上げるように指を動かした。
「一階は食料品と日用品。庶民の暮らしの基盤となるフロアです。二階は婦人服と紳士服。三階は家具と工芸品。四階は書籍と高級宝飾品。……そして屋上には、王都を一望できる展望食堂を設けます。この国の街並みを眺めながら食事ができる場所です。貴族も庶民も同じテーブルにつき、同じ風景を目にする。それ自体がデパートの理念を体現する空間になるのです」
オスカーが目を見開いた。
「五階建て……だと」
その声には、呆れと、それを上回る技術者としての興奮が入り混じっていた。
「正気か。この王国で五階を超える石造建築は、王宮と大聖堂だけだぞ。いずれも王室の直轄事業として、国家予算を投じて建設されたものだ。民間の商業施設であの高さに挑むというのか。構造的な難度が跳ね上がるぞ。四階から五階への一階分の追加は、単純に二割増しという話では済まん。荷重は指数関数的に増大する。基礎にかかる圧力、風圧への耐性、魔導刻印の配置密度。すべてが桁違いに複雑になるんだ」
「承知しています。だからこそ、先生にお願いしているのです」
「ふん。お世辞で誤魔化すんじゃない」
オスカーは鼻を鳴らしたが、その目は笑っていなかった。真剣そのものだ。
「技術的に不可能だとは言わん。だが、可能であることと、安全であることは別の話だ。十五年前の……」
声が途切れた。太い指がかすかに震えている。古い傷が疼いたのだ。
「……十五年前のことを、繰り返すわけにはいかん。あの大聖堂は、設計上は問題なかった。俺の計算に誤りはなかった。だが施工の段階で費用が削られた。資材の質が落とされ、魔導刻印の数が減らされた。完成検査の日、俺の目の前で天井が崩落し……三人が死んだ。子供が一人と、母親が一人と、老人が一人だ。あの日から十五年、俺はその三人の顔を一日たりとも忘れたことがない」
部屋の空気が張り詰めた。
「五階建てのデパートを建てるなら、一切の妥協も許さん。資材の一本一本、刻印の一画一画まで、俺の目の届く範囲でなければ引き受けられん。それが条件だ。呑めるか」
「もちろんです」
レオポルトは即座に答えた。
「それは第四話……いえ、先日の打ち合わせの時点でお約束した通りです。全工程の最終承認権は先生にあります。無断のコスト削減も資材の変更も、一切認めません。誰がどんな理由をつけて削減を求めてきても、先生の承認なしには釘一本動かさない。それを契約書に明記します」
「契約書、ね。紙に書いただけで守られるなら、十五年前の三人はまだ生きている」
「だからこそ、紙だけでは終わらせません。マルクスが帳簿を管理し、先生が施工を監督し、私が全体の責任を負う。三者の目が常に現場に向いている体制をつくります。一人の判断で資材を変更することは、構造上不可能な仕組みにする」
オスカーはしばらくレオポルトの目を見つめていた。嘘を探す目ではない。覚悟の深さを測る目だ。
やがて、ふっと苦笑を漏らした。
「……まったく、お前という男は。年寄りを焚きつけるのがうまいな。俺の技術者としての矜持を正面から突いてきやがる」
腕を組み、天井を仰いだ。
「だが、正直に言うぞ。心が躍っている。五階建ての商業建築。この国の建築史に名を刻む仕事だ。老い先短い身には、ちょうどいい花道かもしれん」
「花道などと言わないでください。先生にはまだまだ働いていただかなくては困ります」
「口の減らん小僧だ」
オスカーは呆れたように言いながらも、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。
「分かった。やってやろう。だが五階建てとなると、荷重計算は根本からやり直しだ。基礎の補強、柱の太さ、壁の厚み、魔導刻印の配置。全部が変わる。特に問題になるのは中央吹き抜けだ。五階分を貫通する吹き抜けとなれば、建物の中心部が構造的に空洞になる。その分の荷重を周辺の壁と柱で支えなければならん。鋳鉄の骨組みに加えて、魔導刻印による補強を通常の二倍は施す必要がある。刻印一つあたりの維持魔力も増える。魔導師への委託費だけでも相当な額になるぞ」
「鋳鉄の調達量は、当初の見積もりからどれほど増えますか」
「おおよそ四割増しだな。トーマスに追加の鋳鉄サンプルを大至急で発注させる。強度試験も一からやり直しだ。ガラス天井の設計も全面的に見直さねばならん。五階分の高さになると、風圧の影響が四階建てとは比較にならん。暴風雨の日にガラスが割れて降り注ぐなどという事態は、絶対に起こしてはならん。万が一にもだ。一枚たりとも割れさせん」
「費用の追加分は私が責任を持ちます。マルクスと相談して、建設予算の見直しを行いましょう」
「金の話は後だ。まずは設計を固めるのが先だ。設計が定まらんうちに予算を語っても意味がない。……ただし、一つだけ先に言っておく。五階建てにするなら、工期は当初の見積もりより少なくとも半年は延びる。急がせて手を抜くようなことをさせるくらいなら、俺は降りるぞ。急いで人が死ぬよりは、遅れて全員が無事な方がいい。それは技師としての鉄則だ」
「半年の延長、了解しました。安全と品質を最優先とします。工期については、先生の判断に従います」
レオポルトは深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします、先生」
「頭を下げるのは完成してからにしろ。まだ何ひとつ始まっちゃいない。図面の一本も引いていない段階で礼を言われても、くすぐったいだけだ」
オスカーは杖を床に突いて身を起こした。
「よし。まずは現地調査だ。地盤を見なければ何も始まらん。図面の上でいくら計算しても、実際の土の硬さは地面に触れなきゃ分からん。明日とは言わん、今日これから行くぞ。善は急げだ」
