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第7話 若手貴族フェリックスの参加

 柔らかな午後の陽光が、応接室の窓辺にあたたかな光だまりをつくっていた。


 磨き上げられた樫材の長テーブルには、インクの匂いがかすかに漂う設計図面が何枚も広げられている。


 窓から差し込む光の筋が、羊皮紙の表面に描かれた細かな線を淡く浮かび上がらせていた。


 庭園から風に乗って届く初夏の花の香りが、書斎のような静けさをたたえた部屋の空気にそっと溶け込んでゆく。


 レオポルト・ヴァイスハルトは背筋を伸ばしたまま椅子に腰かけ、前のめりの姿勢で図面に目を走らせていた。


 老技師オスカー・ブラウルから昨日届いたばかりの詳細図面だ。


 鉄骨の配置図、ガラス屋根の分割数、中央吹き抜けの断面寸法に至るまで、老技師の几帳面な筆致が隅々にまで行き渡っている。


 図面の余白にはオスカー自身の手によるメモ書きがいくつも添えられており、そのひとつひとつに職人としての矜持がにじんでいた。


 ペンを走らせていた手が、ふと止まる。


「……二階と三階をつなぐ連絡通路の幅が、やはり足りないな。現行の設計だと通路幅はおよそ三メートル弱か。これでは階段から流れ込んだ客がすぐに詰まってしまう。人の流れが滞れば、それだけで購買意欲は目に見えて削がれるものだ。四メートル半は確保したい。オスカーには次の打ち合わせで必ずこの点を伝えよう」


 独り言の声は低く、しかし明瞭だった。


 指先が図面の一階部分をなぞる。


「それから一階の正面入口だ。噴水広場に面したファサード部分のガラス面積を、さらに拡大できないか検討してほしい。外を歩く通行人の目に、店内の賑わいが自然と映る。人が集まっている光景そのものが、別の人間を引き寄せる磁石になる。ガラスの向こうに笑顔と活気が見えるだけで、通りすがりの市民は知らず知らず足をそちらへ向けるものだ。『ちょっと覗いてみようか』という衝動。それこそが商売の原点にほかならない」


 ペンをそっと置き、両手を組んで設計図を見下ろした。


 この一枚の羊皮紙に引かれた線と数字の群れが、やがて石と鉄とガラスの巨大な建造物へと姿を変える。


 何千人もの人間がその中を行き交い、笑い、驚き、品物を手に取る。


 その光景を思い描くたび、口元が自然と引き締まるのだった。



 そのとき、背後にかすかな気配がした。


 足音はほとんど聞こえない。長年の訓練によって磨き上げられた完璧な消音歩行だ。


 だがレオポルトにとって、この屋敷でもっともなじみ深い気配のひとつであった。


 振り返るまでもなく、誰が立っているのかわかる。


「エーリッヒか」

「お気づきでございましたか。さすがでいらっしゃいます」


 執事エーリッヒは静かに一礼した。


 五十代半ばの痩身の男で、銀色に染まり始めた髪をきっちりと撫でつけ、糊の利いた黒い燕尾服には一点の皺も見当たらない。


 その佇まいは、執事という職業の理想形をそのまま人の姿にしたかのようだった。


「旦那様、お客様がお見えでございます」

「客か。今日は誰かと約束をしていたか」

「いいえ。事前のお約束はございません。アルトハイム家のフェリックス様が、ただいま玄関にお越しでございます」


 エーリッヒの声色はいつもどおり沈着で、感情の起伏を表に出さない訓練された響きを保っていた。


 けれどもその瞳の奥には、わずかに隠しきれない驚きの色が浮かんでいる。


 無理もない話だった。


 貴族が他家を訪問する際には、少なくとも三日前には書簡を送り、訪問の趣旨と日時を伝えるのが社交界の不文律である。


 まして保守派の名門として王都に広く知られるアルトハイム子爵家の子息が、何の前触れもなく突然姿を現すなど、常識的にはあり得ないことだった。


「旦那様、念のため申し上げます」


 エーリッヒは声を半音ほど落とした。


「アルトハイム家と申しますと、保守派貴族の中でもとりわけ改革反対の旗振り役を務めておいでの御家柄でございます。先日の王宮における旦那様の御提案に対しましても、子爵閣下は議会の場で相当に強い反対意見を述べられたと聞き及んでおります。そのご子息が、事前の書簡すらなくお越しになるとは……何かしらの御意図がおありなのではないかと存じますが」

「ああ、わかっている」


 レオポルトは設計図から視線を上げ、静かに答えた。


「だが心配はいらない。通してくれ」


 その返事はあまりにも穏やかだった。


 エーリッヒはほんの一瞬だけ主人の横顔を探るように目を細めたが、すぐに視線を伏せてうなずく。


「かしこまりました。ただ、万が一に備えまして、私はすぐにお呼びいただける距離に控えさせていただきます。何かございましたら、どうぞためらわずにベルをお鳴らしくださいませ」

