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第5話 図書室司書クララの疑念

 華やかな中央広場を背にして歩くこと、およそ三十分。


 王都の景色は、一歩ごとにその色合いを変えていった。磨き上げられた石畳はいつしか途切れ、踏み固められただけの土と砂利の道がどこまでも続いている。豪奢な煉瓦造りの商館や貴族の邸宅はとうに姿を消し、代わりに現れたのは、継ぎ接ぎだらけの木造家屋の群れだった。まるで互いに寄りかかり合うことでかろうじて倒壊を免れているかのように、ひしめき合いながら密集している。壁という壁には深い亀裂が走り、屋根の上には風雨を凌ぐための粗末な布切れが無造作に被せられていた。


 空気が、変わる。


 淀んだ風に乗って、下水の臭いが鼻腔を突いた。それは単なる悪臭ではない。毎日が生存との戦いであるという重い現実そのものが、この街区の空気となって滲み出しているのだ。


 レオポルト・ヴァイスハルトは、その荒廃した道を一歩一歩、足裏の感触を確かめるように進んだ。


 道の脇で、痩せた中年の女が盥の中の洗濯物を力任せに絞っていた。赤く荒れた手が、灰色に擦り切れた布を何度もねじる。レオポルトの姿が視界に入ると、女は手を止めて怪訝そうに目を細めた。


「あんた、こんなところで何してるんだい。見たところ、上の街の人間だろう」

「人を訪ねてきたんです」

「人を訪ねる? はん、この辺にあんたの知り合いがいるってのかい。珍しいこともあるもんだ。まあいいけどね、忠告しとくよ。財布は懐の奥にしまいな。この辺じゃスリなんて日常茶飯事だ。あんたみたいな上等な身なりしてたら、格好の獲物だよ」

「ご忠告、ありがとうございます。気をつけます」

「気をつけるったって、あんた、供の一人もつけてないじゃないか。正気かね。まあ、あたしには関係ないけどさ」


 女は鼻を鳴らし、再び洗濯物に手を戻した。


 さらに奥へ足を進めると、路地の角にうずくまるように座り込んだ老人が、レオポルトの足音に顔を上げた。日に焼けた皺だらけの顔。落ち窪んだ目。骨と皮ばかりの手が、おずおずと差し出される。


「旦那、旦那。一銭だけでいい、恵んでくだせえ。今朝から何も腹に入れてねぇんだ」


 レオポルトは足を止め、懐から銅貨を数枚取り出して老人の掌にそっと載せた。


「これで何か温かいものを食べてください」

「おお……旦那、ありがてえ。本当にありがてえよ」


 老人は銅貨を両手で包み込み、拝むようにして何度も頭を下げた。だがふと、その落ち窪んだ目がレオポルトの顔をじっと見つめた。


「旦那、あんた良い人だな。こんなとこまで足を運ぶ金持ちなんぞ大抵ロクでもないもんだが、あんたの目は違うよ。何か……悲しいもんを背負ってる目だ」


 レオポルトの足が止まった。


「悲しいもの、ですか」

「ああ。わしは長く生きてきたからな。人の目を見りゃ、だいたいのことは察しがつく。あんた、何か大きなものを失くしたことがあるだろう。それも、自分のせいでな」

「……鋭いですね」

「年寄りの勘ってやつだ。当たってるかい」

「……当たっています。的確すぎて、少し驚きました」

「ふん。そうかい。まあ、気をつけて行きな。この先はもっと治安が悪い。特に日が暮れてからは、命の保証もないからね」

「ありがとうございます。お身体にも気をつけて」

「はっ。わしの心配より自分の心配をしな、旦那」


 老人は掠れた笑い声を上げ、銅貨を大事そうに懐に仕舞い込んだ。


 レオポルトは再び歩き始めた。


 第一周目でも、この貧民街に来たことはある。だがあの時はあくまで視察だった。馬車の窓越しに、あるいは衛兵に囲まれた安全圏から貧困を「観察」し、数字として記録し、見栄えの良い報告書にまとめるための業務に過ぎなかった。


 民衆の生活を理解しているつもりでいた。だが実際には何一つ見えていなかったのだ。自分の視点は常に外部からのそれであり、一度として当事者の足元に立ったことがなかった。


 今回は違う。


 レオポルトはすれ違う一人ひとりの顔を、目を逸らさずに見つめた。裸足で路地を駆け回る子供たちの、肋骨が浮き出た胸。家の前で虚ろな目を宙に投げ出す大人たちの、希望を失って久しい瞳。軋む音を立てて傾ぐ、今にも崩れ落ちそうな家々。


 すれ違った子供たちの一人が、好奇心に目を輝かせてレオポルトの服の裾を引っ張った。六つか七つくらいの男の子だ。顔は泥だらけだが、その目だけは星のように光っている。


「ねえ、おじさん。その服、すごくきれいだね。触ってもいい?」

「ああ、いいよ」

「わあ、すべすべだ! こんなの初めて触った! ねえねえ、おじさんはお城の人?」

「お城の人ではないけれど……まあ、似たようなものかもしれないな」

「すごいなあ。ねえ、お城の人ってさ、毎日パンが食べられるの?」


 その問いが、レオポルトの胸を鋭く抉った。


 毎日パンが食べられるかどうか。それが、この子にとっての「すごい」の基準なのだ。


「……ああ。毎日食べられるよ」

「いいなあ! 僕、昨日は食べてないんだ。でもね、お母さんが明日はきっと何か見つかるって言ってたから、大丈夫なんだ」


 屈託のない笑顔だった。空腹すら日常として受け入れてしまっている無邪気さが、かえって胸を締めつける。


 レオポルトは懐に残っていた銅貨を全て取り出し、子供の小さな手に握らせた。


「これでパンを買いなさい。お母さんの分も忘れずにな」

「えっ! こんなにいいの!? 本当に!?」

「本当だ」

「ありがとう、おじさん! お母さーん! すごいの、見てー!」


 子供は歓声を上げながら路地の奥へ走り去っていった。小さな背中が角を曲がって見えなくなるまで、レオポルトはその場に立ち尽くしていた。


 これが、王国の煌びやかなベールの下に隠された現実だ。目を背けることはできない。認めるしかない。


 デパートは、ここから始めなければならない。彼らのための場所を、彼らと共に作るのだ。その信念が胸の奥で静かに、だが確かに燃えている。


「前回の俺は、この現実を数字でしか見ていなかった」


 レオポルトは低く呟いた。


「貧困率何パーセント、平均所得何銅貨、栄養不良児の割合。そんな指標をいくら並べたところで、あの子の空腹の前では何の意味もない。数字は現実の輪郭を描くことはできても、その中身までは映し出せない」