「今からですか。ありがたい。実は馬車の手配はもう……」
「何だと。すでに手配してあるのか」
オスカーの目が据わった。
「……お前、俺が承諾すると確信していたな」
「いえ、そういうわけでは。ただ、先生が技術的な挑戦を前にして引き下がる姿が、どうしても想像できなかったもので」
「……ふん。生意気な小僧だ。だが、否定はせん」
オスカーは呆れた口調で言いながらも、杖を握る手にはすでに力がこもっていた。
◇
屋敷を出ると、執事エーリッヒが手配した馬車が門前に待機していた。黒い塗装に控えめな紋章。目立ちすぎず、しかし品位を損なわない仕立ての馬車だ。
「旦那様、どちらへお向かいでしょうか」
「商業地区と住宅地区の境界、噴水広場だ。オスカー先生と現地調査に行く。先生をお乗せしてくれ」
「かしこまりました。オスカー様、足元にお気をつけください。踏み台をお出しいたします」
「いらんわ、そんなもの。まだ自分の足で馬車くらい乗れる。年寄り扱いをするな」
「失礼いたしました。ですがオスカー様、道中かなり揺れますので、手すりだけはどうかお使いくださいませ。先日の雨で石畳の目地がだいぶ傷んでおりますから」
「……ふん。口うるさい執事だ」
「旦那様と同じことをおっしゃいますね」
エーリッヒが穏やかに微笑み、レオポルトは苦笑を禁じ得なかった。
「エーリッヒ、もうひとつ頼みたいことがある」
馬車に乗り込む前に、レオポルトは声を低くした。
「この候補地の現在の所有者を至急調べてくれ。名前、住所、家族構成、経済状況。できる限り詳しく。帰るまでに初期報告がほしい」
「承知いたしました。情報網に当たり、お戻りまでに概要をまとめておきます。何か特に注意すべき点はございますか」
「保守派貴族の動きだ。とりわけエッケルト伯爵。あの男がこの土地にすでに目をつけていないか、接触を図っていないかを重点的に探ってくれ」
「エッケルト伯爵でございますか。……了解いたしました。北地区の情報提供者にも確認を取ります」
馬車が動き出した。石畳の上を車輪が転がる振動が、座席を通じて体に伝わってくる。
窓の外を王都の景色が流れていった。朝の活気に満ちた商店の軒先。荷物を運ぶ職人たち。井戸端で談笑する主婦たち。この街のすべてが、レオポルトにとっては守るべきものであり、変えるべきものでもあった。
「レオポルト」
馬車の中で、オスカーが低い声を発した。
「何でしょう」
「五階建てに変更するとなると、設計は根本からやり直しになる。四階と五階では、建物の骨格そのものが別物だ。柱の太さ、壁の厚み、基礎の深さ。全部が変わる。今まで描いた図面は一旦白紙に戻すことになるぞ。それは理解しているな」
「はい。覚悟しています」
「もうひとつ。五階建ての建築許可は、この国では前例がない。王宮と大聖堂は王室直轄の特例だ。民間の商業施設に五階建ての認可が下りるかどうか、法的な確認が不可欠だぞ」
「その点については、フェリックスに貴族議会での根回しを頼む予定です。彼なら議会の手続きにも明るい。必要であれば、国王陛下の特別許可を申請します」
「あの若い貴族か。……使える男なのか」
「使える、などという言葉では足りません。彼は家族を捨ててまでこの計画に身を投じてくれた。その覚悟は本物です。それに、貴族社会の内部事情にも精通している。我々には見えない力学を読み取る目を持っています」
「ふむ。お前の人を見る目は悪くないようだな。俺を口説き落としたくらいだからな」
三十分ほどで、目的地に到着した。
馬車を降りた瞬間、開けた空間の空気が肌を包んだ。商人街の路地裏とは明らかに違う。風が通り、空が広い。
噴水広場は、まさに都市の結節点と呼ぶにふさわしい場所だった。
中央に据えられた大きな石造りの噴水からは清冽な水が絶え間なく流れ落ち、その周囲を囲むように石のベンチがいくつも配されている。ベンチには老人が腰かけて日差しを浴び、噴水の縁では子供たちが水しぶきをあげて駆け回っていた。広場の周囲にはパン屋や仕立て屋の小さな店が並び、人の行き来が途切れない。
その東側に、ぽっかりと口を開けたような空き地があった。かつて倉庫が建っていた場所だが、火災で焼失して以来、瓦礫こそ撤去されたものの長く放置されていた土地だ。雑草が膝の高さまで伸び、崩れかけた石の塀が敷地の外周を囲んでいる。
「ここか」
オスカーは馬車を降りるなり、杖をつきながら空き地の方へと歩き出した。老いた体にはまだ確かな力が宿っている。
「……なるほど、悪くない立地だ。いや、率直に言えば素晴らしい。この広場の開放感がそのままデパートの正面の顔になる。建物の前に人が集まる空間がすでにある。これは設計者にとって最高の条件だ」
「地面の状態を見るぞ。黙って見ていろ」
オスカーは雑草を踏み分けながら空き地の中央まで進み、魔導刻印の施された杖先を地面に突き立てた。
低い唸りのような音が響き、杖の先端が青白く発光した。地質を探るための探査魔法だ。光は脈動するように明滅し、杖を通じて地中の情報がオスカーの手に伝わってゆく。
「……表層は火災の影響で炭化した土が混じっている。深さ一メートルまでは軟弱だな。焼け跡の土は脆い。このままでは基礎を置けん」
目を閉じ、さらに杖を深く押し込んだ。
「だが、その下に砂礫層がある。水はけは良好だ。さらにその下……深さ四メートルから五メートルのあたりに……」
数分間、オスカーは微動だにしなかった。目を閉じたまま、地中の感触を読み取っている。やがて杖を引き抜き、慎重に口を開いた。
「悪くない」