「ありがとう、エーリッヒ。その気遣い、いつも助かるよ」


 レオポルトはペンを置き、設計図をそっと脇に寄せた。


「それと、上等な紅茶を頼む。東方産の、あの花の香りがするやつだ。大切な客人だからな。茶菓子も少し見繕ってくれ。長い話になるかもしれない」

「東方紅花茶でございますね。茶菓子は焼き菓子の盛り合わせでよろしゅうございましょうか」

「ああ、それでいい。頼んだ」

「すぐにご用意いたします」


 エーリッヒが音もなく退室した瞬間、レオポルトの表情が変わった。


 心臓が早鐘を打ち始めている。


 額にうっすらと汗がにじみ、組み直した両手の指先がかすかに震えていた。


 第一周目の記憶が、胸の奥で疼くように蘇る。



 フェリックス・フォン・アルトハイム。二十四歳。


 古き良き伝統を重んじるアルトハイム子爵家の次男として生まれながら、その心の奥底には誰よりも熱く、誰よりも純粋な炎を宿していた青年である。


 かつて、あの第一周目の世界で、フェリックスはレオポルトの演説に心を打たれた。


 家族の猛反対を押し切り、勘当も覚悟のうえで協力を申し出てくれたのだ。


 その決断の根にあったのは、貴族としての誇りと、まだ見ぬ未来への理想主義がないまぜになった、若者特有のまっすぐな熱だった。


 父や兄から絶縁されてもなお、最後までレオポルトの理想を信じ抜いた盟友。


 彼の忠誠心は職務的な義理などではなく、心底からの共感が生み出したものにほかならない。


 革命の混乱のさなか、行方不明となった彼を、レオポルトは救えなかった。


 あの日の光景は今でもときおりフラッシュバックとなって襲いかかる。


 火の粉が舞う広場で暴徒に囲まれたフェリックスの姿。助けを求める声。


 そして、あの輝くような笑顔が絶望の中に沈んでいく瞬間。


 思い返すたびに胸が張り裂けそうになるのだ。


「今度こそ、守り抜く」


 レオポルトは低くつぶやき、扉のほうを見据えた。


 その瞳には揺るぎない決意がある。


「フェリックス……あの時、俺はお前を守れなかった。お前が暴徒に囲まれた時、俺は自分の身を守ることしかできなかった卑怯者だ。あの日の悔恨が、今でも俺の中で燻り続けている。だが今回は違う。今回は最初から、お前を守る体制を整えたうえで迎え入れてみせる。二度と同じ過ちは繰り返さない。絶対にだ」


 拳をきつく握りしめ、ゆっくりと息を吐いた。


 それから意識して表情を和らげる。


 客人を迎えるにふさわしい顔を作らなければならなかった。



 やがて、重厚な扉が静かに開いた。


 一人の若い貴族が入室してくる。


 フェリックス・フォン・アルトハイム。記憶の中の姿と寸分も変わらない。


 短く切り揃えられた金髪が窓から差す午後の陽光を浴びてきらめき、まっすぐな青い瞳には隠しきれない緊張と、それを上回る強い意志の光が宿っている。


 理想に燃える若者だけが放つことのできる、まぶしいほどの輝きだった。


 華美な装飾を排した質素な貴族服を隙なく着こなしている。


 仕立ての良さはさりげないが、着る者の実直な性格がその端正なたたずまいから自然とにじみ出ていた。


 虚飾にまみれた一部の放蕩貴族とは異なり、彼の装いと姿勢には一貫した誠実さがある。


 背筋はぴんと伸び、歩幅は正確で、一歩ごとに長年の躾が刻み込まれていることが見て取れた。


 彼はレオポルトの前まで進み出ると、深々と頭を下げた。


「ヴァイスハルト男爵閣下、突然の訪問をお許しください。フェリックス・フォン・アルトハイムと申します」


 頭を上げ、まっすぐにレオポルトの目を見た。


「事前のご挨拶状もなく押しかけましたこと、誠に失礼とは存じます。ですが、どうしても今日のうちにお話を伺いたいことがございまして……書簡を書いてお返事を待つ時間が、どうにも惜しく感じられたのです。自分でも礼を失していると分かってはおります。それでも、この足を止めることができませんでした」


 その声はかすかに震えていた。


 けれどもそれは恐怖から来るものではなく、何か大きなものを決断しようとする人間だけが帯びる、独特の緊張感だった。


「お会いできて光栄です、フェリックス様」


 レオポルトは穏やかに微笑み、向かいの椅子に手を差し伸べた。


「どうぞお掛けください。突然の訪問などお気になさらず。むしろ、思い立ったらすぐ行動に移される姿勢は、私にとってまことに好ましいものですよ。書簡の往復で時を費やすより、こうして直接顔を合わせるほうが、はるかに実りある話ができるものです」


 レオポルトがエーリッヒに目配せを送ると、執事は心得たようにうなずき、すでに用意していた銀の盆を静かにテーブルへ運んだ。


 湯気を立てる白磁のティーポットから、琥珀色の液体がカップに注がれる。


 その瞬間、華やかで甘い花の香りが応接室の空気をやわらかく満たした。


「東方紅花茶でございます。フェリックス様、どうぞお召し上がりくださいませ。お越しいただいたお疲れを、少しでも癒していただければ幸いに存じます」


 エーリッヒが丁寧にカップを差し出す。


 その所作には無駄がひとつもなかった。


「ありがとうございます。……良い香りですね」


 フェリックスはカップを受け取り、立ち上る湯気に鼻をかすかに近づけた。


「この花のような甘さは……東方産でしょうか。以前、書物で読んだことがあります。砂漠の向こうの高地にだけ咲く紅い花を乾燥させて作る茶葉だと」

「ええ。おわかりになるとは、さすがですね。書物の知識がきちんと感覚と結びついていらっしゃる」


 レオポルトは素直に感心した笑みを浮かべた。


 この青年の教養の深さは、第一周目で知るところだった。


 しかしあらためて目の当たりにすると、やはり並の貴族とは器が違うと実感させられる。


 フェリックスは椅子に浅く腰掛け、カップを手に取ったものの、口をつけることなくソーサーに戻した。


 指先がかすかに震えている。紅茶を味わう余裕などないのだろう。


「すみません……緊張してしまって。紅茶の味がわからないほど、心が急いているのです。せっかくのお茶なのに、申し訳ありません」

「お気になさらず。紅茶は逃げませんから、落ち着いてからゆっくり召し上がってください」


 レオポルトのその一言に、フェリックスの肩からわずかに力が抜けた。


 彼は意を決したように顔を上げ、レオポルトをまっすぐに見つめる。


「閣下、単刀直入に申し上げます。私は、あなたのデパート構想について詳しくお話を伺いに参りました」


 喉仏が上下するのが見えた。


 言葉を継ぐまでに、ほんの一拍の間がある。


「噂で耳にしたのです。身分の壁を取り払い、誰もが平等に立てる場所を作ろうとしている方がいると。最初は信じられませんでした。この王国で、そのようなことを本気で考える貴族が存在するのかと。ですが、噂を聞けば聞くほど、私の中で何かが疼くのです。これは本物だ、と。心がそう訴えて止まないのです。理屈ではなく、もっと深いところで……胸の奥が震えるような感覚でした」

「噂ですか」


 レオポルトは興味深そうに尋ねた。


 相手の言葉を遮らず、先を促す問いかけだ。


「どのような噂なのか、お聞かせ願えますか。世間が私のことをどう見ているのか、できるだけ正確に知っておきたいのです。とりわけ貴族社会の中で、私の名がどのような文脈で語られているか……それは計画を前に進めるうえで、きわめて重要な情報になりますから」


