第8話 商人マルクスの取引
王都の商人街は、太陽が昇ると同時に熱気と喧騒に包まれる。
朝もやがまだ石畳の隙間に薄くたゆたう時刻から、すでに人の波は途切れることがない。道の両側にはさまざまな色の看板を掲げた商会がひしめき合い、布地商、香辛料商、金物商、穀物商と、ありとあらゆる業種が軒を連ねていた。
風にはためく看板の下では商品がうず高く積まれ、商人たちが喉を枯らして客を呼び込んでいる。
「さあさあ、新鮮な香辛料だよ。東方からの直輸入品、香りだけでも嗅いでいきなよ。ひと振りするだけで晩ご飯が見違えるってもんさ。奥さん、そこのシナモンは昨日入ったばかりだ。この値段じゃ明日にはもう出せねえよ。今日が最後の仕入れ値だ、嘘じゃねえ」
「最高品質のシルクだよ。王宮の貴婦人も御用達の一品だ。本当の質感を知ってる人間にはひと目でわかる。触ってみな、この手触り。よその店で売ってるのとは織りが違う。うちは産地の工房と直に取引してるからな、中間で抜かれる分がねえんだよ。だから同じ品質でもよそより安い。嘘だと思うなら比べてみな」
「金物ならうちに何でも揃ってるぞ。鍋でも釜でも畑を耕す鍬だって完備してある。百姓から貴族まで、全階級の需要に応えますよ。おい兄さん、そこの包丁だけでも見ていってくれよ。職人が一本ずつ手打ちした逸品だ。切れ味が段違い、一生モンだぜ。研ぎ直しも受け付けてる、アフターサービス込みの値段だ」
行き交う人々。飛び交う怒号じみた値段交渉。石畳を軋ませながら往来する荷車の車輪の音。馬の嘶き。子供の笑い声。肉を焼く匂いと、香辛料の粉が鼻をくすぐる刺激。
この場所には人間の欲望と活力が煮詰まったような空気が充満していた。ここは経済の心臓部であり、王都の血液がもっとも勢いよく巡る場所にほかならない。
レオポルト・ヴァイスハルトは、その熱気の中をゆっくりと歩いていた。足取りには迷いがない。目的地は明確だ。周囲の喧騒に目を奪われているようでいて、その瞳はすべてを冷静に観察し、記録している。
「……この喧騒こそが、この国の経済の本質だな」
低い独り言が唇からこぼれた。
「値段を叫び、品質を誇り、一人でも多くの客の足を止めようと必死になる。この一人ひとりの商人が、王国という巨体の血液を巡らせている。デパートは彼らを殺すためのものじゃない。彼らの力を束ね、さらに大きな流れを生み出すためのものだ。それを……マルクスになら理解してもらえるはずだ。あの男は、商売の本質を知っている」
第一周目の記憶が、昨日のことのように鮮やかに蘇った。
この商人街で、マルクス・シュトラウスと初めて出会ったのだ。レオポルトが王宮での提案を終えた直後、まだ誰からも相手にされていなかった頃のことだった。マルクスはレオポルトの青臭い演説に興味を示し、商人の中で真っ先に協力を申し出てくれた男だ。
根っからの現実主義者で、「儲けなきゃ続かねえ」が口癖だった。
だが同時に、あの男はこうも言ったのだ。「だがな、儲けだけじゃ意味がねえんだよ」と。その一言が、彼の本質を示していた。利益という現実と、理念という理想。その両方を同時に見据えることのできる、稀有な商人だった。
革命の後、デパートが帝国に接収され、流通網が掌握されたとき、マルクスは苦渋の選択を迫られた。生き残るために帝国に協力するか、それともすべてを失うか。彼は家族と三十人の従業員の生活を守るため、前者を選ばざるを得なかった。
そのときの彼の顔を、レオポルトは今でも覚えている。目の奥の光が消え、唇を噛みしめ、「すまねえ」とだけ言って背を向けた、あの後ろ姿を。
彼もまた被害者だったのだ。選択肢を奪われた人間を、誰が責められるだろうか。
レオポルトは拳を握りしめた。
「だが今回は違う」
その呟きに、鋼のような決意が込められている。
「あのとき、マルクスは帝国への協力を選ばざるを得なかった。従業員三十人の暮らしを背負っていたからだ。妻がいた。子供が三人いた。あの男に選択肢はなかったんだ。……だが今回は、帝国に頼らなくても生き残れる仕組みを最初から組み上げる。三者出資の構造がそれを可能にする。マルクスに二度とあんな選択を迫らせない。それが俺の責任だ」
歩みを進めるうちに、商人街の大通りから一本裏手に入った通りに差しかかった。表通りほどの派手さはないが、堅実な構えの商会がいくつも並んでいる。
その中のひとつに、レオポルトは立ち止まった。
シュトラウス商会。
中規模ながら、その堅実な経営ぶりは商人街でも広く知られている。二階建ての石造りの建物は質実剛健そのもので、華美な装飾は一切ない。一階の店舗窓には「食料品・日用品」と書かれた木の看板が掲げられていた。文字のひとつひとつが几帳面に彫り込まれており、店主の性格がそのまま看板になったかのようだ。
店先には塩や穀物を入れた樽が整然と積まれ、店員たちが額に汗して麻袋を運んでいる。動きに無駄がなく、声を掛け合いながら手際よく荷を捌く姿に、商会全体の規律と結束が見て取れた。
「よいしょっと……。親方、東区の穀物問屋から追加の小麦粉が届きましたが、どこに入れますか」
「裏の第二倉庫だ。第一はもう一杯だろう。積み方は下から重い順にしろ、いいな。崩れたら全部おしゃかだ。去年ハンスがやらかした二の舞は御免だぞ」
「了解です。あと、バルト港の塩商から請求書が届いてます。先月分より二割ほど高くなってるんですが……」
「二割だと? ふざけやがって。足元見やがるにも程がある。後で俺が直接話をつける。あいつらには一度ガツンと言ってやらにゃならん」
レオポルトは木の扉に手をかけた。押し開けると、カランコロンと軽やかな鐘の音が響いた。客を出迎えるその音色は心地よく、耳に残る。小さな配慮ひとつに商売人の気遣いが宿っている。
店内は決して広くはないが、驚くほど整理整頓されていた。一切の無駄が排されている。壁一面に設えられた棚には、小麦粉、砂糖、油、干し肉、蝋燭、石鹸といった生活必需品が、種類ごと、大きさごとに整然と並べられていた。どれも庶民の暮らしに欠かせないものばかりだ。