 貧民街の最奥に、その小さな建物はひっそりと佇んでいた。


 周囲の家々と同じく年季が入っているが、他とは決定的に違うところがある。掃除が行き届いていた。壁は継ぎ接ぎだらけではあるものの、補修の跡が丁寧で、窓ガラスには罅一つない。玄関先の石段はきれいに掃き清められ、軒下に吊るされた干し草の束が、かすかに甘い香りを漂わせていた。


 荒廃した街並みの中で、その一軒だけが凛とした空気を纏っている。貧しさに支配されていても精神の自由は手放さない。そんな気概が、建物全体から静かに滲み出していた。


 一階の窓辺に、小さな看板が掲げられている。


 『ノイマン書籍修復工房』


 ペンキは所々剥がれかけていたが、文字そのものは几帳面で美しい。一画一画に力が込められた、書き慣れた者の筆跡だ。


 レオポルトは看板の文字をしばし見つめてから、工房の前で足を止めた。


 心臓が早鐘を打っている。


 第一周目の記憶が、痛みを伴って蘇ってくる。


 クララ・ノイマン。二十八歳。


 貧しい家に生まれながら独学で文字を覚え、本を何よりも愛した女性。第一周目においてレオポルトが開設した公共図書室の司書として、誰もが無料で知識に触れられる場所を守り続けてくれた人。庶民の声を代弁する透明性の象徴として、その献身は紛れもない本物だった。


 だが、革命の日。


 彼女は、レオポルトを糾弾する群衆の中にいた。最前列ではない。群衆の後方で、顔を伏せ、震える肩を自分の腕で抱きながら、ただ泣いていたのだ。


 革命法廷でのクララの証言が、脳裏に甦る。


 『レオポルト様は……いいえ、被告人は、私たちに希望を与えました。誰もが平等に知識に触れられる場所を作ると。私はそれを信じました。図書室の蔵書を一冊一冊選び、棚を整え、子供たちに読み聞かせをしました。あの場所は……私の全てでした』


 証言台の上で、彼女の声が震えていた。


 『でも……あの書斎で見つけた書簡……帝国の紋章が押されたあの手紙を見たとき……私は信じたくなかった。何かの間違いだと思いたかった。でも、紋章は本物でした。封蝋も、筆跡も……。私は……裏切られたのだと……思いました……』


 その言葉の裏にあった苦悩を、今のレオポルトは理解できる。彼女は裏切りたかったのではない。裏切られたと、信じ込まされたのだ。帝国の工作員が仕組んだ精巧な偽造書簡によって。


 あの涙は何だったのか。レオポルトを裏切ったことへの悔恨か。それとも、レオポルトに裏切られたと思い込んだことへの絶望か。その真実は、断頭台に刃が落ちた瞬間の彼女の涙の中にしか存在しない。


 レオポルトは強く拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。


 今度は違う。今度こそ、彼女を裏切らない。そして彼女にも、決して揺るがぬ本当の信頼を築いてもらう。


「偽の証拠を仕込ませない。シュタイナーの工作を未然に潰す。何より、クララに疑念を抱かせる隙を一切作らない」


 レオポルトはゆっくりと扉に手を伸ばし、控えめに叩いた。


 コン、コン。


 その音が、静かな工房に小さく響く。


 中から、軽い足音が近づいてくるのが聞こえた。若い女性の足取りだ。だが扉が開く前に、内側から警戒を含んだ声が発せられた。


「はい、どちら様でしょうか。書籍修復のご依頼でしたら、現在三か月ほどお待ちいただいておりますが」


 澄んだ声だった。知性と慎重さが同居する音色。だがその底には、見知らぬ訪問者に対する明確な警戒が潜んでいる。


「修復の依頼ではありません。ヴァイスハルト伯爵家のレオポルトと申します」


 レオポルトは努めて穏やかに、しかし明瞭な声で名乗った。威圧にならぬよう、声量を抑える。


「クララ・ノイマンさんにお話ししたいことがあり、参上いたしました」


 扉の向こうに、沈黙が落ちた。空気の質が変わったのが、木の板一枚を隔てていても伝わってくる。


「……伯爵様?」


 明らかに動揺した気配。足音が一瞬止まり、それからまた小さく動いた。


「伯爵様が、このあたりに何のご用でしょう。お道に迷われたのではないですか。中央広場へお戻りになるのでしたら、この通りをまっすぐ引き返して、二つ目の角を右に曲がれば……」

「迷ってはいません。あなたに会いに来たのです、クララ・ノイマンさん」

「私に……?」


 さらに長い沈黙。扉の向こう側で、小さな足音が行ったり来たりしている。逡巡しているのだ。


 やがて、軋む音とともに扉が数センチだけ開いた。隙間から覗いたのは、片方の瞳だけ。


 クララ・ノイマン。


 記憶の中の彼女と、寸分違わぬ姿だった。


 茶色の髪を質素な紐で一つに束ね、少し色褪せた作業着を身に纏っている。顔立ちは端正というよりも聡明で、頬に薄く残るそばかすが幼さの名残を留めていた。だが何より印象的なのは、その瞳だ。ヘーゼルナッツ色の虹彩に、知性の光が宿っている。書物を通じて世界を見つめ続けてきた者特有の、深く澄んだ輝き。


 しかし今、その瞳は明らかな敵意と警戒で鋭く研ぎ澄まされていた。仕立ての良い貴族の外套、胸元に光る家紋の留め金、そして供の者も連れずに貧民街の最奥に一人で立っているという不可解な状況。それら全てが、彼女の防壁をいっそう高く積み上げている。


