第11話 デパート建設の開始
建設予定地を囲んでいた仮設の柵が、朝日の中で次々と取り払われていく。
杭を抜く音、板を外す音、それらが重なり合って、まるで古い時代の殻を剥がしているかのようだった。
いよいよ、起工式の日が訪れたのである。
空は突き抜けるように青い。
雲ひとつない快晴だった。燦々と降り注ぐ陽光が、これから王国の新たな象徴となるべき広大な更地を、祝福するかのように照らしている。剥き出しの赤土が光を受けて赤銅色に輝き、四方に打たれた測量の杭が、その一本一本に長い影を落としていた。
その光景を見つめるレオポルト・ヴァイスハルトの瞳には、朝の陽射しよりも強い決意が宿っている。
この式典は、特別なものにしなければならなかった。
レオポルトはその数日前から、この記念すべき日をすべての民衆に公開すると決めていた。身分も職業も問わない。王都に暮らす者であれば、誰でも自由に参加できる式典にする、と。
第一周目では、どのような式典だったか。
その記憶は、今なお鮮明に焼きついている。
王族や貴族だけを招いた閉鎖的な儀式。玉座の間を模した豪華なサロンのような空間に、壁面には黄金の装飾が施され、天井からは水晶のシャンデリアが何十基も吊り下げられていた。
荘厳だが、同時にどこまでも排他的な空間だった。煌びやかな装飾に彩られたその場に足を踏み入れることを許されたのは、選ばれた百人に満たない貴族たちだけである。
社交場としての体裁は完璧だった。しかし、その完璧さこそが民衆の心に深い疎外感を植えつけた。
「あの建物は、貴族様のためのものだ」という認識が、街中に静かに根を下ろしたのだ。
民衆はデパートを自分たちのものとは微塵も思わなかった。その心理的な距離が、やがて取り返しのつかない悲劇を招くことになる。
今回は、断固として違う形にする。
誰でも参加でき、誰でも見届けることができる、完全に開かれた式典。王都のあらゆる階層の人間が、この瞬間を共有できる場にする。そこに、レオポルトの揺るぎない決意が込められていた。
朝の鐘が六刻を打つ前から、建設予定地の周囲には人が集まり始めていた。
最初は数十人だった群衆が、陽が高くなるにつれて膨れ上がり、やがて数百人の規模に達した。
近隣の商店の主人たちが、店仕舞いを早めて駆けつけてきている。日に焼けた腕をまくった工房の職人たちが、仲間同士で肩を並べている。
市場帰りの主婦たちが、買い物籠を片手にぶら下げたまま、好奇心に満ちた顔で更地の中央を眺めている。路地裏から飛び出してきた子供たちが、柵の残骸の周りを走り回り、その甲高い笑い声が秋の青空に吸い込まれていった。
杖をついた老人たちが、感慨深げに頷き合っている。黒い礼服に身を包んだ中流の商人たちが、腕を組んで小声で何かを議論していた。さらには、貧民街から歩いてきたのだろう、継ぎ接ぎだらけの衣服をまとった者たちの姿もある。
あらゆる階層の人々が、期待と好奇心と、そしてほんの少しの疑念をない交ぜにした瞳で、広大な更地の中心を見つめていた。
かつての第一周目では決して感じられなかった、温かな空気がそこに満ちている。冷ややかな格式も、排他的な壁も、ここにはない。
「母ちゃん、あそこに何ができるの? すっごく広いよ!」
幼い少年が母親の袖を引いた。五つか六つの年頃だろうか。大きな瞳が、未知のものへの純粋な興奮に輝いている。
「デパートっていう、大きな大きなお店ができるんだって。なんでも売ってるお店なんだそうだよ」
母親は柔らかく微笑み、少年の乱れた髪を指で整えてやった。
「なんでも!? じゃあ、おもちゃも? 木の剣も? お菓子も!?」
「さあ、どうだろうね。でも、今日はまず静かにお話を聞こうね」
隣に立っていた別の主婦が、首を傾げながら口を挟んだ。顔には期待と不安が半々に浮かんでいる。
「でもねえ、本当に私たちみたいな者が使えるお店なのかしら。貴族様の道楽で終わらなければいいけれど……」
「あら、でも今日の式典は誰でも来ていいって触れが出てたわよ。前の時とは様子が違うわ」
「そうなのよ。前の時はね、あの黄金で飾られたサロンで、貴族様たちだけが集まって、私たちは門前払いだったんだから。見に行こうとしただけで、衛兵に追い返された人もいたって聞いたわ」
老人の一人が、杖を地面に突きながら隣の老人に声をかけた。どちらも七十は超えているだろう。日に焼け、皺だらけの顔には、長い人生の年輪が深く刻まれている。
「おい、ゲオルク。お前さんがこの歳になってこんな催しに足を運ぶとは、思わなかったぞ」
「ああ、ハインリヒ。正直なところ、半信半疑さ。だが、あの若い男爵様が、わざわざ俺たちにも来いと言ってくれたんだ。それだけでも、今までの貴族様たちとは毛色が違うと思ってな」
「ふん。違うかどうかは、今日の話を聞いてから決めるさ。俺は七十年この王都で暮らしてきたが、貴族の約束ほど当てにならんものはなかった」
「まあ、そう言うなよ。せっかくの晴天だ。腰を痛めてまで来た甲斐があったと思いたいじゃないか」
「腰は関係ないだろう。……まあいい、とにかく見届けようじゃないか」
中流商人の一団が、固まって囁き合っている。彼らの視線は、更地の広さと、その四隅に立てられた測量旗に注がれていた。
「どうだ、あの更地の広さを見ろ。本当にここに五階建ての建物が建つというのか。この王国で前例のない規模だぞ」
「ああ。もし本当に実現すれば、この街の商売の形が根本から変わるかもしれん。……問題は、本当に実現するかどうかだがな」
「正価販売だとか、身分による差別なしだとか、耳触りのいい話ばかりだ。だが、あのヴァイスハルト男爵は、マルクス・シュトラウスを味方につけたという噂だぞ。マルクスが噛んでいるなら、少なくとも金勘定の部分は堅いだろう」
「確かにな。マルクスという男は、儲からない話には一切乗らないことで有名だ。あの男が出資しているなら、数字の上では成り立つ計画なんだろう」
「なるほど……。まあ、今日は様子を見るとしよう。期待しすぎず、しかし目は離さずに」
レオポルトは、更地の中央に仮設の演台を用意させていた。
簡素な白木の台である。塗装もなく、釘の頭が見え、鉋のかけ跡がそのまま残っている。豪奢さとは無縁の、むしろ建設現場の端材で組まれたような質朴な造りだった。
だが、今の彼にはそれで十分だった。むしろ、王の玉座を模したような華美な壇など、この場にはふさわしくない。この式典は、飾り立てるものではなく、語りかけるものでなければならなかった。
演台の脇では、オスカー・ブラウエルが巨大な設計図を広げ、職人頭たちに最終確認の指示を飛ばしていた。六十代に近い老技師の全身に、隠しようのない緊張感がみなぎっている。日に焼けた顔の皺が、朝の光の中でいつもより深く見えた。
「いいか、お前たち。鋳鉄の骨組みは格子状に配置する。荷重を一点に集中させるな。分散させろ」
オスカーの声は厳格だが、どこか高揚した響きを帯びている。その表情には、職人としての矜持と、新しい時代の幕を自らの手で上げる者としての、抑えきれぬ昂ぶりが浮かんでいた。
「接合部には魔導刻印を施して強度を上げる。ミリ単位のズレも許さんぞ。分かったな」
職人頭の一人が手を挙げた。三十代半ばの、浅黒い顔をした男だ。
「オスカー棟梁、基礎の魔導杭についてですが、先日の地盤調査で確認された石灰岩層まで確実に届かせるには、杭の長さを当初の設計より三十センチほど延長する必要がありそうです。資材の追加手配は間に合いますか」
「すでにマルクスの方で手配済みだ。明後日には届く。だが、延長分の刻印パターンについては、俺が今夜中に設計し直す。お前たちは、まず既存の杭の検品を済ませておけ。一本でも不良品が混じっていたら取り返しがつかんからな」
「了解です。それと棟梁、今日の式典の間、資材の搬入口は閉鎖しておいた方がよろしいですか。民衆がかなり集まっておりますが……」
「当然だ。安全が最優先だ。搬入口は完全に封鎖。見張りを二名つけろ。式典が終わるまで、資材の移動は一切行わん」
「はい」
オスカーは設計図を丸め、職人頭たちの顔を一人ずつ見渡した。
「いいか、よく聞け。今日はただの儀式じゃない。ここに集まった何百人もの人間が、この建物を見守ると決める日だ。俺たちはその覚悟に応えなければならん」
声が、僅かに震えた。感情を抑えているのが分かる。
「一つひとつの釘、一本一本の柱に、俺たちの誇りを叩き込むんだ。この建物は……俺の五十年の職人人生の集大成になる。お前たちにとっても、一生を賭けるに値する仕事のはずだ。そのことだけは、忘れるなよ」