棚の高さや間隔にも工夫が見られ、背の低い女性や年配の客でも手が届くよう配慮されている。こうした細部の積み重ねに、店主の商売に対する哲学がにじみ出ていた。
奥から、腹の底に響くような太い声が飛んできた。
「おい、その箱はもっと奥だ。通路を塞ぐなって何度言わせる。客が来たときに歩けねえじゃねえか。通路は最低でも人が二人すれ違える幅を確保しろ。それが商売の基本中の基本だ。客が不便を感じたら二度とうちには来ねえ。一度失った客は十倍の労力をかけても戻って来ねえんだぞ」
「す、すみません親方。すぐに移動させます」
「すまねえじゃなくて体に叩き込め。頭で覚えるな、手と足で覚えろ。そうすりゃ二度と間違えねえ。いいか、商売ってのは細部に宿るんだ。棚の並べ方ひとつ、通路の幅ひとつで売上が変わる。そこを疎かにする奴は、一生二流のままだ。二流ってのは三流より始末が悪いんだぞ。三流は自分が駄目だとわかってる分、伸びしろがある。だが二流は自分を一流だと勘違いしてやがるから、何も学ばねえ。お前はどっちになりたい」
「い、一流です、親方」
「なら動け。口より手を動かせ」
声の主が、棚の陰から姿を現した。
マルクス・シュトラウス。三十八歳。
中肉中背だが引き締まった体躯をしており、実用一点張りの麻の上着と革のベストを身につけている。短く刈り込んだ黒髪に、射抜くような鋭い黒い瞳。その目は常に何かを計算し、判断し、値踏みしている目だ。商人として生き抜いてきた年月が、視線のひとつひとつに凝縮されている。
腰には使い込まれた革の算盤袋がぶら下がっていた。袋の表面は長年の使用で艶が出ており、彼の商売人生そのものを映しているかのようだ。
マルクスはレオポルトの姿を認めると、一瞬だけ目を丸くした。すぐに元の鋭い表情に戻ったが、驚きの痕跡は隠しきれていない。
「おや、こりゃ珍しい客だ。男爵様がこんなむさ苦しい店に何の御用ですかい」
慇懃無礼すれすれの、しかし裏表のない率直な物言いだった。記憶の中の彼と寸分も変わらない。この飾らない直截さこそが、商人としての彼の最大の武器なのだ。
「うちは貴族様向けの高級品なんぞ置いてませんよ。塩と小麦粉と干し肉くらいなら山ほどありますがね。蝋燭もある。石鹸もある。だが、貴族様のお屋敷で使うような上等な品は、通りの向こうのゲルマン商会にでも行ってもらった方がいいんじゃねえですか」
「いえ、買い物に来たわけではありません」
レオポルトは穏やかに微笑んだ。
「お話をしたいことがあるのです。商売のことで。あなたの知識と経験がどうしても必要でして。ちょっとした相談ではなく、この国の商業の在り方そのものに関わる話です」
「この国の商業の在り方たぁ、また大きく出たもんですね」
マルクスはレオポルトをじっと見つめた。値踏みするように目を細め、相手の身なり、立ち姿、目の奥の光、手の動き、呼吸の速さまでを一瞬で読み取ろうとしている。長年の商売で培った、相手の本質を見抜く目だった。
「……ま、立ち話もなんだ。奥へどうぞ。ただしな、つまらねえ話だったら五分で追い出しますよ。俺の時間は俺の商品より高えんでね。日が暮れるまでにやることは山ほどあるんだ」
マルクスは店員に素早く指示を飛ばした。
「おい、俺は奥にいる。客が来たら呼べ。ただし、よっぽどの上客でなけりゃ邪魔するんじゃねえぞ。ハンス、お前が売り場の指揮を取れ。値引き交渉は一割まではお前の裁量で判断しろ。それ以上を要求されたら俺に確認を取ること。いいな」
「はい、親方。お任せください。一割以上の場合はすぐにお声がけします」
「よし。あと、三番通りのベッカー夫人が来たら、先週ご注文の砂糖が入ったと伝えてくれ。あの人は上客だ。丁寧に対応しろよ。間違っても待たせるんじゃねえぞ」
「承知しました、親方」
店員の返事は即座で、迷いがない。師匠への信頼が、その声の響きに表れていた。
◇
マルクスに案内された奥の事務所は、決して広くはないが、恐ろしく機能的な空間だった。
年季の入った樫材の机の上には分厚い帳簿が数冊と算盤が置かれ、壁には最新の在庫リストと取引先一覧が隙間なく貼り出されている。棚には過去の帳簿が年度ごとに整然と並び、どの引き出しにも中身を示すラベルが貼られていた。
無駄が一切ない。ここにあるすべてのものが、明確な目的を持って配置されている。この部屋は、マルクス・シュトラウスという人間の頭の中をそのまま形にしたような場所だった。
「座りなせえ。茶くらいは出しますよ」
マルクスは棚から茶葉の壺を取り出し、手慣れた動作で茶を淹れ始めた。
「高級品じゃねえが、味は保証する。うちの取引先の茶葉農家が丹精込めて作ったやつでね。値段は安いが品質は一級だ。商売人が自信を持って勧められる品しか、俺は扱わねえ主義なんでね。自分で飲んでうまいと思えねえもんを客に出す商人は、いずれ信用を失う」
「ありがとうございます。いただきます」
レオポルトは差し出された素朴な陶器のカップを受け取った。口に含むと、素朴だがしっかりとした風味が広がる。たしかに、値段以上の味だった。
「で、何の御用で」
マルクスは自分もカップを手にしながら、正面の椅子にどっかりと腰を下ろした。
「貴族様がわざわざ商人街まで足を運んで、俺なんぞに話があるってんだから穏やかじゃねえ。正直に言いますがね、俺は貴族と商売の話をして得した試しがねえんですよ。大抵はな、無理な値引きの要求か、支払いの引き延ばしか、さもなきゃ『王国のためだ』って大層なお題目を掲げながら実は自分の懐を肥やす算段か。その三つのどれかだ。あんたはどれに当たるんですかい。先に教えてもらえりゃ、話が早い」
「率直なお言葉、ありがたい」
レオポルトは姿勢を正した。この男には回りくどい前置きは逆効果だ。単刀直入に切り込むのが正解だと、第一周目の記憶が教えてくれている。
「では私も率直に申し上げましょう。新しい商業施設を建設します。『デパート』と名付けた、これまでこの国に存在しなかった形態の施設です」
「デパート」
マルクスの眉がぴくりと動いた。
