第10話 第一の妨害と対応
建設地の確保から、ちょうど一週間が経とうとしていた。
王都を取り巻く空気そのものが、目に見えぬ速さで変質し始めている。
商人街の朝市は相変わらずの喧騒に包まれ、荷馬車の車輪が石畳を叩く音や、威勢のよい売り子たちの声が入り混じっていた。干し肉を吊るした屋台の脇では、早起きの主婦たちが値段を品定めし、焼きたてのパンの香ばしい匂いが路地の隅々にまで漂っている。
だが、その賑わいから少しだけ外れた町の片隅に、古い煉瓦造りの屋敷がひっそりと佇んでいた。蔦が壁面を這い、鉄製の門扉には緑青が浮いている。外壁の煉瓦は経年で角が丸くなり、かつての赤みは褪せて淡い茶色に変わっていたが、それがかえって落ち着いた風格を醸し出していた。
その屋敷の二階、書斎と呼ぶにはいささか手狭な一室で、レオポルト・ヴァイスハルトは完成したばかりの資料に目を通していた。
『デパート建設事業詳細計画書』
百ページを優に超える膨大な資料の束である。革の表紙で綴じられたそれは、手に取っただけでずしりとした重みがあり、厚みだけで、この計画がいかに巨大な構想であるかを物語っていた。
手に取るたび、レオポルトの指先に伝わるのは、単なる紙の重さではなかった。魔導建築技師オスカー・ブラウエルが精魂込めて描き上げた、五階建て建造物の精密な設計図。鋳鉄の骨組みの太さと間隔、ガラス天井の配置角度、各階の荷重分散を支える構造計算の細部に至るまで、老職人の矜持と半生をかけた技術が余すところなく注ぎ込まれている。
加えて、商人マルクス・シュトラウスが幾夜も徹して弾き出した運営方針がある。精緻な予算の詳細表。雇用計画における人員配置と給与体系。仕入れルートの確保から季節ごとの売上変動予測、さらには事業が直面するあらゆるリスクを想定した管理表まで、商人としての知見が隅々にまで行き届いていた。
それら全てを、レオポルト自身が統括し、一つの壮大なビジョンとして束ね上げたのである。前世の記憶と、今生の覚悟を重ねて。
窓の外では、朝日が王都の石造りの建物に反射し、黄金色の光が街並みを柔らかく包み込んでいた。屋根瓦に残る朝露が宝石のように煌めき、遠くの鐘楼からは六刻を告げる鐘の音が静かに響いてくる。
しかし、書斎の中にそのような穏やかさはない。レオポルトの整った顔には、隠しようのない緊張の色が浮かんでいた。提出まであと数時間。王からの指示で王宮へ向かうのは正午である。
「……オスカー先生の構造計算は、一分の隙もない」
独り言のように呟きながら、レオポルトは計画書のページを繰った。指先が微かに震えているのは、寝不足のせいだけではあるまい。
「五階建ての荷重分散、魔導杭の配置密度、ガラス天井の耐風圧設計。すべてに理論的な根拠が添えられている。マルクスの予算表もまた然りだ。初年度の赤字を二年目以降の利益で回収する成長曲線、安定買付制度による原価の平準化、図書室の集客効果を含めたリピーター獲得コストの試算……。数字に嘘はない。根拠のない数字は一つもない。問題は、だ」
彼は計画書を閉じ、窓の外に目を向けた。朝の光が、彼の灰色がかった蒼い瞳を照らしている。
「この計画を、王にどう伝えるか。それが全てを決める」
その時、背後で微かな衣擦れの音がした。
執事エーリッヒ・ランベルトが、足音もなく書斎に入ってきたのである。銀製のティーカップを載せた盆を静かに机の端に置き、慣れた手つきで紅茶を注ぐ。湯気が、朝の冷えた空気の中でゆるやかに立ち上った。茶葉はレオポルトが好む南部産の軽い渋みのあるもので、エーリッヒは主人の嗜好を寸分も間違えることがなかった。
「ご覧になっていかがでしょうか、旦那様」
「……完璧だと思う。オスカー先生もマルクスも、自分たちの持てる全力を注ぎ込んでくれた。この上を望むのは贅沢というものだろう」
レオポルトは資料から顔を上げ、エーリッヒの落ち着いた眼差しを受け止めた。四十代半ばのこの執事は、表面上はどこにでもいる忠実な使用人に見えるが、その実、かつて王宮の密偵として暗躍した過去を持つ男である。細身の体躯に刻まれた幾つもの古傷は、彼が歩んできた道の険しさを物言わず証明していた。
「しかし、完璧な計画書が、そのまま受け入れられるとは限らない。王がどう判断されるか……正直なところ、確信が持てないままだ」
「それは、どのような点でございましょう」
エーリッヒは盆を脇に退け、主人の正面に静かに立った。その所作には、一切の無駄がない。
「第一周目では、王の承認を得ること自体はさほど難しくなかった。だが、承認の中身が問題だったんだ。あの時は王が全面的に資金を出す形になった。結果、デパートは最初から『王の所有物』として生まれてしまい、俺には実質的な裁量権がほとんど残らなかった。人事も仕入れも、全てが王宮の意向に左右される。それでは、理想の店は作れない」
「今回は、三者出資という構造をお考えでいらっしゃいますね」
「ああ。王室、俺個人、そして商人組合。三者がそれぞれの立場で出資し、合議で運営する。前例のない構造だ。王がそれを受け入れるかどうか……読みきれない部分がある。王は自らの権威が薄まることを嫌う方だからな」
「お言葉ですが、旦那様」
エーリッヒは一拍の間を置いてから、慎重に言葉を継いだ。
「陛下は確かに保守的なお方ではあります。けれども、同時に合理的な御仁でもいらっしゃる。数字で裏付けられた提案に対して、感情だけで拒否されるお方ではございません。それに……」
「それに?」
「宰相殿の存在が大きいかと存じます。リヒテンシュタイン宰相は経済政策に明るく、税収増加の可能性には必ず反応される方です。陛下が迷われた時、宰相殿が後押しをしてくださる可能性は、決して低くはないでしょう」
エーリッヒの言葉には、元王宮密偵としての経験に裏打ちされた確かな重みがあった。長年にわたり王宮の人間関係を観察し続けてきた彼は、権力者たちの性質と力学を誰よりも深く理解している。
「宰相か……」
レオポルトは紅茶を一口含み、静かに頷いた。温かな液体が喉を通り、張り詰めた身体が僅かにほぐれるのを感じる。
「確かにな。あの方は理念よりも実利で動く人間だ。デパートがもたらす税収増、現在の六割程度の捕捉率を九割以上に引き上げられるという試算は、宰相にとって最も魅力的な材料になるだろう。南方の穀物税だけで食いつないでいる今の財政では、遅かれ早かれ行き詰まる。宰相もそれは承知のはずだ」
「左様でございます。加えて申し上げますと、宰相殿は最近、南方諸侯の税収減少にひどく頭を悩ませておいでだと耳にしております。昨年の凶作の影響で、南部三州の税収が前年比で二割近く落ち込んだとか。新たな税収源となり得るデパート構想は、宰相殿にとってまさに渡りに船ではないかと」
「南部三州で二割減か……。それは深刻だな。宰相が焦っているのも頷ける」
レオポルトは椅子の背に体を預け、天井の染みを見つめながら思考を巡らせた。前世で得た知識と、今の状況を重ね合わせる。パズルのピースが、少しずつ嵌まっていく感覚があった。
「……なるほど。宰相の懸念に先回りして、デパートの税収効果を冒頭で強調する。そうすれば、計画書を開いた最初の一ページで、宰相の関心を鷲掴みにできる。良い切り口だ」
「さすがでございます、旦那様」
「エーリッヒ、計画書の冒頭に税収に関する概要を追加しよう。王と宰相が最初に目にする部分に、最も説得力のある数字を配置する。現状の税収構造の問題点と、デパートによる改善見込みを、簡潔に、だが力強くまとめたい。頁にして二枚もあれば十分だろう」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
エーリッヒは一礼し、踵を返しかけたが、ふと足を止めた。その横顔に、一瞬だけ真剣な色が走る。
「それから旦那様、一つご注意申し上げてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「本日の謁見には、エッケルト伯爵も同席される可能性がございます。伯爵は王の側近として、とりわけ重要な政策決定の場にはほぼ必ずお顔を出されます。陛下への影響力は宰相殿に次いで大きく……いえ、場合によっては宰相殿をも上回ることがあると申しても過言ではないかと」
「ゲオルクが来るか」
レオポルトの声が、僅かに低くなった。その名を口にするだけで、空気が変わるのを感じる。
「……想定はしている。あの男が反対に回ることは、もはや確実だろう。だが、王と宰相を先に味方につけてしまえば、伯爵一人の反対では計画を覆すことはできない。数の論理ではなく、論拠の質で勝つ。それが俺の戦略だ」
「ご慧眼かと存じます。ただ、伯爵は論理ではなく感情で動かれる場面がございますので、そこだけはご留意を」
「ああ。分かっている」
レオポルトは紅茶を飲み干し、カップを静かに置いた。磁器と銀が触れ合う澄んだ音が、書斎に小さく反響する。
「それでは、参るとしよう」
立ち上がり、資料を丁寧にまとめ始めた。いくつもの筒に収められた設計図を一本ずつ手に取り、巻きの具合と封蝋の状態を指先で確かめる。オスカーの汗と情熱が染み込んだそれらは、どれも寸分の狂いなく仕上げられていた。
「エーリッヒ、万が一に備えて聞いておく」
設計図の筒を革帯で束ねながら、レオポルトは振り返らずに問うた。
「王宮内で不測の事態が起きた場合……たとえばゲオルクが謁見の場で即座に妨害行動に出た場合、どう対処すべきだと考える。お前の経験から聞かせてくれ」
「玉座の間では、いかなる貴族であっても王の御前で暴力的な行動は取れません。王宮衛兵が常に控えておりますし、そもそも玉座の間での抜刀は反逆罪に問われます。その点は安全と申し上げてよいでしょう」
「つまり、問題は物理的な脅威ではなく、言論戦ということか」
「左様でございます。伯爵は弁が立つお方です。旦那様の計画の弱点を的確に突いてこられるでしょう。とくに……」
エーリッヒは言葉を選ぶように、一拍の間を置いた。
「『庶民に過度な権利を与えることは、秩序の崩壊を招く』という論法は、保守派貴族の間で広く共有されている考え方でございます。伯爵が用いる可能性の最も高い論点かと。これに対する反論を、あらかじめ準備されるのがよろしいかと存じます」
「ああ。その点は考えてある」
レオポルトは、設計図の筒を抱えたまま、窓際に歩み寄った。朝の光が、彼の横顔を鋭く照らしている。
「秩序の崩壊を招くのは、変化そのものではなく、変化の欠如だ。庶民が貧困のまま放置されれば、いずれ不満は爆発する。第一周目が、まさにそれだった」
最後の一言は、声を落として呟いた。エーリッヒだけが聞き取れるほどの小さな声で。
「……もちろん、そんな言い方は王の前ではできん。だが、歴史的な事例を引きながら論じることはできるだろう。西方王国の崩壊、南方辺境伯領の農民一揆……。過去の教訓は、俺の最大の武器だ」
「心強いお言葉でございます。それでは、馬車をお回しいたしましょう」
エーリッヒが一礼して退室すると、書斎には再び静寂が戻った。
レオポルトは窓辺に立ったまま、しばし動かなかった。朝の光の中に浮かぶ王都の街並みを眺めながら、右手で無意識に左手の甲を擦っている。それは、彼が極度の緊張状態にある時に現れる癖だった。
「……負けるわけにはいかない」
誰にも聞こえない声で、彼はそう呟いた。
前世の失敗が、脳裏をよぎる。あの時も、計画は完璧だと思っていた。数字は正しく、設計は精緻で、理念は崇高だった。だが、足りないものがあった。人の心を動かす力。権力者の感情を読む洞察。そして、敵の動きを先読みする冷徹さ。
今の自分には、それがある。少なくとも、あの頃よりは。
「行くぞ」
自分自身に言い聞かせるように呟き、レオポルトは書斎の扉を開けた。
王宮への登城は、レオポルトにとって何度目のことであったろうか。
しかし、この日の緊張感は、これまでのどの登城とも比較にならなかった。
兵士たちの厳重な警備を受けながら、王宮の中庭を横切る。高い城壁に囲まれた空間は、外の喧騒を完全に遮断していた。音だけが、やけに大きく響く。自分の靴底が石畳を叩く音。礼装の衣が擦れる微かな音。そして、胸の奥で打ち鳴らされる心臓の鼓動。