「本当に、伯爵様ご本人なのですか。お供の方は。護衛は」

「一人で来ました」

「一人で、この貧民街に」


 クララの声に、困惑と不審が入り混じった。扉の隙間は広がらない。


「正気でいらっしゃいますか。日が暮れたらこのあたりは本当に危険です。そのお召し物で歩いていたら、追い剥ぎに遭いかねません」

「ご心配いただきありがとうございます。ですが、護衛をつけて大人数で押しかけるのは、あなたに対して失礼だと思いまして」

「……失礼? 私に?」


 その言葉に、クララは明らかに面食らった。扉を支える手の力が、ほんのわずかだけ緩んだのが見て取れる。貴族が庶民に対して「失礼」を気にかけるという概念そのものが、彼女の人生経験の中に存在しないのだ。


「伯爵様が、私のような者に一体何のご用でしょう。書籍の修復のご依頼でしたら先ほども申しました通り三か月お待ちいただくことになります。それに、お屋敷に伝わる家宝の装丁をやり直すような仕事でしたら、中央区にもっと腕の立つ職人がおります。ハインリヒ・ヴェーバーという方で、宮廷御用達の……」

「修復の依頼ではないのです」


 レオポルトは穏やかに、しかし確かな声で遮った。


「あなたご自身にお話があって参りました」


 クララの目が、扉の隙間から鋭く光った。


「……正直に申し上げてもよろしいですか」

「どうぞ」

「貴族の方がこのあたりにお越しになるとき、ろくなことは起きません。去年は地代の値上げを告げる使いの者が来ました。その前の年は、向かいの家が立ち退きを迫られて、おばあさんが一人で泣いていました。私にも同じような話をされるおつもりでしたら、お断りいたします。失礼ですが、お引き取りください」

「地代の値上げでも、立ち退きでもありません。むしろ、その正反対の話です」

「正反対……?」


 クララの眉がわずかに動いた。警戒は解けていないが、好奇心の萌芽がかすかに顔を覗かせている。


「立ち話ではご迷惑でしょう。ほんの少しだけ中に入れていただけないでしょうか。五分で結構です。お話を聞いていただいた上で、興味が湧かなければ遠慮なく追い返してください。何の義務も生じません。お約束します」


 クララは扉の隙間から、もう一度レオポルトの目をじっと凝視した。


 嘘をつく者の目か。本気の者の目か。亡き父がよく言っていた。目を見ろ、クララ。言葉はいくらでも飾れるが、目だけは嘘をつけない。


 数秒間の沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。


「……五分だけですよ。それ以上は困ります」


 扉がゆっくりと開かれた。


「散らかっていますが、どうかご容赦ください。それと、お茶をお出しできるような余裕はございませんので。そこだけはご了承を」

「お構いなく。お時間をいただけるだけで十分です」


 工房の中は、狭いながらも驚くほど整然としていた。


 壁一面の棚に、修復を待つ書籍が丁寧に立て並べられている。黒ずんだ革装丁の古い聖典。日焼けして表紙の反り返った歴史書。背表紙が剥がれかけた子供向けの物語集。どれも手垢にまみれ、長い歳月の痕跡を纏っているが、一冊一冊が大切に扱われていることは一目で見て取れた。


 作業台の上には道具類がきちんと整列している。糊の壺、太さの異なる数種類の針、蜜蝋を塗った亜麻糸の束、様々な色と厚みの紙と革のサンプル、そして研ぎ澄まされた革裁ちナイフ。職人の聖域だ。その秩序正しさそのものが、この工房の主の性格を雄弁に物語っている。


 クララは作業台の脇に置かれた簡素な丸椅子を指し示した。


「そちらにどうぞ。ぐらつきますので、もたれかからない方がいいです」

「ありがとうございます」


 レオポルトが腰を下ろすと、クララは少し離れた場所に立ったままの姿勢を崩さなかった。座らない。距離を保つことで、見えない防壁を維持しているのだ。


 レオポルトは工房の中をゆっくりと見回した。視線が棚の一冊一冊をなぞり、作業台の道具の配置を読み取り、壁に貼られた修復手順の覚書に留まる。


「素晴らしい工房ですね」


 お世辞ではなかった。心からそう思った。


「この棚の本は、修復待ちのものですか。随分と年代の古いものも混じっていますね。あちらの革装丁は……百年は経っているのではないですか」


 クララが不意を突かれたように瞬きした。


「……よくお分かりになりますね。あれは百二十年前の植物図鑑です。装丁に使われていた革が完全に劣化してしまって、表紙と本体が分離しかけています。新しい山羊革で表紙を作り直して、元の金箔の文字を移し替える予定です」

「金箔の移し替えとは、相当な高等技術ですね。熱を加えすぎれば文字が崩れ、足りなければ革に定着しない」


 クララの目が、はっきりと見開かれた。


「書籍修復にお詳しいのですか」

「少しだけ。本が好きなもので、修復の工程にも自然と興味が向きまして。あちらの針と糸はかがり綴じ用のものですね。亜麻糸でしょうか」

「はい。蜜蝋でコーティングしてあります。糸の強度と耐水性を同時に確保するためです。祖父の代から受け継いだ手法で、父がさらに改良を加えました」


 クララの声から、かすかに警戒の色が薄れていた。自分の専門領域に正確な知識をもって踏み込まれると、職人としての矜持が防壁を越えて反応してしまうのだろう。


「お父様から受け継がれた技術なのですね」


 クララは、少し驚いたように目を瞬かせた。


「なぜ、父から受け継いだとお思いに」

「看板の文字です。『ノイマン書籍修復工房』。ノイマンはあなたの姓でしょう。しかしあの筆跡は、失礼ながらあなたの年齢の方が書いたものではない。もう少し年配の、力のある筆致です。おそらく男性の。文字の角の処理に独特の癖がありました。長年書き慣れた方の手によるものだと感じたのです」