職人たちは真剣な面持ちで頷き、それぞれが持ち場へ散っていった。
鋳鉄による巨大な骨組み。全面ガラス張りの天井。魔導照明による全天候型の空間。そのすべてが、この王国の建築史を塗り替える前例のない挑戦だった。その重責を、職人たちの誰もが自覚していた。
エーリッヒが、レオポルトの傍に歩み寄った。足音は相変わらず聞こえない。
「旦那様、準備は整っております。民衆の数は、おおよそ四百名を超えているかと。当初の予想を大幅に上回る盛況ぶりでございます」
「四百名か……」
レオポルトは民衆の群れを見渡しながら、感慨深げに呟いた。朝の光が、無数の頭上に降り注いでいる。
「ありがたいことだ、エーリッヒ。第一周目では、こんな光景は想像すらできなかった。あの時の式典は、水晶のシャンデリアの下で、百人にも満たない貴族たちが形式的な祝辞を述べ合うだけの、空虚な儀式だった。外からは誰も見えず、中からも誰も見ていなかった。……閉じた空間で、閉じた言葉を交わすだけの、閉じた式典だったよ」
「左様でございますか。今日の光景は、それとはまるで別のものでございますね」
エーリッヒの視線が、群衆の中を走り回る子供たちに向けられた。
「子供たちの姿も多く見受けられます。あの子たちにとって、今日の記憶が将来どのような意味を持つのか……。それを思うと、感慨深いものがございます。あの中から、デパートで働きたいと志す者が現れるやもしれません」
「ああ。あの子たちが大人になった時、この国は変わっている。変えてみせる」
レオポルトは、朝の光の中で一度深く息を吐いた。
「……さて、エーリッヒ。始めよう」
「はい。どうぞ、旦那様。王都の皆さんが、お待ちでございます」
レオポルトは、ゆっくりと演台に向かって歩き始めた。
白木の段を一段、また一段と上がっていく。足の裏に、鉋で削られたままの木の感触が伝わる。素朴で、飾り気のない、だからこそ誠実な感触だった。
民衆のおしゃべりが、潮が引くように静まっていく。
数百の視線が、一斉に彼に注がれた。
期待。疑問。警戒。好奇心。そして、ほんの僅かな希望。その重みの全てを、レオポルトは全身で受け止めた。
深く息を吸い込む。腹の底に力を込め、声を紡ぐ準備を整えた。
「王都の皆さん!」
彼の声は、よく通るバリトンとなって秋の青空に響き渡った。声の余韻が周囲の石造りの建物に反射し、まるで街全体が耳を傾けているかのような広がりを持つ。
「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
丁寧な、しかし儀礼的ではない言葉だった。その内に込められた感謝の気持ちは、声の温度となって聞く者に伝わる。
「今日、この場所に、我々の夢の礎を築きます。これから建設される『デパート』は、単なる商店ではありません」
彼は一呼吸置き、眼前の民衆一人ひとりの顔を見渡すように視線を巡らせた。幼い子供の瞳。杖をついた老人の瞳。日焼けした主婦の瞳。泥のついた作業着の労働者の瞳。あらゆる階層の人間の眼差しを、彼は一つも見落とすまいとした。
「ここは、誰もが平等に買い物を楽しめる場所になります。貴族であろうと、庶民であろうと関係ありません。身分によって差別されることも、格下に見られることもない」
レオポルトは力を込めて続けた。声の調子が、自然と熱を帯びていく。
「同じ売り場で、同じ商品を、同じ価格で手に入れることができるのです。隠された上乗せもなく、誰かの都合による値段の変動もない。すべてが透明に、はっきりと明記される」
声の調子を少し落とし、語りかけるような口調に変えた。
「皆さんは、市場で買い物をする時に、不安を覚えたことはありませんか。相手によって値段が変わる。顔なじみには安くし、見知らぬ者には高く吹っかけてくる。……そんな経験を、おそらく一度や二度ではなくお持ちのはずです」
民衆の間から、小さな頷きの波が広がった。
「デパートでは、そのようなことは一切起こりません。すべての商品に、誰にでも等しい価格が表示されます。農家から仕入れた原価に、適正な利益を加えた正価。それ以上でも、それ以下でもない。騙される心配も、損をする不安もなくなるのです」
レオポルトは、さらに声を張った。
「そしてもう一つ、大切なことをお伝えします。このデパートには、皆さんが無料で利用できる図書室を設けます」
群衆の中で、明らかにどよめきが走った。
「本を読むこと、文字を学ぶこと。それは一部の特権階級だけに許されたものではありません。知識は、すべての人間に開かれるべきものです。このデパートは、買い物をするだけの場所ではなく、皆さんが学び、成長し、家族と共に時を過ごす、そんな『居場所』になるのです」
民衆の間から、様々な声が漏れ始めた。
「本当かい……? 貴族様と同じ場所で、本当に……?」
年老いた女性の声だった。しわがれた声に、信じがたいものに触れた時の震えが含まれている。
「あたしたちが、本を読んでもいいって言うのかい。この歳になって、そんなことを言ってくれるお方がいるなんて……」
老婆は隣の女性の腕を掴み、信じられないという顔で首を振った。
「そんなこと、七十年生きてきて聞いたこともないぞ」
先ほどの商人が、腕を組んだまま小声で呟いた。
「正価販売だと。値段交渉のない商売など、商いの常識から外れている。本当に利益が出るのか。出なけりゃ、結局は数年で潰れて終わりだぞ」
隣の商人が顎をさすりながら応じた。
「だが考えてみろ。値段が最初から決まっているなら、客は安心して金を出せる。安心すれば繰り返し来る。一回あたりの利幅が薄くても、来客の総量で稼ぐ仕組みなのだとしたら、理屈としては筋が通る」
労働者風の男が、群衆の後方から声を張り上げた。
「本当かよ。詐欺じゃねえのか。俺たちは何度も騙されてきたんだ。貴族様の甘い言葉に乗っかって、結局は搾り取られるのがオチだったじゃねえか」
その隣にいた妻らしき女性が、夫の腕を引いた。
「あんた、まあ黙って聞きなさいよ。この男爵様は、泥だらけの作業服で現場に来てたっていう噂の方でしょう。少なくとも、口先だけの貴族とは違うかもしれないわ」
「だからって……」
「だからって何よ。聞くだけ聞いてみなさいって。タダなんだから」
レオポルトは、警戒の声も、疑念の声も、すべて受け入れる姿勢で演台に立ち続けた。表情を変えず、しかし一つ一つの声に耳を傾けている。
「嘘ではありません。すべて真実です」
彼は断言した。その声には、揺るぎない確信が宿っている。
「疑うのは当然のことです。皆さんがこれまで、どれほど多くの裏切りを経験してきたか、私は知っています。口先だけの約束がどれだけ繰り返されてきたかも、分かっているつもりです。だからこそ、言葉だけで信じてくれとは申しません。この建物そのものが、私の言葉の証明になります。完成した暁には、ぜひご自身の目で確かめてください」
レオポルトは一拍置いた。
「この計画書は、国王アルフレート三世陛下によって正式に承認されております。王国の威信がかかった事業なのです」
そして、演台の端まで歩み、民衆に向かって両手を広げた。朝の光が、彼の背中から後光のように差し込んでいる。
「そして、最も大切なことを申し上げます。この建物は、私個人のものではありません。王国全体の、そしてここにいる皆さん一人ひとりのものです」
その一言が落ちた瞬間、群衆の間に息を呑む気配が波のように広がった。
人垣を割って、一人の老人がゆっくりと前に出てきた。杖をつき、深い皺が顔中に刻まれた、おそらく七十を優に超えた古老だろう。足取りは覚束ないが、その目には、まだ火が消えていなかった。
「男爵様」
老人の声は、年齢の割によく通った。長い人生の経験から醸し出される、独特の重みを帯びている。
「それは、本当に俺たちのためになる場所なのか……」
その眼差しには、何度も裏切られてきた人間だけが持つ、深い警戒と、それでもなお消えない一握りの希望が映っていた。
「俺はな、この街で六十年以上暮らしてきた。若い頃から色んな話を聞いた。『民のため』だの、『王国の繁栄のため』だの、立派な言葉はいつだって聞こえてきたよ。だがな、男爵様。その言葉が本当に実現されたことは、俺の記憶にある限り、一度たりともなかった」
老人は杖を握る手に力を込めた。節くれだった指が、白くなるほど強く杖を掴んでいる。