中庭の中央には、枯れかけた噴水が一つ。水は細く、力なく流れ落ちている。かつては勢いよく吹き上がっていたであろうその噴水の姿が、今の王国の財政状態を暗示しているようで、レオポルトは苦い思いを噛み締めた。
玉座の間へと続く長廊下は、昼間であっても薄暗い。高い天井からは巨大な鉄製の燭台が吊り下げられているが、蝋燭の灯りは壁面の影を深くするばかりで、廊下全体を照らすには心許なかった。壁面に掲げられた歴代国王の肖像画と王家の紋章が、まるで何千もの目のようにこちらを見つめている。その無言の視線が、この国の歴史の重さを突きつけてくるようだった。
廊下の突き当たりに、侍従長フリードリヒが直立不動で待っていた。白髪を綺麗に整え、王宮の紋章が刺繍された深紅の上着を隙なく着こなしたその姿は、王宮という場所の格式そのものを体現しているかのようである。
扉の前で立ち止まり、フリードリヒが沈黙のうちに重い樫材の扉を押し開けた。蝶番が低く軋む音が、廊下に反響する。
「ヴァイスハルト男爵、陛下がお待ちでございます。どうぞ、お進みくださいませ」
一拍の間を置いて、フリードリヒは声を僅かに落とした。
「……なお、本日は宰相殿に加えまして、エッケルト伯爵も御同席でいらっしゃいます」
「承知いたしました。ご案内感謝いたします、フリードリヒ殿」
レオポルトは軽く会釈した。エッケルト伯爵の同席は想定内だ。動揺は見せない。
すると、フリードリヒが一歩こちらに寄り、ほとんど唇だけを動かすようにして囁いた。
「男爵閣下。僭越ながら、一言だけ申し上げてよろしいでしょうか」
「はい」
「……陛下は、計画書を楽しみにしておいでのご様子でした。昨日も、宰相殿との御会食の席で、男爵閣下のお名前を口にされておいでだったと聞き及んでおります。それだけ、申し上げておきます」
フリードリヒの声には、職務上の中立を保ちながらも、かすかな好意と期待が滲んでいた。侍従長という立場上、特定の貴族に肩入れするような発言は本来許されないはずだが、それでも彼がこの一言を口にしたという事実が、レオポルトにとっては小さな、しかし確かな追い風のように感じられた。
「ありがとうございます。全力を尽くします」
レオポルトは深く一礼し、開かれた扉の向こうへと足を踏み入れた。
玉座の間は、天井が異様に高い。三階分はあろうかという吹き抜けの空間に、王家の紋章を象った巨大なステンドグラスが嵌め込まれ、そこから差し込む光が床の大理石に色とりどりの模様を落としている。空気は冷え、静謐で、まるで神殿の内部に足を踏み入れたかのような厳粛さが全身を包んだ。
玉座には、国王アルフレート三世が座していた。五十二歳。かつては見事な金髪であったであろう頭髪には白いものが目立ち始め、深い皺が刻まれた顔には、長年にわたって国家を背負い続けてきた者だけが持つ、独特の疲労と威厳が同居している。青い瞳は、一見穏やかだが、その奥には鋼のような意志が潜んでいた。
王の右手には、宰相エドゥアルト・フォン・リヒテンシュタイン。五十八歳。痩身で、鷲のように鋭い目を持つこの男は、王以上にこの国の実務を取り仕切る真の権力者だと囁かれている。灰色の髪を後ろに撫でつけ、口元には常に薄い笑みを浮かべているが、その笑みが本心からのものであった例はほとんどないだろう。
レオポルトは玉座の前に進み出ると、最敬礼の姿勢で深く平伏した。膝を折り、頭を垂れ、右手を胸に当てる。心臓が、肋骨の内側で暴れていた。
「陛下、ならびに宰相殿。本日はご多用のところお時間を賜り、誠にありがとうございます」
声が震えぬよう、腹の底から息を押し出す。
「お約束の通り、デパート建設事業の詳細計画書をお持ちいたしました。百ページを超える資料となりましたが、冒頭の概要を私から口頭でご説明させていただき、詳細につきましては後ほどご精査賜れれば幸いに存じます」
「面を上げよ。そして、説明を聞かせるがよい」
王の声は、想像していたよりも柔和だった。だが、その柔らかさの底に横たわる権力の重さは、声だけで十分に伝わってくる。この声一つで、何千もの人間の運命が左右されるのだ。
「楽しみにしておった」
王が僅かに身を乗り出した。玉座の肘掛けに置かれた右手の指が、軽く叩くように動いている。
「一ヶ月の期限を与えたが、それより早く仕上げてきたか。その勤勉さは素直に評価しよう。……さあ、説明せよ」
レオポルトは立ち上がり、資料を展開した。侍従たちが手際よく設計図の筒を受け取り、王の目の前の長机に広げていく。羊皮紙に描かれた精密な図面が、燭台の灯りに照らされて鮮やかに浮かび上がった。
レオポルトは、自らが構想するデパートの全貌を語り始めた。身振り手振りを交え、時に設計図の特定の箇所を指し示しながら、一つ一つ丁寧に、しかし力強く説明を進めていく。
五階建ての建造物。各階ごとに異なる商品区分を配置する。一階は食料品と日用雑貨。二階は衣料品と服飾品。三階は家具と工具。四階は書籍と文具、そして公共図書室。五階は高級品と贈答品。それら全てが、一つの屋根の下で取り扱われる。
「陛下、これまでの商業においては、商人たちが王都の各所で個別に物品を扱い、顧客はそれぞれの店舗を一軒一軒回らなければなりませんでした。これは極めて効率が悪く、時間の浪費が著しい。現在、王都の一般市民が日用品を購入するために回る店の数は、平均して四つから五つに上ります。その移動に費やされる時間だけで、一日の労働時間のおよそ一割が失われている計算になるのです」
王が、顎に手を当てて頷いた。
「一割とな。それは……看過できぬ数字だ。生産に充てるべき時間が、買い物に奪われているということか」
「まさしくその通りでございます、陛下。しかし、デパートではその構造が根本から変わります。顧客は一度の来店で、あらゆる品物を購入できるのです。利便性は飛躍的に向上し、商品の回転速度も加速いたします。一つの店を出て次の店まで歩く時間が消えるだけで、市民の生活は劇的に変わるでしょう。そして何より、結果として売上と税収の両方が大きく増加いたします」
レオポルトは一拍置いて、次の言葉に力を込めた。
「試算では、デパートの正価販売制度により、全ての取引が帳簿に記録されることになります。現在、王国の税捕捉率は約六割と推計されておりますが、デパートを通じた取引につきましては、捕捉率がほぼ十割に達します。この仕組みを王都全体の商業に展開すれば、税収は現在のおよそ一・五倍に増加する見込みでございます」
その瞬間、宰相リヒテンシュタインの目が鋭く光った。
それまで薄い笑みを浮かべて静観していた宰相が、はっきりと身を乗り出したのだ。その動きは小さかったが、この男が動くということ自体が、ある種の事件であった。
「一・五倍とは大きく出たな、男爵」
宰相の声は平坦で、感情を読み取らせない。だが、その瞳の奥に灯った光は、明らかに興味を示していた。
「根拠を示してもらおう。願望ではなく、論拠をだ」
「はい、宰相殿。計画書の第三章に詳細な試算を記載しておりますが、要点を申し上げます」
レオポルトは宰相の視線を正面から受け止め、一語一語を明瞭に発した。
「現在の商取引の約四割が、税務当局の把握外にあると推定されます。これは、口頭での価格交渉が商慣習の中心であり、取引の記録が残らないためでございます。商人と顧客が値切り合い、最終的な売値は双方の胸の内にしかない。帳簿に記載される数字と実際の取引額に乖離が生じるのは、構造的に不可避なのです」
「それは承知している。我々も手をこまねいているわけではないが、商慣習を変えるのは容易ではない」
「おっしゃる通りです。だからこそ、商慣習そのものを変える仕組みが必要なのです。デパートの正価販売制度では、全商品に値札が付きます。交渉の余地はなく、誰が買っても同じ価格です。そして、全ての販売記録が帳簿に残る。この記録がそのまま税務申告の基礎資料となるのです。商慣習を禁じるのではなく、新しい商慣習を作り出す。それがデパートの本質でございます」
「なるほど……」
宰相は細い顎に指を当て、天井を仰いだ。その表情は依然として読みにくかったが、完全な否定の色は見えない。
「記録が残る仕組みそのものが、税の捕捉率を押し上げる、と。……理には適っている。しかし、それは全ての商人がデパートに参入する前提での話だ。参入しない商人はどうなる」
「鋭いご指摘です、宰相殿。もちろん、全ての商人が初日からデパートに参入するわけではございません。ですが、デパートの正価販売が消費者に支持されれば、旧来の商慣習を続ける商人は自然と競争力を失います。結果として、多くの商人が自発的に正価販売へ移行する。強制ではなく、市場の力で商慣習を変えるのです。計画書の第四章に、その移行シナリオの詳細を記載しております」
レオポルトはマルクスが作成した予算表へと話を移した。初期投資額、年間運営経費、予想される利益。数字の一つ一つが、この構想の実現可能性を雄弁に物語っている。
「初期投資額は金貨三万枚。うち王室が二割五分の七千五百枚、私個人が五割の一万五千枚、商人組合が二割五分の七千五百枚を出資いたします。年間運営経費は金貨八千枚。初年度は赤字となりますが、二年目には損益分岐点に達し、三年目には年間純利益金貨五千枚を見込んでおります」
「三年で黒字化とは、随分と楽観的な見通しではないかな」
宰相が眉を持ち上げた。その仕草は小さかったが、疑念を示すには十分だった。
「楽観ではございません、宰相殿」
レオポルトは穏やかに、しかし明確に否定した。
「この試算は、来客数を控えめに見積もった保守的なシナリオに基づいております。王都の人口と現在の商業規模から逆算した最低限の数字です。標準シナリオでは二年目で黒字化、楽観シナリオでは初年度後半での黒字化も視野に入ります。計画書の第五章に、三つのシナリオの比較表を掲載しております。数字の根拠は全て開示してございますので、どうかご検証いただきたく存じます」
「ふむ……」
宰相は腕を組み、何かを考え込むように黙り込んだ。否定も肯定もしない。この男の沈黙は、拒絶ではなく吟味の証だと、レオポルトは知っていた。
「さらに、重要な点がございます」
レオポルトは、オスカーが描いた構造図の前に進み出た。五階建ての建物の正面図。ガラスの大天井。広い中央吹き抜け。それは、この世界にまだ存在しない、全く新しい建造物の姿だった。
「このデパートは、単なる商業施設ではございません。王国の象徴となるべき建造物です。全商品に統一された価格表示を行い、交渉の余地なく、万人に等しい価格で提供する。身分を問わず、あらゆる階級の人間が同じ空間で買い物をする。それは、王国の秩序の中に、新たな公平性をもたらすものでございます」
レオポルトは、ここで意図的に間を取った。王の表情を窺い、次の言葉を放つ。
「そして、これが最も重要な点ですが……デパートの成功は、陛下の治世そのものの象徴となります。後世の歴史書に、『アルフレート三世の御代に、王国は新しい商業の時代を切り拓いた』と記されるのです。百年後の子供たちが学ぶ歴史の中に、陛下のお名前が刻まれる。それも、戦争や征服ではなく、民を豊かにした王として」
王の表情が、僅かに動いた。
眉間の皺がほんの少し和らぎ、青い瞳の奥に、かすかな光が灯ったように見えた。レオポルトの言葉が、この老いかけた王の心の、最も柔らかい部分に触れたのだ。
だが、宰相リヒテンシュタインの反応は異なっていた。
「公平性、とな」
宰相は眉をひそめ、慎重な声で切り込んだ。
「それは聞こえは良いが、実質的には貴族の既得権を侵すものではないかね。現在の商業制度は、貴族への優先販売や特別価格を前提として成り立っている。それを撤廃するとなれば、貴族たちの反発は必至だろう。男爵、その点をどう考えている」
「いいえ、宰相殿。むしろ逆でございます」
レオポルトは一歩も引かず、堂々と答えた。その声には、前世での苦い失敗と、今生で積み重ねた思索の全てが込められていた。
「現在、王国の富は一部の特権階級に集中しております。しかし、その状態がこのまま永続するとお考えでしょうか。民衆の不満は、今はまだ小さなものかもしれません。けれども、それは消えたのではなく、地中に潜っているだけなのです。やがて圧力が限界に達した時、それは地割れとなって噴き出す」
宰相の目が細くなった。レオポルトは構わず続けた。