 クララは思わず口元を手で覆った。


「……そこまで看板の文字をご覧になっていたのですか」

「職業柄、細かなところに目が行く癖がありまして」

「はい……父は二年前に他界しました。それからは、私が一人で」


 クララの視線が、窓の方にちらりと逸れた。外の光に目を細めるようにして、それからまた戻す。


「あの看板は、父がこの工房を開いた日に自分の手で書いたものです。塗り直そうと思えば何度でもできたのですが……父の字を消してしまうのが嫌で。だから剥がれかけたまま、そのままにしています」

「お父様は、素晴らしい方だったのでしょうね」

「……はい」


 クララの声が、わずかに揺れた。


「読み書きのできなかった母の代わりに、私に文字を教えてくれたのは父でした。この街では、文字が読める子供のほうが珍しいんです。父自身も独学で覚えた人でしたから、教え方は正直なところ下手くそで……でも毎晩、仕事が終わった後に、ろうそくの灯りの下で、砂板に一文字一文字なぞって見せてくれました。『いいか、クララ。この線をこう引くんだ。ゆっくりでいい。急ぐ必要はない。文字というのはな、急いで覚えるものじゃない。一つずつ、自分のものにしていくんだ』って」


 語り終えて、クララはふいに口を噤んだ。言いすぎた、という気配が顔に走る。見知らぬ貴族の前で、父の思い出をここまで口にしてしまった自分に戸惑っているのだ。


「五分の約束でしたね」


 声のトーンが、急に硬くなった。


「そろそろ本題をお聞かせいただけますか。伯爵様がこの貧民街の書籍修復職人ごときに、一体何のご用なのか」

「ごとき、とは言わないでください。あなたの仕事には、それだけの価値がある」

「……価値。私の仕事に」

「ええ。だからこそ、あなたにお力を借りたいのです」


 レオポルトは身を乗り出した。声に真剣さを滲ませながら、けれど押しつけがましくならないよう、言葉を慎重に選ぶ。


「私は今、王都の中心に『デパート』という新しい商業施設を建設しようとしています」

「デパート……?」


 聞き慣れない言葉に、クララの眉が寄った。


「聞いたことのない名称ですが」

「私が考案した、この世界にまだない概念です。あらゆる商品を一つの建物の中に集め、身分を問わず、誰もが同じ条件で買い物ができる場所を作ります」

「身分を問わず……? それは、また大きなお話ですね」

「ええ。そしてそのデパートの中に、もう一つ、特別な場所を設けるつもりです」


 レオポルトは一拍の間を置いた。次の言葉が、この会話の核心だった。


「誰でも無料で利用できる『公共図書室』です。王都で初めての、身分も年齢も関係なく、誰もが自由に本を読める場所。そこの司書長を、あなたにお願いしたいのです」


 クララの動きが、止まった。


 呼吸すら一瞬停止したかのように見えた。ヘーゼルナッツ色の瞳が大きく揺れ、それから急速に混乱の色を帯びていく。


「……今、何と仰いましたか」

「公共図書室の司書長を、あなたにお願いしたいと言いました」

「公共図書室。無料で、誰でも」


 呟くように繰り返し、それから数秒の沈黙のあと、クララは乾いた笑い声を漏らした。その笑いには、信じたい気持ちと信じてはならないという戒めがない交ぜになっている。


「ご冗談でしょう。そんなもの、実現できるわけがありません。無料の図書室ですって? 一体誰が費用を出すのですか。本がどれほど高価なものか、ご存知ないわけではないでしょう。一冊の本を買うお金があれば、この街の家族が一週間は暮らしていけるんです。それを無料で貸し出すなんて……失礼ですが、現実というものをご存知ないのではありませんか」

「可能です」


 レオポルトの即答に、クララの笑みが消えた。冗談で返すつもりだった空気が、一瞬で変わる。


「デパートの利益の一部を、図書室の運営費として恒久的に充てます。これは個人の善意に頼る慈善事業ではありません。事業の構造そのものに、最初から組み込まれた制度です。デパートが存続する限り、図書室の運営予算は自動的に確保される仕組みを作ります」

「仕組みで……?」


 クララの声に、かすかだが確かに、興味の色が混じった。


「具体的に言えば、デパート全体の純利益の一割を地域還元基金として積み立てます。そこから図書室の運営に必要なもの全てを賄う。蔵書の購入費、傷んだ本の修復費用、冬場の暖房費、そして司書の給与。最新の学術書から子供向けの絵本まで、幅広い蔵書を整えます」

「暖房……」


 クララが小さく呟いた。その一語に込められた切実さを、レオポルトは聞き逃さなかった。


 冬の貧民街がどれほど過酷か。隙間だらけの壁を凍てつく風が貫き、指がかじかんで本のページをめくることすらできない日々。ろうそくの灯りですら贅沢品で、暗くなれば読書どころではなくなる夜の長さ。


「はい。冬でも温かい部屋で、子供たちが本を手に取れる場所です。指がかじかむ心配もなく、ろうそくの乏しい灯りに目を凝らす必要もない。明るい光の下で、好きなだけページをめくれる空間を」


 クララの表情が揺らいでいた。目の前の若い貴族が語っていることは、あまりにも常識から外れていて、そしてあまりにも魅力的すぎた。夢と現実の境界が曖昧になるような、危うい甘さがある。


「なぜ」


 彼女の声が震えた。


「なぜ、そんなことを。貴族のあなたが、なぜ庶民のためにそこまでなさるのですか。何の得があるのです。慈善事業なら教会がやっています。貴族が自分の財産を使って図書室を開くなんて、聞いたこともない。そんなことをしても社交界であなたの評判が上がるわけでもないでしょう。むしろ『庶民にかぶれた変わり者』と笑い者にされるのが関の山です。それなのに……なぜですか」

「私はこの王国を変えたいのです」


 レオポルトの声は静かだったが、その底には揺るがない重みがあった。


「生まれた場所で人生が決まってしまう社会を変えたい。貧しい家に生まれた子供が、一生貧しいままでいるしかない世の中を。文字が読めなければ契約書の内容も理解できず、不当な条件を飲まされる。知識がなければ、搾取されていることにすら気づけない。図書室は、その連鎖を断ち切るための最初の拠点なのです。知識は人を自由にする。それが私の信念です」