「また貴族様たちの気まぐれで、俺たちが締め出されるようなことはないのか。そうなったら、俺たちはどうすりゃいいんだ……」
声が震えた。だが、それは弱さからではなく、残りの人生で最後の問いを投げかける覚悟からくる震えだった。
「俺はもう先が長くねえ。だが、ここにいる若い連中や、あそこを走り回ってる子供たちのことを思うとな……。期待させるだけさせておいて、またぞろ裏切るくらいなら、いっそ最初から何も言わねえ方がましだ。裏切りほど人の心を殺すものはねえんだ。……男爵様、あんたの言葉は、本物なのか」
その問いは、一人の老人の疑問ではなかった。この場に集まった数百の民衆全員が胸の内に抱えていた不安を、この老人が代わりに言葉にしたのである。
レオポルトは演台を降りた。
白木の段を一段、また一段と下り、土の地面に靴底をつけた。そして老人の前まで歩み寄ると、その目線の高さに合わせて、片膝を地面についた。
群衆の間から、小さなどよめきが起こった。
貴族が、庶民の前で膝を折った。それは、この王国の常識では考えられない行為だった。演台という高みから降り、土の上に膝を落とすその姿は、身分という鎧を自ら脱ぎ捨てる行為に等しい。
レオポルトは老人の手を取った。節くれだって、冷たく、しかし長い人生を支え続けてきた手だった。
「約束します」
温かく、だが揺るぎない声で告げた。老人の目を、真っ直ぐに見つめている。
「ここは、皆さんのための場所です。誰一人として締め出しはしません。私の命に代えても、その約束を守ります」
老人の手を両掌で包み込みながら、レオポルトは言葉を続けた。
「あなたが六十年間この街で見てきたもの、感じてきたこと。その重みを、私は軽んじたりしません。今までの貴族たちが、どれほど民衆の期待を踏みにじってきたか。その歴史を、私は知っています。だからこそ、私は言葉ではなく、行動で証明するのです」
「行動で……だと」
老人が、かすれた声で問い返した。
「ええ。この建物が完成し、皆さんが実際にその中を歩き、商品を手に取り、図書室で本を開くその日。その瞬間が、私の言葉の証明になります。それまでは、どうか疑っていてください。疑いながらでいい。ただ、見届けてほしい。途中で逃げも隠れもしません。この場所から、一歩も退きません。あなたの目の前で、私が約束を守るかどうかを、見届けていただきたいのです」
老人の瞳に、かすかな光が灯った。乾いた唇が、何かを言おうとして震えている。
「……ですから、皆さんにお願いがあります」
レオポルトは立ち上がり、周囲の民衆を見渡した。子供も、老人も、商人も、労働者も。あらゆる人間の顔が、朝の光の中でこちらを見つめている。
「この建物が育っていく姿を、どうか見守ってください。日に日に高くなっていく柱を、少しずつ形を成していく壁を、やがて空に届くガラスの天井を。その一つひとつが、私の約束の証です」
「そして完成した日には、ぜひ家族や友人と一緒に足を運んでください。ここは皆さんの新しい『居場所』になるのですから。ここで過ごす時間が、皆さんの暮らしに少しでも彩りをもたらすことを、私は心から願っています」
レオポルトは、さらに一歩前に出た。
「もし不安に感じること、疑問に思うことがあれば、いつでも声を上げてください。この計画は、密室で進めるものではありません。皆さんの声を聞きながら、共に作り上げていくものなのです。今日ここに来てくださった皆さん一人ひとりが、このデパートの共同創設者です。あなたがたの存在なしに、この建物は完成しない」
一瞬の静寂が降りた。
秋の風が、更地の土の匂いを運んでくる。
そして、その静寂を破るように、一人の声が上がった。
「男爵様万歳!」
最初は一人だった。だが、その声はたちまち伝播し、二人になり、十人になり、やがて数百人の大合唱となって秋の青空に吸い込まれていった。
「デパート万歳!」
拍手の渦が巻き起こった。口笛が鳴り、子供たちがはしゃぎ回り、その声は純粋な歓喜そのものだった。母親たちが涙ぐんで手を叩き、頬を伝う涙を拭おうともしない。老人たちが深く頷き合い、隣同士で言葉を交わしていた。
「やっぱり……本当だったんだ」
「ああ、あの男爵様の目を見たか。あの目は、嘘をつく人間の目じゃねえよ」
「俺たちにも、こんな日が来るなんてな……」
「なあ、お前さん。さっきの老人に膝をついて話しかけてたろう。あんなことをする貴族を、俺は生まれて初めて見たぞ」
「ああ。膝をつくってのは、自分を低くするってことだ。貴族が庶民の前で自分を低くした……。あの若い男爵様は、本物かもしれん」
「子孫に話して聞かせよう。この日のことを、絶対に忘れないようにな」
先ほどの老人が、ハインリヒに顔を向けた。その目元が、不自然に赤い。
「……ハインリヒ。俺は七十年生きてきたが、貴族に手を握られたのは初めてだ。あの手は……冷たい貴族の手じゃなかった。荒れて、硬くて、温かい手だった。作業で使い込んだ手だ」
「ゲオルク……お前さん、まさか泣いてるのか」
「うるせえ。風が目に入っただけだ」
「風なんか吹いとらんぞ」
「うるせえっつってんだろう」
その光景を目に焼きつけながら、レオポルトは深々と頭を下げた。その姿勢は、王に対する最敬礼ではなく、同じ土地に生きる者同士としての、心からの敬意を表すものだった。
演台から降りたレオポルトの元に、エーリッヒが静かに歩み寄った。
「旦那様。……見事な演説でございました。民衆の反応は、第一周目とはまるで異なる様相を呈しております」
「ありがとう、エーリッヒ。だが、これは始まりに過ぎない。言葉で心を掴むことはできても、それを維持するのは行動だけだ。ここからが本当の仕事だよ」
「承知しております。では、式典後の段取りですが、オスカー棟梁が旦那様にお話ししたいことがあると申しておりました。現場事務所でお待ちだとのことです」
「分かった。すぐに向かう」
起工式の熱狂が去り、翌日から建設は本格的に動き出した。
オスカー総監督の指揮の下、選りすぐりの職人たちが一斉に持ち場につく。石工、木工、鍛冶職人、土木職人。総勢五十名の精鋭である。
その中には、かつてエッケルト伯爵の金で買収され、レオポルトが現場で赦した三人の職人の姿もあった。ヨハン、フリッツ、クラウス。三人とも、以前とは見違えるほど真剣な目つきで、それぞれの持ち場についている。
オスカーは職人たちを広場に整列させ、建設開始の訓示を行った。
「全員、聞け。今日からが本番だ」
老技師の声が、朝の冷気を切り裂いた。
「この建物は五階建て。鋳鉄骨組みに全面ガラス天井。この王国の建築史上、前例のない構造だ。つまり、教科書は存在しない。俺たちが教科書を書くんだ。俺たちの仕事の一つひとつが、後に続く者たちの手本になる。その覚悟を持て」
職人たちの間に、張りつめた緊張が走った。
「失敗は許される。だが、同じ失敗を二度繰り返す者は許さん。分からないことがあれば、恥と思わず即座に口を開け。知ったかぶりが、建物を壊し、人を殺す。この現場では、『分かりません』と言える者が最も勇敢だと知れ。いいな」
「はい!」
五十人の声が、朝の空気を震わせた。
列の後方で、ヨハンがフリッツに小声で囁いた。
「……俺たちも、本当にここにいていいのかな」
フリッツが、こちらを見ずに小さく頷いた。
「男爵様は、俺たちを赦してくれた。だったら、命を懸けて働くまでだろう。それしか、俺たちに借りを返す方法はねえ」
三人目のクラウスが、二人の背中を軽く叩いた。
「くよくよすんな。俺たちの腕で返すんだ。この建物を、誰よりも丈夫に、誰よりも美しく仕上げてやろうぜ。それが、あの人への恩返しだ」
まずは基礎工事だった。
深さ三メートルの巨大な穴を掘り始める。鶴嘴と鋤が土を掻き出し、岩盤に達するまで慎重に、一層また一層と掘り進めていく。その過程で、予定外の大きな石が見つかることも珍しくなかったが、職人たちはそれを邪魔者とは見なさず、むしろ活用する工夫を凝らしていった。
「棟梁! また大きな岩が出ました。直径一メートルはあります」
「砕くな。基礎の一部として活用しろ。周囲を固めて、魔導杭の支持点にするんだ。天然の岩盤ほど信頼できるものはない」
「なるほど……。そういう使い方もあるんですね」
「当たり前だ。自然に逆らうんじゃない、自然を味方にするんだ。それが五十年の経験で俺が学んだことだよ」
魔導刻印を埋め込み、地盤を鋼鉄のように固める作業が続く。鋳鉄の巨大な柱を立て、梁を渡し、複雑な計算に基づいた骨格を組み上げていく。その一つひとつの工程が、未来の大建造物の命を握っていた。