「一方、民衆が豊かになり、市場が活性化すれば、全体としての経済成長が実現されます。結果として、王国全体が繁栄する。貴族の権威もまた、豊かで安定した王国の上にこそ盤石となるものです。決して、民衆の貧困の上には成り立たない。砂上の楼閣は、いつか必ず崩れ落ちます」
レオポルトは一呼吸置いた。
「加えて申し上げますと、貴族の皆様にとっても、デパートは直接的な利益をもたらします。高品質な商品がより安価に、より便利に手に入るようになるのですから。現在、貴族の方々がお抱えの商人に支払っている仲介手数料は、商品価格の二割から三割にも達しております。デパートの直接販売制度により、その中間コストが大幅に削減される。特権を失うのではなく、全ての階層が恩恵を受ける。そういう仕組みでございます」
「全員が得をする、か」
宰相の口元に、薄い笑みが戻った。だが、それは嘲笑ではなく、吟味の笑みだった。
「世の中にそのような都合の良い話があるものかな。誰かが得をすれば、別の誰かが損をする。それが経済の原則ではないかね」
「おっしゃる通りです。しかし、それは市場の総量が一定である場合に限った話でございます。市場そのものが拡大すれば、全員の取り分が増える。パイの大きさを変えずに切り分けるのではなく、パイそのものを大きくする。それがデパートの本質なのです」
レオポルトは、ここで初めて微かに笑みを浮かべた。
「数字が証明いたします、宰相殿。計画書をご精査いただければ、これが机上の空論でないことをお分かりいただけるかと存じます」
王は、資料に目を落としたまま、長い沈黙に沈んだ。
宰相も同様に、計画書の頁を繰りながら黙り込んでいる。
時間が止まったかのようだった。玉座の間に満ちる静寂が、レオポルトの全身を締め付ける。呼吸の音すら立てることが憚られるような、圧倒的な沈黙だった。
「……膨大な資料だ」
やがて、王がゆっくりと口を開いた。その声は独り言のようでもあり、宣言のようでもあった。
「これを精査するには、それなりの時間が要る」
「恐れ入ります、陛下」
「三日。三日の猶予をくれ。宰相と共に、一つ一つ検証する。急いで判断すべき事案ではない。……しかし、放置すべき事案でもないと、余は感じている」
その最後の一言に、レオポルトの心臓が跳ねた。否定ではない。むしろ、前向きな関心の表明だ。
「ありがたき幸せでございます、陛下。お時間をいただけるだけで十分でございます。ご検討の過程でご質問が生じましたら、どうかいつでもお呼びくださいませ。昼夜を問わず、駆けつける所存です」
「よい。下がれ」
王の短い一言で、謁見は終わった。
そして、四日目の朝が来た。
レオポルトは、夜明け前から目を覚ましていた。正確に言えば、ほとんど眠れていなかった。三日間、王宮からの連絡を待ち続けた夜は、いずれも長く、暗く、不安に満ちていた。
枕元の燭台に火を灯し、天井の木目を数えた。眠れない夜の過ごし方としては最も不毛なものだったが、それ以外にすることがなかった。
王宮からの使者が屋敷の門を叩いたのは、朝日が昇って間もない頃だった。
「陛下が、ヴァイスハルト男爵の登城を命じられました」
使者の声は事務的で、感情を読み取れない。承認なのか、却下なのか。その紙一枚からは何も判らぬまま、レオポルトは礼装に着替え、再び王宮へ向かった。
玉座の間は、前回と同じ配置だった。
しかし、王の表情は明らかに異なっていた。三日前にはどこか曖昧だった眼差しに、今は明確な決意が宿っている。その変化を目にした瞬間、レオポルトの鼓動が一段速くなった。
「ヴァイスハルト男爵」
王の声が、厳かに、玉座の間の隅々にまで響き渡った。
「余は三日三晩、そなたの計画書を精査した。宰相と共に、あらゆる角度から検討を加えた。数字の一つ一つ、設計の一画一画に至るまで目を通した。途中、幾度か疑問も生じた。宰相とも議論した。だが……」
王が一拍の間を置いた。その一拍が、レオポルトには永遠にも感じられた。
「……結論として、余はそなたの計画を正式に承認する」
その言葉が耳に届いた瞬間、レオポルトの全身を熱い波が駆け抜けた。心臓が大きく、力強く脈打つ。指先が微かに震え、視界が一瞬だけ滲んだ。
「陛下……まことに、ありがとうございます。この御恩は……」
「待て」
王の声が、鋭く引き締まった。
「承認には、条件がある」
レオポルトは姿勢を正し、王の言葉に全神経を集中させた。
「四半期ごとに進捗の報告を求める。工事の遅延、予算の超過、いかなる問題であっても、つまびらかに報告せよ。隠し事は一切許さぬ。余は裏切りを最も嫌う」
「もちろんでございます、陛下。透明性こそ、この事業の根幹と心得ております。四半期と言わず、毎月でもご報告申し上げます。進捗だけではなく、問題点も、課題も、全てを包み隠さず」
「さらに、宰相の推挙により、王室から監査官を一名派遣する」
宰相リヒテンシュタインが、ここで微かに頷いた。
「そなたの事業を監視するためではない。王室の出資分を適正に管理するためだ。出資者として当然の権利と考えよ。これは受け入れられるか」
「喜んでお受けいたします」
レオポルトは、迷いなく答えた。
「外部の目が入ることは、むしろ事業の信頼性を高めます。監査官殿には、全ての帳簿と記録を開示いたします。何一つ、閉ざされた場所はございません」
王は僅かに目を細めた。レオポルトの即答を、好意的に受け止めたようだった。
しかし、王の次の言葉は、喜びの中に重い覚悟を求めるものだった。
「だが、心せよ、ヴァイスハルト」
王の声が、一段低くなった。
「これは単なる商業施設の建設ではない。王国の未来を賭けた試金石だ。余がそなたを信じたということは、余の名誉をそなたに預けたということに等しい。もし、そなたがこの信を裏切るならば……王国全体が危うくなる。その責任の重さを、骨の髄まで理解しているか」
レオポルトは床に額を擦りつけるように深々と平伏した。冷たい大理石の感触が額に伝わり、身体の芯まで引き締まる。額から滴り落ちた汗が、白い石の上に小さな染みを作った。
「肝に銘じます、陛下。私の命に代えてでも、必ずや成功させてみせます。お預けいただいた信頼は、決して無駄にはいたしません。三年以内に、この王国で最も人々に愛される場所を建ててみせます。それが私の誓いです」
王が、静かに頷いた。
「よい。そなたの言葉を信ずる。今より、工事を進めよ」
そして王は、隣の宰相に視線を移した。
「宰相、付け加えることはあるか」
宰相リヒテンシュタインが、玉座の脇から一歩前に出た。痩身の体が、燭台の光に細い影を落としている。
「一つだけ」
宰相の声は、いつもの薄い笑みと共に発せられた。だが、その言葉の中身は、レオポルトの予想を超えるものだった。
「ヴァイスハルト男爵。税収に関する試算は、我々も独自に検証した。財務局の記録と照らし合わせ、三つの異なる計算方法で再試算を行った。結論として、そなたの数字は妥当……いや、やや控えめですらあると判断した」
レオポルトの目が見開かれた。宰相の口から「控えめ」という評価が出るとは、予想していなかった。
「もしこの仕組みが本当に機能すれば、王国の財政に根本的な改善をもたらす可能性がある。……男爵、私からも成功を期待しているとだけ、申し添えておこう」
「宰相殿のお言葉、身に余る光栄でございます。必ずや、数字以上の成果をお見せいたします」
その時、玉座の間の空気は、希望と重圧の双方で満たされていた。
レオポルトの背中には、王国の未来の重さがずしりとのしかかっている。だが同時に、彼の胸の内には、二度目の人生で初めて感じる、確かな手応えが灯っていた。
王の承認という絶対的な後ろ盾を得て、計画は順風満帆に進むかに思われた。
しかし、世の中というものは、一人の意志だけで動くほど単純にはできていない。
面白くない人間がいる。
王国の貴族社会に厳然と君臨する保守派の筆頭、ゲオルク・フォン・エッケルト伯爵。その男だ。
五十代後半、恰幅の良い体格に、常に苛立ちを湛えた小さな目を持つ伯爵は、レオポルトが自分より先に土地を確保したこと、そして何より、王がレオポルトに惜しみない信頼を与えたことに、激しい屈辱と怒りを感じていた。三十年。三十年もの間、王に仕え、汚れ仕事も厭わず、宮廷の権力闘争を生き抜いてきた自分が、昨日今日現れた成り上がりの男爵に出し抜かれたのだ。
その怒りは、やがて陰湿な妨害工作となって姿を現すことになる。
建設地の周辺では、すでに不穏な噂が広がり始めていた。エッケルト伯爵がこの事業に強く反対しているということ。そして、何らかの行動に出る可能性があるということ。商人街の酒場でも、建設現場の近隣でも、その噂は囁かれていた。
レオポルトはその情報を掴んだ時点で、エーリッヒに指示を出していた。
「信頼できる者たちを要所に配置しろ。建設現場、土地所有者の周辺、資材の調達ルート。あらゆる場所に目を光らせておくんだ」
「かしこまりました。具体的には、どの範囲までを監視対象といたしましょう」
「全てだ。とくに、ゲオルクの私兵の動きを注視してくれ。あの男は正攻法で負けた時、必ず裏の手に出る。第一周目でも、正面から勝てないと分かった途端、手段を選ばなくなった。今回も同じだろう。第一に警戒すべきは、フィッシャーさんへの圧力だ。あの方は高齢だし、身内が遠方にいる。つけ込まれやすい。土地の売買契約を無効にさせようとする可能性が、最も高いと見ている」
「フィッシャー氏の自宅周辺には、すでに二名を配置しております」
「さすがだな。先手を打ってくれていたか」
「旦那様のお考えを読んだのではなく、元密偵としての習性でございます」
エーリッヒの口元に、ごく僅かな笑みが浮かんだ。だが、すぐに表情を引き締め、躊躇いがちに言葉を継いだ。
「ただし、旦那様……一つ、懸念を申し上げてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「ご存知のこととは思いますが、エッケルト伯爵は王国内の力だけでは飽き足らぬかもしれません。外部勢力との結託も、視野に入れて警戒すべきではないかと」
レオポルトの眉が僅かに動いた。
「伯爵の性格から申しまして、国内での正面突破が困難と判断すれば、外部の力を借りることに一片の躊躇もないでしょう。あの方の忠誠心は、王国に対してではなく、御自身の地位に対して向けられているものと、私は見ております」
レオポルトは、その言葉の意味を瞬時に理解した。
ヴェルディア帝国。王国の東に位置する大国。政治的には独立を保っているものの、経済的な影響力は年々増しており、王国の商業界にも帝国の資本が静かに浸透し始めている。
「帝国か……」
低く呟き、レオポルトは腕を組んだ。
「確かに、可能性はある。いや、可能性どころか、蓋然性が高いと言うべきだろうな。ゲオルクとエドヴァルトが手を結ぶ。考え得る限り最悪の展開だが、十分にあり得る話だ」
「おっしゃる通りかと」
「あの二人の利害は見事に一致している。ゲオルクはデパートを潰したい。エドヴァルトは王国経済を帝国の影響下に置きたい。互いの目的を達成するために協力するのは、むしろ自然な成り行きだろう。政敵同士が共通の敵を前にして手を結ぶ……歴史上、幾度となく繰り返されてきた構図だ」
エーリッヒが頷き、さらに情報を付け加えた。
「南部の商会を経由して、帝国の商務使節団が王都に入っているという報告がございます。シュタイナーという名の通商参事官補佐が、王都の商人街を精力的に回っているとのこと。先日、旦那様が接触されたあの人物です」
「エドヴァルトか。やはり動いていたか」
エーリッヒの情報網の広さと精度に、レオポルトは改めて感服した。この男がいなければ、自分は暗闇の中を手探りで歩いているようなものだ。
「エーリッヒ、シュタイナーの行動をもう少し詳しく把握したい。どの商人と接触しているか、どのような話をしているか。可能な限り情報を集めてくれ。ただし、直接接触する必要はない。あくまで遠くから観察するだけでいい。相手に気づかれることだけは、絶対に避けろ。帝国の諜報員を甘く見てはならない」
「承知いたしました。港湾地区の情報提供者と、商人街の酒場の主人に当たってみます。シュタイナー氏は酒場で商人たちと頻繁に会食しているとの話ですので、そこから有益な情報が得られるかと」