 クララはレオポルトを凝視した。その視線は相手の言葉の一字一句を秤にかけ、真偽を見極めようとするものだ。


「……知識は人を自由にする」


 彼女は低く呟いた。


「それは……父がよく口にしていた言葉です。まるで、父の声を聞いているようで……」


 一瞬、表情が柔らかく揺らいだ。だがすぐに、彼女は小さく首を振った。感傷に流されまいとするように。


「いいえ。甘い言葉に惑わされてはいけない。それも父に教わったことです。『言葉は嘘をつける。行動だけが真実だ』と。……美しい理想を語る人間ほど、裏で何をしているか分からないものです」


 彼女はゆっくりと首を横に振った。


「信じられません」


 拒絶の言葉。だがその声の底に、かすかな揺らぎがあることを、レオポルトは聞き取っていた。


「貴族の方が、見返りもなく庶民のために動くなんて。きっと何か裏がある。私たちを利用しようとしているだけではないですか」


 クララの目が鋭くなった。


「たとえば……『庶民のため』という看板を掲げるために、私のような人間を飾り物にしようとしている、とか。『貧民街出身の司書がいる図書室』なんて、いかにも民衆の味方のような顔をするのに都合がいいでしょう。貴族社会での政治的な駒として、私の出自を利用するおつもりなのでは」


 鋭い。そして的確だった。レオポルトは思わず息を呑んだ。第一周目でも感じていた彼女の洞察力の切れ味を、改めて肌で実感する。


「あなたが信じられないのは、当然のことです」


 レオポルトは否定も反論もせず、静かに肯定した。


「私があなたの立場にいたとしても、同じように疑うでしょう。見知らぬ貴族が突然やってきて夢のような理想を並べ立てる。典型的な詐欺師の手口と、何一つ変わりません。いや、手口そのものと言ってもいい」

「……ご自分を詐欺師と同じだと認めるのですか」


 クララの目に、わずかだが驚きの色がよぎった。


「外から見れば区別がつかないでしょう。詐欺師も理想を語る。甘い言葉で希望を見せ、信頼を勝ち取ったところで裏切る。今この瞬間の私の言葉は、そうした連中の言葉と見分けがつかないはずです。だから、信じなくて構いません」

「では、なぜここにいらしたのですか。信じてもらえないと分かっていて」

「信じてもらうためではなく、知ってもらうために来ました」


 レオポルトの声は穏やかだったが、一本の芯が通っていた。


「こういう構想がある。こういう場所を作ろうとしている人間がいる。そのことだけを、まず知っていただきたかった。信じるかどうかは、これからの私の行動を見て判断してください。言葉ではなく、行動で」

「行動で……」

「はい。私が何をして、何をしなかったか。それを見た上で、あなたが判断を下してくだされば結構です。急ぐつもりはありません」


 クララは黙った。その沈黙は、先ほどまでの拒絶の沈黙とは質が異なっていた。考えている。言葉を咀嚼し、吟味し、自分の中で転がしている。


「……ですが」


 レオポルトは静かに続けた。


「一つだけ、はっきり申し上げておきたいことがあります」

「何でしょう」

「あなたが必要なのです。ただ本を管理するだけの人間なら、金を出せば雇えます。それなりの能力を持つ者は見つかるでしょう。ですが、本当に本を愛し、庶民の痛みを肌で知り、知識の真の価値を理解している人は、そう多くはない。私が知る限り、あなたしかいません」

「なぜ私だと断言できるのですか」


 クララの声が、鋭さを増した。


「今日が初対面です。私の仕事の腕をご覧になったわけでもなければ、私がどういう人間かもご存知ないはずです。なのに『あなたしかいない』と仰る。その根拠は何ですか」


 レオポルトは一瞬だけ言葉に詰まった。なぜ知っているのか。それは、三年後の未来であなたの仕事を間近で見ていたからだ。あなたが図書室に注いだ情熱と、あなたが流した涙を知っているからだ。そう言えるはずもない。


「……あなたの工房を見れば分かります」

「工房を?」

「はい。この棚の並べ方です」


 レオポルトは壁の書棚に目を向けた。


「著者名のアルファベット順でも、ジャンル別でもない。修復の緊急度順に並んでいますね。最も劣化が進んでいるものが手前に置かれ、比較的状態の良いものが奥に控えている。限られた時間と資材を、最も救いを必要としている本から優先的に充てている。効率ではなく、必要性で判断を下す人間の棚です」


 クララの目が大きく見開かれた。


「それから、あちらの子供向けの物語集」


 レオポルトは棚の一角を指し示した。


「背表紙に、あなたの手書きでルビが振ってありますね。原書にはないはずのルビです。つまり、修復するだけではなく、子供たちがより読みやすいように手を加えている。依頼された仕事の範囲を超えた、教育者としての配慮です。お金をもらうためにやっている仕事ではない。本の向こう側にいる読者のことを考えて、手を動かしている」


 クララの唇が、かすかに震えた。


「……そこまで見ていたのですか」

「ええ。あなたは本を物として直しているのではない。本を通じて、人と人とをつなごうとしている。そういう姿勢は、お金で雇える類のものではありません。だから、あなたなのです」


 クララは唇を噛み締め、それから視線を落とした。膝の上で握った両手の指が、小さく白くなっている。


「……私には、断る権利すらないのでしょう」


 肩を落とすようにして、彼女は言った。


「貧しい私は、貴族様のお申し出に逆らう力を持ちません。生活のためなら、どのような条件であれ飲むしかない。結局、それが貧乏人の定めです。選ぶ権利なんて、お金のある方だけの贅沢品ですから」

「違います」


 レオポルトの声が、狭い工房の空気を震わせた。


 クララがびくりと顔を上げる。


「あなたには選択する権利がある。断ることも、私を追い返すことも、あなたの自由です。そしてそれは、あなたの正当な権利です。貧しいから逆らえないなどということは、あってはならない。もしこの社会がそうなっているのだとしたら、それこそが私の変えたいものなのです」