その声には、職人の矜持に裏打ちされた確信があった。
「表面こそ脆いが、深い位置に強固な石灰岩の層がある。厚みは少なくとも三メートル以上。これだけの基盤があれば、魔導杭をそこまで打ち込むことで五階建ての荷重にも十分耐えられるはずだ。相当な重量をかけても沈下の心配はない」
レオポルトは安堵の息を漏らした。
「構造的な問題はない、ということですね」
「基本的にはな。ただし、魔導杭は通常の四階建てより深く、そして太く打つ必要がある。本数も増える。概算で、四階建ての一・五倍の基礎工事量だ。そこのコストは覚悟しておけ」
「分かりました。マルクスに追加予算の試算を依頼します」
「それに日当たりも申し分ない。南東向きの開口部を設ければ、朝から午後にかけて自然光がたっぷりと入る。お前の構想するガラス天井の効果を最大限に引き出せるだろう。特に冬場が大きい。暖房費を抑えながら館内を明るく保てる。これは経営面でも無視できないメリットだぞ」
「ガラス天井から降り注ぐ光の中で買い物をする。それだけで人の気分は高揚するものです。商品が美しく映え、滞在時間が延び、購買額が増える。自然光は、最も安価で効果的な販促手段と言えます」
「お前は建築を語っているのか、商売を語っているのか、どっちなんだ」
「両方です。建築と商売は切り離せない。建物の設計そのものが、商売の設計でなければならないのです。空間の動線がそのまま顧客の購買行動を導く。天井の高さが開放感を生み、開放感が財布の紐を緩める。すべてはつながっています」
「……面白い考え方だな。俺はこれまで、建物の美しさと安全性だけを考えてきた。だが、建物が何のために使われるか。その用途と設計を一体化させるという発想か。なるほど、そう考えると柱の位置ひとつにも商売の論理が絡んでくる。厄介だが、やりがいはある」
オスカーは空き地の反対側まで歩き、そこでもう一度杖を突き立てた。
「こちら側の地盤も確認する。建物全体が均一に沈む分には構造的に吸収できるが、片側だけが沈むと傾斜が生じる。それが最も危険だ。……うむ」
しばらくして杖を抜いた。
「こちらも石灰岩層は安定している。傾斜沈下のリスクは低い。合格だ」
「先生、排水についてはいかがでしょう。この土地は広場よりわずかに低い位置にあるように見えますが」
「いい着眼点だ。確かに広場側からの雨水が流れ込む可能性はある。地下に排水溝を設ける必要があるな。だが、それは基礎工事と同時に施工できる。工期や予算への影響は軽微だ。大きな障害にはならん」
その時、近くを通りかかった老人が足を止め、物珍しそうに二人の様子を眺めていた。
レオポルトはためらわず歩み寄った。
「失礼します。少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ん? なんだね、若い衆。さっきから何やら光る杖で地面を突いておるようだが、一体何をしとるんだ。まさかここを掘り返すわけじゃあるまいな」
七十代半ばだろうか。日焼けした肌に深い皺が刻まれた老人は、使い古した木の杖をついてゆっくりと近づいてきた。
「いえ、地質の調査をしているのです。実はこの土地に建物を建てることを検討しておりまして」
「建物を? ほう、それはそれは」
老人の顔がぱっと明るくなった。
「この空き地も、もう五年は放ったらかしだったからなあ。何か建つなら、広場も賑やかになって良いことじゃ。わしは毎日この噴水広場に来るんだが、あの更地を見るたびに寂しゅうてならんかった。女房が生きとった頃は、あそこの倉庫のおじさんに野菜を分けてもらったもんだ。火事で全部なくなってしもうてからは、ただの空き地だ。草が伸びるばかりでな」
「毎日いらっしゃるのですか。この広場には普段どのくらいの方が集まりますか」
「朝は散歩の年寄りが五、六人。わしみたいなのがベンチに座って、日が昇るのを眺めとる。昼になると市場帰りの主婦やら、遊び盛りの子供やらで随分と賑わうよ。夕方になれば仕事帰りの職人たちが噴水の周りで一休みしとる。日曜には広場で小さな朝市が立つこともあるでな。人の流れは一日中途切れんよ、ここは」
「それは心強い。ありがとうございます。ところで、この土地の持ち主をご存知ですか」
「ああ、ヘルマン・フィッシャーさんじゃよ」
老人は空き地の方を懐かしそうに見つめた。
「昔は手広く商売をしていた人でな。食料品と雑貨を扱っとった。実直な人で、品物に嘘のない商売をしとったから、近所の者はみな贔屓にしとった。だが五年前に体を壊してな。倉庫が焼けたのと前後して商売をたたんだんじゃ。最近はこの土地を売りたがっていると聞いたが……気の毒な人じゃよ。奥さんに先立たれてからは、めっきり元気がのうなった。あの人の笑顔を見たのは、もう随分前のことだ」
「息子さんがいらっしゃるのですか」
「ああ。息子さんが一人おるが、東の港町で船の商売をしておるとかで、もう何年も王都には帰って来とらんようじゃ。フィッシャーさんは時々この広場にも来てな、昔の倉庫があった頃を懐かしそうに眺めておったよ。『あの頃は忙しかったが、幸せだった』と。……一人で暮らしとるのは寂しいもんだろうて」
「フィッシャーさんのお住まいは、この近くですか」
「ここから東へ三本目の通りを曲がった先じゃよ。木の扉に青い鉢植えが置いてある家だ。すぐ分かる。……あんた、フィッシャーさんに会うつもりかね」
「ええ。ぜひお話を伺いたいと思っています」
「そうかそうか。まあ、あの人も話し相手がおらんで寂しそうだったからな。若い人が訪ねてきてくれたら、きっと喜ぶじゃろう。ただし……あの人は病み上がりだ。無理をさせんでやってくれよ。長話は疲れるからな」