 フェリックスは苦笑いを浮かべた。


 唇の端がわずかにゆがみ、その笑い方には自嘲の色がにじんでいる。


「正直に申し上げれば、好意的なものではありません。王宮のサロンで古い貴族たちが眉をひそめて話しているのを、何度も耳にしました。『成り上がりの若造が、秩序を乱す奇妙な施設を作ろうとしている』と。もっとひどい言葉もありました。『帝国の走狗が王国を乗っ取ろうとしている』とか、『あの男は貴族の皮を被った革命家だ』とか。中には……これは私の兄の言葉ですが……『ヴァイスハルトは貴族の品位を地に落とす害虫だ。いずれ議会で叩き潰してやる』と、そこまで過激なことを口にする者もおります」

「兄上が、そこまで」


 レオポルトはわずかに眉を上げた。


「ええ。兄は父以上に保守的な人間です。貴族の血統こそが社会の秩序を守る唯一の柱であると信じて疑いません。ですから、身分を超えた平等などという概念は……兄にとっては秩序の崩壊そのものに映るのでしょう。兄の口癖があるのです。『変化とは堕落の別名だ』と。あの人は本気でそう思っている。だからこそ、閣下のことをあれほど敵視するのだと思います」

「なるほど……お兄上のお考えも、ひとつの立場としては理解できます。秩序の維持はたしかに重要だ」


 レオポルトはうなずきながら、しかし静かに言葉を続けた。


「ただ、その秩序が一部の者だけを守り、大多数の民を切り捨てるものであるなら……それは果たして本当に『秩序』と呼べるのでしょうか。私にはむしろ、特権の固定化にすぎないように映ります」


 フェリックスの瞳が揺れた。


 レオポルトの言葉が、彼の内側にある何かに触れたのだ。


 その反応を、レオポルトは見逃さなかった。


 予想どおりだ。


 古い権力構造は、新しい何かが芽吹く気配に対してつねに過敏な警戒心を向ける。


 それ自体が、変革の必要性を裏付けている。


「ですが、私は逆に興味を持ちました」


 フェリックスの瞳に力が宿った。揺らぎを超えた確信の光だ。


「保守派の貴族たちがそれほどまでに恐れるということは、そこに本物の変革の種があるからではないかと。だからこそ、自分の目と耳でたしかめたかった。あなたが本当に目指しているものを。そしてその理念が本物であるかどうかを、この目で見極めたかったのです。私はただの噂に踊らされてここに来たわけではありません。何週間も考えました。本を読み、市場を歩き、庶民の暮らしぶりを自分の足で見て回り……そうしてようやく、ここに立つ決心がついたのです」

「何週間も。それほど長く悩まれたのですか」

「ええ。正確に申し上げれば、最初に閣下の噂を耳にしてから三週間です。その間、毎晩のように自分に問いかけました。これは単なる好奇心なのか、それとも本当に自分の人生を変えたいという願いなのか、と。何度も答えが揺らぎました。ある夜は『行こう』と決め、翌朝には『やはりやめよう』と思い直す。その繰り返しでした。三週間という時間は短いようで、決意を固めるには十分な長さだったと、今は感じています」

「三週間、毎晩ご自身と対話を重ねた。その時間は決して無駄ではなかったはずです」


 レオポルトはフェリックスの真摯なまなざしを正面から受け止めた。


「私が作ろうとしているデパートは、単なる商店の寄せ集めではありません」


 声のトーンがわずかに変わった。


 穏やかさの中に、鋼のような芯が通る。


「貴族も庶民も同じフロアに立ち、同じ商品を見て、同じ価格で手に入れる。そこには身分による特権も差別も存在しない。完全な平等の空間です。それは商業施設であると同時に、新しい社会のあり方を試す実験場でもある。言葉で理念を説くだけなら誰にでもできる。けれども空間そのものが理念を体現するとなれば、話は変わります」


 設計図を指差し、続けた。


「ここを見てください。四階建ての建物の中央を、地上から天井まで貫く巨大な吹き抜け。どの階に立っていても、ほかの階にいる人々の姿が自然と視界に入る構造です。たとえば、一階で貴族が日用品を選んでいる。三階では庶民の女性が上質な布地を手に取っている。互いの存在が当たり前の風景として溶け込む。そこに壁も仕切りも階級もない。言葉で平等を叫ぶのではなく、空間そのものが平等を語りかける。それが私の狙いです」

「空間が、理念を体現する……」


 フェリックスは吸い寄せられるように身を乗り出し、設計図に視線を落とした。


 指先がガラス屋根の断面図をなぞる。


「すべての商品に値札がつく。交渉も駆け引きもない。誰であろうと同じ価格。つまり、買い物という行為の中から権力関係が消えるのですね。貴族だからといって安くなるわけでも、庶民だからといって吹っかけられるわけでもない……それはたしかに、今の市場ではあり得ない光景です。値段を巡る交渉は、つねに力を持つ側が有利になる。その構造そのものを取り払うということですか」

「そのとおりです。あなたは本質をつかむのが早い」


 レオポルトの口元に、かすかだがたしかな笑みが浮かんだ。


「だからこそ、私も参加したいのです」


 フェリックスは勢いよく身を乗り出した。その動作にためらいはない。


「声を上げさせてください、閣下。私はずっと疑問でした。貴族だけが富を独占し、庶民が貧しさに喘ぐこの国のあり方が、本当に正しいのかと。幼い頃からずっと、胸の奥にしこりのように引っかかっていたのです。……変えたいのです。あなたの理念は、私がずっと探し求めていた答えそのものでした。言葉にできなかった想いに、初めて形を与えてくれた」

「ずっと、とおっしゃいましたね。それは、いつ頃からの想いなのですか」


 フェリックスは少し間を置いた。


 視線が宙をさまよい、やがて遠い記憶の向こうに焦点を合わせるかのように細められる。


「……十五の時です」


 声がわずかにかすれていた。


「領地の視察で父に連れられて、小さな村を訪れました。名もない集落です。地図にも載らないような。そこで見たのは……骨と皮ばかりの子供たちが、泥水を啜って命を繋いでいる姿でした。目がうつろで、頬はこけて、笑い方を忘れたような顔をしていた。私が一晩の宴で食べ残す量の食事があれば、あの子供たちは一週間は生きられたでしょう」


