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第4話 老技師オスカーとの再会

 王都の職人街は、どこか時間の流れ方そのものが違っていた。


 石畳の道が緩やかに蛇行しながら続いている。その両脇には、百年を超える歳月を耐え抜いてきた三階建て、四階建ての石造りや煉瓦造りの工房が、互いに肩を寄せ合うようにして建ち並んでいる。屋根の高さはまちまちで、壁の色もそれぞれ異なり、まるで老いた職人たちが円陣を組んで語り合っているかのような趣がある。


 カン、カン、カン。鍛冶屋の槌が規則正しいリズムを刻む。シュッ、シュッ、と木を削る鉋の音がそこに重なり、さらに遠くから石工の鑿を打つ乾いた音が加わってくる。それらが折り重なり、反響し合い、街全体がひとつの巨大な楽器であるかのような錯覚を覚えさせた。


 空気には乾いた木の香りと、舞い散る石の粉と、焼けた金属の鋭い匂いが複雑に絡み合っている。鼻腔を満たすその匂いの中には、幾世代もの職人たちが注ぎ込んできた執念と技術が凝縮されているようだった。


 レオポルト・ヴァイスハルトは、その懐かしくも騒がしい通りを一歩一歩、記憶と照らし合わせるように歩いた。


 足の裏に伝わる石畳の感触。耳に届く槌音の間隔。視界の隅を横切る職人の影。そのひとつひとつが、脳裏に焼き付いた第一周目の記憶と完全に重なり合う。同じ道、同じ看板、同じ工房。そして、この道の先にいるはずの、あの老人の姿。時を超えた鮮明さで蘇るその記憶に、レオポルトは唇を引き結んだ。


 通りの途中で、鍛冶屋の親方が炉の前から顔を出した。火照った赤ら顔に汗が光り、革の前掛けには細かい火花の焼け跡が無数に散っている。太い腕で額の汗を拭いながら、レオポルトの姿を認めると片眉を持ち上げた。


「おい、あんた。見慣れない顔だな。この辺りの職人じゃないだろう。何か用かい」

「ブラウエル先生の工房を訪ねてきたんです」

「ブラウエルの爺さんのとこか!」


 親方は目を丸くし、それから声を上げて笑った。豪快な笑い声が路地に反響する。


「そりゃまた物好きだな。あの偏屈爺さんときたら、最近は客を選り好みして大抵追い返しちまうんだよ。先月も王都の大きな工事を持ち込んだ業者がいたんだが、門前払いを食らって半泣きで帰っていったくらいだ」

「そうですか」


 レオポルトは苦笑を浮かべた。第一周目でも、まったく同じ評判を聞かされた覚えがある。


「ああ。あの爺さん、腕は間違いなく王国一だが、気性も王国一でね。興味の湧かない仕事には見向きもしない。金を山と積んだって駄目だ。去年なんぞ、ある伯爵家の別邸の設計を頼まれて、図面を見せられた瞬間に『こんなつまらん箱は俺の仕事じゃない』って突き返したんだぜ。伯爵の使いの者が真っ青になってたよ」

「それでも会いたいのです」

「おう、そうかい。まあ頑張りな。あの爺さんが首を縦に振ったら、それこそ奇跡だ。もしうまくいったら、帰りにうちの炉の前で一杯やろうぜ。祝い酒だ」

「ええ、必ず。その時はこちらから奢らせてください」

「おっ、気前がいいな。よし、約束だぞ」


 親方は愉快そうに手を振り、炉の前に戻っていった。


 レオポルトは足を速め、やがて目的の工房の前で立ち止まった。


 三階建ての堅牢な石造りの建物である。壁は灰色の切石を積み上げたもので、角の部分だけが白い石灰岩で縁取られていた。上階には小さな窓が三つ並び、そのうちの一つからは微かに青白い光が漏れ出している。魔導器具を使った作業が行われている証拠だろう。一階には重厚なオーク材の二枚扉がどっしりと構えており、長い歳月の間に無数の手が触れてきたことを物語る、滑らかな磨耗の痕が木肌に残っていた。


 頭上に掲げられた看板に、レオポルトは目を向けた。


 『魔導建築設計工房 オスカー・ブラウエル』


 力強く深く刻まれた文字。その縁には微細な魔導刻印が施されており、薄暗い路地の中でも蛍のように淡い青白い光を明滅させている。雨風に何十年晒されても朽ちることのない、恒久的な魔法の保護が施された看板だ。その光ひとつ取っても、この工房の主の技術と矜持が如実に表れていた。