「もちろんです。ご親切にありがとうございます」
老人は手を振って去っていった。その後ろ姿を見送りながら、レオポルトは馬車の傍に控えていたエーリッヒに視線を送った。
「エーリッヒ、聞いていたか」
「はい。すべて耳に入れております。ヘルマン・フィッシャー氏。東へ三本目の通り、青い鉢植えの家。元商人、病み上がり、独り暮らし。息子は東方の港町で海運業を営んでいる模様です」
「さすがだ。フィッシャー氏について至急調べてくれ。先ほどの老人の話と合わせて、現在の状況を正確に把握したい。特に、彼がどれほど困窮しているか。そして、他に彼へ接触している人間がいないかどうかを」
「承知いたしました。本日中に初期報告をまとめます。商人街の情報網に加え、不動産取引を扱う公証人にも当たりましょう。土地の登記状況と、直近の売買交渉の有無を確認いたします」
「頼む。それから、オスカー先生を工房までお送りした後、すぐに情報収集に入ってくれ」
「かしこまりました。旦那様、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「先ほどエッケルト伯爵のお名前を出されましたが、伯爵の周辺を探るとなると、相応のリスクが伴います。伯爵は自前の諜報網を持っていると噂されております。こちらが動いていることを悟られれば、かえって伯爵の行動を加速させる恐れがございます」
「分かっている。慎重に進めてくれ。探りを入れるのは信頼できる筋だけに限定しろ。直接伯爵の屋敷に近づく必要はない。不動産の公証人と商人街の情報だけで十分だ。尻尾を出さずに情報だけを掴む。お前なら出来るはずだ」
「お任せください」
レオポルトの脳裏に、第一周目の苦い記憶がよぎった。
ヘルマン・フィッシャー。引退を考えていた老商人。あの時、レオポルトが彼に接触するより一足早く、保守派貴族のゲオルク・フォン・エッケルトが動いたのだ。ゲオルクは法外な高値で土地を買い占め、あるいは地主に圧力をかけて売却を阻み、レオポルトの計画をことごとく妨害した。
結果として土地探しは難航し、計画は大幅に遅れ、余計なコストばかりがかさんだ。その遅延のあいだに帝国の工作が深く根を張り、気がついた時にはもう手遅れだったのだ。
「今回は、ゲオルクが動く前に決める」
拳を強く握りしめた。
「あの時は、土地の確保を後回しにした。設計と資金調達を優先し、土地はあとからどうにでもなると甘く見ていた。その隙をゲオルクに突かれた。……今回は順序を変える。まず土地を押さえる。すべての計画の起点を確保してから、他を動かす」
◇
翌日。エーリッヒの調査報告は、期待通りに迅速かつ的確だった。
書斎でレオポルトの前に立ち、報告書を手にした執事の声には、普段は聞かれないわずかな緊張がにじんでいる。
「ヘルマン・フィッシャー氏は六十歳。かつては食料品と雑貨を扱う堅実な商人でしたが、五年前に病を患って以降、商売を縮小されました。現在は引退を視野に入れ、資産整理のために土地の売却を急いでおいでです」
エーリッヒはページをめくった。
「登記簿を確認いたしましたところ、土地の権利関係に瑕疵はございません。抵当権の設定もなく、フィッシャー氏の完全な単独所有です。売却に際して法的な障害はありません」
「家族の状況は」
「奥方は三年前に病没されております。御子息は一人。東方のハーフェンシュタットで海運業を営んでおられますが、ここ二年ほど王都にはお戻りになっていない模様です。フィッシャー氏は実質的な独り暮らしで、週に三回、近所の女性が食事の世話に通っている以外は、ほぼ孤立した日常を送っておいでです」
エーリッヒは一瞬言葉を切り、声をさらに低くした。
「経済状況は、率直に申し上げて厳しい。蓄えは底をつきかけており、土地の売却益が老後の唯一の資金源と思われます」
そこまでは予想の範囲内だった。だが、次の言葉がレオポルトの背筋を凍らせた。
「しかし……すでに保守派貴族の代理人が彼に接触しているとの情報がございます」
「何だと」
「公証人への聞き取りによれば、三日前にエッケルト伯爵家の紋章入りの封書がフィッシャー氏の元に届いたとのことです。内容までは確認できておりませんが、土地の購入に関する打診であることはほぼ確実かと存じます」
「三日前……。すでに動いていたか」
レオポルトは椅子の肘掛けを強く握った。
「ゲオルクめ……。やはりか」
「おそらくは、旦那様の計画を察知し、先手を打って土地を封鎖するおつもりでしょう。伯爵の代理人がまだ正式な売買交渉に入っていないのが救いですが、それも時間の問題です。公証人の話では、具体的な金額の提示はまだのようですが、近日中に見積もりを持参する旨の約束があったとのことです」
「エーリッヒ、ゲオルクの目的は土地そのものではないはずだ」
レオポルトの声が低くなった。
「あの男にとって、噴水広場の空き地など何の価値もない。俺のデパート計画を潰すための妨害工作だ。土地を買い占めて塩漬けにし、俺の計画を頓挫させる。……第一周目とまったく同じ手口だ」
最後の一言は、ほとんど独り言に近かった。エーリッヒは聞こえないふりをした。
「仰る通りかと存じます。伯爵は旦那様の王宮での提案にも強く反対されておりました。デパート構想そのものを潰したいという意図は明白です」
「フィッシャー氏への脅迫の可能性はあるか」
「現時点では確認できておりません。しかし、伯爵が穏やかな交渉だけで済ませるとは……正直なところ、考えにくうございます。あの方は目的のためには手段を選ばないことで知られておりますので」
「すぐにフィッシャー氏に会わなければ」
レオポルトは即断した。