「分かった。注視を続けよう。だが、今はまず現場の安全確保が最優先だ。エドヴァルトへの対応は、こちらの足場が固まってからでも遅くはない。足元を固めることが先決だ。順番を間違えるな」
「心得ております」
その翌日のことだった。
レオポルトとオスカーは、基礎工事の進捗を確認するために建設予定地を訪れた。
予定地は、王都の商人街と住宅地区の境界に位置している。かつてはヘルマン・フィッシャーという地主が所有していた平屋の住宅跡地で、今は更地となり、測量の杭が四方に打ち込まれていた。赤土が剥き出しになった地面には、朝露が光っている。周囲には仮設の柵が巡らされ、その内側では、すでに数名の職人たちが朝の準備に取りかかっていた。
「オスカー先生、基礎工事の進捗はいかがですか」
「魔導杭の打ち込みは予定通りだ。石灰岩層までの深度は事前調査の通り四メートルから五メートル。杭の固定状態も良好でな。このペースなら、基礎工事は三週間で完了する見込みだ」
オスカーは顎鬚を撫でながら答えた。日に焼けた顔には職人特有の精悍さがあり、眼鏡の奥の眼光は鋭い。だが、その表情にはどこか曇りがあった。
「……ただし、気になることがある」
「何でしょう」
「資材の搬入が、昨日あたりから少し遅れ気味なんだ。切り出し石の到着が予定より二時間遅れた。配送業者に問い質せば、道路事情のせいだと言うんだが……」
オスカーは首を振った。
「二時間は長すぎる。採石場からここまで、荷馬車でせいぜい半日の距離だぞ。道路事情だけで二時間も遅れるなど、通常はあり得ん。何か別の要因が絡んでいると考えるのが自然だ」
「……注視しておきましょう。偶然であることを祈りますが、偶然でない場合の備えも考えておく必要がありそうです」
現場の空気は、どこか張り詰めていた。秋の朝の冷気だけではない、別の種類の冷たさが漂っている。
その時だった。
朝日がまだ低い時刻。現場の片隅に、一人の老人が立ち尽くしているのをレオポルトは見つけた。
元の地主、ヘルマン・フィッシャー。八十に近い年齢でありながら、背筋は普段まっすぐに伸びている老人だったが、今朝の彼は違った。顔色は蝋のように白く、全身が小刻みに震えている。痩せた両手は、握りしめた杖の上で力なく揺れていた。
明らかに、恐怖に支配された人間の姿だった。
レオポルトは、その異変に気づいた瞬間、胸の奥に鋭い警告が走った。
「フィッシャーさん」
足早に駆け寄り、老人の肩にそっと手を置く。その肩は、骨ばって硬く、小さく、それでいて絶え間なく震えていた。
「おはようございます。どうされましたか。お顔の色がよくない……お体の具合でも悪いのですか」
フィッシャーは、レオポルトの顔を見上げた。
その瞬間、老人の目に涙が滲んだ。藁にもすがるように、レオポルトの腕を掴む。両手は氷のように冷たく、握力は弱いのに、離すまいとする必死さだけが伝わってきた。
「男爵様……昨夜のことです……。お伝えしなければと思いまして、朝一番に参りました……」
唇がわななき、言葉がうまく出てこないようだった。何度か深く息を吸い込み、それでも声は途切れ途切れにしか続かない。
「昨夜、エッケルト伯爵の使いと名乗る男たちが……三人でした。黒い外套を着た、目つきの鋭い男たちです。夜の十時過ぎ……もう床に就こうとしていた時分に、扉を激しく叩かれまして……」
レオポルトの背筋を、冷たいものが走り抜けた。予感が、現実に変わろうとしている。
「いったい何を……。フィッシャーさん、落ち着いてください。ゆっくりで構いません。何があったのか、全て聞かせてください。ここには味方しかおりません」
「『契約を破棄しろ』と……。『さもなくば、お前の孫たちの身に何が起きても知らんぞ』と、そう言われました……」
老人の声は、もはや泣いていた。皺だらけの頬を涙が伝い、白い顎鬚を濡らしている。言葉の端々に染みついた恐怖は、一晩経っても薄れるどころか、むしろ濃くなっているようだった。
「それだけではないのです。男たちのうちの一人が……娘の住んでいる村の名前を、正確に言い当てました」
レオポルトの拳が、知らず知らずのうちに握りしめられていた。
「『リンデンドルフの、通りから三軒目の家だな。可愛い孫が二人、上の子は今年で六つになるか』と……。まるで全て知っているかのように、にやにやと笑いながら……。あの笑い方が……あの男の顔が、目を閉じると浮かんでくるのです……」
「娘さんの住所まで調べ上げていたのですか……。なんという卑劣な……」
レオポルトの声が、低く、硬く変わった。怒りが腹の底から込み上げてくるのを、彼は懸命に抑えていた。ここで感情を爆発させれば、フィッシャーをさらに不安にさせてしまう。
「私には、遠くの村に嫁いだ娘がおります……」
フィッシャーは震える声で続けた。
「マルガレーテという名の……優しい子です。その娘のところに、可愛い孫が二人……。あの子たちに何かあったら……男爵様、私はどうすればよいのでしょう。契約を破棄した方がよいのでしょうか。孫たちの安全には代えられません……。でも、男爵様との約束を破るのは……。私は……私は……」
言葉が途切れ、老人は声を失った。両眼から止めどなく涙が溢れ、頬を伝って地面に落ちていく。
その様子を見ていたオスカーが、怒りに顔色を変えた。温厚な老職人の表情が、一瞬にして激怒のそれに変わる。
「卑劣極まりない所業だ!」
オスカーの太い声が、朝の現場に響いた。
「王の承認を得た事業に対して脅迫を仕掛けるとは、人としての一線を越えている。貴族だろうが伯爵だろうが、脅迫は脅迫だ。王国法典に照らしても、厳罰に処されるべき犯罪行為だぞ。老人の孫を人質に取るなど……恥を知れと言いたい」
「オスカー先生、お気持ちは痛いほど分かります」
レオポルトは、自分自身の怒りを奥歯で噛み殺しながら答えた。
「しかし、今はまずフィッシャーさんの安全を確保することが最優先です。怒りは後回しにさせてください」
そう言って、フィッシャーの正面に回り込んだ。老人の細い両肩を、しっかりと、しかし優しく掴む。
「フィッシャーさん、よく聞いてください」
彼は努めて冷静に、だが芯に力を込めて言った。老人の揺れる瞳を、真っ直ぐに見据える。
「ご安心ください。あなたのご家族には、指一本たりとも触れさせません。それは私が保証する。私の名にかけて、です。契約を破棄する必要はありません。あなたは正しいことをしてくださった。そして今度は、私がその正しさを守ります。それが私の責任であり、義務です」
「しかし男爵様……もし本当に娘や孫たちの身に何かあったら……」
「何もさせません。今すぐ手を打ちます」
レオポルトの声には、有無を言わせぬ確信が満ちていた。
「フィッシャーさん、娘さんのお名前と、リンデンドルフの正確な住所を教えていただけますか」
「娘はマルガレーテと申します……。嫁ぎ先はシュミット家です。リンデンドルフの南通り、教会の裏手にある赤い屋根の家でして……」
「分かりました。マルガレーテ・シュミットさん。リンデンドルフ南通り、教会裏手の赤い屋根の家ですね」
レオポルトは振り返った。
「エーリッヒ」
影のように控えていた執事が、即座に一歩前に出た。その素早さは、最初から全てを聞き取り、頭の中で行動計画を組み立てていたことを如実に物語っている。
「はっ。すでに聞き取っております。マルガレーテ・シュミット氏。リンデンドルフ南通り、教会裏手の赤い屋根の家」
「すぐに信頼できる者を村へ向かわせろ。二十四時間体制での警護だ。何があっても、ご家族の安全は絶対に守れ。リンデンドルフまでの距離は」
「馬で半日でございます。旦那様の屋敷に待機させておりました者たちを今すぐ出発させれば、日没前には到着いたします」
「急いでくれ。護衛は最低でも四名。武装させろ。そして、マルガレーテさんには事情を説明し、必要であれば一時的に安全な場所への移動も手配してくれ。判断は現地の護衛に任せて構わない。状況を見て最善の措置を取るよう伝えてくれ」
「承知いたしました。直ちに手配いたします。加えて、リンデンドルフの村長にも連絡を取り、不審者の監視を依頼いたします。村の出入り口にも目を配らせ、万全の態勢を敷きましょう」
「それからエーリッヒ、フィッシャーさんご自身の安全も確保しなければならない。自宅の警護を二名から四名に増員だ。昼夜問わず、交代制で常時二名が起きている態勢にしてくれ」
「かしこまりました。本日中に、全て手配をお引き受けいたします」
エーリッヒの返答は、一切の淀みがなかった。おそらく、彼の頭の中では、フィッシャーが口を開いた時点で人員配置と移動ルートの計算が始まっていたのだろう。
レオポルトはフィッシャーに向き直った。
「フィッシャーさん、お聞きになりましたね。今日中に、娘さんのところに護衛を送ります。そしてあなたのお住まいにも、警護の者をつけます。伯爵の手下どもは、もう二度とあなたの扉を叩くことはできません」
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
フィッシャーはその場に崩れ落ちそうになりながら、何度も何度も頭を下げた。枯れ木のような身体が、今度は別の理由で震えている。
「男爵様、本当に……こんな老いぼれのために、そこまでしていただけるとは……。女房が生きていたら、きっと泣いて喜んだでしょう。いえ、今泣いておるのは私のほうですな……ははは……」
笑おうとして、しかし笑いきれず、再び涙が溢れた。
レオポルトは老人の両肩に手を置き、その震えが収まるまでじっと待った。それから、穏やかに、だが力強く語りかけた。
「あなたは、私を信じて大切な土地を託してくださった。あの夜、玄関先で握手を交わした時のことを、私は忘れておりません。今度は、私があなたをお守りする番です。その約束を守ることが、私にとって最も大切な責務なのです」
フィッシャーは、涙に濡れた目でレオポルトを見上げた。
「デパートが完成した日には、あなたを最前列にお招きすると申し上げましたね。あの約束は必ず果たします。その日を迎えるまで、あなたにもご家族にも、何一つ不幸なことは起こさせません。それが私の誓いです」
「男爵様……」
フィッシャーの声が、震えながらも、確かなものに変わっていった。
「あなたは本当に……あの夜おっしゃった通りのお方だ。信じてよかった。心の底から、そう思います。この老いぼれの目に、狂いはなかった……」
傍らのオスカーが、フィッシャーの痩せた背中をゆっくりと撫でながら口を開いた。その声は、先ほどの激怒とは打って変わり、穏やかで温かい。
「フィッシャーさん、安心しなさい。この若いのは口先だけの男じゃない。私がこの目で保証するよ。六十年以上、人を見てきた目だ。それなりに確かなつもりでいる」
オスカーの皺だらけの顔に、柔和な笑みが浮かんだ。
「それにな、あんたの土地の上に五階建ての建物を建てる変わり者の爺さんが、ここにいる。あんたの孫たちが大きくなった時に、『おじいちゃんの土地に、すごい建物が建ったんだよ』って、胸を張って言えるようにしてみせるからな。その約束は、設計図に署名した時から変わっちゃいない」
「オスカーさん……」
フィッシャーの目から、涙がとめどなく流れていた。だが、その涙の質は、もう先ほどとは違っていた。恐怖が、少しずつ、感謝と安堵へと変わりつつあるのを、レオポルトは確かに感じ取っていた。
「皆さんに守っていただけるとは……こんな幸せなことが、この歳になってあるとは思いませんでした……」
しかし、妨害はそれだけでは終わらなかった。
むしろ、より組織的で、より陰湿なものへと姿を変えていったのである。
建設現場では、オスカーの指揮の下、五十名ほどの職人たちが集まり、基礎工事が着々と進められていた。石を運び、土を掘り、地盤を固める。本来であれば、活気ある掛け声と槌音が絶え間なく響き渡るはずの現場に、いつしか不穏な空気が忍び寄り始めていた。
最初の異変は、些細なものだった。
資材の搬入が遅れるようになった。朝一番に届くはずの切り出し石が、昼を過ぎても現場に届かない。配送業者に問い合わせれば、「街道の状態が悪くて」「荷馬の一頭が蹄を痛めまして」といった言い訳が返ってくるだけだ。
次に、道具が壊れ始めた。