「聞いたことのねえ言葉だな。どこの国の言葉だ。帝国語か」
「いえ、私の造語です。複数の部門、つまり『デパートメント』をひとつの建物に集約するという意味を込めました」
「ふうん。造語ね。まあ名前はどうでもいいや。中身を聞かせてくれ。名前が立派でも中身が空っぽじゃ、看板倒れの商会と同じだ」
「はい。複数の商店を一箇所に集め、食料品から衣類、日用品に至るまであらゆる商品を扱う巨大な施設です。四階建てで、中央には地上から屋根まで吹き抜けが貫く。そしてもっとも重要な特徴は、『平等』であるということです」
「平等ときたか」
マルクスが腕を組んだ。
「商売に平等なんて概念を持ち込む貴族は、俺の二十三年の商人人生で初めてだ。……だが、嫌いじゃねえ響きだな。続けてくれ」
その黙り方は、相手の話を完全に受け止めようとする姿勢そのものだった。話の続きを待つわずかな間にも、頭の中では情報が整理され、分析が進んでいるのだろう。
レオポルトは一語一語を丁寧に選びながら、続けた。
「すべての商品に『値札』をつけます。原価、人件費、流通コストを勘案し、そこに適正な利益を乗せた価格を表示する。貴族であろうが庶民であろうが、誰もが同じ価格で買える。値引き交渉は一切なしです。この仕組みを『正価販売』と呼んでいます」
マルクスの目がわずかに鋭くなった。商人としての本能が、即座に反応している。
「値札制度ねえ……」
彼は慎重に言葉を選んだ。その間合いに、思考の奥行きが感じられる。
「客にとっちゃありがてえ話だろうさ。だが、それで商売として成り立つのか。交渉で利益を上乗せするのが商人の腕ってもんでしょう。値札で固定しちまったら、利益を増やす工夫の余地が消えちまう。経営の自由度がなくなるじゃねえですか。俺たち商人はな、客の顔を見て、懐具合を読んで、その場で最適な値段を弾き出す。それが技術なんだ。何十年もかけて磨き上げてきた腕だ。その技術を全否定しようってのかい」
「全否定するつもりはありません」
レオポルトは即座に応じた。
「むしろ、その技術を別の形で活かしてほしいのです」
「別の形だと。どういう意味だ」
「値段交渉に費やしていた労力を、仕入れの最適化や品質の目利きに振り向ける。売り場での交渉がなくなる分、商人はより本質的な仕事に集中できるようになります。つまり、商品そのものの価値を高めるという、商売の根幹にあたる部分です。交渉の技術を否定するのではなく、その技術が発揮される場所を変えるのです」
「ほう……。つまり、客とのやり取りじゃなく、商品の質そのもので勝負しろと」
「そのとおりです」
「……面白えことを言うな。だが、理屈だけじゃ商人は動かねえ。数字で示してくれ。値札制度で、本当に今より儲かるのか。それが肝心要だ」
「成り立ちます」
レオポルトの返答に、一瞬の迷いもなかった。
「透明性が信頼を生み、信頼が圧倒的な集客につながります。薄利多売であっても、回転率と取引量で十分な利益を確保できる。むしろ現行の仕組みより効率的で安定的です。具体的に申し上げれば、現在の商人街における平均的な店舗の客単価を維持したまま、来客数を三倍に増やすことを目標にしています。値札によって一人あたりの利幅は下がりますが、母数が増えれば総利益は確実に上回る計算です」
「三倍か」
マルクスの目が細くなった。
「根拠はあるのか。大風呂敷を広げるのは簡単だが、数字の裏付けがなけりゃ絵に描いた餅だ。俺は餅の絵を眺めて腹を満たせるほどお人好しじゃねえんでね」
「あります。まず、デパートは一箇所であらゆる買い物が完結する場所です。今、庶民が日用品を揃えるには、平均して四つから五つの店を回らなければならない。パン屋で食料を買い、金物屋で鍋を見て、布地屋で糸を選び、薬屋で軟膏を求める。その移動にかかる時間と労力は馬鹿にならない。デパートであれば、そのすべてがひとつの屋根の下で済む。便利さだけで来客数は現状の一・五倍は見込めます」
レオポルトは指を折りながら続けた。
「さらに、値札による安心感と公正さが口コミで広がれば、今まで市場に来ることすら躊躇していた層が新たな顧客になります。値切り交渉が苦手な女性や高齢者、あるいは市場の雰囲気に気後れしていた人々です。この潜在層を取り込むことができれば、三倍という数字は決して非現実的ではない」
「ふむ……」
マルクスは顎をさすった。無意識の癖なのだろう。思考を整理するときに必ずやる動作だ。
「言ってることの筋は通る。たしかに、値切りが苦手だから市場に来たがらねえって客層は存在するんだ。うちの女房なんかがまさにそれでね。俺の商売を二十年間そばで見てきたくせに、いまだに自分じゃ値切れねえ。八百屋の親父に言い値で払ってきて、あとから俺に怒られてやがる。そういう人間には、値札ってのはたしかにありがてえだろうな」
一拍おいて、マルクスの表情が引き締まった。
「だが問題がある。仕入れ値は固定じゃねえんだ。農作物は季節で上下する。天候次第で暴騰もすりゃ暴落もする。今年みてえに夏に日照りが続きゃ、小麦の仕入れ値は三割は跳ね上がる。その三割を誰が被るんだ。デパートか、生産者か、それとも客か。値札で売値を固定してたら、仕入れ値が上がった途端に赤字だぞ。そこの仕組みを説明してもらわにゃ、話にならねえ」
「そこで『安定買付制度』を導入します」
マルクスの眉が上がった。
「安定買付だと。聞いたことのねえ仕組みだな。何だそりゃ」
「生産者と年間契約を結び、買付数量と価格をあらかじめ保証する制度です。これにより季節変動のリスクを吸収し、生産者は安心して品質の向上に専念できる。我々は安定した価格で商品を供給し続けられる。双方にとって利のある仕組みです」
レオポルトは身を乗り出し、具体的な数字を示した。
「たとえば小麦の場合、豊作年の平均価格と凶作年の平均価格の中間値で年間契約を結ぶ。生産者にとっては、凶作の年でも一定の収入が保証されます。我々デパート側は、豊作年に市場価格より高い金額を支払うことにはなりますが、年間を通して見れば仕入れコストが平準化される。短期の損得ではなく、長期の安定を取る発想です」