 声が震えている。


 九年前の記憶は、まだ生々しい傷のままなのだ。


「父に訊ねました。『なぜ助けないのですか』と。父は馬車の窓から一瞥しただけで、たった一言だけ答えました。『それが秩序だ』と。……あの日から、私の中の何かが壊れたのです。いえ、壊れたのではない。目が覚めたのだと、今は思っています。覆いを被せていたものが剥がれ落ちて、世界の本当の姿が見えてしまった。あの瞬間から、元には戻れなくなりました」


 レオポルトは黙って聴いていた。


 口を挟まず、ただ耳を傾ける。


 第一周目でも、フェリックスはまったく同じ原体験を語っていたのだ。


 あの少年の日に受けた衝撃が、九年という歳月を経てなお彼の魂の奥底で脈打ち続けている。


 その痛みこそが、彼を突き動かす炎の源なのだった。


「あれから九年。ずっと自分に嘘をついて生きてきました」


 フェリックスの声は静かだが、その静けさの下には底知れない感情のうねりがある。


「父の前では従順な次男を演じ、兄の前では控えめな弟を装い……でも心の底ではずっと叫んでいました。こんな世界は間違っている、と。誰にも聞こえない声で、毎日毎日叫び続けていたのです。閣下の構想を耳にした時、初めてその叫びに応えてくれる声を聞いた気がしました。暗闇の中でようやく見つけた灯りのように」


 その言葉の熱さに、レオポルトは胸を打たれた。


 この青年の純粋さは、第一周目から少しも変わっていない。


 だが同時に、危惧もおぼえる。


 純粋さとは時として諸刃の剣だ。まっすぐであるがゆえに傷つきやすく、理想が高いがゆえに現実との落差に打ちのめされることがある。



「フェリックス様」


 レオポルトは諭すように、しかし温かみを失わない声で語りかけた。


「あなたの御実家、アルトハイム家は保守派の筆頭格です。あなたが私に協力するとなれば、ご家族は黙っていないでしょう。激しい対立は避けられません。それを覚悟のうえでの御参加ですか」


 一拍の間を置いて、続ける。


「これは脅しではありません。あなたに現実を正確に認識していただきたいのです。理想を掲げることは美しい。だが、その代償として何を失うのか。それを知らずに飛び込めば、いつか必ず後悔する。後悔した時にはもう戻れない場所にいるかもしれない。だからこそ、今この場でたしかめておきたいのです」


 フェリックスの表情に翳りが差した。


 そこには、すでに何度も同じ問いと向き合ってきた跡がにじんでいる。


「はい。父も兄も、あなたのことを『危険分子』と呼んで忌み嫌っています。家族の会食の場であなたの名前が出るだけで、食卓の空気が凍りつくほどです。父はナイフを皿に叩きつけ、兄は露骨に舌打ちをする。それが、私の家庭でした」


 膝のうえで拳を握りしめた。指の関節が白くなるほど、強く。


「家族の中で、私はずっと異端でした。誰も私の言葉に耳を傾けてはくれなかった。父の期待に応えようと努力を重ねても、結局は認められない。何をしても足りない。何を言っても雑音として扱われる。そんな生活が、もう耐えられなくなったのです」

「差し支えなければ、もう少し詳しく教えていただけますか。具体的に、どのようなことがあったのですか」


 フェリックスは目を伏せた。


 長いまつ毛が頬に影を落とす。


「……兄は跡取りとして、幼い頃から父のすべてを注がれて育ちました。剣術、礼法、帝王学、社交術。父の持つあらゆるものが兄に惜しみなく与えられた。私は……予備です。兄に何かあった時のための保険。それ以上でも以下でもない存在でした」


 声が低くなる。


「読書が好きだと言えば、『次男に学問は不要だ。身の程を弁えろ』と叱られました。領民の生活改善を提案すれば、『余計なことを考えるな。お前の仕事は大人しくしていることだ』と一蹴される。私が何を言っても、何をしても、父にとっては耳障りな雑音でしかなかった」


 彼は一度言葉を切り、息を整えてから続けた。


「ある夜、どうしても胸の内を誰かに聞いてほしくて……母にだけ、この想いを打ち明けました。母はしばらく黙って聞いてくれていましたが、やがて静かに泣き始めたのです。そして、泣きながらこう言いました。『お前の気持ちはわかる。痛いほどわかるのよ。でもお願いだから、黙っていて。この家で生きていくには、何も感じないふりをすることがいちばん安全なの。お母様もそうしてきたのだから』と」

「お母上も……」

「ええ。母もまた、あの家の秩序に縛られた人でした。自分の意見を持つことすら許されない。ただ従い、ただ微笑み、ただ家名を守るための装置として生きることを強いられてきた人です。……だから私は黙りました。母を悲しませたくなかったから。九年間、ずっと口を閉ざして生きてきた。でも……もう限界なのです」


 フェリックスは顔を上げた。目の縁がかすかに赤い。


「閣下の噂を聞いた時、体が震えました。恐怖ではなく……歓喜で。やっと、声を上げてもいい場所が見つかったのだと。自分の言葉に意味がある世界が、もしかしたら存在するのかもしれないと。それをたしかめるために、ここに来たのです」

「それほどの覚悟を持って来られたのですね」


 レオポルトの声は静かだったが、その奥に深い感慨がにじんでいた。


「ですが、もうひとつたしかめさせてください。家族を失うことになるかもしれない。貴族社会からも排除されるかもしれない。旧来の友人たちも手のひらを返し、あなたを裏切り者と呼ぶでしょう。社交界の扉は閉ざされ、かつての居場所はすべて失われる。それだけのものを背負ってなお、この道を選ぶ覚悟がおありですか。一度踏み出せば、引き返すことはきわめて困難です」


 フェリックスはうつむいた。


 金色の前髪が額にかかり、その表情を隠す。


「私は……間違っているのでしょうか」


 絞り出すような声だった。


「家族を裏切ってまで理想を追うことは、身勝手な自己満足にすぎないのでしょうか。……本当に、これが正しい道なのか。母を悲しませ、父を怒らせ、兄との関係も断たれる。それだけのものを犠牲にして……その先に、本当に何かがあるのでしょうか」


 声がさらに小さくなる。


「時々、夜中にふと目が覚めて思うのです。自分はただ家に居場所がないから、外に逃げ場を求めているだけではないのか、と。理想を語っているようでいて、その実、自分が楽になりたいだけなのではないかと。そう考えると、胸が潰れそうになる」