頑丈なはずの鶴嘴が、使い始めて数回で折れた。槌の柄が真ん中から砕け、足場を支える縄が不自然な箇所で切れた。最初は単なる経年劣化かと思われたが、それにしては頻度が高すぎる。明らかに人の手が加わったものだった。
そして、職人たちの欠勤が目立つようになった。
理由もなく、一人、また一人と現場に姿を見せなくなる。朝、仕事に向かうはずだった職人が、夜中に路地裏で何者かに殴られたという話も、酒場の噂として聞こえてきた。
もはや偶然で片付けられる段階ではない。明らかに、組織的な妨害工作だ。
オスカーは苛立ちを隠そうともせず、現場の隅でレオポルトに吐き捨てるように言った。眼鏡の奥の眼差しには、怒りと深い懸念が混在している。
「このままでは工期に間に合わんぞ。資材の遅延だけならまだ何とかなる。予備の調達先を当たるなり、工程を入れ替えるなりの対処はできる。だがな、道具まで細工されるのは話が別だ」
「細工、ですか。確信がおありで」
「ある。鶴嘴の折れ方を、俺はこの目で確かめた。あれは自然に折れたのではない。柄の付け根に、髪の毛ほどの細い切り込みが入れてあった。外からは見えん。だが、力を加えれば必ずそこから折れるように仕組まれている。プロの仕業だよ。素人の嫌がらせとは次元が違う。計画的で、組織的な妨害だ」
オスカーは忌々しげに眼鏡を押し上げた。
「しかも、職人たちの士気が落ちている。昨日も二人が無断欠勤した。理由を聞けば『家族が心配だから』と言う。……何者かが裏で糸を引いて、職人たちの家族を脅しているのは、もはや明白だろう」
レオポルトは深く頷いた。
「ええ。私も同じ結論に達しています。しかし、先生。より深刻な問題が一つあるのです」
「何だ」
「内部にも、手引きをしている者がいるということです」
オスカーの眉が、ぴくりと動いた。
「外部からの妨害だけでは、ここまで組織的に行動することは不可能です。道具への細工は、夜間に現場へ侵入しなければできない。しかし、現場には夜間の見回りを配置してあります。つまり、見回りの巡回ルートと時間帯を把握している人間……内部の者の協力がなければ、実行は極めて困難なはずなのです」
「……くそっ」
オスカーが低く唸った。拳を握りしめ、こめかみに青筋が浮かんでいる。
「俺の現場で、そんなことが行われていたとは。許しがたい。……だが、お前の言う通りだ。外の人間が夜の現場に忍び込めるのは、巡回ルートを知っている者の手引きがなければ不可能だ。俺の職人たちの中に裏切り者がいるということか」
「先生、お気持ちはよく分かります。しかし、ここで性急に動けば、現場全体の信頼関係が壊れます」
レオポルトは声を落とし、オスカーだけに聞こえるように言った。
「私には……その失敗の記憶があるのです。犯人を吊るし上げるやり方は、一時的には問題を解決したように見える。しかし長期的には、現場そのものを蝕んでいく。疑心暗鬼という毒は、どんな妨害工作よりもはるかに恐ろしい。一度広がったら、取り除くのに途方もない時間がかかるのです」
オスカーは、レオポルトの目を数秒間じっと見つめた。この若者の言葉の奥にある、実体験に基づく重みを感じ取ったのだろう。やがて、大きく息を吐いた。
「……何か策があるのか」
「あります。ただし、まずは相手を特定しなければ何も始まりません」
その夜、レオポルトは書斎にエーリッヒを呼んだ。
蝋燭の灯りだけが揺れる薄暗い部屋で、二人は向かい合った。
「現場の職人たちの中に、伯爵側の間者がいるはずだ。徹底的に洗い出してくれ。ただし、極秘裏にだ。他の職人たちに悟られてはならない。疑心暗鬼が蔓延すれば、ゲオルクの思う壺になる」
「かしこまりました。私の情報網を総動員いたします」
エーリッヒは一瞬の迷いもなく頷いた。
「具体的には、まず全職人の給与明細と生活水準を照合いたします。数ヶ月分の給料に相当する報酬を外部から受け取っている者がいれば、日々の暮らしに何らかの変化が現れているはずです。急に飲み屋通いが増えた、新しい衣服を身につけている、以前から抱えていた借金を突然返済した……そういった兆候を一つ一つ洗い出します」
「それだけで十分か」
「いいえ。加えて、職人たちの夜間の行動も追います。妨害工作が夜間に行われている以上、協力者は夜に何らかの不審な動きを見せているはずです。深夜の外出、人目を避けた密会、見知らぬ人物との接触……そうした行動を一つも漏らさず捕捉いたします」
エーリッヒは、さらに付け加えた。
「並行して、エッケルト伯爵の私兵の動きも追跡します。報酬の受け渡し現場を直接押さえることができれば、動かぬ証拠となります。物的な証拠があれば、万が一の事態にも対処が可能です」
「完璧だ。頼むぞ、エーリッヒ」
「お任せください」
エーリッヒが一礼しかけた時、ふと足を止めた。
「……旦那様、一つだけ。特定した後の対処方針を、あらかじめ伺っておきたいのですが」
「処罰はしない」
レオポルトの答えは、即座だった。
「……と、仰いますと」
エーリッヒの表情に、微かな驚きが走った。
「彼らは、金に困った庶民だ。目の前に数ヶ月分の給料に相当する大金を積まれれば、心が揺らぐのは当然のことだろう。処罰すれば、他の職人たちが怯える。怯えた人間は良い仕事をしない。顔色を窺いながら槌を振るう職人に、まともな建物が建てられると思うか。……俺がやりたいのは、彼らを敵に回すことじゃない。味方に引き込むことだ」
「……旦那様の度量の深さには、率直に申し上げて、感服いたします」
エーリッヒの言葉には、形式的な追従ではない、本心からの敬意が滲んでいた。
「承知いたしました。その方針で進めます」
エーリッヒは王都の裏社会に張り巡らされた情報網を駆使し、その夜から直ちに調査を開始した。
酒場の給仕、路地裏の靴磨き、夜警の交代要員。彼が長年かけて築き上げた人脈は、表社会からは見えない場所に根を張っている。金銭の授受、不審な夜間の外出、何気ない会話の中に見え隠れする動揺。それらの断片を丹念に拾い集め、一つの像を描き出していく作業は、かつて王宮で密偵として鳴らした彼の独壇場だった。
わずか二日で、真相は浮かび上がった。
その夜、書斎に現れたエーリッヒは、静かに、しかし確信に満ちた声で報告した。
「特定いたしました。現場の職人のうち、三名でございます。いずれも、エッケルト伯爵の私兵から直接金銭を受け取っている現場を、複数の情報源から確認いたしました」
レオポルトは三名の名前を聞いた。石工のヨハン、木工のフリッツ、土木作業員のクラウス。
「やはり、か」
静かに呟き、目を閉じた。予想はしていた。だが、予想していたことと、それが現実になることは、まるで別の感情を伴う。
「詳細を聞かせてくれ。一人ずつ、背景も含めて全てだ」
「エッケルト伯爵の私兵から、三名それぞれに五十ターレルの報酬が渡されております。指示内容は、資材搬入ルートへの妨害、道具への細工、そして他の職人たちへのサボタージュの扇動。この三点でございます」
五十ターレル。
職人の数ヶ月分の給料に相当する大金だ。毎日の食事にも事欠く貧困層にとっては、命と引き換えにしてもおかしくない金額である。
「三名の背景について申し上げます」
エーリッヒは手元の紙片に目を落とすことなく、記憶だけで淀みなく語った。
「石工のヨハンは四十二歳。妻と三人の娘がおりますが、末の娘が重い肺の病を患っており、薬代が嵩んでいるとのこと。薬は南部から取り寄せる高価なもので、月々の負担は相当なものだと推察されます」
「……続けてくれ」
「木工のフリッツは三十五歳。昨年、妻を流行り病で亡くし、幼い息子二人を男手一つで育てています。生活は困窮しており、家賃の滞納も三ヶ月に及んでいるとか。加えて、妻の葬儀費用の借金も残っている状況です」
「三人目は」
「土木作業員のクラウスは二十八歳。母親が数年前から寝たきりの状態にあり、介護費用が重くのしかかっております。近隣の住人の話では、クラウスは夜明け前に母の世話をしてから現場に出て、日没後にまた母の元に戻る生活を続けているとのことです」
レオポルトは深く息を吐き出し、天井を仰いだ。
薄暗い天井の木目が、蝋燭の灯りにぼんやりと浮かんでいる。
「……全員が、金に困っている。家族を守るために、やむを得ず手を染めた」
「左様でございます。いずれも、根っからの悪人ではないように見受けられます。むしろ……追い詰められた善人が、藁にもすがる思いで差し出された手に飛びついた。そういう構図かと」
レオポルトの脳裏に、第一周目の記憶が鮮明に蘇った。
あの時も、同じような妨害があった。同じように、職人の中に間者がいた。若く、短気で、正義感だけは人一倍強かった自分は、裏切り者を即座に捕らえ、全員の前で公開解雇した。「裏切り行為は絶対に許さない」という明確なメッセージを送ったつもりだった。
だが、結果は正反対だった。
「次は自分が疑われるかもしれない」という恐怖が、瞬く間に現場全体に蔓延した。職人たちは互いを疑い、協力は消え、信頼関係は音を立てて瓦解した。工事の遅延は取り返しがつかないところまで膨らみ、最終的にはプロジェクトそのものが潰えた。
疑心暗鬼という毒に、現場は殺されたのだ。
今回は、違う道を選ぶ。
何としても。
「……ヨハンの娘の薬代。フリッツの育児費用。クラウスの介護費用。それぞれ、月にいくらかかっているか把握しているか」
「はい。ヨハンの娘の薬代が月に約八ターレル。フリッツの生活費と借金返済で月に約十二ターレル。クラウスの介護費用が月に約六ターレルでございます」
「合計で月に二十六ターレル……。デパートの福利厚生費として、これを賄うことは可能か」
エーリッヒが、僅かに目を見開いた。
「旦那様、それは……。彼らを処罰するのではなく、むしろ待遇を改善なさるということでしょうか」
「そうだ」
レオポルトは椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。夜の王都が、窓の向こうに広がっている。遠くの灯りが、闇の中に点々と揺れていた。
「彼らが裏切りに手を染めた根本の原因は、貧困だ。伯爵からの金を断ち切ったところで、貧困が解消されなければ、遅かれ早かれ同じことが起きる。別の誰かが金を積めば、別の誰かが手を出す。根を断たなければ、意味がないんだ」
「……」
「明日の朝、職人全員を集めてくれ。現場の広場でいい」
「かしこまりました。ただし……」
エーリッヒが慎重に言葉を選んだ。
「旦那様は、全員の前で何をなさるおつもりでしょうか。三名を名指しで糾弾されるのですか」
「いや。それはしない」
「では」
「全員に真実を伝える。そして、新しい選択肢を差し出す。処罰ではなく、赦し。それが今回の俺のやり方だ」
「旦那様……」
エーリッヒの声が、僅かに揺れた。長年、この主人に仕えてきた中でも、この瞬間の判断には特別な何かを感じたのだろう。
「第一周目では、異なる対応をされたのでございますか」
レオポルトは一瞬、言葉に詰まった。窓の外の闇を見つめたまま、やがて静かに答える。
「……ああ。前は……いや、過去に似たような状況を経験した時は、裏切り者を見せしめにした。皆の前で罪を暴き、追放した。その場は収まったように見えた。だが、現場は恐怖に支配され、信頼は跡形もなく崩壊した。俺はあの時、正しいことをしたつもりでいた。だが、正しさだけでは人は動かないんだ。同じ過ちは、二度と繰り返さない。人は恐怖では動かない。信頼で動くんだ。……それを学ぶのに、俺は一度、全てを失わなければならなかった」
エーリッヒの表情に、一瞬の戸惑いが浮かんだ。
レオポルトの言葉の端々に滲む、この世界の時間軸では説明のつかない重みを、彼はずっと前から感じ取っていたのかもしれない。しかし、問い詰めることはしなかった。レオポルトの眼差しに映る決意を読み取り、静かに頷く。何度も共に行動してきた二人の間には、言葉にせずとも通じ合う信頼があった。
「承知いたしました。旦那様のお考えに従います。朝の集会の準備を整えておきましょう」
翌朝。
建設現場の広場に、五十名の職人たちが集められた。
石工、木工、鍛冶職人、土木作業員。泥と汗にまみれた彼らの顔には、一様に不安と緊張が浮かんでいた。なぜ全員が朝一番に集められたのか。何か悪い知らせがあるのか。誰かが首になるのか。そういった懸念が、現場の空気を鉛のように重くしていた。