「……ちょっと待て」
マルクスが片手を上げた。
「それは要するに、凶作のリスクをデパート側が吸収するってことじゃねえのか」
「半分はそうです。しかし豊作年にはデパート側が得をする。変動リスクが平準化されるのです。しかもこの仕組みには副次的な効果があります」
「副次的な効果だと」
「生産者が収入の安定を得ることで、品質改善への投資が可能になります。今の農家は来月の食い扶持すら不確実ですから、種の改良や土壌の整備に回す余裕がない。それが安定買付によって変わる。収入が保証されれば、三年後、五年後を見据えた品質向上に取り組めるようになるのです。結果として、我々が扱う商品の品質が底上げされる。それは最終的にデパートの評判と集客力に跳ね返ってくる」
マルクスの表情が変わった。世間話をする顔ではなくなっている。商人としての本気の顔だ。
「理屈はわかった。だが、人間の問題がある」
低い声で言った。
「職人が増長しねえか。買い取りが保証されちまえば、手を抜く奴も出てくるだろう。品質が落ちたら本末転倒だぞ。俺は二十三年この商売をやってきたが、人間ってのは楽を覚えたら堕落する生き物だ。保証があるから頑張る奴もいるにはいるが、保証があるから怠ける奴の方が多い。残念だがそれが現実だ」
「おっしゃるとおりです。だからこそ品質基準と納期遵守を契約条項として義務化します。基準を下回れば即座に契約解除。甘やかすつもりはありません」
「具体的には」
「四半期ごとに品質検査を実施し、基準値を下回った場合は翌期の買付量を三割減額します。二期連続で基準を下回れば契約解除。この条件を契約書に明記する」
「検査は誰がやるんだ」
マルクスの問いは鋭かった。
「デパートの人間が検査したんじゃ手前味噌だし、生産者の自己申告なんぞ当てになるわけがねえ。そこが曖昧だと、制度全体が骨抜きになるぞ」
「第三者による品質評価委員会を設置します。商人組合から推薦された目利きと、デパート側の担当者、そして生産者組合の代表。この三者で構成する委員会です。公正性を担保するには、三者の相互監視が不可欠ですから」
「三者の監視か……」
マルクスは目を細めた。何かに気づいたような顔だ。
「出資構造と同じ考え方だな。一者に権限を集中させない。なるほど、あんたの頭の中じゃ全部がひとつにつながってやがるんだな。仕入れの仕組みも、品質管理も、出資構造も、根っこの思想が同じだ」
「アメとムチか。ちゃんと考えてある。いや、ムチだけじゃねえ。検査の仕組みまで練ってあるとは恐れ入った」
マルクスは感嘆を隠さなかった。
「で、もうひとつ。噂に聞いた『公共図書室』ってのは何だ。デパートの中に本を読む場所を作るって話が、商人仲間の間でも話題になってるぜ。最初は冗談かと思ったが、どうやら本気らしいじゃねえか。貴族の嬢ちゃんが司書をやるとかやらないとか」
「貴族ではありませんよ」
レオポルトは静かに訂正した。
「デパートの一角に、誰でも無料で本を読めるスペースを設けます。暖房の効いた部屋で、誰もが自由に知識に触れることができる場所です。そこを司書として統括するのがクララ・ノイマンという女性ですが、彼女は貧民街出身の書籍修復職人です。父親は元書庫司書でしたが、身分の壁に阻まれて志半ばで世を去った。クララはその遺志を継いで、壊れた本を直し、子供たちに文字を教えて暮らしてきた人です」
「貧民街出身の……。ほう」
マルクスは意外そうに目をしばたたいた。
「あんたは随分と面白い人材の集め方をするんだな。貴族のお坊ちゃんだけじゃなく、庶民の中からも人を見つけてくる。その目利きは……商人として、悪くねえ。いや、率直に言えば感心する」
だが、次の瞬間には表情を引き締めた。
「だがな、正気かい。無料サービスなんぞ、一銭の得にもならねえ。ただの金食い虫だ。本を並べて、暖房を焚いて、司書に給料を払って。営利施設としてやってくつもりなら、そんなお荷物を抱え込んでどうする。年間で少なく見積もっても金貨二百枚は飛ぶぞ。その金を回収する手段がなけりゃ、経営者としちゃ賛成できねえな」
「金貨二百枚。いい見積もりだ」
レオポルトはうなずいた。
「正確には、およそ百八十枚と試算しています」
「百八十枚か。俺の商会の年間純利益のざっと四割に相当する額だ。それをタダで垂れ流すと。……正気とは思えねえ」
「短期的にはコストです。しかし長期的に見れば、これは最大の投資になる」
レオポルトは身を乗り出した。
「考えてみてください。冬場、貧しい家庭の子供たちはどこで時間を過ごしていますか。暖房もない路地裏か、寒風吹きすさぶ広場の隅です。もしデパートの中に、暖かくて本が読める場所があったとしたら。母親は必ず子供を連れてきます。子供を図書室に預けている間に、母親は安心して買い物ができる。一人で来るよりも滞在時間が長くなり、購買額も増える」
マルクスの指が、無意識に算盤袋の方へ動いた。
「さらに言えば、その母親は翌週も来ます。翌月も来ます。子供が『また行きたい』とせがむからです。年間を通じた固定客になるのです。金貨百八十枚の投資で、年間数千人の固定客を獲得できる。投資対効果として、これほど優秀な施策はそうありません」
沈黙が落ちた。
マルクスは黙ったまま腰の袋から算盤を取り出した。机の上に置き、指が珠を弾き始める。パチパチパチパチ。乾いた小気味よい音が事務所に響く。そのテンポはリズミカルで淀みがなく、聴いていて心地よいほどだった。
建設費、運営費、客単価、回転率、リピーター数、季節変動。何十年もの経験が凝縮された指先が、あらゆる数字を弾き出してゆく。
「リピーター一人の年間購買額を仮に金貨二枚とする。図書室経由の新規リピーターが年間五百人……いや、冬場の集客効果を加味すりゃもっといくな。仮に八百人として、年間金貨千六百枚の売上増。粗利が三割として金貨四百八十枚。投資百八十枚に対して回収四百八十枚……差し引き三百枚の純増か」