 揺れる瞳が、答えを求めてさまよう。


 レオポルトは静かに立ち上がった。


 テーブルを回り、フェリックスの前まで歩み寄ると、その震える肩にそっと手を置いた。


 手のひらから伝わる体温が、青年の強張った筋肉をわずかにほぐしてゆく。


「間違ってなどいない」


 力強く、しかし押しつけがましくない声で断言した。


「現状に疑問を持ち、より良い未来を模索することのどこに罪がありますか。……ただし、茨の道であることは事実だ。その覚悟は必要になる」


 間を置いて、レオポルトは続けた。


「逃げ場を求めているだけではないか、とおっしゃいましたね。その問いを自分自身に投げかけることができる人間は……逃げているのではありません。真剣に向き合っている。逃げる人間は自分を疑わないものです。自分の弱さを直視し、それでもなお問い続けるだけの誠実さがあるからこそ、あなたは今この場所に立っている。それは誇るべきことだと、私は思います」


 フェリックスがゆっくりと顔を上げた。


 まつ毛の先に涙の粒が光っている。


「信じた道を行きなさい。……私が守る。必ず」

「閣下……」


 フェリックスの瞳から涙がこぼれ落ちた。


 それは恐れや悲しみの涙ではなく、長いあいだ張り詰めていた糸がようやくゆるんだ安堵の涙だった。


「本当に、私を受け入れてくださるのですか。それほどまでに。私のような……家名の後ろ盾もなく、実績もなく、ただ理想だけを抱えた若輩者が……お荷物にはなりませんか。足を引っ張るだけの存在にはなりたくないのです。でも、正直に申し上げれば、自分に何ができるのかすら、まだはっきりとはわからない」

「お荷物だと? とんでもない」


 レオポルトは首を横に振った。


「あなたのような人間こそ、私がもっとも必要としている存在です。理想を持ち、それを行動に移す勇気がある。たったそれだけのことが、どれほど稀有なことか。百人の日和見主義者を束ねるより、一人のあなたのほうが遥かに価値がある。それは掛け値なしの本心です」

「……ありがとうございます」

「ただし」


 レオポルトの声に、ふいに硬質な響きが混じった。


「ひとつだけ条件があります」

「条件……ですか」


 フェリックスは瞬きをした。涙で濡れたまつ毛が光る。


「条件とは、何でしょう。私にできることであれば、何でもいたします。どのようなことでも」

「あなたには、デパートで『働いて』もらいます」


 レオポルトは一語一語を区切るように、はっきりと告げた。


「貴族として名前を貸すだけではない。一人の職員として汗を流し、客に頭を下げ、商品を売る。それが条件です」


 フェリックスの目が見開かれた。


「朝は日の出とともに出勤し、倉庫から商品を運び出して棚に並べる。お客様には笑顔で接し、どんな身分の方にも等しく丁寧に応対する。閉店後は床を掃き、翌日の準備を整える。そういう仕事です。貴族の白い手袋を脱いで、庶民と同じように手を汚してもらう。それが、私があなたに求める唯一の条件になります」


 フェリックスは息を呑んだ。


 貴族が労働に従事する。


 それはこの世界の常識において、あってはならないことだ。


 貴族とは支配し、命じ、管理する存在であり、みずから汗を流すなど身分を捨てるに等しい行為とされている。


 その現実が、今まさに彼の前に突きつけられたのだ。


「……貴族が、商品を売る。お客に頭を下げる……」

「そうです。ただし、これは罰ではない。試練でもない。むしろ、デパートにおいてもっとも重要な役割です」


 レオポルトは一拍の間を置いた。


「なぜだか、わかりますか」


 フェリックスは数秒間黙り込んだ。


 眉間にかすかな皺が寄り、レオポルトの言葉の真意を懸命に探ろうとしている。


 思考が渦を巻いているのが、その表情の移り変わりから手に取るように伝わってきた。


 やがて、彼の瞳にひらめきが走った。


 はっとしたように顔が輝く。


「なるほど……それこそが、平等の証明なのですね」


 深くうなずいた。その動作にためらいはもうない。


「貴族である私が、庶民と同じように働く。それを見せることで、言葉よりも雄弁なメッセージを伝える。身分を超えた協働を、理屈ではなく行動で体現する。そういうことですね。千の演説を重ねるより、ひとつの行動のほうが人の心に届く。アルトハイム家の名を持つ人間が汗を流して商品を売る姿を市民が目にすれば……それは、どんな言葉よりも力強くデパートの理念を語ることになる」

「そのとおりです」


 レオポルトは満足げにうなずいた。


「デパートの中では、全員が対等な『仲間』です。そう呼ぶことにしましょう。上下関係ではなく協力関係。権力ではなく信頼。そこに新しい社会の芽がある。あなたが売り場に立つ姿は、保守的な貴族たちにとっては衝撃でしょう。だが同時に、庶民にとっては希望になる。『自分たちと同じ目の高さに立ってくれる貴族がいる』という事実そのものが、デパートへの信頼を根底から支える柱になるのです」

「仲間……良い響きですね」


 フェリックスがその言葉を噛みしめるように繰り返した。


「私は今まで、その言葉を本当の意味で使ったことがなかった。家族は血のつながり、使用人は雇用関係。対等な仲間というものを……私は知らなかったのかもしれません。知らなかったからこそ、ずっと孤独だったのだと、今になってわかります」

「これからは知ることになる。仲間とは何か。信頼とは何か。それを、デパートという場所で学んでほしい」

「わかりました」


 フェリックスの声から、迷いが完全に消えていた。


 その響きには澄んだ鋼のような強さが宿っている。


「やらせてください。私は一人の職員として働きます。むしろ率先して、誰もやりたがらない仕事を引き受けたい。貴族としての見栄など、今日この場に置いていきます。倉庫の荷運びでも、床掃除でも、何であろうと構いません。いえ……やらせてください。私はこの手で、自分の人生を掴み取りたいのです」

「ありがとう。あなたのその覚悟は、きっと多くの人々の心を動かすことになるでしょう」


 レオポルトは彼を見つめた。


 その視線には深い信頼と、かすかな感慨が入り混じっている。


「一人の貴族がそこまで変わる。その変化が何かの扉を開く。そう信じています。フェリックス、私はあなたの力を信じる。そしてあなたにもひとつ約束しよう。デパートが完成した暁には、あなたが汗を流して積み上げてきたものの価値を、この国のすべての人間に知らしめる。それは私が保証する」