だが、道のりは平坦ではなかった。前例のない工法ゆえに、技術的な困難が次から次へと立ちはだかる。
ある朝のことだった。
鋳鉄の接合部が、計算上の荷重に耐えきれず不気味に軋む音が現場全体に響き渡った。低く、鈍く、まるで建物が悲鳴を上げるような音だ。
それを聞いたオスカーの顔色が変わった。
「止めろ! 全員手を止めろ!」
オスカーの怒号が飛んだ。職人たちが一斉に動きを止める。
「くそっ、この接合部じゃ持たんぞ……」
老技師は問題の接合部に駆け寄り、鉄に耳を当てた。内部から伝わる微細な振動を、長年の経験で読み取ろうとしている。
「強度が足りん。応力が一点に集中しすぎている。このままでは、荷重が増えた段階で確実に破断する。……特注の接合金具を用意しろ。時間をかけてでも、完璧に仕上げるんだ」
「棟梁、現行の金具は規格品です。特注となると、鍛冶のゲルハルト親方に依頼しなければなりません。最短でも三日はかかりますが……」
「三日で済むなら安いもんだ。この接合部が崩れたら、三日どころか三ヶ月の遅延になるぞ。すぐにゲルハルトのところへ走れ。そして伝えろ、『オスカーが一生に一度の頼みだと言っている』とな」
「は、はい。すぐに」
職人が駆け出していく。オスカーは額の汗を手の甲で拭い、軋む接合部を睨みつけた。
「……五十年やってきて、まだ俺には分からんことがある。この建物は、俺に謙虚さを教えてくれるな」
別の日には、特注の強化ガラスの厚みにムラが見つかるという問題が浮上した。透かして見ると、薄い部分と厚い部分が波打つように存在しており、天井に使用するには危険だと判断された。
オスカーはガラスの破片を拾い上げ、朝の光にかざして入念に検分した。
「このムラを見ろ。ここが薄い、ここが厚い。差は微々たるものに見えるが、天井に使えば温度変化で応力が集中し、いずれ割れる。割れたガラスが十五メートルの高さから降り注ぐ光景を想像してみろ。客が死ぬぞ」
「棟梁、ガラス職人のヴィルヘルム親方に連絡を入れましたが、均一な厚みのガラスを量産するには、窯の温度管理をさらに精密にしなければならないと……」
「ならば俺が直接ヴィルヘルムの工房に出向く。魔導刻印を窯に追加施工すれば、温度の均一化は可能なはずだ。明日の朝一番で発つ。現場はカール、お前に任せるぞ」
「了解しました。お任せください、棟梁」
さらに複雑な問題として、魔導刻印の配置パターンの設計が難航した。荷重を支えるための構造計算だけでなく、魔力の流れと干渉をも考慮しなければならず、その複雑さは熟練の魔導技師ですら頭を抱えるものだった。
「くそっ、回路が絡まってやがる」
魔導技師ディートリヒが、設計図を叩いた。
「この配置じゃ魔力が循環しない。一から設計し直すしかねえ」
もう一人の魔導技師が、横から図面を覗き込んだ。
「待ってくれ、ディートリヒ。全部やり直す必要はないかもしれん。この第三層の回路と第五層の回路が干渉し合っている。ここに緩衝用の刻印を一つ追加すれば、流れが安定する可能性がある」
「馬鹿を言え。緩衝刻印を入れたら全体の魔力効率が二割落ちるぞ。五階建ての荷重を支えるのに二割の損失は致命的だ」
「じゃあどうする。一から設計し直したら、少なくとも二週間は遅れる」
「……ちくしょう。男爵様に相談するしかねえか。あの方はどういうわけか、俺たちより構造のことに詳しい時がある」
「ああ、あの『古い異国の文献』ってやつか。何だか知らんが、助かるなら何でもいいさ」
技術的な壁にぶつかるたび、現場は常に緊張感に包まれた。工期の遅延。職人たちの蓄積する疲労。王からの暗黙の期待という、見えない重圧。すべてが、この建造物の完成を危うくする要素として、レオポルトの肩にのしかかっていた。
しかし彼は、書斎に籠もって頭を悩ませるという選択をしなかった。
代わりに、貴族の礼服を脱ぎ捨て、職人と同じ麻の作業着に袖を通して現場に常駐し始めたのだ。泥をかぶり、汗を流し、日焼けした彼の姿は、もはや貴族というよりも現場監督そのものだった。手の甲には血豆ができ、爪の間には鋳鉄の粉が入り込んでいたが、彼はそれを気にする素振りも見せない。
レオポルトは前世の記憶にある構造力学の知識を総動員し、オスカーを補佐した。
「先生、荷重を分散させるために、骨組みを格子状の構造に変更してみませんか」
図面を広げ、指先で具体的な箇所を示しながら提案する。
「縦と横の梁を均等に交差させることで、一点にかかる負荷を面全体で受け止めることができます。そうすれば、先日問題になった接合部の負担を大幅に軽減できるはずです」
レオポルトは図面の余白に、素早く新たな線を引きながら補足した。
「具体的には、現在の設計では柱と梁の交差点が約四十箇所ですが、格子構造に変更することで、これを百二十箇所まで増やせます。一箇所あたりの荷重は三分の一になる計算です。これなら、特注の接合金具がなくても、標準的な鋳鉄金具で十分な強度が確保できるはずです」
「さらに、この構造には副次的な利点もあります」
レオポルトは図面の別の箇所を指差した。
「格子の隙間を利用すれば、魔導刻印の回路を柱の内部に通すことが可能になります。ディートリヒたちが苦労していた回路の干渉問題も、物理的に距離を取ることで解消できる。一石二鳥です」
オスカーは目を丸くした。
五十年以上の職人人生で、建築の素人からこれほど的確で、しかも即座に実行可能な提案を受けたことは一度もなかった。
「……グリッド構造だと。お前、一体どこでそんな知識を身につけた」
「古い異国の文献で読んだことがありまして。遺跡を調査した学者の著作なのですが……」
レオポルトは苦笑いで誤魔化した。露骨な嘘をつくわけにはいかないが、「前世の記憶です」と正直に言えるはずもない。曖昧さを含んだ回答で、どうにか切り抜ける。
「いや、待て」
オスカーが手を上げた。まだ納得していない顔だ。
「理論は筋が通っている。だが、鋳鉄の使用量が大幅に増えるだろう。コストはどうなる」
「すでに計算してあります。鋳鉄の総量は約二十パーセント増加しますが、特注金具の発注が不要になることで、その分のコストは相殺されます。さらに工期の短縮効果を考慮すると、人件費の面ではむしろ節約になる。マルクスにも確認を取りましたが、予算の範囲内で収まるとの回答をもらっています」
「……マルクスにまで話を通してあるのか」
オスカーは腕を組み、しばらく黙り込んだ。眼鏡の奥の目が、図面の上を何往復もしている。
「古い文献ね……。まあ、お前さんの言う通り、理屈は通っている。しかも、あの魔導技師どもが三日三晩頭を抱えていた回路の問題まで解決するとなれば、文句の言いようがない」
オスカーは鼻を鳴らした。
「ふむ。試してみる価値はありそうだ。だが、いいか男爵。もし上手くいかなかったら、すべて元に戻す。この建物には何百人もの人間が出入りするんだ。万が一にも崩壊するようなことがあってはならん。俺はな、建物を建てることが仕事だが、それ以上に建物を崩さないことが仕事なんだ」
「もちろんです、先生。人命が最優先。それは、いかなる場合でも変わりません」
格子状に組み直された梁が、現場で少しずつ形を成していく。鋳鉄職人たちが、一つひとつの接合部を慎重に仕上げていった。
そして、荷重試験の日が来た。
巨大な重りが梁の上に載せられていく。一トン、二トン、三トン。重りが増えるたびに、職人たちの緊張が高まる。誰もが息を殺し、鉄の軋む音に耳を澄ませていた。
だが、不気味な音は一切聞こえない。格子構造の梁は、計算上の限界荷重をものともせず、静かに、安定して重量を支え続けた。
オスカーは試験用の重りが載った梁に歩み寄り、手袋を外して素手で鉄に触れた。
「……振動がない。通常なら、この荷重では微細な振動が伝わるはずだが……完全に安定している。死んだように静かだ」
彼は手を離し、腕を組んだ。それから振り返り、レオポルトの顔をじっと見つめた。
「……伊達に本ばかり読んでるわけじゃないようだな」
ぶっきらぼうな言い方だったが、口ひげを撫でる仕草が、その言葉の裏にある敬意を物語っていた。
「男爵、一つ聞いていいか」
「何でしょう」
「お前さんは、本当に文献だけでこれを思いついたのか。俺の五十年の経験を超える知識が、紙の上だけにあるとは、どうにも合点がいかんのだがな」