朝日はまだ低く、王都の街並みに長い影を落としている。職人たちの吐く息が白く、秋の冷気が露出した肌を刺していた。
レオポルトは、彼らの前に立った。
その右手の少し後ろに、険しい表情のオスカー。さらにその後方に、無表情のエーリッヒが控えている。三者三様の佇まいが、事態の重さを無言で物語っていた。
「朝早くから集まってくれて、ありがとう」
レオポルトの声は、静かだがよく通った。怒りでも威圧でもない。ただ、真剣さだけが、その声音にはっきりと宿っている。
「皆の貴重な作業時間を割いてもらっている。できるだけ手短に話す。だが、大事な話だ。最後まで聞いてほしい」
職人たちの間に、ざわめきが走った。隣同士で目配せをする者、腕を組む者、落ち着かなげに足踏みをする者。
「単刀直入に言おう」
レオポルトは一呼吸置いた。
朝の冷たい空気を、深く吸い込む。
「この中に、外部から金を受け取り、この工事を妨害している者がいることは、既に分かっている」
一瞬の沈黙の後、職人たちの間にどよめきが広がった。
「おい、まさか……」
「誰だよ、そんなことしたのは」
「俺じゃねえぞ、断じて」
「嘘だろ……本当に仲間の中にいるのか」
隣の人間を疑うような視線が飛び交い始め、現場の空気が一気に張り詰める。
レオポルトは、そのざわめきが収まるのを待ってから、静かに続けた。
「落ち着いて聞いてくれ。名前を挙げるつもりはないし、指を差すつもりもない」
その言葉に、職人たちの動きが止まった。
買収された三名の顔から、刻々と血の気が引いていくのを、レオポルトは視界の端で捉えていた。ヨハンの握り拳が固く閉じられ、拳の関節が白くなっている。フリッツは地面を凝視したまま顔を上げようとしない。クラウスの額には、秋の朝だというのにびっしょりと汗が浮いていた。
「だが」
レオポルトは、声を一段張った。
その言葉は、現場全体に響き渡った。
「私は、犯人捜しをするつもりも、誰かを処罰するつもりも、一切ない」
現場が、水を打ったように静まり返った。
職人たちは、自分の耳を疑ったように、口を半開きにして立ち尽くしている。
「処罰しないって……嘘だろ」
「普通はクビだろ、こんなの。下手すりゃ牢屋だぞ」
「何を考えてんだ、男爵様は……」
レオポルトは、ゆっくりと歩き始めた。職人たちの列の前を、一歩一歩、踏みしめるように行き来する。一人一人の顔を見つめながら。
「あなたたちにも、それぞれの生活がある。毎晩、腹を空かせた子供たちが待つ家がある。朝も夜もなく働いて、それでも足りない。薬代が払えない。家賃が滞る。借金が膨らんでいく。……そんな暮らしの中で、目の前に数ヶ月分の給料に相当する大金を積まれたら、心が揺らぐのは人間として当然のことだ」
レオポルトの声が、わずかに震えた。それは演技ではない。彼自身の感情が、言葉に滲み出ているのだ。
「家族のために金が必要な時に、『これで娘の薬が買える』『これで子供に飯を食わせてやれる』……そう思って手を伸ばしてしまうのは、弱さではない。それは愛情だ。俺はそう思う」
職人たちの間から、すすり泣きのような音が漏れ始めた。
「家族のため、明日の食事のために、道を踏み外してしまうことはある。それは誰の身にも起こり得ることだ。……俺は、そういった過ちを責めない。なぜなら、その過ちを犯させた本当の原因は、あなたたちの中にはないからだ」
レオポルトは足を止め、全員を見渡した。
「原因は、貧困だ。そして貧困を生み出しているのは、この国の仕組みそのものだ。その仕組みを変えるために、俺はデパートを建てる。つまり……あなたたちを追い詰めた原因そのものを、俺はぶち壊そうとしている。その同志を、俺が処罰するわけがないだろう」
沈黙が、現場を支配した。
誰も動かない。誰も声を発しない。
レオポルトの言葉が、職人たち一人一人の胸の奥に、静かに、深く染み込んでいくのが分かった。
「ただ一つだけ、約束してほしい」
レオポルトは、買収された三名に視線を向けた。
それは糾弾の目ではなかった。怒りでも軽蔑でもない。ただ、信じたいという気持ちと、信じるに足る力を与えたいという祈りのような眼差しだった。
「今この瞬間から、誠実に働いてくれ。過去は問わない。昨日までのことは、もう終わったことだ。これから一緒に作るデパートのために、その腕を貸してくれ。それだけでいい」
レオポルトは一呼吸置いた。
「そしてもう一つ、俺からも約束する。あなたたちの家族が抱えている困りごとは、この事業の中で解決する。病気の家族がいるなら、治療費を福利厚生として支援する。育児に困っているなら、支援の仕組みを設ける。介護の負担を一人で背負っているなら、その重荷を分かち合う方法を考える。あなたたちが安心して働ける環境を作ること。それが、雇い主である俺の仕事だ」
長い沈黙が続いた。
現場全体が、息を呑んでいた。
誰もが、この言葉の意味を、自分の中で咀嚼しようとしていた。
やがて。
人混みの中から、一人の男がよろめくように前に出た。四十代のがっしりとした体格の石工。買収されていた三名のうちの一人、ヨハンである。
彼はレオポルトの前に崩れるように跪くと、土にまみれた額を地面に押しつけた。
「……申し訳、ございません……!」
男の声は涙で歪み、嗚咽に途切れた。
「娘が……末の娘が重い肺の病にかかっちまって……薬代が払えなくて……。伯爵の手下に声をかけられた時、断らなきゃいけないって分かってたんです。分かってたのに……金を見たら、手が勝手に……。男爵様がこんなにも俺たちのことを考えてくださってるのに、俺は……俺は裏切っちまった……。どんな罰でも受けます。殴ってくださっても構いません。ただ、娘だけは……娘の薬だけは……」
「ヨハン」
レオポルトの声は穏やかだった。
「娘さんの名前は」
「……アンナです。今年で、八つになります……」
「アンナちゃんの治療費は、明日から私が負担する」
ヨハンの頭が、弾かれたように持ち上がった。信じられないという表情で、レオポルトを見上げている。
「これは処罰の代わりではないよ、ヨハン。デパートで働く者全員に適用する福利厚生制度の、最初の適用者になってもらうだけだ。制度の第一号だ。誇りに思ってくれていい。……お前の娘は、必ず元気になる」
その言葉に背中を押されるように、残りの二人も前に出た。
フリッツが膝を折り、土下座した。
「許してください……。俺には小さい息子が二人いて、女房を去年亡くしたばかりで……一人で育てるのに、金がどうしても足りなくて……。男爵様の仕事を妨害するなんて、人として最低のことをしてしまいました。自分が情けない……恥ずかしくて、顔も上げられません……」
「フリッツ。お前の子供たちのことも、面倒を見る。一人で全てを背負い込む必要はないんだ。頼れる場所を作る。それがデパートの役割であり、俺が目指すものだ」
クラウスも這うようにして前に出た。
「二度としません……。これからは死ぬ気で働きます。母の介護が重くて……でもそれは言い訳にもなりません。伯爵の手下が金を差し出してきた時、断る勇気がなかった自分が、何より情けない……」
「クラウス。お前の母上の介護費用も支援する。お前が安心して働けるようにする。それが俺の約束だ」
レオポルトは三人の前に進み出ると、一人ずつ、肩に手を置いて立たせた。
「顔を上げてくれ。三人とも」
優しく、だが有無を言わさぬ声で促す。
「期待しているよ。お前たちは優秀な職人だ。その腕があるからこそ、伯爵の手下はお前たちに目をつけた。腕のない人間を買収しても意味がないからな。……悪いのはお前たちじゃない。お前たちを追い詰めた状況だ。さあ、立て。今日から、新しく始めよう」
その光景を見ていた他の職人たちから、様々な声が上がった。
「男爵様は……俺たちを信じてくれたんだ」
「罪を憎んで人を憎まずってのは、こういうことなのか……。すげえ度量だ」
「貴族にもこんな人がいるんだな。初めて見たよ、こういう上の人間は」
「おい、俺たちも負けてらんねえぞ。男爵様の期待に応えようぜ」
「ああ。こんな上に立つ人間、見たことねえ。男爵様のためなら、倍働ける」
「俺もだ。今日から残業でも徹夜でもやってやる」
「遅れた分を取り戻すぞ。ここで意地を見せなくてどうする」
現場の空気が、目に見えて一変した。
ほんの数分前まで漂っていた疑心暗鬼と倦怠感は跡形もなく消え去り、代わりに熱気と結束力が場を満たしている。職人たちの眼差しに、新たな決意が宿っていた。
レオポルトのために働く。この男が目指す未来を、自分たちの手で形にする。その思いが、五十人の心を一つに束ねたのだ。
少し離れた場所で、オスカーはレオポルトの背中を黙って見つめていた。
やがて、満足そうに口ひげの先を指先で撫でる。その顔には、隠しようのない笑みが浮かんでいた。
「……やるじゃないか、若造」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「人の心を掴むのが上手くなった……いや、違うな。上手くなったんじゃない。最初から持っていたんだ、この若者は。人を信じる力を。それは設計図では描けないものだ。計算では導けない。……十五年前の俺にも、こういう人間が上にいてくれたなら、あの悲劇は起きなかったかもしれん……」
「先生、何かおっしゃいましたか」
振り返ったレオポルトに、オスカーは片手を振って答えた。
「いや、独り言だ。気にするな。……おい、お前たち!」
オスカーは職人たちに向き直り、腹の底から声を張り上げた。その声は、現場の隅々にまで轟いた。
「感動してる暇はないぞ! 遅れた分を取り戻すんだ。今日の目標は魔導杭の打設十二本。一本でも足りなかったら承知しないからな。手を止めるんじゃない、さあ動け!」
「「「はいっ!」」」
五十人の声が、朝の空に向かって一斉に響き渡った。
その声を聞きながら、オスカーは再びレオポルトの背中を見つめた。
十五年前の記憶が、一瞬だけ胸をよぎった。だが、彼はそれを振り払うように目を細め、設計図の筒を手に取って現場へと歩き出した。
だが、ゲオルク・フォン・エッケルト伯爵は、それで終わる男ではなかった。
現場での妨害が無力化されたと知るや、彼は即座に戦いの場を移した。陰の工作から、表舞台の政治闘争へ。正面からの強攻策に転じたのである。
その数日後、レオポルトの屋敷に王宮からの使者が訪れた。
「陛下が、ヴァイスハルト男爵の緊急登城をお求めでございます」
使者の声は事務的だったが、「緊急」という言葉が、レオポルトの胸に小さな棘を刺した。あまりに唐突な呼び出しだ。
「エーリッヒ、この呼び出しの背景を読めるか」
「おそらく、エッケルト伯爵が陛下に直訴されたものと推察いたします。伯爵は先日の現場妨害の失敗を受けて、戦略を転換されたのでしょう。現場での陰の工作から、王宮での政治工作へ。予測されていた展開ではありますが、思ったよりも早い動きでございます」
「ああ。ゲオルクは実力行使で失敗すると、必ず政治力に訴える。第一周目でも同じ順序を踏んだ。パターンは変わらない。……だが今回は、俺にも備えがある。王と宰相の信頼を、あの計画書ですでに勝ち取っている。ゲオルクの感情論だけでは、それを覆すことはできないはずだ」
「旦那様、一つだけ申し上げてよろしいでしょうか」
エーリッヒが、レオポルトの礼装の襟元を整えながら言った。
「王の御前では、決して感情をお見せにならないでください。伯爵が激昂すればするほど、旦那様は冷静でいらしてください。二人の対比そのものが、旦那様の説得力を何倍にも高めます。怒鳴る人間と、静かに論じる人間。王がどちらの言葉に耳を傾けるかは、自明のことでございます」
「分かっている。……行くぞ」
王宮への道中、レオポルトは馬車の窓から街並みを眺めながら、頭の中で論点を整理していた。
王宮への登城は、前回よりも警備が厳しくなっているように感じられた。衛兵の数が増えている。何かが起ころうとしている予兆が、城壁に囲まれた空間全体に漂っていた。
玉座の間の扉が、重々しく開かれた。
玉座には国王アルフレート三世。その脇に、宰相リヒテンシュタイン。
そして、玉座の前の空間で、真っ赤な顔で拳を震わせているゲオルク・フォン・エッケルト伯爵の姿があった。恰幅のよい身体が怒りで膨張したかのように見え、額には青筋が浮いている。その表情には怒りと屈辱が深く刻み込まれ、もはや理性の制御を失いかけているのが一目で分かった。