「今夜だ。彼の自宅を訪問する」
オスカーが眉をひそめた。書斎の隅で設計メモを取っていた老技師は、ペンを置いてこちらを向いた。
「夜分にか。いきなり押しかけるのは失礼にあたらんか。年寄りの一人暮らしの家に、夜に貴族が訪ねてくれば、それだけで怯えさせてしまうぞ」
「緊急事態です」
レオポルトの瞳に迷いはなかった。
「明日の朝では遅いかもしれない。ゲオルクの代理人に契約書を書かせたら、もう取り返しがつかないのです。失礼は重々承知しています。だが、フィッシャー氏にとっても、伯爵に買い叩かれるよりは……」
「……分かった。だが、お前一人で行くな。俺も同行する」
「先生が」
「老人の家に若い貴族が一人で夜に訪ねてくるのと、白髪の技師がもう一人いるのとでは、相手の受ける印象がまるで違う。年寄り同士の方が警戒心が解ける場合もある。……それに、お前の交渉をこの目で見届けたい。この土地に建物を建てるのは俺だ。土地の取得がどのように行われるか、確認する権利がある」
「……ありがとうございます。先生がいてくだされば、心強い」
「旦那様、私も同行させていただきます」
エーリッヒが進み出た。
「契約書の準備が必要です。また、万が一の事態に備えまして……」
「ああ、頼む。エーリッヒ、契約書の雛形を用意してくれ。価格は、フィッシャー氏の希望額を伺ったうえで、相場の一割増しを提示する。彼の老後の生活を保障できるだけの金額でなければならない」
「相場の一割増し、でございますか」
エーリッヒがわずかに目を見開いた。
「旦那様、それは……」
「分かっている。安く買い叩くこともできるだろう。病に弱り、孤立した老人が相手だ。足元を見れば、半値でも応じてくれるかもしれない。だが、そういう取引は絶対にしない。フィッシャー氏が安心して余生を送れるだけの金額を提示する。それが、この土地の上に建てるデパートの理念にふさわしい取引というものだ。安く買い叩いた土地の上に、平等を謳う建物を建てるなど、笑い話にもならん」
「……かしこまりました。旦那様の御意志、確かに承りました。契約書は二通作成し、公証人の認証印を押せる形式で準備いたします」
◇
夜の帳が下りた住宅街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
街灯の明かりもまばらな路地を、三人の影が進んでゆく。レオポルトが先頭に立ち、オスカーが杖をつきながら続き、エーリッヒが書類鞄を抱えて最後尾を守っている。
足元の石畳は夜露に濡れて黒く光り、遠くで犬の鳴き声がかすかに聞こえた。
東へ三本目の通りを曲がった先に、ヘルマン・フィッシャーの質素な家はあった。
木造二階建ての古びた家屋。外壁の漆喰はところどころ剥がれ落ちているが、窓枠は丁寧に塗り直された跡がある。扉の脇に置かれた青い鉢植えには、季節の花が小さく咲いていた。窓から漏れるやわらかな灯りが、主人の在宅を告げている。
「あれですな。青い鉢植えが目印だと、昨日の老人が言っていました」
エーリッヒが小声で確認した。
「ええ。小さな家ですが、手入れが行き届いている。窓辺の花も丁寧に世話されている。几帳面な方なのでしょう」
「レオポルト」
オスカーが低い声で呼びかけた。
「一つだけ言っておくぞ。相手は病み上がりの年寄りだ。追い詰めるような交渉はするな。急かしてもいかん。彼が考える時間がほしいと言えば、その時間を黙って差し出せ。分かったな」
「もちろんです、先生」
レオポルトは深く息を吸い込み、扉を三度叩いた。
しばらく間があった。家の中で何かがきしむ音がし、ゆっくりとした足音が近づいてくる。やがて扉が細く開き、隙間からおそるおそる顔を覗かせたのは、白髪の薄い痩せこけた老人だった。
深い皺が幾重にも刻まれた顔には、長い病と孤独の影が色濃く落ちている。頬はこけ、目の下には暗い隈があった。だが、その目にはまだ理性の光が残っている。
「……どちら様ですかな。こんな時分に珍しい。近所の方ではないようだが……」
不安げな声だった。夜更けに見知らぬ人間が三人も訪ねてくれば、誰でも警戒する。
「夜分遅くに申し訳ありません。ヴァイスハルト男爵と申します」
レオポルトは帽子を取り、深く頭を下げた。
「どうしてもお話ししたいことがあり、参上いたしました。遅い時間のご無礼、重々お詫び申し上げます」
「こちらは建築技師のオスカー・ブラウエルと申します。突然お邪魔して申し訳ない」
「そして私は、ヴァイスハルト家の執事エーリッヒでございます。お夜分に大変失礼いたします」
「男爵様……。それに技師の方に、執事の方まで」
フィッシャーは目を白黒させた。慌てて扉を大きく開け、体を横にずらす。
「こ、これは失礼いたしました。どうぞ、中へ……。散らかっておりますが、お許しください。まさか貴族様がお見えになるとは、夢にも思いませんでしたので……。靴のままで結構です。どうぞどうぞ」
「いえ、突然伺ったのは私たちのほうです。お気遣いなく」
通された居間は狭かったが、隅々まで掃除が行き届いていた。質素ではあるが、物を大切にする人間の暮らしぶりが伝わってくる空間だ。
暖炉には小さな火が燃えており、壁には二枚の肖像画が飾られている。一枚は穏やかな笑顔の中年女性。もう一枚は若い男の胸像だ。亡き妻と、遠くにいる息子だろう。
「温かいお部屋ですね。大切にお住まいになっているのが伝わります」
「いえいえ、女房が生きていた頃に比べれば、随分と寂しくなりましたよ」
フィッシャーは壁の肖像画に一瞬だけ目をやった。