レオポルトは一瞬だけ言葉に詰まった。オスカーの眼光は鋭い。この老人は、真実に限りなく近いところまで来ている。
だが、レオポルトは穏やかに微笑んだ。
「先生の五十年の技と、私が読んだ無数の先人たちの知恵。その両方が合わさったからこそ、この結果が出たのだと思います。どちらが欠けても、成り立たなかったでしょう」
「……上手いことを言いやがる」
オスカーは鼻を鳴らしたが、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「まあいい。理由はどうあれ、結果が出ている。俺は結果で判断する人間だ。お前さんのことは……認めざるを得んな」
職人たちもまた、レオポルトの姿に心を動かされていた。
「男爵様、また朝一番で現場に来てるぞ」
ある石工が、隣の仲間に囁いた。
「しかも今日は俺たちより先だ。着いた時にはもう図面を広げてた」
「嘘だろ。貴族様が、職人より早く出てくるのか」
「貴族のくせに、泥仕事も厭わねえんだよな、あの方は」
「この前なんかな、鋳鉄の柱を運ぶのを手伝ってくれたんだぜ。あの細い体で、俺たちと一緒に担いでた。手に血豆ができてるのに、痛いとも言わねえ」
「ああ、俺も見た。しかも、その後で図面を広げて接合部の角度を計算し直してたよ。血豆だらけの手で羽根ペンを握ってな」
「俺たちと同じ飯を食って、同じ目線で話してくれる。……こういう貴族様なら、ついて行ってもいいかもな」
ヨハンが、フリッツとクラウスに顔を向けた。
「なあ、お前たち。俺たちは一度、あの方を裏切った。金に目がくらんでな」
その声には、今なお消えない悔恨が滲んでいる。
「だが、あの方は赦してくれた。そして今、こうして同じ現場で汗を流している。……俺はもう二度と裏切らねえ。この命を懸けてでも、この建物を完成させる」
「……ああ。俺もだ」
フリッツが静かに、しかし力を込めて頷いた。
「あの時、男爵様はこう言ったんだ。『お前たちが裏切ったのは貧しさのせいだ。貧しさは罪じゃない。俺がお前たちが裏切る必要のない世界を作る』と。あの言葉を、俺は一生忘れねえ」
クラウスが鼻をすすった。
「泣くなよ、クラウス」
「泣いてねえよ……。粉塵が目に入っただけだ」
「お前、毎回同じこと言うな」
ある日の休憩中のことだった。
一人の若い木工職人が、水を飲んでいるレオポルトに声をかけてきた。二十代半ばの、痩せた青年だ。日に焼けた顔に、素朴さと真摯さが同居している。
「あの……男爵様」
レオポルトは水筒を下ろし、振り返った。
「何だい」
木工職人は一瞬躊躇い、それから思い切ったように口を開いた。
「どうして、そこまでこの建物にこだわるんですか。貴族様なら、もっと楽に暮らせるでしょうに。こんな大変な仕事をわざわざやらなくたって……」
その質問は素朴だが、本質を突いていた。多くの者が心の中に抱きながら、口に出せずにいた疑問を、この青年が代わりに言葉にしたのである。
「いえ、すみません。失礼なことを聞いて……。でも、ずっと不思議だったんです。男爵様は毎日、俺たちと同じ時間に来て、同じ作業着を着て、汗だくになって働いている。手だって、もう貴族の手には見えません。そこまでする理由が、俺にはどうしても分からなくて……」
レオポルトは一瞬手を止め、建設中の骨組みを見上げた。
夕陽を受けて輝く鉄の骨格が、赤銅色の空に向かって伸びている。まるで、未来へ続く梯子のように。
「この建物が、人を救うからだ」
「救う……? 建物を建てるだけで、ですか」
青年の声には、素朴な驚きが満ちていた。
「建物を建てるだけ……君はそう言うがね」
レオポルトは微笑んだ。
「建物というのは、ただの石と鉄の塊じゃない。そこに人が集い、笑い、語り合い、暮らしを支える品物を手に入れる。建物は人の営みを守る『器』なんだよ。器がなければ、中身は地面にこぼれてしまう」
「器……ですか」
「ああ。貧しい人も、豊かな人も、ここでなら同じ人間として扱われる。誰かに見下されることもなく、差別されることもない。そんな場所があるというだけで、人は前を向けるようになるんだ」
レオポルトは一呼吸置いた。
「君は市場で買い物をしたことがあるだろう」
「え。ええ、もちろん」
「その時、店主の態度はどうだった。身なりのいい客と、そうでない客で、扱いが変わったことはないか」
木工職人は、はっとした表情を浮かべた。
「……あります。はっきりと。いい服を着た客には愛想よくして、俺みたいな職人風情には、ぞんざいな口を利かれたことが……何度も」
「そうだろう。そして、それが当たり前だと誰もが思っている。だが、本当にそれが当たり前であっていいのか」
「……考えたことも、ありませんでした」
「多くの人間は、自分が十分に尊重されていないことに気づいていない。あるいは、気づいていても、それが自然なことだと諦めてしまっている。だがな、本来はそうではないはずなんだ。すべての人間は、等しく尊厳を持って遇されるべき存在だよ」
木工職人の瞳が、僅かに潤んだ。
「だからこそ、このデパートは単なる商いの場ではなく、新しい世界の象徴にならなければならない。ここが成功すれば、王国全体の意識が変わる。人々の心が変わる。それが、人を救う第一歩なんだよ」
レオポルトは夕陽に染まる鉄骨を見上げ、付け加えた。
「そしてな、君が今日この現場で切った木材の一本一本が、その新しい世界を支えている。君が丁寧に仕上げた接合部が、何十年もの間、この建物を立たせ続ける。君の仕事には、君が思っている以上に大きな意味があるんだ」
「……俺も、その『救い』の一部になりたいです」
木工職人は、両目から涙をこぼしながら声を上げた。人生で初めて、自分の仕事が大きな何かに繋がっているのだと実感した顔だった。
「俺はただの木工職人です。大した学もねえし、本も読めません。でも、木を削ることだけは、誰にも負けねえつもりです。この手で、この建物のために、精一杯やらせてください」
「ああ。君はもう、欠かせない一部だよ」
レオポルトが肩を叩くと、青年は誇らしげに、そして涙ぐんで笑った。
「明日から、もっといい仕事をします。男爵様に恥をかかせないように」
「恥なんかかかないさ。君が自分の仕事に誇りを持ってくれれば、それだけで十分だ」
少し離れた場所で聞いていたオスカーが、腕を組んだまま小さく呟いた。
「……あの男は、人の心を動かす天才だな。職人を本気にさせるのは、金でも恐怖でもない。誇りだ。あの若造は、それを骨の髄まで分かっている」
建設が着実に進む一方で、不穏な影が忍び寄ってきた。
それは、ある夕刻のことだった。
現場事務所で図面を検討していたレオポルトの元に、エーリッヒが足早にやって来た。いつもは音もなく現れる男だが、今日は靴音が僅かに聞こえた。それだけで、レオポルトには事態の性質が伝わる。
「旦那様」
声を潜めたエーリッヒの表情は硬い。眼差しには、職務としての冷静さと、避けられぬ危機を伝えなければならない者の緊張が同居していた。
「ヴェルディア帝国のエドヴァルト・シュタイナー大佐が、現場の視察を申し出ております」
「……シュタイナーか」
レオポルトの背筋を、氷の指が撫でるような感覚が走り抜けた。
その名を聞いた瞬間、第一周目の記憶が鮮明に蘇る。
エドヴァルト・シュタイナー。ヴェルディア帝国の商務使節団の顔として活動しているが、その真の正体は帝国の情報工作員。前世では、この男が親切心を装って技術協力を申し出てきた。「帝国の進んだ技術をお分けしましょう」と。甘い言葉に乗ったのが、すべての始まりだった。
送り込まれた帝国の職人たちによって設計図は写し取られ、施工技術の核心が流出した。そして気づいた時には、現場は帝国資本に蝕まれ、デパートは王国のものではなくなっていた。
「エーリッヒ。奴が来たのはいつだ」
「およそ十五分前でございます。正門ではなく、東側の資材搬入口付近から声をかけてきたとの報告がございました。警備の者が応対し、旦那様の許可なくして立ち入りは認められないと伝えております」
「東側の搬入口からか……」
レオポルトの目が細くなった。
「正門を避けて搬入口から来たということは、現場の動線を事前に調べていたということだな。どの入口が最も警備が薄く、どこから入れば核心部分に近いかを、すでに把握している」
「私も同じ懸念を抱いております。かなり入念な下調べが行われていると見るべきでしょう」
「……通してくれ」
レオポルトは一瞬の迷いもなく命じた。