 クララは目を伏せた。


「……綺麗事にしか聞こえません」

「今は、それで構いません」


 レオポルトの声が、少しだけ柔らかくなった。


「ですが、もし受け入れてくださるなら、私はあなたと対等なパートナーとして仕事をしたいと考えています」


 クララの目が、再び見開かれた。


「対等……? 私と、あなたが。伯爵と、貧民街の修復職人が」

「はい。図書室に関するすべての権限を、あなたに委ねます。どのような本を置くか、どのようなルールで運営するか、開館時間、蔵書の選定基準、利用者への対応方針。すべて、あなたが決めてください。私は口を出しません」

「すべて私が……? 本当にですか。口を出さないと」

「出しません。あなたが必要だと判断した本は揃えます。あなたが不要だと判断したものは排除する。あなたが本当に必要だと思う場所を、あなたの手で一から作り上げてほしいのです」

「全権限……」


 クララは呟くように繰り返した。その言葉の重さを、咀嚼するように。


「ただし」


 レオポルトが一つだけ、と指を立てた。


「一つだけ、私からのお願いがあります」

「お願い……?」

「子供たちのための時間を、必ず設けてください。読み書きを学べる教室のようなものを。この街の子供たちが、あなたのお父様があなたにそうしてくださったように、文字と本の世界に触れられる場を」


 クララの瞳が潤み始めた。唇を引き結んでいるのに、頬の筋肉が微かに痙攣している。泣くまいと懸命に堪えているのだ。


「どうして……」


 掠れた声だった。


「どうして、父のことまで……。会ってまだ一時間も経っていないのに、なぜ。私が父から何を受け取ったか、どうしてそんなことまで」

「あなたの工房を見れば分かります。この看板を、剥がれかけても塗り替えなかったあなたを見れば。子供向けの物語にルビを振るあなたを見れば。あなたがどんな人で、何を大切にしてきたか、この工房のすべてが語っています」


 クララは両手で顔を覆った。指の隙間から、涙がこぼれ落ちる。


 こんな言葉をかけられたのは、父が死んで以来、初めてのことだった。自分の仕事を理解し、自分の存在を認め、自分が積み重ねてきたものに価値があると正面から言ってくれた人間は、この二年間、一人もいなかった。


「すみません……泣くつもりなんて……こんな、初対面の方の前で……」

「泣くことは弱さではありません。それだけ真剣に、この仕事を愛してこられた証拠です」

「……やめてください。そういうことを言われると……信じたくなってしまいます。信じてはいけないのに」


 しばらくの間、工房の中にはクララの押し殺した嗚咽だけが響いていた。窓の外から、子供たちの遊ぶ声が遠く聞こえる。


 やがてクララは顔を上げた。目は赤く腫れていたが、その奥に宿る光は、先ほどまでの冷たい警戒心とは明らかに異なるものに変わっていた。まだ信頼ではない。しかし、可能性の扉がわずかに開いた、その最初の光だ。


「考えさせてください」


 絞り出すような声だった。


「すぐにはお答えできません。あまりにお話が大きすぎて、今の私の頭では受け止めきれない。本当に信じてよいのかどうか、まだ判断がつきません。今日伺った内容を、一人で冷静に考え直す時間が必要です。感情に流されて誤った判断を下すことが、何よりも怖いですから」


 レオポルトは深く頷いた。


「もちろんです。納得がいくまで、どれだけ時間をかけてくださっても構いません。一週間でも一か月でも。そしてもし最終的にお断りになったとしても、私はあなたを恨みも責めもしません」

「……本当に?」

「本当に。あなたの答えが何であれ、私はその判断を尊重します。それが、対等なパートナーということの意味ですから」


 クララは小さく息を吐いた。長い間、胸の奥に溜まっていた重い何かを、少しだけ解き放つような吐息だった。


 レオポルトは立ち上がり、扉の方へ向かった。


 だが、扉の把手に手をかける直前で振り返る。


「一つだけ、お願いしてもよろしいですか」

「まだ何かおありですか」


 クララは涙の痕を袖で拭いながら、問い返した。


「この貧民街の子供たちに、聞いてみてくれませんか」


 レオポルトは窓の外に目をやった。夕暮れの路地で、泥だらけになりながらはしゃぎ回る子供たちの姿が見える。


「もし自由に本が読める場所があったら、行ってみたいかと。その答えが、あなたの判断材料になるかもしれません」


 クララもつられるように窓の外を見た。裸足で駆け回る子供たちの姿。そのうちの何人かは、ほんの数時間前にレオポルトが銅貨を渡した男の子の仲間だろう。


「あの子たちの中に、あなたのお父様のような人がいるかもしれない。独学で文字を覚え、それを誰かに教えたいと願うような人が。ただ、機会がないだけで」


 クララは長い間、窓の外を見つめていた。


「分かりました」


 彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。


「子供たちには聞いてみます。それだけはお約束いたします」

「ありがとうございます。それだけで十分です」


 レオポルトが扉の把手に手をかけたところで、背後からクララの声が追いかけてきた。


「あの……伯爵様」

「はい」

「もし……もし仮に、この件をお受けするとして。一つだけ確認させてください」

「何でもどうぞ」

「図書室に、貴族専用の閲覧室はお作りになりますか」


 その問いに込められた鋭さを、レオポルトは正面から受け止めた。


「貴族だけが優先的に本を借りられる仕組みはございますか。身分によって入れる区画が分けられていたりは」

「一切ありません」


 レオポルトは迷いなく首を横に振った。


「王家の子供も、この街の子供も、同じ椅子に座り、同じ本を手に取る。それが公共図書室の大原則です」

「本当に……?」

「本当に。そしてその原則は、あなたが守ってください。もし私を含む誰かがその原則を曲げようとした場合には、たとえそれが国王であっても、あなたには拒否する権限がある。それも契約書に明記します」