レオポルトが跪こうとした瞬間、ゲオルクが先手を打った。
「陛下!」
唾を飛ばしながらの絶叫だった。その声量は、玉座の間の高い天井に反射し、何重にも響いた。
「これは由々しき事態でございます! この若造……いえ、このヴァイスハルトの計画は、王国の秩序を根底から覆す危険思想に他なりません! 民衆に過度な権利を与え、商人風情と結託して貴族の権威を失墜させるなど、愚行の極みでございます。即刻、この事業は中止されるべきです!」
ゲオルクは一息も入れずに続けた。
「陛下、どうかお耳をお傾けくださいませ。この男は巧みな弁舌で陛下を惑わしておるのです。数字と論理の仮面の下に、危険な野心を隠し持っている。私はこの目で、この耳で、三十年にわたり王国の安寧を守ってまいりました。その経験がはっきりと警告しております。この計画は、王国に災いをもたらすと!」
ゲオルクの言葉は、もはや政治的な異議ではなかった。個人的な恨みと、追い詰められた者特有の焦燥が、むき出しになっている。
「ゲオルクよ。声を落とせ」
王が静かに、しかし威厳を込めて制した。
「ここは玉座の間だ。礼節を忘れるな」
「も、申し訳ございません、陛下……。しかし、これは王国の存亡に関わる重大事にございますれば……」
「お前の懸念は聞いた。理解した」
王はゲオルクを片手で制し、視線をレオポルトに移した。
「ヴァイスハルト男爵。反論はあるか」
レオポルトは静かに一礼し、ゆっくりと顔を上げた。心臓は激しく打っているが、表情にはそれを微塵も表さない。エーリッヒの助言が、今この瞬間のためにあったのだ。
「陛下、反論をお許しくださいませ」
王が重々しく頷いた。その視線の奥には、レオポルトへの信頼がまだ確かに残っていた。
「申してみよ」
レオポルトは深く息を吸い、言葉を選んだ。一語たりとも無駄にはできない。王の前での弁論は、戦場での剣戟に等しい。
「エッケルト伯爵は『秩序の崩壊』を懸念されておいでですが、それは誤解に基づくものと申し上げなければなりません。私が目指しているのは、秩序の崩壊ではございません。秩序の再構築です」
ゲオルクの目が、怒りに燃えた。
「現在の秩序が永遠に続くという前提そのものが、歴史的に見れば誤りでございます。社会は生き物と同じように変化する。変化を拒み、現状にしがみつけば、やがて内部に溜まった歪みが一気に噴き出す。私が提案しているのは、その歪みを……暴発する前に、穏やかに解消する仕組みなのです」
「詭弁を弄するな!」
ゲオルクが声を荒げた。
「秩序というものは、変えてはならぬからこそ秩序と呼ぶのだ! それを弄くり回して……」
「エッケルト伯爵」
レオポルトは穏やかに、しかし一歩も引かずに言葉を重ねた。
「お言葉を返すようですが、一部の特権階級だけが富を独占し、民衆が疲弊する構造は、歴史上、一つの例外もなく破綻しております」
ゲオルクの顔が、さらに赤みを増した。だがレオポルトは構わず、王の方へ視線を向けて続けた。
「陛下もご存知かと思いますが、百年前の西方王国がまさにその典型でございます。貴族たちは己の特権を死守することに血道を上げ、民衆の窮状から目を背け続けました。結果、民衆の不満は臨界を超え、内乱が勃発し、王朝は滅びました。五百年続いた王統が、わずか三年の混乱で灰燼に帰したのです」
王の眉が動いた。青い瞳の奥に、興味と警戒が同時に灯っている。
「西方王国の例か……。確かに、あの王朝の滅亡は、貴族の横暴が一因であったと歴史書には記されておる」
「左様でございます、陛下。そして歴史は、同じ過ちを繰り返す者に容赦をいたしません。だからこそ、今この時に行動が必要なのです」
レオポルトは、声の調子を変えずに論を展開した。
「民衆が豊かになり、市場が活性化すれば、結果として税収は増え、王国の基盤はより堅固なものとなります。経済が成長すれば、より多くの人間が働く場を得て、その恩恵は王国の隅々にまで波及する。貴族の権威もまた、豊かで安定した国の上にこそ盤石となるもの。民衆の貧困と絶望の上に、永続する秩序など築けるはずがございません」
レオポルトは一拍置いて、ゲオルクに目を向けた。
「エッケルト伯爵。あなた様の領地の民が豊かになることは、あなた様にとっても利益ではございませんか。豊かな民からは、より多くの税が、より安定して徴収できる。飢えた農民から搾り取るよりも、実りある畑から収穫する方が、遥かに効率的です。それは領主たる貴族にとっても、望ましいことではないでしょうか」
「貴様に領地経営の何が分かる!」
ゲオルクが吼えた。その声は、もはや論理ではなく、感情の奔流だった。
「詭弁だ、全て詭弁だ! 民衆が増長すれば、必ずや王権に牙を剥く! 貴様は革命を扇動しようとしているのだろう! デパートなどという得体の知れぬ施設で民衆を煽り、やがては貴族制度そのものを打ち壊す腹積もりに違いない! その本性を、この場にいる誰もが見抜いておるぞ!」
レオポルトの表情は、微塵も変わらなかった。
ゲオルクが叫べば叫ぶほど、自分は静かでいればいい。エーリッヒの助言が、今まさに効力を発揮している。
「いいえ、伯爵」
穏やかに、しかし揺るぎなく答えた。
「民衆が牙を剥くのは、抑圧され、未来への希望を奪われた時だけでございます。満たされた民衆は反乱を起こしません。歴史上、反乱を起こしたのは、常に飢えた民衆です。腹が満ちて、子供の将来に希望が持てる人間が、なぜ己の暮らしを壊すような真似をいたしましょうか」
レオポルトは王の目をまっすぐに見つめた。
「デパートは民衆を飢えさせるのではなく、豊かにする。豊かな民衆は、社会を壊す理由を持たない。透明性と公平性が保証された社会で、いったい誰が反乱など企てましょうか。デパートは、その希望の象徴となるのです」
彼は、ここで声を僅かに強めた。
「陛下。民衆が『この国に生まれて良かった』と心から思える社会を作ること。それこそが、王権を守る最も確実な方法でございます。恐怖で人を縛る統治は、鎖が切れた瞬間に崩壊します。しかし、希望で人を繋ぐ統治は、民衆自身がその秩序を守ろうとするがゆえに、永続する。デパートはその第一歩なのです」
王は沈黙に沈んだ。
長い、長い沈黙だった。玉座の間に満ちた空気が、粘度を増したように感じられる。
やがて、王がゆっくりと口を開いた。
「ゲオルクよ。一つ聞く」
その声は静かだったが、玉座の間の空気を支配するには十分な重みがあった。
「お前が、ヴァイスハルトの建設現場で妨害工作を行ったという噂を聞いたが……真か」
ゲオルクの顔が、一瞬にして引きつった。赤く染まっていた頬から、血の気がすっと引いていく。
「そ、それは……根も葉もない噂でございます、陛下。私がそのような卑劣な行為に手を染めるはずが……」
その言い訳が終わる前に、宰相リヒテンシュタインが静かに、しかし確かな声で口を開いた。
「……陛下。一言、申し上げてよろしいでしょうか」
宰相は一歩前に出た。痩身の体が、燭台の光に鋭い影を落としている。
「奇しくも、ヴァイスハルト男爵の指摘は正当なものと考えます」
ゲオルクの目が見開かれた。裏切られたという感情が、その顔面に露骨に浮かんでいる。
「リヒテンシュタイン……貴様まで若造の側につくのか!」
「私は事実を述べているだけだ、伯爵」
宰相の声は冷徹だった。感情の揺らぎは一切なく、研ぎ澄まされた刃のような言葉が淡々と並べられていく。
「陛下が三日三晩かけて精査し、御自らの判断で承認された事業だ。それを今更、具体的な根拠もなく撤回せよとは、いかなる論理に基づくものか。感情的な反論だけで承認済みの計画を覆すことは、陛下の判断力そのものを否定することになりかねない。伯爵は、そのような意図をお持ちなのかな」
「そのようなつもりは断じて……」
「それに」
宰相は、声の温度をさらに一段下げた。
「妨害工作の噂も、私の耳には届いております。建設現場の職人への脅迫。道具への細工。そして、元地主の老人に対する……夜中の恫喝。これらが事実であれば、王の承認した事業に対する明確な妨害行為だ。王国法典第四章第十二条に照らせば、重罪に問われてもおかしくはない」
ゲオルクの顔から、完全に血の気が引いた。
「正々堂々と結果で勝負されるのが、貴族の矜持ではありませんかな。暗がりで老人を脅し、職人の道具に細工を施すのが、名門エッケルト家の流儀とは……私は承知しておりませんでしたが」
その言葉は、表面上は穏やかでありながら、ゲオルクの誇りを真正面から切り裂くものだった。現場での妨害工作の詳細が既に王宮に伝わっていたのだ。
ゲオルクは言葉に詰まり、顔が赤から黒紫色へと変わっていった。
「ぐ……っ。これは陰謀だ……。この男とリヒテンシュタインが結託して、私を陥れようとしている……」
「ゲオルク」
王の声が響いた。
静かに。しかし、それは玉座の間の全ての音を消し去るほどの、決定的な響きだった。
「余に向かって、余の宰相を疑えと言うのか。余が任命した宰相が、余に嘘をついていると。……そう主張するのか」
その一言で、ゲオルクの口が閉じた。
まるで見えない手で首を掴まれたかのように、彼は言葉を失った。王の宰相を疑うことは、王の人事を疑うことであり、それは王そのものへの不信を意味する。そこに踏み込めば、もはや引き返せない一線を越えることになるのだ。
玉座の間に、張り詰めた沈黙が降りた。
やがて、王がゆっくりと、一語一語に重みを込めて語り始めた。
「……ヴァイスハルト男爵の言う通りだ」
ゲオルクの顔が、弾かれたように上がった。
「余は、この国の未来のために変化を恐れぬ。古い秩序に縛られ、その殻に籠もっていては、王国は衰退の一途を辿るのみだ。余は歴史書をよく読む。西方王国の末路も知っておる。あの愚を繰り返すつもりは、毛頭ない」
王は、ゲオルクに視線を据えた。
「ゲオルクよ。余の判断に異議があるか。あるなら、今この場で明確に述べよ。ただし……余の判断に対する異議は、余への不信と同義であることを、よくよく考えた上で口にせよ」
その言葉は、最後通牒だった。
異議を唱えれば、王への反逆と見なされる。沈黙すれば、敗北を認めることになる。どちらを選んでも、ゲオルクに逃げ場はなかった。
長い、苦しい間の後、ゲオルクは唇を噛み締めながら頭を下げた。その身体が、怒りと屈辱で微かに震えている。
「……いえ。滅相もございません。陛下の御聖断に、異を唱える気は……毛頭、ございません」
声は搾り出すようなもので、最後の方はほとんど聞き取れなかった。
「ヴァイスハルト男爵。続けてよい」
王はレオポルトに視線を戻した。
「ただし、失敗は許さぬぞ。余の名誉と、王国の将来がかかっているのだ。そして……今後、いかなる妨害工作も、余の名において禁ずる。これに違反する者は、伯爵であろうと侯爵であろうと、厳罰に処す」
王の視線が、はっきりとゲオルクを射抜いた。
「……ゲオルク。聞こえたか」
「……はい、陛下」
絞り出された返答だった。
「ははっ」
レオポルトは深く平伏した。
「必ずやご期待に添います。この命に代えてでも、デパートの成功をお誓いいたします。陛下のお名前を汚すようなことは、決してございません」
王は満足そうに頷いた。
「よい。下がれ。……ゲオルクも下がれ」
「はっ。失礼いたします」
謁見室を出た瞬間、レオポルトは大きく息を吐いた。身体の奥に溜まっていた緊張が、一気に解けていく。背中は冷や汗で濡れ、脚が僅かに震えていた。
廊下を歩きながら、隣のエーリッヒが主人だけに聞こえる声で囁いた。
「お見事でございました、旦那様」
「見事なものか。内心は冷や汗だらけだ」
「そうは見えませんでした。それが大事なのです。……とくに、西方王国の歴史的事例を引かれたのは効果的でした。王の心に、最も深く響く論法です。陛下は歴史書の愛読家でいらっしゃいますから」
「ああ。あれはお前のおかげだ、エーリッヒ。王が歴史好きだという情報がなければ、あの切り口は使わなかった。お前の下調べが、今日の勝敗を分けた」
「恐れ入ります。しかし、旦那様……」
エーリッヒの声が、僅かに低くなった。
「これは勝利ではございません」
「分かっている」
レオポルトは頷いた。長廊下に差し込む午後の光が、二人の足元に長い影を落としている。