「ただし条件がある。核心的な技術情報には一切触れさせるな。設計図も、魔導刻印の配置図も、構造計算書もだ。オスカー先生には連絡を入れて、そうした資料はすべて『修正作業中』として保管室に入れてもらってくれ。エドヴァルトには、完成予定の概要図だけを見せればいい。ゲストとして、丁重に、だが何も渡さない。そういう扱いだ」
「承知いたしました」
「加えて、エーリッヒ。奴が現場にいる間は、常にお前がそばにいてくれ。奴の視線がどこに向くか、手が何に触れようとするか、誰に声をかけるか。すべてを記録してほしい。些細なことでも構わない」
「記録は後ほど文書にまとめてお渡しいたします」
「それから、現場の職人たちにも伝えてくれ。帝国の客人が来るが、技術に関する質問には一切答えるな、と。天気の話や世間話は構わないが、工法や素材の話題が出たら『棟梁に聞いてくれ』とだけ言うように」
エーリッヒが一拍置いてから尋ねた。
「旦那様、一つ確認させてください。奴を門前払いにせず、あえて通すのは……奴の意図を読むためでございますか」
「その通りだ。拒絶すれば、奴は別のルートで情報を漁りに来る。夜中に忍び込むか、職人を買収するか、いずれにしてもこちらの管理が及ばない場所で動かれる方が厄介だ。むしろ、こちらが制御できる環境で会った方が、我々が得る情報の方が多くなる。見せたいものだけを見せ、見せたくないものは隠す。そして、奴が何に興味を示すかを観察する。それが、次の手を読む手がかりになるんだ」
レオポルトの指示には、第一周目の苦い失敗から学んだ教訓が、一つ残らず込められていた。
「かしこまりました。万全の態勢を整えます」
エーリッヒが一礼し、静かに去っていった。
それから三十分ほどして、エドヴァルト・シュタイナーが現場に姿を現した。
仕立ての良い帝国製のスーツに身を包み、人好きのする完璧な笑顔を浮かべている。三十代後半か、四十手前か。背筋はまっすぐで、歩き方の一つひとつに軍人としての訓練が染みついていた。
清潔に整えられた栗色の髪と、人当たりのよい柔和な目元。だが、その目の奥には、獲物を見定める猛禽の冷たさが潜んでいる。
エドヴァルトは、建設中の鉄骨の骨組みを見上げると、感嘆の声を上げた。
「やあ、素晴らしい」
声には本物の驚きが含まれている。あるいは、それすらも演技の一部なのかもしれなかった。
「これほど大規模な鋳鉄構造は、我が帝国でも類を見ません。特にこの高度な魔導刻印の施工技術……。いやはや、王国の技術力には心底驚かされますね」
その言葉の表層は褒め言葉だが、裏では、技術情報を引き出すための布石が打たれている。
「ヴァイスハルト男爵、お忙しいところを恐縮です。このような画期的な建設現場を拝見できる機会は滅多にございませんので、つい足が向いてしまいました。ご無礼をお許しください」
エドヴァルトは人懐っこい笑みを浮かべながら、さりげなく周囲を見回した。その視線が、一瞬だけ北側の主柱の接合部に止まったのを、レオポルトは見逃さなかった。
「それにしても、この柱の配置は実に見事ですね。荷重分散を考慮した間隔でしょうか。帝国の建築技師にも見せてやりたいほどだ。差し支えなければ、この構造の設計思想について、もう少し詳しくお聞かせ願えませんか」
「ありがとうございます」
レオポルトは、礼儀正しくも一切の隙を見せない態度で応じた。
「我が国の職人たちが、長年の経験から編み出した工夫の積み重ねです。設計思想というほど大したものではありません。古くから伝わる基本的な構造原理を応用しているだけでして」
具体的な技術情報を一切含まない、しかし無礼にはならない範囲の返答。エドヴァルトの目が、一瞬だけ鋭くなった。この男もまた、相手の回避を即座に察知している。
「なるほど。経験の蓄積ですか。素晴らしい。……ところで男爵、この建物の完成予定はいつ頃を見込んでおられますか」
「三年以内を目標としております」
「三年。それは野心的な計画ですね。五階建てのこの規模で三年とは、相当な人員と資材が必要でしょう」
「ええ。ですが、王国の職人たちは優秀です。不可能とは考えておりません」
「ところで……」
エドヴァルトの声が、僅かに調子を変えた。より親密に、より信頼を誘うような柔らかさを帯びている。
「帝国には、これよりさらに強度が高く、透明度の優れたガラスを量産できる職人がおります」
来た。
レオポルトの内心で、警報が鳴った。第一周目と同じ誘いだ。
「強化ガラスの透明度が向上すれば、採光効率も飛躍的に改善されます。帝国の最新技術をお借りいただければ、工期の大幅な短縮が見込めますし、仕上がりもより美しく実用的になるでしょう」
エドヴァルトはさらに畳みかけた。その口調は滑らかで、あらかじめ用意された完璧な営業文句のようだった。
「具体的に申しますと、帝国のマイスター・グラス工房では、厚みの誤差が〇・一ミリ以内のガラスを安定して量産できます。加えて、特殊な熱処理により、通常の三倍の強度を実現しております。このデパートの天井に採用されれば、安全性と美観の両面で飛躍的な向上が見込めるかと」
「さらに、帝国には鋳鉄の防錆処理に関する最先端の技術もございまして。この規模の鉄骨構造ですと、数十年で経年劣化が進むのは避けられません。帝国の技術を導入すれば、建物の寿命を五十年は延ばせるでしょう。友好国として技術提携という形であれば、費用も最小限に抑えられます。いかがですか」
その提案は、表面上は魅力的に聞こえる。だがレオポルトは、その甘い言葉の裏に潜む意図を正確に見抜いていた。帝国の職人を受け入れれば、技術が流出する。帝国資本が事業に介入する口実を与えることになる。そしてやがて、デパートは帝国の傀儡施設と化す。
第一周目で、それは実際に起きた。
「身に余るご提案ですが……」
レオポルトは静かに、しかし断固として首を横に振った。その動作には、一片の迷いもない。
「今回は、王国の職人たちを育てることも重要な目的の一つなのです。技術を外部から調達するのではなく、自分たちの手で身につけることにこそ、より大きな意義があると考えております」
「多少は不格好になるかもしれません。帝国の技術に比べれば、荒削りなところも多いでしょう。ですが、自分たちの手で作り上げることに、我々は最大の価値を見出しているのです」
レオポルトは、相手の反論を封じるように続けた。
「シュタイナー大佐、率直に申し上げます。この建物は王国の自立の象徴なのです。帝国の技術に頼れば、確かに短期的には素晴らしい建物ができるでしょう。しかし、王国の職人たちは何も学ばない。次に建物を建てる時、再び帝国の力を借りなければならない。そしてその次も、またその次も……。それは自立とは呼べません。依存です」
エドヴァルトの目が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。だが即座に柔和な表情に戻る。さすがに場数を踏んだ工作員だ。
「なるほど。男爵のお考えは理解できます。しかし、自立とはいえ、すべてを独力でなさる必要はないのでは。技術は共有してこそ価値がある。帝国と王国が手を携えれば、両国にとって利益になるはずです」
「おっしゃる通りです。技術の共有は大切なことです。ですが、共有と依存は違う。我々がまず自分たちの足で立ち、その上で対等な立場として技術を交わすのであれば、喜んでお受けします。しかし今の段階では、まだ我々の足は十分に固まっていない。今ここで帝国の手を借りれば、それは共有ではなく、従属になってしまう」
レオポルトは一拍置いて、相手の心理を逆撫でしないよう配慮しながら付け加えた。
「もちろん、参考資料としてのご提供だけいただけるのであれば、大変ありがたく存じます。学ぶべき点があれば、謙虚に吸収したいと考えておりますので」
「それから、シュタイナー大佐。このデパートが完成した暁には、ぜひ帝国の方々にもご覧いただきたい。王国の職人たちが何を成し遂げたのかを、帝国の技師の皆さんにも見ていただけたなら、それこそが真の技術交流の出発点になるのではないでしょうか」
エドヴァルトの笑顔が、ほんの一瞬だけ硬直した。
仮面が僅かにずれた瞬間だった。計算外の返答に、素の顔が覗く。そこにあったのは、利己心と冷徹な打算に満ちた、諜報員の素顔だった。
だが、彼はすぐに愛想のよい笑みを取り戻した。長年の訓練が、仮面を素早く元に戻す。
「……なるほど、人材育成ですか。素晴らしいお志です。参考資料は、後ほどお届けさせましょう」