「あれが花を飾り、カーテンを縫い、棚のひとつひとつに気を配っていた頃は……もっと明るい家でした。今は私一人の手では、とてもあの頃のようにはいきません。それでもまあ、あれの真似事をしながら、なんとか暮らしておるのですがな」
そう言ってから、不安そうに手を揉み合わせた。
「お茶もお出しできなくて申し訳ありません。この時間ですと、火を起こし直さなければ……」
「お気遣いなく、フィッシャーさん。お体のこともございますから、手短に参りましょう。長居をするつもりはありません」
「して、貴族様が私のような者に何のご用で……。何かご迷惑をおかけしてしまったのでしょうか。もし土地のことで苦情がおありでしたら、近隣の方々にはいつもご不便を……」
「いいえ、苦情などではありません。どうかご安心ください」
レオポルトはまっすぐに老人の目を見つめた。
「単刀直入に申し上げます。あなたがお持ちの土地を、売っていただきたいのです」
「土地……。広場の横の、あの空き地のことですか」
「はい。あの場所に、私は『デパート』という新しい商業施設を建てたいと考えています。貴族も庶民も分け隔てなく、誰もが平等に利用できる場所を」
「デパート……。聞いたことのない言葉ですが、商業施設というのは……つまり、お店のようなものでしょうか」
「もっと大きなものです。複数の商店をひとつの建物の中に集め、食料品から衣料品、日用品、書籍に至るまで、あらゆる商品を一箇所で買えるようにします。さらに、すべての商品に値札をつけて、誰でも同じ価格で買い物ができる仕組みを設ける。身分による差別のない、開かれた場所です」
「ほう……。それはまた、なんとも壮大なお話ですな」
フィッシャーは驚いたように目をしばたたいた。
「あの空き地に、そんな施設が建つのですか。五年前に倉庫が焼けてからずっと、寂しい更地のままでしたが……」
オスカーが穏やかに口を添えた。
「フィッシャーさん、私はこの施設の設計を担当する建築技師です。今日、あの土地の地質調査を行いました。地盤は強固で、建築に申し分ない素晴らしい土地です。あなたが長年大切にされてきた場所の上に、人々が集まる建物を建てることができる。技師として、光栄に思っています」
「建築技師の方がそうおっしゃってくださるとは……」
フィッシャーの声がかすかに震えた。
「あの土地は、亡き父から受け継いだものでしてな。父もあそこで商売を始めた時は、周りに何もない更地でした。それが少しずつ、人が集まるようになって、倉庫を建て、隣に小さな店を出して……。私も若い頃はあそこで朝から晩まで働いたものです。毎朝早くに倉庫を開けて、荷を運び出して、お客さんと笑い合って。あの頃は毎日が忙しくて、体は疲れるのに、心は満たされていました。女房も帳簿をつけてくれて、二人で切り盛りして……今となっては、遠い昔の話ですがな」
遠い記憶を手繰り寄せるように、老人は目を細めた。だが次の瞬間、その顔に困惑の色が浮かんだ。
「……ありがたいお話ではあるのですが、その……実は、すでに別の方からもお話をいただいておりまして」
やはりか。
レオポルトは内心で身構えたが、表情には出さなかった。
「エッケルト伯爵の代理人、ですね」
フィッシャーは驚愕に目を見開いた。
「なぜ、それを……。誰にも話していないのに……」
「推測です。ですが確信があります」
レオポルトは声を落とした。
「フィッシャーさん、率直に申し上げます。伯爵は、あの土地を本当に必要としているわけではありません。私のデパート計画を妨害するために、土地を買い占めようとしているのです。伯爵があの土地を手に入れたとしても、そこには何も建てはしない。更地のまま放置するか、あるいは法外な価格で私に売りつけようとするでしょう。あなたのお父上から受け継がれた、思い出の詰まった土地が、政治的な駆け引きの道具にされてしまうのです」
「そ、そんな……」
フィッシャーの顔が青ざめた。
「伯爵様の代理人は、『適正な価格でお譲りいただきたい』と、丁寧におっしゃっていましたが……」
「その適正な価格とは、具体的にいくらだと提示されましたか」
「……まだ具体的な金額は聞いておりません。ただ、『近日中にお見積りをお持ちする』とだけ……」
「おそらく、相場よりかなり低い金額を突きつけてくるでしょう。そして、もし断れば……別の形で圧力をかけてくる可能性があります」
フィッシャーの手が膝の上で小刻みに震え始めた。
「そんな……。し、しかし、相手は大貴族の伯爵様です。断れば、何をされるか……。私には何の後ろ盾もございません。一人の老いぼれが伯爵様に逆らうなど……」
声がどんどん小さくなってゆく。
「私はもう歳です。身寄りもない。平穏に余生を送りたいだけなのです。伯爵様に逆らって報復されるのが……怖いのです。息子は遠くにおりますし、女房はもういない。守ってくれる人間が、誰もいないのですから……」
オスカーが穏やかに、しかし力を込めて口を開いた。
「フィッシャーさん」
老技師の声には、同じ年月を生きてきた者だけが持つ重みがあった。
「私も年寄りだ。あなたの不安は分かるよ。大貴族を相手にする恐怖も、一人で立ち向かうことの心細さもな。……だが、ここにいるこの若者は、口先だけの貴族じゃない。言ったことは必ず守る男だ。私はこの老いた目で、それを確かめたうえでこの場に来ている。技師としての六十二年の経験で言わせてもらえば、人間の器というのは目を見れば分かるものだ。この男の目は嘘をつかん」
「オスカーさん……」
フィッシャーが老技師を見上げた。
レオポルトは身を乗り出し、フィッシャーの冷たく乾いた手を両手でそっと包み込んだ。骨が浮き出た、薄い皮膚の手だ。だがかつては商品を担ぎ、算盤を弾き、帳簿に署名してきた、商人の手だ。