「王と宰相の支持を得ただけだ。ゲオルクは退場したが、あの男の怒りは消えていない。むしろ、王の御前で恥をかかされたことで、理性の箍がさらに外れたはずだ。追い詰められた獣は、最も危険になる」
「ご指摘の通りでございます」
エーリッヒの顔には、既に次の局面を見据えた警戒の色が浮かんでいた。
「恥辱を受けた貴族が、黙って引き下がるはずがありません。ましてや王の御前で、宰相にまで公然と批判されたのです。伯爵の自尊心は粉々でしょう。そういう人間が次に取る行動は……最も予測が難しく、最も危険なものになりがちです」
「ああ。それだ。分かっている。ゲオルクはこれで終わるような男じゃない。国内の正規の手段で敗れた以上、次に手を伸ばす先は……国外だ」
レオポルトの声が、さらに低くなった。
「帝国だ。エドヴァルト・シュタイナーとの接触が、いよいよ現実のものになる」
「旦那様、シュタイナー氏の監視を強化いたしますか」
「ああ。だが、くれぐれも慎重にやれ。こちらが監視していると悟られた瞬間、相手は地下に潜る。今のように表で動いてくれている方が、はるかに情報を取りやすい。泳がせておくんだ。ただし、ゲオルクとの接触の痕跡だけは、確実に押さえろ。二人が繋がった証拠さえあれば、いずれ切り札になる」
「承知いたしました。港湾地区と伯爵の屋敷周辺の監視を、並行して行います」
レオポルトの予感は、まさにその夜のうちに現実のものとなった。
同じ頃。
自邸に戻ったゲオルク・フォン・エッケルト伯爵は、怒りに任せて卓上の花瓶を壁に叩きつけていた。
帝国製の上等な磁器が粉々に砕け散り、細かな破片が絨毯の上に飛び散った。白と紺の染付が施された逸品だったが、今のゲオルクの目にそれは映っていない。
「おのれ……成り上がりめ……!」
砕けた磁器の破片を、ブーツの踵で踏み潰す。磁器が軋む嫌な音が、薄暗い部屋に響いた。
「生意気な口を……よくも王の前であの俺に恥をかかせおって……!」
壁際の書棚に拳を叩きつけた。革装丁の本が数冊、床に落ちる。
「リヒテンシュタインめ。あの日和見の狸が。散々俺に取り入っておきながら、風向きが変わった途端に若造の味方か。政治家の風見鶏め、いつか必ず報いを受けさせてやる……」
荒い息を吐きながら、執務机の前に崩れるように座った。両手で顔を覆い、しばらくの間、何かを押し殺すように肩を震わせていた。
やがて、覆いを外した顔には、怒りとは別の感情が浮かんでいた。冷たい、計算じみた光。追い詰められた者が、最後の手段に手を伸ばす時に見せる、あの独特の目つきである。
「……だが、最も許せぬのは王だ」
ゲオルクは、誰もいない部屋で独り言を続けた。声は低く、粘りつくような響きを帯びている。
「あの老いぼれが……。三十年だぞ。三十年仕えたこの俺ではなく、昨日今日現れた小僧の言葉を信じるとは。宮廷の汚れ仕事を引き受けたのは誰だった。南部の反乱を鎮めるために、泥まみれの交渉に走ったのは誰だった。……全て、忘れたか。この屈辱は……生涯忘れん」
彼は引き出しに手を伸ばした。
机の奥から取り出したのは、一枚の便箋だった。上質な紙に、黒い蝋で封がされている。蝋の刻印は、ヴェルディア帝国の双頭鷲。商務使節団が用いる公式の封蝋だった。
エーリッヒがかねてよりレオポルトに報告していた通り、帝国の使節団が王都に入り込んでいたのだ。その中でも最も影響力を持つのが、エドヴァルト・シュタイナー。表向きは帝国の通商参事官補佐だが、その真の正体は帝国の情報工作員であり、かつては軍の情報部門で大佐の位にあった男だと噂されている。
ゲオルクは、その男に既に接触していた。
「先日の酒席で、シュタイナーは言っていたな……」
暗い目で封蝋を見つめながら、記憶を辿る。
「『伯爵閣下、帝国は常に王国の安定を願っております。もし国内で不穏な動きがございましたら、我々も微力ながらお力添えできるやもしれません』と。……あの時は外交辞令だと聞き流した。だが、今なら分かる。奴は最初からこの状況を見越していたのだ。俺が追い詰められるのを、待っていた」
ゲオルクは便箋を裏返し、帝国の紋章をじっと見つめた。
「もはや、国内の力だけでは足りん」
静かに、だが決定的な声で呟いた。
「王国の秩序を守るためだ。帝国の力を借りてでも、あの危険思想を根から摘み取らねばならん。これは裏切りではない。王国を守るための、やむを得ぬ措置だ」
自分に言い聞かせるように、同じ言葉を繰り返す。
「ヴァイスハルトが王を惑わし、秩序を内側から食い破る前に、奴を排除せねばならん。それが……この国に三十年仕えてきた者としての義務だ。……そうだ。義務なのだ」
ゲオルクは新しい便箋を引き寄せ、ペンを取った。インクを浸し、素早く文字を記していく。その筆跡は、怒りのためか、普段よりも荒れていた。
内容は、レオポルトのデパート計画に関する詳細な情報だった。出資構造、建設スケジュール、主要な協力者の名前。そして、この計画を挫くための協力要請。
「出資構造は三者合議制だが、商人組合の出資分が最も脆い。組合内部に帝国寄りの商人を送り込めれば、内側から切り崩すことも不可能ではない……」
ペンを走らせながら、ゲオルクの頭は冷静に計算を始めていた。怒りが冷えて、陰謀に変わる。その変質は、彼自身も気づかぬほど自然なものだった。
「ヴァイスハルトの設計者はオスカー・ブラウエルという老いぼれの技師だ。この男を抱き込むか、あるいは排除できれば、工事そのものが頓挫する。代わりの設計者を見つけるのに、少なくとも半年はかかるだろう。……シュタイナーなら、効果的な方法を考えてくれるはずだ」
便箋を折り、黒い蝋で丁寧に封をした。何度も重ねて蝋を垂らし、指で押し固める。
呼び鈴を鳴らすと、黒い衣服に身を包んだ痩せた男が、音もなく現れた。目つきの鋭い、影のような男だ。ゲオルクが「汚れた仕事」を必要とする時に呼び出す、専属の密使である。
「これを、ヴェルディア帝国のエドヴァルト・シュタイナー宛に届けろ。極秘だ。途中で誰の目にも触れさせるな。シュタイナーは今、港湾地区近くの宿舎にいるはずだ。本人の手に直接渡せ。従者にも、宿の主人にも預けるな」
「承知いたしました。他に伝言はございますか」
「伝えろ。『近日中に、直接お会いしてお話ししたいことがある。場所と日時は、そちらのご都合に合わせる』とな」
ゲオルクは密使の目を睨み据えた。
「いいか。絶対に他の人間には知られるな。とくに王宮の人間には。リヒテンシュタインの耳に入った瞬間、全てが水泡に帰す。分かっているな」
「心得ております」
密使は無言で便箋を受け取り、闇の中に溶けるように姿を消した。
部屋に一人残されたゲオルクは、椅子の背にもたれかかり、天井を仰いだ。暗い天井に、蝋燭の灯りが揺れている。
「レオポルトよ」
誰もいない空間に向かって、呟いた。
「帝国の力を借りてでも、貴様を叩き潰してやる。……地獄を見るがいい。王国の秩序に刃向かう者に、容赦はせぬ。貴様がどれほど王の寵愛を得ようと、どれほど民衆の人気を集めようと……この俺を侮ったことを、必ず後悔させてやる。三十年の政治経験を、舐めるなよ。若造が」
その声は、自分自身への叱咤のようでもあった。怒りの裏に隠された焦りと不安を、ゲオルク自身は認めようとしない。だが、その震える拳が、全てを物語っていた。
「シュタイナーという男は、ただの商人ではない。あの目は……帝国の闇を渡り歩いてきた者の目だ。俺と同じ種類の人間だ。目的のために手段を選ばない者同士、互いに利用し合えばよい。奴は王国の流通網を欲している。俺はヴァイスハルトの排除を望んでいる。利害は完璧に一致する」
ゲオルクの瞳に、狂気じみた冷たい光が宿った。
「……完璧な、取引だ」
その言葉を最後に、伯爵は椅子から立ち上がり、蝋燭の灯りを吹き消した。闇が部屋を呑み込む。砕け散った花瓶の破片だけが、窓から差し込む月光を受けて、床の上で鈍く光っていた。
王都の空には、まだ誰も気づかぬ暗雲が、静かに、しかし確実に広がりつつあった。
帝国からの見えざる手が、やがてレオポルトの計画に長い影を落とすことになる。ゲオルクの怨念と、エドヴァルトの野心。二つの暗い意志が結びつくとき、それは一人の男爵が立ち向かうには余りにも巨大な力となるだろう。
だが、その嵐はまだ来ていない。
今この瞬間、建設予定地では、職人たちの槌音が力強く響いている。ヨハンの振り下ろす槌は、以前よりも正確で、力がこもっていた。フリッツの鉋は、木材の表面を滑らかに削り出している。クラウスは、誰よりも早く現場に来て、誰よりも遅く帰る男になっていた。
レオポルトは現場の職人たちの心を一つにした。ゲオルクの妨害工作は、彼の度量の前に無力化された。恐怖で支配しようとした陰謀は、信頼で結ばれた絆の前に敗れたのだ。
工事は加速し、建設予定地には毎日、活気ある声と道具の音が満ちている。魔導杭の打設は予定より二日も早く完了し、いよいよ基礎の石積みが始まろうとしていた。
五階建ての骨組みが立ち上がるのは、まだ先の話だ。だが、その礎石は確実に据えられつつある。やがてそれは、王都全体を見渡す存在へと成長していくのだろう。
デパートは、単なる商業施設ではない。王国の未来を映す鏡であり、民衆の希望を形にした建造物となる。その確信を胸に、レオポルトは次の一手を考え始めていた。
屋敷の書斎。夜も更け、蝋燭の灯りだけが揺れている。
「エーリッヒ、ゲオルクの密使の動きは追えているか」
「はい。先ほど、伯爵の屋敷から黒い衣服の男が一名、港湾方面へ向かったとの報告が入りました。足取りは速く、人目を避けるように裏道を選んで移動しているとのこと。おそらく……」
「シュタイナーへの密書だな」
レオポルトは目を閉じ、深く息を吸った。そして、ゆっくりと吐き出す。
「……来たか。予想通りだ。ゲオルクとエドヴァルトが手を結ぶ。考え得る限り最悪の展開が動き始めた」
だが、その声に絶望の色はなかった。
「だが、最悪を想定していない俺ではない。エーリッヒ、オスカー先生、マルクス、フェリックス、クララ。全員に連絡を取ってくれ。明日の夜、この屋敷に集まってもらう。次の一手を、全員で決めなければならない」
「かしこまりました。直ちに手配いたします」
「それぞれに、事前に考えておいてほしいことがある」
レオポルトは指を折りながら言った。
「フェリックス。お前の貴族議会での情報収集が、いよいよ重要になる。保守派の動向、ゲオルクへの同調者がどれだけいるか、正確な数を知りたい。マルクスには、商人組合の内部にエドヴァルトの息がかかった者がいないか洗い出してもらう。帝国資本の浸透は、我々が思っている以上に進んでいるかもしれない」
レオポルトは窓辺に歩み寄った。夜の王都が眼下に広がっている。
「クララには、貧民街の民衆の声を拾ってもらいたい。帝国の工作員が、民衆の不満を利用して世論を操作しようとしていないか。デパートへの反感を煽るような動きがあれば、早い段階で察知する必要がある。オスカー先生には、現場の安全管理をさらに厳重にしてもらう。今度の妨害は、現場工作のような生易しいものではなくなるかもしれない」
彼は振り返り、エーリッヒを見据えた。
「そして、エーリッヒ。お前は……」
「全ての情報を束ねる役目でございますね」
エーリッヒは、主人が言い終わる前に答えた。その声には、微かな誇りが滲んでいた。
「心得ております。各方面からの報告を集約し、分析し、旦那様に最善の判断材料をお届けする。それが私の務めです」
「ああ。お前が俺の目であり、耳だ。頼むぞ」
「お任せください、旦那様。この身が朽ちるまで」
レオポルトは微笑んだ。張り詰めた空気の中で、その笑みだけが柔らかだった。
「身が朽ちるのは困る。お前にはまだまだ働いてもらわなきゃならないんだ。長生きしてくれよ」
「……ふふ。旦那様らしい仰りようですな」
エーリッヒの口元にも、かすかな笑みが浮かんだ。
蝋燭の灯りが揺れ、二人の影が壁に大きく映し出されている。
夜はまだ深い。だが、その闇の向こうには、確かに朝が待っている。
レオポルトはそれを信じていた。信じることしかできない夜を、幾度となく越えてきたからこそ。
窓の外で、風が低く唸った。
王都の上空を覆う雲が、月の光を隠していく。嵐の予兆が、空気の中に微かに匂っていた。