 クララは長い沈黙のあと、レオポルトの目を真っ直ぐに見つめた。


「……お帰りになった方がいいですよ、伯爵様。もうじき日が暮れます。このあたりは暗くなると、本当に物騒ですから」

「ご心配いただきありがとうございます」

「心配などしていません。ここで貴族の方が襲われでもしたら、この一帯が責任を問われます。ご近所に迷惑がかかるんです」


 ぶっきらぼうな物言いだったが、レオポルトは微笑んだ。その口調の裏側にある、不器用なやさしさの気配を感じ取ったからだ。


「では、ご近所にご迷惑をおかけしないうちに失礼いたします」


 レオポルトは深々と一礼し、工房を後にした。


 扉が閉まる音が、夕暮れの路地に小さく響いた。


 残されたクララは、閉じた扉の前でしばらく呆然と立ち尽くしていた。


「あの人は……本当に、本気なのだろうか」


 呟く声は、自分自身に向けられたものだ。


 疑う心はまだ消えていない。この社会に刻み込まれた不信感は、一人の貴族の言葉くらいでは拭えない。だが、胸の奥で消えかけていた小さな灯火が、かすかに揺らめき始めているのを感じる。


 クララは作業台に歩み寄り、子供向けの物語集を棚から手に取った。自分が振ったルビの文字が、涙の残りで少しぼやけて見えた。


「あの人は、このルビに気づいた」


 呟きが、静かな工房に落ちる。


「誰も気づかなかった。父が死んでから二年間、この工房を訪れたどの依頼主も、このルビの存在に目を留めた人はいなかった。なのに……あの人は」


 クララは本を胸に抱いた。使い古された革の表紙の、温かい感触。


「もし……もし本当にそんな場所ができたら」


 窓辺に歩み寄り、遊んでいる子供たちを見下ろした。読み書きもできず、日々の糧を得ることだけで精一杯の暮らしを送る子供たち。だがもし彼らに本という翼を与えることができたなら。物語の世界を知り、知識を手に入れ、自分の人生を自分の力で切り拓く。その可能性が、どれほどの価値を持つか。


 窓の外で、先ほどレオポルトから銅貨をもらった男の子が、仲間たちに興奮気味にまくし立てているのが見えた。


「すごいんだぜ! お城の人がくれたんだ! パン買えるよ!」

「うそだー!」

「本当だって! すごく優しい人だったんだ。名前は聞かなかったけど、きれいな服着てた!」

「お城の人がこんなとこ来るわけないじゃん」

「来たんだってば! お母さんにも聞いてみろよ!」


 クララは小さく笑った。泣いた直後なのに、笑っている自分がおかしかった。


「知識は力だ」


 不意に、亡き父の口癖が胸の奥から浮かび上がってきた。


 父はよくこう言っていた。夕食後の、ろうそくの灯りの下で。


「いいかい、クララ。本というのはな、運命を変える魔法なんだよ。お父さんは貧乏な靴職人の倅だった。文字なんて一つも読めなかった。だがある日、教会の司祭様が文字を教えてくださった。たった一人の親切な方が、たった一つの技能をくれたんだ。それでお父さんの世界は変わった。本が読めるようになって、初めて知ったんだよ。この世界はお父さんが思っていたよりずっと広くて、ずっと美しいんだって。その感動を、お前にも知ってほしい。だからお父さんは毎晩、こうして文字を教えるんだ。眠くても、疲れていても。お前の目が輝いているのを見るとな、疲れなんて吹き飛ぶんだよ、クララ」


 その声が、今もこの耳の奥で温かく響いている。


 クララは修復中の古い物語集を、そっと胸に押し当てた。ぼろぼろの革表紙から伝わるかすかな温もり。この感触が、彼女をこれまで支えてきた。そしてこれからも、きっと支え続ける。


「お父さん。あの人を……信じてもいいのかな。それとも、また裏切られるのかな。教えてよ、お父さん」


 答えは返ってこない。この二年間、一度も返ってきたことはない。


 だが、胸に抱いた本の重みが、ほんの少しだけ、前に踏み出す勇気をくれたような気がした。


「もう一度、あの人に会おう」


 クララは声に出して言った。自分自身への誓いとして。


「そして問い詰めよう。その言葉に命を懸ける覚悟があるのかどうかを。本当にこの国を変える気があるのかどうかを。言葉ではなく、行動で証明してもらう。それで判断する。……それが、お父さんに教わったやり方だから」


 窓の外に目をやった。子供たちはまだ騒いでいる。


「明日、あの子たちに聞いてみよう。もし本が自由に読める場所があったら、行きたいかって」


 その問いの答えを、彼女はもう知っている気がした。


 


 夕闇が迫る貧民街の道を、レオポルトは足早に歩いていた。


 茜色に染まりゆく空と、路地に落ちる長い影。家々の窓に橙色の明かりが灯り始め、どこかの煙突から夕餉の支度を告げる薄い煙が立ち上っている。


「クララはまだ半信半疑だ。だが、それでいい」


 レオポルトは低く呟いた。


「むしろ、即座に承諾されていたら、かえって危うかった。彼女が自分の頭で考え、自分の心で迷い、そして自分の意志で選び取ること。それが何よりも大切だ。金や権力で従わせた忠誠は砂上の楼閣に過ぎない。だが理念に共鳴して結ばれた絆は、どんな嵐にも揺るがない」


 帰路の途中で、先ほどの洗濯物の女がまだ軒先にいた。盥の水を路地に撒きながら、レオポルトの姿を認めると目を丸くした。


「おや、あんた。まだ五体満足だったかい」

「おかげさまで。ご忠告に従って、暗くなる前に帰ることにします」

「ふん。あんた、ノイマンの嬢ちゃんのとこに行ったのかい」

「ええ」

「あの子はいい子だよ。親父さんが死んでから、たった一人で切り盛りしてる。この辺の子供たちに、時々ただで文字を教えてやったりもしてるんだ。金も取らずにね。自分だって食うや食わずだってのに。……あんた、あの子に変なことしようってんじゃないだろうね」