そして、去り際に最後の一言を投げかけてきた。
「男爵、一つだけ。この建設現場は、実に多くの人間が関わっていますね。職人、商人、魔導技師……。これだけの人間が一つにまとまるのは、容易なことではないでしょう。人が増えれば、その分だけ……脆い部分も増えるものです。どうか、くれぐれもご自愛くださいませ」
その言葉に含まれた暗い示唆を、レオポルトは見逃さなかった。
「ご忠告、肝に銘じます。しかしご安心ください。この現場の人間は、全員が同じ目標を共有しています。脆さは、目的を共にした時、強さに転じるものですから」
エドヴァルトは微笑みを返し、去っていった。
その背中が見えなくなると、オスカーが怪訝そうな表情で近づいてきた。髪には現場の粉塵が白くかかり、顔には隠しきれない懸念が浮かんでいる。
「おい男爵、あの優男は何者だ。口は丁寧だったが、目が笑ってなかったぞ」
「先生もお気づきでしたか」
「五十年もこの業界にいれば、目の色で人間の腹は読める。あの手の笑顔は、何かを企んでいる者のものだ。しかも、あいつが見ていたのは建物の外観じゃない。柱の配置と、接合部の構造だ。建築の素人には絶対に目が行かない場所を、あいつは狙い澄まして観察していた」
「……帝国の工作員です」
レオポルトは単刀直入に答えた。
「なっ……」
オスカーの目が見開かれた。
「帝国が、このデパートに目をつけているのか」
「そうです。このデパートが完成すれば、王国の経済構造が変わる。税収が増え、民衆の暮らしが改善し、国力が高まる。帝国にとって、それは脅威なのです。隣国が強くなることを、あの国は望まない」
「くそ……。建物を建てるだけでも大変なのに、そんな連中まで相手にしなきゃならんのか」
「先生、率直にお聞きします。奴が現場にいた間、奴は具体的に何を見ていましたか」
オスカーは顎に手を当てて記憶を辿った。
「……まず北側の主柱三本。次に、東側の接合部を二箇所。それから、魔導技師の作業エリアの付近を、やたらと注意深く眺めていた。普通の来客なら建物の大きさや外観に見とれるもんだが、あいつは核心部分ばかりを集中的に観察していた」
「完全に専門家の目線ですね。技術情報の収集を目的として来ている」
「男爵、どうする。あいつの出入りを禁止するか」
「いいえ。それは逆効果です。締め出せば、別の手段で情報を取りに来る。買収か、潜入か、あるいは第三者を使うか。むしろ、こちらが管理できる環境の中で接触を続けた方が、我々の側が得る情報の方が多くなります。奴が何に関心を持ち、何を知りたがっているかを把握し続けることが、最大の防御になるのです」
レオポルトは声を落とした。
「先生、職人たちにも改めて伝えてください。帝国の人間に限らず、外部の者から技術的な質問を受けた場合は、すべて先生か私に報告するようにと。何気ない雑談の中にも、情報は漏れるものですから」
オスカーは重々しく頷いた。
「分かった。徹底させる。……しかし男爵、正直に言えば、俺は帝国の政治や諜報のことはからっきしだ。だが、この建物だけは絶対に守ってみせるぞ。五十年の職人人生を賭けてな。技術を盗まれるくらいなら、図面を全部燃やしてやる」
「ありがとうございます、先生。心強い言葉です。……ですが、図面は燃やさないでください。あれを一から描き直すのは、私も先生もごめんですから」
オスカーは一瞬きょとんとし、それから低い声で笑った。
「……ふん。お前さんは、こういう時でも冗談が言えるんだな。大物だよ、まったく」
エーリッヒが、二人の会話の後に足音もなく現れた。
「旦那様。シュタイナー大佐の行動記録をまとめました。現場滞在時間は約四十分。その間に注視が確認された箇所は、北側主柱三本、東側接合部二箇所、および魔導技師の作業エリア付近でございます。また、若い職人の一人に声をかけ、天候の話題から始めて、使用している鋳鉄の産地について質問していた形跡がございます」
「鋳鉄の産地か……。それが判明すれば、王国の資源調達ルートが推測できる。流石だな、抜かりがない」
「その職人には私から注意を促しておきました。本人も、込み入った話はしていないと申しております」
「ありがとう、エーリッヒ。引き続き奴の動向を追ってくれ。それから、フェリックスとマルクスにも帝国の動きについて情報を共有しておいてほしい。とくにマルクスには、商人組合の中に帝国と接触している者がいないか、注意を払うよう伝えてくれ」
「承知いたしました」
数ヶ月の歳月が流れた。
季節は巡り、建設予定地の景色は一変していた。かつての赤土の更地は姿を消し、その場所には幾何学的な美しさを持つ鋳鉄の格子が空へ向かってそびえ立っている。
計算し尽くされた線と面が、冬の澄んだ光を受けて銀色に輝いていた。まるで巨人の肋骨のようにも見えるその骨格は、やがて肉と皮を得て、一つの生きた建物へと変貌を遂げるのだろう。
現場の空気も変わっていた。かつての疑心暗鬼や怠惰は跡形もなく消え、五十人の職人たちは互いに信頼し、ミスを指摘し合い、改善を重ねる強固な集団へと成長していた。
オスカーが骨格の全体を見上げ、深い息を吐いた。白い息が、冬空に溶けていく。
「……五十年やってきて、こんな建物を手がけることになるとはな」
珍しく感傷的な響きのある声だった。隣に立つレオポルトに、ぽつりと語りかける。
「正直、最初は不可能だと思った。五階建ての鋳鉄構造なんて正気の沙汰じゃないとな。だが、ここまで来た。お前さんの無茶な注文に応え続けるうちに、俺たちは自分でも知らなかった力を引き出されたよ。……礼を言う、男爵」
「先生に礼を言うべきは、私の方です。先生と職人の皆さんがいなければ、この骨格は存在しません。私は絵を描いただけだ。形にしたのは、先生たちの腕です」
「ふん。お互い様だということにしておこう。……だが男爵、本当の山場はここからだぞ」
オスカーが顎で天を指した。
「ガラス天井だ」
そして、最難関であるガラス天井の取り付け工事が始まった。
一枚五十キログラムもある巨大な強化ガラスが、荷馬車で次々と現場に運び込まれてくる。藁で丁寧に梱包されたそれらは、一枚一枚が貴重な資源であり、破損すれば莫大なコストと工期の遅延を招く。
オスカーは搬入作業を監督しながら、職人たちを集めて訓示を行った。
「全員よく聞け。ここからが最難関だ」
老技師の声が、冬の現場に響き渡った。
「一枚五十キロの強化ガラスを、十五メートルの高さまで吊り上げて、フレームにはめ込む。風速、湿度、温度、そのすべてが敵になりうる。一枚でも割れたら、工期は一週間遅れ、金貨五十枚が吹っ飛ぶ」
オスカーは一拍置いた。
「だが、金のことなんぞ些末な話だ。それより重要なのは、お前たちの命だ。高所作業中に足を滑らせたら、命はない。安全綱を必ず確認しろ。二重に確認しろ。三度目は隣の人間に確認してもらえ。いいな」
「はい!」
「作業は四人一組で行う。吊り上げ担当二名、誘導担当一名、固定担当一名。声を掛け合え。黙って作業するな。合図なしに動くな。連携が命だ。一人の判断ミスが、四人全員の命を危険に晒す。肝に銘じろ」
取り付け作業が始まった。
四人がかりでガラスを慎重に吊り上げ、高所のフレームに合わせていく。滑車の縄が軋み、ガラスが空中で僅かに揺れるたびに、地上の職人たちが息を呑む。
「引け! ゆっくりだ……。そう、そのまま……。止め!」
「誘導、位置を確認しろ」
「右に二センチずらせ……よし、そこだ」
「固定、刻印を起動!」
青白い魔導の光が空に走り、ガラスがフレームに吸い付くように固定された。
「……入った。完璧だ」
歓声が上がりかけたが、オスカーの声がそれを即座に引き締めた。
「喜ぶのは早い。あと八十七枚ある。集中を切らすな」
一枚、また一枚と、強化ガラスが空に嵌め込まれていく。それはまるで、青空に巨大な宝石をちりばめていくような作業だった。陽光がガラスを透過し、地上に虹色の光を散らす。その美しさに、遠くから作業を見守る民衆たちが感嘆の声を上げた。
作業の合間に、レオポルトが足場を登ってきた。
「先生、進捗はいかがですか」
「おい男爵、貴族がこんな高い足場に登ってくるな。落ちたら全部おしまいだぞ」
「大丈夫です、安全綱はつけています。……それに、この光景を間近で見たかったんです」
レオポルトは取り付けられたばかりのガラス天井を見上げた。冬の青空が、ガラスを通して一段と鮮やかに輝いている。
「……美しい。先生、これは芸術ですよ」