「フィッシャーさん。私が、あなたを守ります」
老人がゆっくりと顔を上げた。その目にはまだ不安が揺れている。
「私はすでに国王陛下より、この事業の承認を得ています。これは私個人の思いつきではなく、国家事業なのです。たとえエッケルト伯爵といえども、王の認めた事業に手を出せばただでは済みません」
声を一段落ち着け、続けた。
「具体的に申し上げましょう。まず、土地の売買価格は相場の一割増しでお支払いします。あなたの老後の暮らしに不安が残らないよう、十分な金額を用意しております」
「相場の一割増し……。そんな、申し訳ない。相場通りで十分ですよ。むしろ相場でも、この老いぼれには過分なくらいです」
「いいえ。あなたにとって大切な土地です。お父上から受け継ぎ、奥様との思い出が染み込んだ場所だ。その価値は不動産の相場では測れません。一割増しでも足りないくらいだと、私は本気で思っています」
「……男爵様……」
「さらに、売却後もあなたの住居と安全を保障します。エッケルト伯爵からの圧力や嫌がらせがあれば、私が全力で対処いたします。必要であれば、新しい住居の手配も致しましょう。あなたを孤立させたりはしません」
「旦那様のお言葉に偽りはございません」
エーリッヒが静かに、しかし澱みのない声で言葉を添えた。
「私はこの方に十年以上お仕えしておりますが、一度たりとも約束を違えたことはございません。それは私が身をもって保証いたします。フィッシャー様、どうかご安心ください」
「……本当、ですか」
フィッシャーの声がかすれた。信じたいが、信じることが怖い。そんな老人の葛藤が、震える声ににじんでいた。
「嘘はつきません」
レオポルトはフィッシャーの手を握ったまま、静かに、しかし揺るがない声で続けた。
「それに、あなたの土地がただの空き地として封鎖されるのと、たくさんの人々の笑顔が集まる場所になるのと……どちらを望まれますか。お父上があの場所で商売を始められた時の想い。人が集まり、笑い合い、活気にあふれる場所であってほしいという想い。その想いを、私は受け継ぎたいのです。あの空き地を、もう一度、人々が集う場所にしたい」
フィッシャーは壁の肖像画に目をやった。穏やかに微笑む妻の顔。若い息子の凛々しい横顔。かつて商売に情熱を燃やしていた頃の、自分と家族の姿が、古い絵の具の向こうからこちらを見つめている。
「……父は、いつも言っておりました」
老人の声が震えた。
「『商売は、人の笑顔のためにやるもんだ』と。儲けは大事だが、それだけじゃ商売をやる意味がない。お客さんが喜ぶ顔を見るために店を開けるんだ、と。……女房も同じことを申しておりました。『あの広場に人が集まるのを見るのが、一番嬉しい』と。朝、倉庫の窓から広場を眺めるのが好きだったんです、あの人は」
老人の目に、涙が光った。
「もし、あの土地に……本当に人々が集まる場所ができるなら。父も、女房も、きっと喜ぶでしょう。空き地のままで朽ちていくよりも、よほど……よほど……」
言葉がつまった。
しばらく沈黙が続いた。暖炉の火がぱちりと爆ぜる音だけが、小さな居間に響いている。
やがてフィッシャーは袖で目元をぬぐい、レオポルトに向き直った。
「……分かりました」
その声はまだ震えていたが、芯には力がこもっている。
「あなたを信じましょう。あの土地が人々のお役に立つのなら……妻も喜んでくれるはずです。父もきっと、向こうの世界で笑っていると思います。……男爵様、どうかお願いです。あの土地を、人々の笑顔で満たしてやってください。それだけが、この老いぼれの最後の願いです」
「お約束します、フィッシャーさん。あなたの土地を、必ずこの王国で最も人々に愛される場所にしてみせます。それは私の命をかけた誓いです」
オスカーが静かにフィッシャーの肩に手を置いた。老技師の大きな手が、老商人の細い肩を包み込む。
「フィッシャーさん。完成したら、ぜひ見に来てほしい。あなたの土地の上にどんな建物が建ったか、この目で確かめてくれ。きっと驚くぞ。五階建ての、ガラスの天井が光る建物だ。お父上が見たら、腰を抜かすかもしれんな」
「五階建て……。それはまた、途方もないお話ですな」
フィッシャーは泣き笑いの顔をした。
「ははは……ええ、ぜひ見に参ります。この足が動くうちに……。楽しみにしておりますよ、オスカーさん」
エーリッヒが書類鞄から契約書と羽根ペンを取り出した。机の上に契約書を広げ、インク壺の蓋を開ける。その一連の動作に無駄がない。
「フィッシャー様、こちらが売買契約書でございます。価格、支払い条件、引き渡し日。すべて明記しております。ご不明な点がございましたら、何なりとお尋ねください。もちろん、今すぐにご署名いただく必要はございません。お時間が必要であれば……」
「いいえ。待つ必要はありませんよ」
フィッシャーは穏やかに首を振った。
「これ以上迷う歳でもありませんからな。心は決まりました。迷って後悔するより、信じて前に進みたい。残り少ない人生を、後悔の中で終えたくはないのです」
老眼鏡を取り出し、契約書にゆっくりと目を通した。白く濁りかけた目が、一行一行を丹念に追ってゆく。
「……金額が、相場より随分と高うございますな。男爵様、これではこちらが申し訳ない」
「お気になさらず。これがあなたの土地の正当な価値です。そして、あなたの安心の代価です」
「……そうですか。それでは……」
フィッシャーは震える手で羽根ペンを取り、インクに浸した。そして、ゆっくりと、しかし一画一画に力を込めて署名した。
「ヘルマン・フィッシャー、と。……これでよろしいですかな」