指が止まった。マルクスは算盤をゆっくりと机に置いた。
「悪くねえ」
その声には、認めまいとしながらも認めざるを得ない商人の感嘆がにじんでいる。
「いや、率直に言おう。かなりいい。透明性で客を呼び、それが信頼になる。安定買付で原価を押さえる。図書室で客を囲い込む。全部がつながってやがる。ひとつひとつは単純な仕組みだが、組み合わさったときの破壊力が桁違いだ。……大化けするかもしれねえ」
間髪を入れず、鋭い目がレオポルトを射抜いた。
「だが待て。もうひとつ、一番大事な話を聞いてねえ。出資構造はどうなってるんだ。誰が金を出して、誰が経営権を握る。そこが一番肝心な話だろう。金を出す奴と口を出す奴が一致してなけりゃ、どんな完璧な計画だって空中分解する。俺は今までに、そういう事業を三つは見てきた」
「王室が二割五分、私個人が五割、そして商人組合が二割五分。三者出資です」
レオポルトは即座に答えた。
「経営の最終決定権は出資比率に応じた合議制を取ります。ただし、日常の業務運営は現場の責任者に委任する。王室の意向で勝手に方針が変わることもなければ、私一人の判断で独走することもできない構造です」
「商人組合に二割五分か。つまり俺たち商人にも発言権があると」
マルクスの声に、わずかだが意外そうな色がにじんだ。
「今までの貴族様の事業にゃなかった仕組みだな。大抵は金だけ出させて口は出すなってのが相場だ。出資は歓迎するが経営に口を挟むなと。そう言われて泣かされた商人を、俺は何人も知ってる」
「そんな一方的な構造では長続きしません。出資者の全員が当事者意識を持てる仕組みでなければ、いざというときに誰も体を張って守ろうとはしない。デパートが危機に瀕したとき、王室だけが矢面に立つのではなく、商人たちもまた自分たちの事業として守りに入る。その構造をつくることが不可欠なのです」
「……あんた、一度失敗したことがあるみてえな口ぶりだな」
マルクスの鋭い目が、レオポルトの奥を覗き込むように光った。
レオポルトは一瞬だけ息を詰めた。だがすぐに穏やかな表情を取り戻す。
「……失敗の経験があるかどうかはさておき、歴史から学ぶことは多いものです。過去に滅びた商業組織の多くは、権力の集中が原因で内部から崩壊しています。私はその轍を踏みたくない。それだけのことです」
「ふん。歴史から学ぶ、ね」
マルクスは鼻を鳴らしたが、それ以上は追及しなかった。
「まあいいさ。商人の流儀でね、相手の秘密より相手の信頼性が大事だ。あんたが何を知ってるかは詮索しねえ。それよりも、あんたの数字が嘘をついてねえかどうか。俺が見るのはそこだ」
◇
レオポルトはさらに身を乗り出した。ここからが本題だ。
「だからこそ、あなたの力が必要なのです。マルクス・シュトラウス。あなたに、デパートの仕入れと販売を統括する責任者を任せたい。商品がデパートに入ってから客の手に渡るまでのすべてを、あなたに指揮してほしいのです。仕入先の選定、価格の設定、在庫管理、売り場の配置。あらゆる商流をあなたの手に委ねたい」
マルクスの眉根が寄った。
「俺が、か。一介の街の商人が、貴族様の大事業の責任者を。そりゃ身の程知らずってもんですよ。うちは中規模の食料品商だ。年商で言やあギルドの中で真ん中くらいの順位でね。上には大商会がいくつもある。なんで俺なんだ。もっとでかい商会の主人に話を持っていった方が、手っ取り早いんじゃねえですか」
「いいえ」
レオポルトは毅然と言い切った。
「あなたは商人ギルドの中でも一目置かれている。堅実な経営手腕を備え、取引先からの信頼も厚い。何より、儲けと理想のバランス感覚を持っている人間は、この商人街を歩き回っても、あなたのほかにはそう見つからない」
「買いかぶりすぎだ」
「大商会の主人に話を持っていかないのには理由があります。彼らは既得権益の塊だ。今の仕組みで十分に儲けている人間は、新しい仕組みを歓迎しない。変化は彼らにとって脅威でしかないからです。だが、あなたは違う」
レオポルトの目がマルクスを捉えて離さない。
「あなたは今の商売のやり方に限界を感じているはずだ。そうではありませんか」
マルクスがわずかに目を見開いた。虚を衝かれた顔だ。
「……なぜ、それを知ってやがる」
「あなたの店を見ました。棚の配置、通路の幅、在庫の管理方法。すべてが効率化の限界まで最適化されている。つまり、今の店の構造ではこれ以上の成長が望めないということです。あなたは自分の限界をとうに見極めている。だからこそ、次のステージが必要なはずだ」
「……たいした観察力じゃねえか」
マルクスは苦笑とも感嘆ともつかない顔をした。
「たしかに、今の規模じゃこれ以上は伸びねえってのはわかってる。かといって店を拡張する資金もねえ。取引先を増やそうにも、大商会が市場を押さえてやがるから新規開拓は骨が折れる。八方塞がりだ。……だがな、だからって貴族様の大事業に飛び込むのは、また別の話だ」
「大事業だからこそ、あなたが必要なのです」
レオポルトは一歩も引かなかった。
「あなたにはギルドの商人たちを説得する力がある。数字で語り、現実を見せ、損得を示して人を動かす力がある。理想を語るだけの人間ならほかにもいる。だが、理想を数字に落とし込み、商人の言葉で伝えられるのは、この街であなただけだ」
マルクスは腕を組み直した。その表情は複雑だ。心が揺れている。
「身に余るお言葉だがね……」
苦い笑みが唇の端に浮かんだ。
「だが、ギルドの連中は猛反発するぞ。値札制度なんて導入してみろ、自分たちの商売が否定されたと騒ぎ立てる。説得はひと筋縄じゃいかねえ。権力と金を握った老獪な連中だ。特に大穀物商のグリューネヴァルト爺さんと、布地商ギルドのヘルマン。あの二人が反対に回ったら、ギルド全体が凍りつく。あいつらの影響力は冗談じゃなくでかい」
「グリューネヴァルトとヘルマン。たしかに大物ですね。彼らを説得するには、何が必要だと思いますか」
「金だ」
マルクスは即答した。