「……閣下」


 フェリックスは一瞬ためらい、それから意を決したように口を開いた。


「いえ……レオポルトさん、とお呼びしてもよろしいでしょうか。仲間、なのですから」


 レオポルトは目をわずかに見開いた。


 驚きの後に、やわらかな笑みが広がる。


「ああ。もちろんだ。そう呼んでくれ。そのほうが、ずっといい」


 二人のあいだに、静かだがたしかな絆が結ばれた瞬間だった。


 それは約束であり、同時に共犯の契りでもある。


 この国の秩序に風穴を開けようとする者同士の、覚悟を伴った連帯だ。


 窓辺の光だまりが二人の影を長く伸ばし、室内のあたたかな空気が満ち足りた沈黙を包んでいた。



 だが、その穏やかな空気を切り裂くように、扉が激しく叩かれた。


 礼儀も作法も無視した、荒々しい連打だ。


 応接室の壁に掛けられた絵画がわずかに傾くほどの衝撃が伝わってくる。


 次の瞬間、エーリッヒが駆け込んできた。


 あの沈着冷静な執事の顔色が、目に見えて変わっている。


 長年の奉公の中で完璧に保ち続けてきた表情の制御が、初めて崩れかけていた。


「旦那様、大変でございます」


 声にもわずかなふるえが混じっている。


「アルトハイム子爵様が、お越しでございます。それも……お付きの武装した兵士をお連れになって。玄関で門番を押しのけようとしておいでです。私どもが制止を試みましたが、『息子を返せ』の一点張りで……お取り次ぎも何も、まるで問答無用の御様子でございます」

「兵士は何名だ」


 レオポルトの声は、一転して鋭くなった。


「四名でございます。いずれも剣を帯びております。旦那様、いかがいたしましょう。門を閉ざして追い返すことも可能ではございますが……」

「いや、それは逆効果だ」


 レオポルトは即座に判断を下した。


「力で排除すれば、後日、政治的な報復を受ける口実を与えることになる。『ヴァイスハルト家に拒まれた』という事実が、子爵にとって都合のいい武器に変わりかねない。ここは堂々と迎え入れる」


 その言葉が終わらぬうちに、廊下のほうから怒鳴り声が響いてきた。


 壁を震わせるような、権力者の剥き出しの怒声だ。


「退け。どけい。誰の許しがあってこの俺を止める。息子はどこだ。フェリックスはいるのか。おい、聞こえんのか。この屋敷の主人を今すぐ呼べ。一刻も待たん」


 フェリックスの顔から一瞬で血の気が引いた。


 さきほどまで固まりかけていた決意の色が、父親の声というたったひとつの刺激によって大きく揺さぶられる。


「父上……ここに……どうして、この場所が」

「お前が家を出る時の様子がただ事ではなかったのだ。使用人に行き先を吐かせた。よりにもよってヴァイスハルトの屋敷だとはな。最悪の予感が当たったわ」


 廊下の向こうから、足音とともに怒声が近づいてくる。


 レオポルトはフェリックスの肩をしっかりと握った。細い肩が小刻みにふるえている。


「落ち着け、フェリックス。目を逸らすな、直視しろ。何が起きるかではなく、お前がどう決めるかだ。俺はお前の隣にいる。だが、これはお前自身が戦わなければならない。ほかの誰かに代わってもらうことはできない。わかるな」


 フェリックスは唇を引き結び、小さくうなずいた。


「……通してくれ、エーリッヒ」

「かしこまりました。……旦那様、くれぐれもお気をつけくださいませ」


 エーリッヒは深く一礼し、静かに、しかし迅速な足取りで扉に向かった。



 重い扉が大きく開け放たれた。


 中年の貴族が荒々しい足音とともに踏み込んでくる。


 アルトハイム子爵。


 五十代半ばの堂々たる体躯に、銀灰色の髪を厳格に撫でつけた男だった。


 整った面立ちはたしかに名門貴族のそれだが、今は煮えたぎるような怒りにゆがみ、額には血管が浮き上がっている。


 鋭い灰色の瞳には制御を失った激情が渦巻いていた。


 その背後に、武装した私兵が四人、壁のように控えている。


 剣の柄に手をかけた者もいた。


 子爵は部屋の中を一瞥し、息子の姿を認めるなり、地鳴りのような怒声を放った。


「フェリックス。こんな場所で何をしている。今すぐ帰るぞ」

「父上……」

「我が家の汚点めが。一体何を考えている。この男に呼ばれたのか。それとも自分から押しかけてきたのか。どちらにせよ、恥知らずにも程がある。よりにもよってヴァイスハルトの屋敷とはな。お前には見境というものがないのか」


「お待ちください、子爵閣下」


 レオポルトが一歩前に出た。


 その足取りは慎重だが、退く気配は微塵もない。


「ここは私の屋敷です。いかなる事情がおありでも、他家の応接室に武装した兵を率いて乗り込まれるのは、いささかお作法に反するのではないでしょうか。貴族法典第七章の来訪礼節にも明記されているとおり、他家への武装訪問は事前の通達なくして行ってはならないと定められております。まずは兵をお下がりいただき、お互いに落ち着いてお話しいたしませんか。紅茶のご用意もございます」


 子爵はレオポルトを睨みつけた。


 その視線の底に潜むのは、純然たる憎悪だ。


「黙れ、成り上がりめ。貴様が息子を誑かしたことはわかっておるのだぞ。貴様のような口の巧い男の甘言に乗せられて、息子が正気を失ったのだ。貴族法典だと? 笑わせるな。法典を振りかざすのは、やましいことがある証拠だ。家の恥を晒す前に、さっさと息子を返せ。それだけの話だろうが」

「子爵閣下、私は誰も誑かしてなどおりません」


 レオポルトの声は穏やかだったが、その穏やかさの内側には折れない芯がある。


「フェリックス様はご自身の意志で、ご自身の足でこちらにお見えになりました。私はお茶をお出しし、お話を伺っていたにすぎません。それとも……ご自分の足で歩いてこられた御子息の判断力を、お認めにならないのですか」