「まさか。あの方に仕事を依頼しようと考えています」

「仕事? 本の修復かい」

「それに近い、もっと大きな仕事です」

「ふうん。まあ、あの子が引き受けるかどうかは別だがね。あの子は頑固だから。一度疑い始めたら、容易には心を開かない。けどね」


 女は洗濯物を干し竿にかけながら、ちらりとレオポルトを見た。


「一度信じると決めたら、最後まで信じ抜く子だよ。親父さん譲りの一途さでね。だから、もしあの子が信じてくれたなら……裏切るんじゃないよ。あの子をこれ以上傷つけたら、この街の人間が黙っちゃいないからね」

「肝に銘じます」

「口だけじゃなく、本当にそうしなよ。あたしは目が利くんだ。あんたが嘘をついたら、すぐに分かるからね」

「はい。嘘はつきません」

「ふん。まあ、行きな。暗くなる前に、とっとと上の街に戻りな」


 女は手を振って追い払うような仕草をした。レオポルトは軽く会釈して、足を速めた。


 中央街区に向かう道すがら、レオポルトの思考は第一周目の失敗を反芻していた。


「前回は、クララを雇用という形で引き込んだ。給与を支払い、仕事を与え、環境を整えた。それ自体は間違っていなかった。だが足りなかったのは、彼女を対等な人間として扱うという根本の姿勢だ。俺は施す側で、彼女は施される側だった。どれだけ善意を重ねても、その非対称な関係が最後には信頼を蝕んだ」


 石畳に足音が戻ってくる。貧民街の泥道から中央区の舗装路へ。景色が変わる境界を跨ぎながら、レオポルトは空を見上げた。


 茜色の雲が流れ、その隙間から一番星がひっそりと瞬き始めている。


「今回は違う。彼女を施しの対象ではなく、意思決定の主体にする。図書室の全権限を委ねたのは、そのためだ。彼女が自ら考え、自ら決め、自らの手で作り上げる。俺はそれを支える。その関係こそが、前回との決定的な分岐点になる」


 足を速めながら、次の課題に意識を向ける。


 帝国の工作員エドヴァルト・シュタイナー。あの男が動き出すのは、もはや時間の問題だ。第一周目では、デパート建設を発表した直後に甘い笑顔とともに近づいてきた。


 あのときの台詞が、鮮やかに甦る。


「ヴァイスハルト伯爵、初めまして。エドヴァルト・シュタイナーと申します。帝国からの輸入雑貨を扱っております。伯爵のデパート構想、実に素晴らしい。ぜひ一度お話をさせていただければと存じます。帝国にも伯爵のお力になれる品が多数ございますので」


 人当たりの良い口調。隙のない礼儀作法。好青年そのものの爽やかな笑顔。その全てが精密に計算し尽くされた仮面だったと知ったのは、全てが手遅れになった後だった。


 今回も、あの男は必ず姿を現す。その機先を制しなければならない。


「だが、その前に盤石の陣容を整える必要がある」


 レオポルトは足を止めず、指を折りながら思考を整理した。


 次に会うべき人物は二人。


 一人は理想に燃える若き貴族、フェリックス・フォン・アルトハイム。第一周目で、レオポルトの改革に誰よりも早く賛同し、家族に勘当されてもなお信念を曲げなかった男だ。


 あの時のフェリックスの言葉が、耳の奥で甦る。


「レオポルト、俺はお前の理想に賭ける。家族に勘当されようが、社交界から締め出されようが構わない。この国を変えられるのなら、その程度の代償は安いものだ」


 もう一人は、計算高くも人情に厚い商人、マルクス・シュトラウス。利益第一主義を公言しながらも、窮地に立たされた者を見捨てられない不器用な男。第一周目でも、レオポルトの事業に「一口乗る」と言って資金を出してくれた。


 マルクスはこう言った。


「ヴァイスハルト殿、私は商人だ。商人は利益で動く。だがね、利益のために命を張る馬鹿と、理想のために命を張る馬鹿とがいたら、後者に賭けた方がまだ面白い。あんたは面白い男だよ。よし、一口乗った」


 彼ら二人を、真の意味で味方につける。前回のように表面的な協力関係ではなく、互いの弱さも過去も晒した上での、揺るぎない連帯を築く。


 レオポルトは王都の中央通りに足を踏み出した。ガス灯が一つ、また一つと灯り始め、石畳の上に柔らかな光の輪を落としている。


「エーリッヒ、オスカー先生、そしてクララ。三人との絆ができた。次はフェリックスとマルクスだ。五人の力が揃い、俺を加えて六人で手を組めば、ゲオルクの妨害にも帝国の暗躍にも屈しはしない」


 夕暮れの風が、外套の裾を翻した。


 その風の中を、レオポルトは歩き続ける。背中に刻まれた第一周目の記憶が、足を止めることを許さない。同じ過ちは二度と繰り返さない。誰一人として犠牲にはしない。


 茜色の空に、星がまた一つ、静かに瞬いた。

第5話をお読みいただき、ありがとうございます!


今回は、一周目のレオポルトを断頭台へと追い込むきっかけを作った女性、クララ・ノイマンとの再会編でした。


彼女が抱える「貴族への根深い不信感」は、実の父がかつて貴族の身代わりにされ、無実の罪で命を落としたという悲劇に根ざしていました。そんな彼女に対し、レオポルトが提示したのは単なる「施し」ではなく、「知識という武器を民衆に与え、二度と搾取させない仕組み」である公共図書室の構想でした。


「本は運命を変える魔法」――。

かつて彼女の父が語ったその言葉を、今度はレオポルトが実現しようとしています。貧民街の子供たちと指切りを交わすシーンは、レオポルトの「誰も犠牲にしない」という誓いが、初めて民衆の心に届いた瞬間でもありました。


さて、次回からはいよいよ物語が大きく動き出します。

第6話「隣国工作員の影」では、レオポルトの一周目の人生を狂わせた最大の敵エドヴァルト・シュタイナーが登場します。

1990年代の百貨店バイヤーvs帝国のエリート工作員。知略と知略がぶつかり合う化かし合いが、ついに幕を開けます!


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