「いや、金だけじゃねえ。金が増えるという確実な証拠だ。あいつらは理想なんぞに一文の価値も認めねえ。夢を語ったところで鼻で笑われるのが関の山だ。だがな、帳簿の数字が増えるとなりゃ話は別だ。あいつらの目の色が変わるのは、利益が見えるときだけだ。それが商人ってもんだ。綺麗事を並べても、数字のない話は煙と同じだ。掴もうとしても手に残らねえ」
「承知しています」
レオポルトはまっすぐにマルクスの目を見つめた。
「ですが長期的には、彼らにも確実に利がある。市場全体が拡大すれば、パイそのものが大きくなるのです。彼らを排除するつもりはない。彼らと共に成長したい。敵ではなく、協力者として。デパートが成功すれば、王都の商業取引量そのものが膨らみます。デパートに入る商人もいれば、外で独自の商売を続ける者もいるでしょう。だが街全体の人の流れが増えれば、外の商人にも恩恵は波及する。デパートは商人街を殺すのではなく、商人街全体を活性化させる起爆剤になるのです」
「長期的には、ね」
マルクスは皮肉っぽく笑った。
「だが商人はせっかちな生き物だ。今日のメシの種が減ることに賛成する奴はいねえよ。三年後に儲かると言われたって、来月の家賃が払えなきゃ意味がねえ。あいつらが聞きてえのは『来月から儲かるのか』って、ただそれだけだ。それが商人の性分ってもんでしょう」
「ならば、来月から儲かる仕組みをお見せしましょう」
マルクスの眉がぴくりと上がった。
「何だと」
「デパートの建設期間中も、参加する商人に実利をもたらす仕組みを用意しています。建設資材の調達、現場で働く職人への食事や日用品の提供。巨大建築の工事現場には数百人の職人が集まります。その職人たちの生活需要を、参加商人へ優先的に発注する。建設が始まった翌月から、実際の売上として数字が目に見えるのです」
マルクスの目が光った。鋭い閃光のような輝きだ。
「建設需要を仕事に変えるか。なるほど……工期が三年なら、三年間は安定した需要が保証されるってわけだ。しかも数百人分の食料と日用品となりゃ、月あたり金貨にして……」
彼の指が無意識のうちに算盤へ伸びた。
「だからこそ、あなたなのです」
レオポルトは力を込めた。
「あなたなら、商人たちに未来を見せることができる。数字で語り、現実で説得できる。彼らの心を掴み、この事業へと導けるのは、あなたをおいてほかにいない。グリューネヴァルトにもヘルマンにも、数字で切り込める言葉を持っているのは、この商人街であなただけだ」
◇
長い沈黙が降りた。
マルクスは窓の外に目をやった。ガラス越しに見える商人街の喧騒。声を張り上げる商人たち、値段を競い合う露店、荷車を押す男の汗。彼が二十三年間を捧げてきた世界がそこにある。
その風景への愛着と、新しい可能性への欲求が、彼の胸の中でせめぎ合っているのが横顔から伝わってきた。
「……十五のときに親父の荷車を引いて、この商人街に初めて来たんだ」
ぽつりと漏らした声は、さきほどまでの鋭さを失い、どこか遠くを見つめるような響きだった。
「何も持ってなかった。学もねえ、金もねえ、コネもねえ。あったのは算盤ひとつと、商売で身を立てるっていう意地だけだ。親父は街道筋の行商人でね、荷車に雑貨を積んで村々を回る暮らしだった。稼ぎは日によって違う。雨の日は客が来ねえ。冬は道がぬかるんで荷車が動かねえ。そんな不安定な生活が嫌で、俺は固定の店を持つと決めた。十五のガキがだ」
彼はみずからの手を見下ろした。
「二十三年かけて、やっとここまで来た。この店を建て、従業員を三十人雇い、女房と三人の子供を養ってる。……それを賭けるってのは、軽い決断じゃねえんだよ」
「承知しています。だからこそ、軽々しくはお願いしていません」
「女房がいる。子供が三人いる。長男は今年十二になった。来年には商人見習いに出してやりたいと思ってるんだ。次男は九つ、末の娘は六つだ。従業員にもそれぞれ家庭がある。全部合わせりゃ百人近い人間の暮らしが、俺の判断ひとつにかかってるんだ。……あんたにはそれがわかるか」
「わかります」
レオポルトの声に嘘はなかった。
「だからこそ三者出資なのです。私一人の事業ではなく、王室と商人組合が共同で支える構造にした。あなたの商会だけがリスクを一身に背負う必要はありません。仮にデパートが困難に直面しても、三者で損失を分担する。あなたの家族も、従業員も、守られる仕組みです。それは制度として保証します」
マルクスは長い時間をかけて、その言葉を噛みしめていた。やがて、大きく息を吐いた。肺の中の空気をすべて入れ替えるような、深い深い呼気だった。
「わかった」
その二文字に、すべてが込められていた。
「乗ってやるよ、その大博打。人生は一度きりだ。ならば面白い方を選ぶってのも、悪くねえだろう。二十三年、堅実にやってきた。だが堅実なだけじゃ、この先の壁は越えられねえ。それは俺が一番よくわかってる」
マルクスの目に、炎が灯った。
「ならば、賭ける価値のある勝負を選ぶ。それが商人ってもんだ。……親父が生きてたら何て言うかな。たぶん『馬鹿な息子だ』って笑うだろうが、同時に『やれ』とも言うだろうな。あの人はそういう男だった」
「ありがとうございます」
レオポルトの声が、わずかにかすれた。感情を抑えきれなかったのだ。
「……ただしな」
マルクスが人差し指を一本立てた。
「条件がある。いくつか、な。飲めねえようなら、今の話はなかったことにしてもらう。こっちだって命がけで乗り込むんだ。注文くらいはつけさせてもらうぜ」
「何でしょう。すべてお聞きします」
「まず一つ目」
マルクスの声が、商談の声に変わった。甘さが完全に消えている。
「俺は徹底的に利益を追求する。そこは一歩も譲れねえ。理想は結構だが、霞を食って生きていけるほど俺の家族の胃袋は小さくねえんだ。儲けなきゃ続かねえし、従業員も守れねえ。それが経営者の責任ってもんだ」
一拍置いて、さらに言葉を重ねる。
「あんたが理想を語るのは構わねえ。好きなだけ語ってくれ。だがな、俺が帳簿を開いて『赤字だ』と言ったときにゃ、理想より数字を優先してもらう。一時的に理想を棚上げしてでも、まず黒字に戻す。それが呑めるかい」