「この小僧が自分で判断できるものか」


 子爵は吐き捨てるように言った。


「生まれてこのかた、一度たりとも正しい判断をしたことのない男だ。読書だの、庶民の暮らしだの、下らんことばかり考えおって。まともな貴族なら見向きもしないような空論に首を突っ込み、それを賢いことだと思い込んでいる。お前のような甘言を弄する輩に出会えば、尻尾を振って飛びつくのは目に見えていたわ」


 フェリックスが唇を噛んだ。


 歯が皮膚に食い込み、わずかに血が滲む。


 父の言葉が、幼い頃から積み重ねてきた古い傷を容赦なくえぐっていた。


「父上、僕は……」

「口を挟むな。お前の話は後で聞く。屋敷に帰ってからだ」


 子爵は息子に向き直った。


 その動作には、長年にわたって家中のすべてを支配してきた者だけが持つ、圧倒的な威圧感がある。


「さあ来い、フェリックス。馬鹿な真似はもう終わりだ。家に帰り、己の部屋に閉じこもれ。そして二度と下賤な人間と関わるな。今日のことは不問に付す。お前がまだ若く、判断力に乏しいからこそ、こうしてわざわざ迎えに来てやったのだ。父の温情に感謝しろ」


 沈黙が落ちた。


 フェリックスは立ち上がった。


 だが足がすくんで、一歩も動けない。


 父の声が発する威圧に、二十四年間かけて骨の髄まで染み込まされてきた恐怖が呼び覚まされたのだ。


 心臓が喉元まで跳ね上がり、指先が氷のように冷たくなる。


「父上。僕は……僕は、ただ……」

「ただ、何だ。言ってみろ」


 子爵の声が部屋の空気を叩く。


「どうせまた下らん理想論だろう。庶民がどうの、平等がどうの。飽きるほど聞かされたわ。帰ると言え。それが親への孝行というものだ」


 さらに声を荒げた。


「アルトハイム家の血を引く者として、恥を知れ。お前の祖父は戦場で命を懸けてこの家名を守り抜いた。三百年の重みを背負った名だ。その名を……商人の真似事で汚すなど、許されると思うのか」


 フェリックスの身体がこわばった。


 その瞬間、レオポルトが静かに、しかし毅然とした声を発した。


「フェリックス」


 その呼びかけは命令ではなかった。


「自分で決めるんだ。ほかの誰でもない、お前自身が。お前の人生だ。お前の足で立ち、お前の声で答えろ。ここには、お前を裁く者はいない。ただ、お前の決断を受け止める者がいるだけだ」


 その言葉が、フェリックスの背中を押した。


 許可であり、同時に責任の要求でもある一言だった。


 フェリックスは震える拳を握りしめた。


 全身がふるえている。だがそのふるえは、もう恐怖のものではなかった。


 彼は顔を上げた。


 頬に涙が伝っている。


 けれどもその瞳は、かつてないほど澄んだ光を湛えていた。


「帰りません」


 その声は、父に向けられていた。


 子爵が息を呑んだ。


「……なん、だと」

「帰りません」


 フェリックスはもう一度、今度はさらにはっきりと言い切った。


 涙声だったが、それは紛れもない明確な拒絶だった。


「僕はここで働きます。ヴァイスハルト男爵と共に、新しい時代を作るんです。僕は……自分の人生を、自分で決めたい。父上、二十四年間ずっと、あなたの言葉に従ってきました。あなたの望む息子であろうと努めてきた。でも、もう嘘をつき続けることはできません。この国のあり方が正しいとは、僕にはどうしても思えない。貴族が富を独占し、庶民が飢える。この仕組みが正しいとは……どうしても思えないのです」

「働く……だと……? 貴族が、商人の真似事をする、だと……?」


 子爵の顔が朱に染まった。


 怒りが頂点に達している。額の血管がいっそう太く浮き上がり、こめかみが脈打っていた。


「恥を知れ、フェリックス。アルトハイム家の名を泥に塗る気か。お前の祖先たちがどれほどの血と誇りでこの家名を守り抜いてきたか、知らんとは言わせんぞ。三百年だ。三百年分の名誉を、お前一人の愚かな感傷で踏みにじるつもりか」

「恥ずかしくなんてありません」


 フェリックスの瞳から涙があふれていた。


 だがその涙の奥に、消えることのない光が灯っている。


「民を見下し、変化を恐れ、自分たちの特権にしがみつくだけの今の貴族のあり方こそ……恥ずべきだと、僕は思います。僕はずっと、この世界のあり方に違和感を抱いてきた。そして今日、やっと自分が何をすべきなのかわかったのです」


 声が強くなってゆく。


「僕は変わりたい。より良い人間になりたい。より良い社会を作る手助けができる人間になりたい。だから帰りません。父上……僕はずっと、あなたに認められることだけを望んで生きてきました。それだけが僕の望みだった。でも今は……たとえ認められなくても、自分が正しいと信じる道を歩きたい。それが、僕の答えです」


 子爵の表情が凍りついた。


 そして、もっとも鋭い刃を繰り出す。


「この愚か者めが。母上が嘆くぞ。お前が家を出れば、あの人がどれほど悲しむか。考えたことがあるのか」


 フェリックスの顔が歪んだ。


 それは急所を正確に突かれた反応だった。


 母の顔が脳裏によぎる。泣きながら『黙っていて』と言ったあの夜の母の顔が。


「……母上には、申し訳なく思っています」


 声がかすれた。だが、途切れはしなかった。


「でも……母上もきっと、いつかはわかってくれると信じています。僕が嘘を重ねて家に留まるよりも、自分の真実に従って生きるほうが……本当の意味で母上を安心させることになる。そう信じたいのです。偽りの平穏よりも、痛みを伴う誠実さのほうが……母を裏切らない生き方だと」


 静寂が、部屋の隅々にまで行き渡った。


 子爵は、見たこともない息子の目を見つめていた。


 従順で無口で、影のように家の中を歩いていたはずの次男が、今、まっすぐに自分を見返している。


 その瞳には服従の色は一片もなかった。


 あるのは、静かだが揺るぎない拒絶だ。



 子爵の表情から、感情の色が一切消えた。


 怒りすらも凍りつき、そこに残ったのは氷のような冷酷さだけだった。


「そうか」


 吐き捨てるような一言だった。


「ならば勝手にしろ。だが覚えておけ。二度と敷居を跨がせはせん。お前はもうアルトハイム家の一員ではない。本日この瞬間をもって、完全に勘当する」


 その宣告は、法的な効力を持つ。


「アルトハイム家の人間ではない者が、野垂れ死のうが知ったことではない。後を継ぐ兄がいる。それで十分だ。予備は……もう不要だ」


 子爵はレオポルトに鋭い視線を向けた。


「ヴァイスハルト。聞いておけ。お前が息子を唆した報いは、必ず受けさせてやる。議会で、社交界で、あらゆる場所でお前を追い詰める。覚悟しておくがいい。アルトハイム家を敵に回すことがどういう意味を持つのか……身をもって思い知ることになろう」