「はい。確かに頂戴いたしました。契約は成立でございます」
エーリッヒが契約書を確認し、静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
レオポルトは深々と頭を下げた。
「あなたの決断に、心から感謝いたします。この御恩は、必ずデパートの成功という形でお返しします」
「いえいえ。私のほうこそ、ありがとうございます。あの土地がただ朽ちていくだけだと、半ば諦めておりました。最後の最後に……良い使い手に巡り合えました。女房に報告しなければなりませんな。今夜はあの子の肖像画の前で、一杯やることにいたしましょう」
フィッシャーは壁の肖像画に目をやり、微笑んだ。
「フィッシャーさん。デパートが完成した日には、一番最初の客としてお招きします。誰よりも先に、新しいデパートの扉をくぐっていただきたい。それが、土地を譲ってくださった方への、私からの最低限の礼儀です」
「……ほう。この老いぼれが、最初のお客になれるのですか」
フィッシャーは目を丸くし、それからゆっくりと笑った。
「それは楽しみですな。女房が聞いたら、『あんた、また調子に乗って』と笑うでしょうな。……ああ、そうだ。息子にも手紙を書かなければ。あの空き地に、五階建ての建物が建つんだとな。あいつも驚くでしょうよ」
◇
フィッシャーの家を出た時には、空には月が高く昇っていた。
細い三日月が暗い天蓋にかかり、冷涼な夜気が火照った頬に心地よくしみる。虫の声がどこからか聞こえ、遠くで夜番の鐘が低く鳴った。
「……良い老人だったな」
オスカーが静かにつぶやいた。杖をつく手は疲れているはずだが、その声には穏やかな満足がにじんでいる。
「ああいう人間の想いが染み込んだ土地の上に建物を建てる。その重みを忘れるなよ、レオポルト。基礎を打つ時、資材を組み上げる時、いつもあの老人の顔を思い出せ。手を抜こうとする心が芽生えたら、フィッシャーのじいさんの涙を思い出せ。それが、建物に魂を込めるということだ」
「忘れません、先生。フィッシャーさんの想いは、基礎の一番深いところに刻み込みます」
「ふん。詩人みたいなことを言うな。……だが、悪くない心掛けだ」
「旦那様」
エーリッヒが声のトーンを落として言った。
「これでエッケルト伯爵は間違いなく激怒いたします。あからさまな敵対行為と受け取られるでしょう。伯爵は議会でも社交界でも影響力の強いお方です。正面からの報復が来る可能性は極めて高い。貴族議会での妨害工作、建設許可の差し止め、あるいは……フィッシャー氏への直接的な圧力。あらゆる手段を講じてくるものと想定すべきです」
「覚悟の上だ」
レオポルトは月を見上げた。冷たい光が瞳の奥を照らす。
「第一周目では、俺は後手に回って全てを失った。だが今回は先に動いたのは俺のほうだ。ゲオルクが怒るのは想定のうちだ。むしろ、怒らせることに意味がある。冷静さを失った人間は判断を誤る。感情で動く敵ほど、御しやすいものはない」
「旦那様、フェリックス様にも早急にお知らせした方がよろしいかと存じます。貴族議会での伯爵の動向を監視していただく必要がございます」
「ああ。明日の朝一番にフェリックスに伝える。それと、マルクスにも連絡を取ってくれ。商人組合の中にゲオルクの息がかかった者がいないか、洗い出してもらう。エドヴァルトの動きも引き続き監視だ。ゲオルクとエドヴァルトが手を結ぶ可能性は……排除できない」
「伯爵と帝国の工作員が連携する。……恐ろしい事態ですが、十分にあり得ます」
「だからこそ、先手を打ち続ける。敵が態勢を整える前に、こちらの布陣を完成させる」
上着のポケットに手を入れ、契約書の感触を確かめた。羊皮紙の厚み。インクの乾いた手触り。これは単なる紙ではない。未来への切符だ。
「オスカー先生、五階建ての設計図はいつ頃から着手できますか」
「明日からだ。基礎設計の見直しに一週間、構造計算に二週間。概略設計が仕上がるまで、最短で三週間だな。急かすなよ。急いで出来上がった図面で人が死んだら、誰が責任を取る」
「急かしません。ただ、三週間後に概略設計を持って王宮へ上がりたい。国王陛下に五階建てへの変更計画を正式に提出するためです」
「分かった。間に合わせてやろう。……ただし、トーマスの奴に追加の鋳鉄サンプルを大至急で発注しなきゃならん。明日の朝一で工房に戻る」
「さあ、帰りましょう。明日からは王宮への詳細計画書の作成に取りかかります。……忙しくなりますよ」
「旦那様、馬車をお回しいたします。オスカー様、お疲れのところ恐れ入りますが……」
「いらんいらん、歩ける。……いや、やはり馬車を頼む。さすがに膝が笑っておるわ」
「正直でいらっしゃいますね、先生」
「年寄りの見栄ほど始末の悪いものはないからな」
オスカーは馬車に乗り込みながら、ふと振り返った。
「レオポルト。ひとつ言い忘れていた」
「何でしょう」
「フィッシャーのじいさんに、完成した建物を見せてやれ。あの人の目の黒いうちに仕上げろ。それが、技師として俺が課すもうひとつの条件だ。約束は守れ」
「……必ず」
レオポルトは短く、だが揺るぎない声で答えた。
馬車が動き出した。月明かりの下、夜の王都を走る車輪の音だけが響いている。
建設地は確保した。仲間も揃った。
あの第一周目で崩れ去ったすべてをやり直すための舞台が、一つひとつ、確かな形を帯び始めている。フィッシャーの涙を、オスカーの矜持を、マルクスの握手を、フェリックスの決意を、クララの静かな覚悟を。何ひとつ無駄にはしない。
レオポルトは窓の外を流れる夜景を見つめながら、ポケットの中の契約書をそっと握りしめた。