「理想を諦めろという意味ですか」
「違う」
マルクスはきっぱりと首を振った。
「理想を実現するためにこそ、まず黒字を出せと言ってるんだ。赤字の組織に理想を語る資格はねえ。潰れた会社が掲げてた理念なんぞ、誰も覚えちゃいねえ。生き残ること。利益を出し続けること。それが理想を守る唯一の方法だ。あんたの理念を百年先まで残したいなら、帳簿の黒字を死守しろ。俺が言いたいのはそれだけだ」
「無論です」
レオポルトは深くうなずいた。
「利益なき理想は砂上の楼閣にすぎません。あなたの現実的な視点こそが、この事業には不可欠なのです。帳簿が赤字を示したときには、あなたの判断を最優先します。それは約束する」
「よし。二つ目の条件だ。帳簿はすべて俺が管理する。金の流れは一銭残らず俺の目を通す。王室の出資分だろうが、あんた個人の持ち出しだろうが、例外は一切なしだ。不透明な金が動いた瞬間、俺は手を引く。いいな」
「もちろんです。透明性はデパートの根幹だ。あなたの管理こそが、その根幹を保証するものになります」
「三つ目。従業員の待遇は俺の裁量で決める。適正な賃金、休日、労働時間。この三つを俺が設定する権限をもらう。安く使い倒して利益を絞り出すなんてのは、俺の商売のやり方じゃねえ。人を大事にしねえ商会は長持ちしねえんだ。二十三年の経験で、それだけは骨の髄までわかってる」
「異論ありません。むしろ、それは私も強く望むところです」
「よし。条件は以上だ」
マルクスはうなずいた。だが、その表情がふっと和らいだ。
「……だがな」
声のトーンが変わった。商談の鋭さが消え、もっと柔らかいものがにじんでいる。
「儲けだけじゃ、つまらねえんだよ。俺だってな、ただの守銭奴になりたくてこの商売を始めたわけじゃねえ。人々の暮らしが良くなる。棚に並んだ品物を手に取った客が笑顔になる。それを見る瞬間が、商人にとっての一番の報酬なんだ」
彼は身を乗り出した。
「利益と理想、両方を掴み取る。それでいいんだな。その両立こそが本当の成功だと、俺はずっと信じてきた。十五のときにこの街に来た日から、ずっとだ。金を稼ぎながら、人の役に立つ。それが俺の商売道だ。……今までは、この規模の店じゃそれを実現する器が足りなかった。だが、デパートってのがその器になるんなら……乗らない手はねえだろう」
レオポルトは笑みを浮かべた。胸の奥から込み上げてくる安堵と喜びを、もう隠す必要はなかった。
「それこそが、私の望みです。あなたのような商人ならば、必ず実現できると確信しています。マルクス、あなたと組めることを心から嬉しく思う」
マルクスは立ち上がった。分厚い右手を差し出す。豆だらけの、ごつごつした手だ。二十三年間、算盤を弾き、樽を運び、荷を担ぎ、契約書に署名してきた手だ。
「よし、契約成立だ。握手で決めよう。紙切れなんぞより、手と手を合わせる方がずっと重い。俺たち商人はな、紙に書かれた文字より、手の温度で相手を信じるんだ。あんたの手が冷てえか温けえか。それでわかることがある」
レオポルトはその手を力強く握り返した。マルクスの掌は硬く、温かく、揺るぎなかった。それは何よりも信頼できる同志の手だ。
「……温けえ手だ。悪くねえ」
マルクスは満足げにうなずいた。
「嘘つきの手は大抵冷てえもんだ。自分の言葉を信じてねえ人間の体は、どこかで嘘を吐いてる。……あんたの手は嘘をついてねえ。それがわかりゃ十分だ」
「あなたの手も温かい。そして強い。この手がデパートの商売を支えてくれると思うと、これ以上心強いことはありません」
二人は手を離した。だが、掌に残る互いの体温は消えない。
◇
「で、いつまでに建てるつもりだ」
マルクスは椅子に腰を下ろし直すと、すぐさま現実的な問いを投げてきた。夢を語る時間は終わりだ。次は段取りだと、その表情が語っている。
「三年以内に」
「三年だと」
マルクスは呆れたように目を丸くした。
「無茶を言うな。四階建ての巨大建築だろうが。基礎工事だけで半年はかかる。資材の調達、魔導刻印の設置、内装工事。まともにやりゃ五年は覚悟しなきゃいかん。それを三年ってのは、相当な突貫工事だぞ」
「それでも三年です。理由は二つあります。ひとつは、時間をかけるほど保守派の妨害が激しくなること。二つ目は、民の期待を長く待たせれば待たせるほど、失望に変わるリスクが高まることです。勢いがあるうちに形にしなければならない」
「……まあ、商売でもそうだな。鉄は熱いうちに打て、か」
マルクスは腕を組み、しばし考え込んでいたが、やがて口角を上げた。
「だがやってやるよ。この国を変える大仕事だ。腕が鳴るってもんだ。三年と言うなら三年でやる。資材の調達と人員の確保は俺の領分だ。任せておけ。商人街の人脈を総動員してやる。木材なら東方街道の材木商リヒター、石材ならノルト採掘場のバウアー親方。どっちも俺の古い取引先だ。声をかけりゃ動いてくれる」
「頼りにしています」
「あともうひとつ」
マルクスが指を立てた。
「さっきの安定買付の話だがな、最初の契約先として俺から三つの農家と二つの工房を推薦させてくれ。どれも品質はたしかだが、大商会に圧されて苦しんでる連中だ。デパートの最初の協力者として引き入れてやれば、あいつらは死に物狂いで働くぞ。追い詰められたときに一番力を出す人間を俺は知ってる。それを見極めるのが、商売の勘ってやつだ」
「ぜひお願いします。具体的な候補があれば、明日にでもリストをいただけますか」
「今晩中に用意してやるよ。俺を甘く見るんじゃねえ。やると言ったらやるんだ。今夜は女房に晩飯を遅らせてもらうことになるが……まあ、あいつも慣れっこだ。商売絡みで夕飯が遅れるのは、もう数え切れねえほどある。あいつはいつも『また仕事かい』って呆れた顔をするが、最後には茶を淹れて待っててくれるんだ。いい女だよ、うちの女房は」
マルクスはそう言って、照れ隠しに鼻の頭をこすった。
◇
商会を出たレオポルトは、眩しい午後の陽射しを仰いだ。空は抜けるように青く、商人街の喧騒が遠く近く耳に届いている。