「子爵閣下」


 レオポルトは一歩も退かなかった。


「お言葉ですが、私はフェリックス様を唆してなどおりません。そして……脅しで人の信念が曲がると思われるのであれば、それは見込み違いというものです。議会であれ社交界であれ、正々堂々とお相手いたしましょう。私は逃げも隠れもいたしません」


 子爵は鼻を鳴らした。返す言葉はなかった。


 背を向け、一度も振り返ることなく踵を返した。


 その足取りには一切の迷いがない。武装した兵士たちが無言で後に続く。


 重い扉が閉まる音が響いた。


 それは決定的な別離を告げる鐘の音のように、部屋の空気を長く震わせた。



 フェリックスの膝が折れた。


 糸が切れたように、その場に崩れ落ちる。


 両手を床につき、肩がはげしく上下していた。


 エーリッヒが静かに歩み寄り、小声で告げる。


「旦那様。子爵閣下はお帰りになりました。兵士の方々も撤収されております。……フェリックス様のお部屋を、ご用意いたしましょうか」

「ああ、頼む。東棟の客間を整えてくれ。しばらくのあいだ、うちに滞在してもらう。着替えや身の回りのものも手配が必要だ。明日にでも仕立て屋を呼んでほしい」

「かしこまりました。すぐに取りかかります」


 エーリッヒは一礼し、それから珍しくわずかに声を潤ませた。


「……旦那様、僭越ながら一言だけ申し上げてもよろしいでしょうか。フェリックス様は……立派な方です。あれだけの覚悟を持った若者を、私は長い奉公のあいだ、ほとんどお見かけしたことがございません」

「同感だよ、エーリッヒ。だからこそ、あの勇気に応えなければならない」


「父上……」


 床に突っ伏したまま、フェリックスは声を上げて泣いた。


 声を押し殺そうとして、できなかった。


 嗚咽が喉からあふれ、身体全体を震わせる。


 それは子供の泣き方だった。


 家族との絆が断ち切られた痛みが、津波のように彼の心に押し寄せていた。


 勘当という二文字の重みが、今この瞬間になって初めて現実の質量を伴って胸にのしかかってくる。


 だがそれだけではない。


 みずからの足で立つことを選んだという事実の重圧が、同時に彼を押し潰そうとしていた。


 責任。孤独。不安。先の見えない道。


 そのすべてが一度に襲いかかり、二十四年間の人生で築いてきた土台が根こそぎ揺らいでいる。


 レオポルトはそっとフェリックスの隣に座り込み、その背中に手を当てた。


 力強く、しかし優しく。支えるように。


「泣いていい」


 低く囁いた。


「泣きたいだけ泣け。だが、後悔だけはするな。お前の選択は間違っていない。絶対に。お前の勇気を忘れるな。その勇気が、新しい世界の礎になる。お前はたった今、誰にもできないことをやり遂げたんだ。三百年分の家名の重みを背負いながら、それでも自分の足で立つことを選んだ。その勇気がどれほどのものか……俺にはわかる。痛いほどに」

「う……レオポルトさん……僕は……」


 涙で声がかすれる。


「僕は本当に、正しいのでしょうか。父上の顔が……最後の、あの凍りついた目が……頭から離れないのです。あれが僕の父なのだと思うと……あんな冷たい目を向けられる日が来るなんて、思ってもみなかった……」

「正しい」


 レオポルトは揺るがない声で答えた。


「俺がいる。オスカーもいる。クララもいる。そしてお前もいる。お前はもう一人じゃない。俺たちは家族だ。血のつながりはないが、心でつながっている。その絆のほうが、遥かに強い。断言してもいい」


 間を置いて、静かに言葉を継いだ。


「お前の父上は……今は怒りに目が眩んでいる。だが、いつかきっと気づく日が来る。息子の選択がどれほど勇敢なものだったかを。その日が来るまで、俺たちはお前と共にいる。何があっても」

「……本当に、一人じゃないのですね」

「ああ。一人になどさせない。それが、仲間というものだろう」


 しばらく時間が過ぎた。


 窓から差し込む光の角度が変わり、部屋の中の影が少しずつ伸びてゆく。


 やがて、フェリックスは袖で目元を拭った。


 乱暴で不器用な仕草だったが、その動作には、涙を振り切って前を向こうとする意志が込められていた。


 顔を上げたとき、目は赤く腫れていた。鼻の頭も頬も赤い。


 だがその瞳には、泣く前よりもずっと強く、ずっと澄んだ光が宿っている。


「ありがとうございます」


 声はまだ震えていた。


 けれども、一語一語をはっきりと刻むように発された。


「僕は必ず成し遂げます。いつか父に『お前の道は正しかった』と認めさせる日まで。僕は戦い続けます。デパートの一職員として……いえ、レオポルトさんの仲間として、この国を変えてみせます。僕の手で。僕の汗で。そして、僕の誇りをかけて。それだけは、誰にも渡さない」


 レオポルトは微笑み、フェリックスの肩をぽんと叩いた。


 その手のひらには、言葉以上の信頼が込められている。


「ああ。その日は必ず来る。俺たちの手で連れてくるんだ。この王国を変え、社会を作り替え、その変化の中で……お前の父上さえも気づくだろう。己の過ちに。だがそのためには、まだやるべきことが山ほどある。お前の力が要る。泣き終わったら、顔を洗って来い。今夜は、デパート計画の全容をお前に説明する。仲間である以上、すべてを共有しなければな」

「はい……はい。すぐに参ります」


 フェリックスは袖で涙の跡をもう一度ぬぐい、不恰好ながらも笑みを作った。


 ぎこちなくて、まだ少し泣き笑いの混じった顔だったが、その中にたしかな決意の光が息づいている。


「よし。その顔だ」


 レオポルトはうなずいた。


「その笑顔が、いつかこの国を変える力になる」

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