「芸術じゃない。技術だ」
オスカーはぶっきらぼうに答えた。だが、彼もまた空を見上げていた。しばらく黙ったまま、二人は並んでガラスの向こうの空を眺めた。
「……まあ、悪くない眺めだな」
ぽつりとオスカーが呟いた。二人の間に、言葉にならない共感が流れた。
民衆たちもまた、日々高くなっていく建物を驚きと期待の眼差しで見上げていた。
「あれが、デパートか……」
老人たちの呟きには、一生涯見ることがないと思っていた新しい時代の到来を予感する畏怖が混じっている。
「おいおい、あのガラスの天井を見ろよ。空が透けて見えるぞ。建物の中にいながら、空の下にいるみたいなもんじゃないか」
「あんなもの、見たことがあるか。俺はないぞ。六十年この街にいるが、王宮でさえこんな建物は見たことがない」
商人たちは、その規模から商業的な可能性を計算し始めている。
「あの広さなら、一階だけでも相当な数の店が入るぞ。五階建てとなると……百店舗は下らないんじゃないか」
「もし全店舗が正価販売を行うなら、価格の透明性が市場全体に波及する可能性がある。我々のような個人商店にとっては、脅威であり機会でもあるな」
「完成したら、俺たちも中に入れるのか」
子供たちの質問は、いつだって最も本質的だった。
「母ちゃん、あの光ってるの何? 空みたいにきれいだよ!」
「あれはガラスよ。お日様の光が通るように、天井がガラスでできているの」
「すげえ! じゃあ、雨の日でも中は明るいの?」
「そうらしいわよ。すごいわねえ……」
「ねえねえ、完成したら中に入れる? 入りたい! 絶対入りたい!」
「入れるわよ。男爵様が、みんなのための場所だっておっしゃってたでしょう。あんたたちも『みんな』の中に入ってるのよ」
「やったー!」
街中に、新しい時代の風が吹き始めていた。
だが、レオポルトの心は晴れなかった。
夜。屋敷の書斎。
窓から見える建設現場の鉄骨のシルエットが、月光を受けて黒々とそびえている。
レオポルトは机に向かい、しかし羽根ペンは動いていなかった。思考が、建設の成功ではなく、その先に待ち受ける危機を見つめていた。
エーリッヒが、紅茶を載せた盆を静かに差し入れた。南部産の茶葉の、ほのかに甘い香りが書斎に広がる。
「旦那様。夜もだいぶ更けてまいりました。少しお休みになられては……」
「ありがとう、エーリッヒ。だが、もう少しだけ考えたいことがある」
「シュタイナー大佐に関してでございますか」
「ああ。……エーリッヒ、お前の見立てを聞かせてくれ。あの男は次に何を仕掛けてくると思う」
エーリッヒは少し考えてから、慎重に口を開いた。
「技術介入を拒絶された以上、直接的な手段は封じられました。となれば、間接的な攻撃に切り替えてくるのではないかと推察いたします。具体的には、資材の供給経路への妨害、あるいは民衆の感情を操作して建設反対の世論を醸成する……といった手法が考えられます」
「……お前の分析は、私の懸念と一致している」
レオポルトは紅茶を一口含み、カップを置いた。
「エドヴァルトは諦めていない。技術介入を断られた今、奴は必ず別の手を打ってくる。直接の乗っ取りではなく、もっと巧妙な、もっと見えにくいやり方で……」
第一周目の記憶が、生々しく蘇ってきた。
あの時、建設の佳境で、王都の周辺農村を原因不明の食糧不足が襲った。市場の穀物価格が急騰した。パンの値段は三倍に跳ね上がり、一般家庭は日々の食事すら確保できなくなった。
後になって判明したことだが、帝国の商人たちが裏で穀物を大量に買い占めていたのだ。人為的な飢饉を作り出すことで、民衆の不満を煽った。そして、その不満はデパート建設への怒りへとすり替えられた。「あんな贅沢な建物に金を使うから、俺たちの食い物がなくなるんだ」という声が、街中に充満した。
やがて暴動が起き、民衆は建設現場を襲撃した。完成間近だった建物は、一夜で灰燼に帰した。
そして、その責任はすべてレオポルトに押しつけられたのだ。
「旦那様」
エーリッヒの声が、沈黙を破った。
「差し出がましいことを申しますが……」
「言ってくれ、エーリッヒ」
「第一周目のお話を伺うたびに思うのですが……旦那様は、あまりにも多くのものをお一人で背負おうとなさっているように見えます」
レオポルトは顔を上げた。
「今は違うのです、旦那様。オスカー棟梁がいらっしゃる。フェリックス様がいらっしゃる。マルクス殿も、クララ様も。どうか、お一人で抱え込まないでください。皆さまにお任せになれることは、お任せになってよいのです」
レオポルトは、しばし言葉を失った。
エーリッヒの言葉が、張り詰めていた胸の奥の何かに触れた。
「……ありがとう、エーリッヒ。お前の言う通りだ。第一周目の俺は、すべてを一人でやろうとして、すべてを失った。今回は違う。仲間がいる。信頼できる人間がいる。それが、今の俺の最大の武器だ」
「では、お一人で悩まれるのではなく、明日、皆さまとお話しになってはいかがでしょう」
「ああ、そうしよう。だが、今夜だけは考えさせてくれ。対策の骨子は、自分の頭の中で整理しておきたいんだ」
「承知いたしました。紅茶のおかわりをお持ちいたしましょうか」
「……頼む」
エーリッヒが静かに退室した後、レオポルトは机に向かい直し、羽根ペンを執った。
「今回は、先手を打つ」
インクを浸し、羊皮紙に対策を書き連ねていく。
「食糧備蓄計画の前倒し実施。デパートの地下倉庫を活用して穀物を確保し、いざという時には市場価格で放出する。帝国による価格操作を無力化するための、防波堤だ」
ペンが、紙の上を走る。
「農村部との直接契約を拡充する。安定買付制度によって農民の生産量を安定させ、王国の食糧自給率を高める。調達先を複数に分散させることで、一箇所が攻撃されても他で補える態勢を構築する。冗長性が鍵になる」
さらに、別の方面の対策も記していった。
「公共図書室の設置と、識字教育の推進。民衆が自ら情報にアクセスし、検証できるようになれば、デマは力を持たなくなる。第一周目では、『デパートのせいで食糧がない』という嘘が広まった時、民衆にはそれを確かめる手段がなかった。文字が読めなければ、市場の取引記録を見ることもできない。誰かの叫び声が、そのまま真実になってしまう。だが、もし民衆が自分の目で事実を確認できるなら……デマは、光の前の影のように消え失せる」
羽根ペンを置き、レオポルトは拳を強く握りしめた。
窓の外では、月光を浴びた鉄骨のシルエットが、巨人のように夜空にそびえ立っている。まだ骨だけの姿だが、その存在感はすでに王都の夜景を変え始めていた。
「来い、エドヴァルト」
レオポルトの呟きは、覚悟に満ちていた。
「今度こそ、お前の描いた筋書き通りにはさせない。この国の民衆を、この王国の未来を……絶対に守り抜いてみせる」
その決意の裏には、消えない傷があった。第一周目で、帝国の謀略によって命を失った者たちの記憶だ。
「あの日、炎に包まれた現場で、逃げ遅れた職人が三人いた」
声が、僅かに震えた。
「俺は……助けられなかった。手を伸ばしたが、届かなかった。あの三人の顔を、俺は一生忘れない。……だからこそ、今度は誰一人として失わない。建物も、人も、この国の誇りも。すべてを守り抜く」
静かに扉が開き、エーリッヒが紅茶のおかわりを載せた盆を持って戻ってきた。
「旦那様。……必ず成し遂げられます。私はそう確信しております」
「……ありがとう、エーリッヒ。お前がそう言ってくれるだけで、少し肩の荷が軽くなる」
「お言葉ですが、旦那様。肩の荷を軽くするのは、私の仕事ではございません。紅茶の仕事でございます。どうぞ、温かいうちにお召し上がりくださいませ」
レオポルトは思わず笑った。張りつめた夜の空気の中で、その笑い声だけが柔らかかった。
「……お前は本当に、最高の執事だな」
「恐れ入ります」
エーリッヒはいつもの無表情のまま一礼した。だが、その目の奥に、温かな光がかすかに灯っているのを、レオポルトは見逃さなかった。
蝋燭の灯りが揺れ、二人の影が壁に大きく映し出されている。
夜はまだ深い。だが、その闇の向こうには、確かに朝が待っている。幾度となく暗闇を越えてきたレオポルトは、それを知っていた。
窓の外で、冬の風が低く唸った。
王都の上空を覆う雲が、月の光を隠していく。嵐の予兆が、夜気の中に微かに匂い始めていた。
建設は、単なる建設ではない。
王国の尊厳を取り戻すための、長く険しい戦いが始まったのだ。