マルクスの協力を得て、デパート構想の最後の大きな駒が盤上に載った。オスカーの技術。クララの知識。フェリックスの情熱。そしてマルクスの経営手腕。四つの力が揃ったのだ。
だが、油断はできない。その感覚は常に研ぎ澄ませておかなければならなかった。
「商人ギルドの説得、そして建設用地の確保。すべてを急ぎ進める必要がある」
歩きながら、レオポルトは思考を整理してゆく。
「マルクスが動き始めれば、商人街に波紋が広がる。その波紋をエドヴァルトが見逃すはずがない。あの男は今頃、商人組合への間接的な工作を画策しているに違いない。マルクスがこちら側についたことが知れれば、奴の計画に大きな狂いが生じる。だが同時に、マルクスが標的になる危険もある。エーリッヒに指示を出して、シュトラウス商会の周辺も監視対象に加えなければ」
第一周目では、保守派貴族ゲオルクの妨害によって建設用地の確保が難航し、計画は大幅に遅れた。資材の手配に奔走し、政治的な根回しに時間を費やしているうちに帝国の工作がじわじわと深まり、気がついたときにはもう手遅れだったのだ。
今回はそうはさせない。敵が態勢を整える前にすべてを終わらせる。
「オスカーには設計の最終案を今週中に仕上げてもらう。クララには図書室の蔵書計画を練ってもらう。フェリックスには貴族議会での根回しを頼む。そしてマルクスが商人組合を固める。四つの車輪が同時に回り始めれば、エドヴァルトが割り込む隙は消えてゆく」
空を見上げた。白い雲がゆっくりと東へ流れている。
「完璧なやり直しのために。誰も犠牲にしないために」
その誓いこそが、レオポルトを前へと駆り立てる力そのものだった。
◇
一方、事務所に一人残ったマルクスは、冷めた茶をすすりながら静かに思考を巡らせていた。
「レオポルト・ヴァイスハルト。面白え男だ」
窓から差し込む午後の光が、机の上に広げた帳簿を照らしている。算盤を弾く指が、ふと止まった。
「理想を語りながら、その足はしっかり地についてやがる。値札制度も、安定買付も、図書室の収益構造も、恐ろしいほど計算し尽くされてる。まるで……一度やって失敗した人間が、二度目に臨むときの精密さだ」
窓の外に目をやった。商人街の午後の光景が広がっている。
「この男、本当に何か知ってるんじゃねえか。単なる若い理想主義者じゃねえ。もっと深い何かを背負ってる。俺が建設需要の話に食いつくことまで読んでやがったし、品質検査の仕組みも出資構造も、初めて商業施設を企画する人間の計画じゃねえんだよな。全部が……二度目の設計みてえに隙がねえ」
だが、その考えはマルクスの胸の中に留まった。商人として大事なのは、相手の秘密ではなく相手の信頼性だ。そしてマルクスは、レオポルトの手の温かさを信じた。
「……まあいいさ。秘密があるなら、そいつはあいつの秘密だ。俺が嗅ぎ回る必要はねえ。大事なのは、あの男の計画が数字として成り立つかどうか。そして、あの男の手が嘘をついてなかったかどうか。どっちも合格だった。俺にとっちゃ、それで十分だ」
椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「どっちに転んでも、退屈はしなさそうだな」
つぶやきに、笑みが混じる。
「俺の商売人としての勘が言ってるんだ。『この船に乗れ』とな。そしてな、俺の勘は今まで外れたことがねえ。十五のときに親父の荷車を置いてこの街に来たときも、二十二のときに借金して店を開いたときも、三十のときに東方貿易に手を出したときも。勘に従って、全部うまくいった。今回も同じ匂いがする。いや……今回が一番でかい。人生最大の勝負になるかもしれねえな」
マルクスは新しい帳簿を棚から取り出し、机に広げた。羽根ペンにインクをつけ、白紙の一ページ目に日付を書き込む。その一行が、新たな物語の始まりを告げていた。
「さて。まずはギルドの古狸どもをどう攻略するか」
ペンが紙の上を走り始める。
「グリューネヴァルトの爺さんは穀物の安定買付で釣れるかもしれねえ。あの頑固爺の最大の悩みは、豊作年の値崩れだ。年間契約で買付価格が保証されるとなりゃ、さすがのあいつも耳を傾けざるを得ねえだろう。数字を突きつけてやりゃいい。『年間の収益変動がこれだけ安定しますよ』ってな」
ペンが止まり、顎に手を当てた。
「問題はヘルマンの方だ。あいつは布地の値段交渉で利幅を稼ぐタイプだから、値札制度を真っ向から否定してくるのは目に見えてる。だがな、あいつには弱点がある。販路だ。上客を王宮の貴族に依存してやがるから、貴族の注文が減ったら途端に干上がる。デパートが新たな販路になると提案すりゃ……あいつの顔色も変わるはずだ。『王宮に頼らなくても安定した売上が立つ仕組みがある』。そう言われて、首を横に振れる商人はいねえよ」
マルクスはにやりと笑った。
「数字だ。奴らを黙らせるには、夢物語じゃなく圧倒的な数字が要る。利益率のシミュレーション、リスク分散の計画書、建設需要の発注見込み。ぐうの音も出ねえ完璧な事業計画書を叩きつけてやる。……商人を説得するのは商人の仕事だ。レオポルトには理想を語ってもらう。俺は数字を語る。二人で攻めりゃ、あの古狸どもだって落ちるさ」
羽根ペンが再び走り出した。白紙だった帳簿のページが、みるみるうちに数字と文字で埋まってゆく。
「女房には悪いが、今夜は遅くなるな。……いや、まず先に帰って飯を食ってからだ。空きっ腹じゃまともな計算はできねえ。腹が減っては戦ができぬ。商売人の鉄則第一条だ」
マルクスは立ち上がり、窓の外に広がる商人街を見渡した。夕暮れが近づきつつある。西の空が橙色に染まり始め、商人たちが店じまいの支度にとりかかっている。
この景色が、三年後にはどう変わっているのだろうか。
「……楽しみじゃねえか」
商人の瞳は、すでに戦場を見据えていた。レオポルトの理想を現実という名の黄金へと鍛え上げるために。
その使命を帯びた男の横顔を、沈みゆく夕陽が赤く照らしている。