 レオポルトは深く息を吸い込んだ。肺の奥に、職人街の匂いが満ちる。金属と石と木、そして人間の汗が混ざり合った、この場所だけの空気だ。


 この扉の向こうに、オスカー・ブラウエルがいる。


 王国最高の魔導建築技師。先端の技術と古の叡智を融合させ、幾多の傑作を世に送り出してきた男。第一周目において、レオポルトの無謀な夢を誰よりも見事に形にしてくれた男。そして最後の最後まで、レオポルトを信じ抜いてくれた男。


 扉を叩こうとした右手が、空中で止まった。


 不意に、断頭台の上から見た最期の光景がフラッシュバックする。


 群衆の怒号が渦巻く広場。石畳の冷たさ。首筋に迫る刃の重み。その全てを覆い尽くすような絶望の中、遠くの群衆の一角に、ただ一人、呆然と立ち尽くしていた老いた技師の姿があった。白い髪が風に揺れ、岩のような体躯がかすかに震えていた。頬を涙が伝っている。声は届かなかったが、唇の動きだけは読み取ることができた。


 『すまなかった、レオポルト。わしは……お前を守れなかった』


 その言葉が、今もなお魂の奥底に突き刺さったまま抜けない。


 レオポルトは震えそうになる拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込む痛みが、意識を現在に引き戻す。


 あの涙を、二度と流させてはならない。


 今度は違う。今度こそ、すべてを正しく運ぶ。誰も犠牲にしない。誰も裏切らせない。そして何より、この老人を、あの絶望から守り抜くのだ。


 覚悟を決めて、レオポルトは扉を叩いた。


 コン、コン、コン。


 礼儀正しく、三回。その音が路地の静寂に小さく響き渡る。


 しばらくの沈黙があった。工房の中から微かに椅子を引く音が聞こえ、やがて重い木製の扉がきしんだ音を立てて内側に開いた。


 顔を出したのは、二十代半ばの若い男だった。使い込まれた作業服を着ており、髪や肩には細かい木屑がまばらに付着している。腰には革製の工具袋が下がり、眼鏡の奥の瞳には来訪者に対する警戒心がはっきりと浮かんでいた。工房の門番としての務めを果たそうとする、生真面目な職人見習いの目である。


「どちら様でしょうか。申し訳ありませんが、事前のお約束のない方はお断りするよう師匠から言い付かっておりまして」


 言いながら、若い男はレオポルトの身なりに視線を走らせた。上質な生地で仕立てられた外套。胸元に控えめに光る家紋の留め金。そして、職人街には明らかに不釣り合いな、落ち着き払った若い貴族の佇まい。眼鏡の奥の目がわずかに見開かれる。


「ヴァイスハルト伯爵家の当主、レオポルト・ヴァイスハルトと申します」


 レオポルトは穏やかに、しかしはっきりとした声で名乗った。相手が弟子であろうと誰であろうと、敬意をもって接する。それは前世から変わらない彼の信条であり、第一周目の失敗から学んだ処世術でもある。


「オスカー・ブラウエル先生に、お目にかかりたいのですが」


 若い男の表情がはっきりと強張った。


「伯爵……閣下が、直接いらっしゃるとは……」


 声に隠しきれない動揺が滲んでいる。貴族がわざわざ職人の工房を訪ねること自体が稀であるのに、まして伯爵家の当主が供の者もつけず単身で足を運ぶなど、この若者の人生では想像すらしたことのない事態なのだろう。


「あの、大変失礼なことをお伺いしますが……お使いの方を通してということではなく、伯爵閣下ご本人が……」

「ええ、本人です。代理ではありません」


 レオポルトは相手の困惑を鎮めるように、努めて柔らかな声を出した。


「私には、オスカー先生にどうしても直接お話ししたい建築の構想がございます。書面や伝言ではとてもお伝えしきれない内容なのです。不躾なお願いだとは承知しておりますが、お目通りだけでもお願いできないでしょうか」


 若い男は唇の端を噛み、しばし逡巡するように視線を泳がせた。


「お気持ちはありがたいのですが……その、師匠は最近、新しいご依頼はほとんどお断りしておりまして。とりわけ貴族の方からのご依頼は……いえ、これは大変失礼な申しようでした。お許しください」

「構いません。率直に話していただいた方がありがたいです。それでも、一度だけお会いいただけないでしょうか。お話を聞いた上で断られるのであれば、潔く引き下がります。食い下がるつもりはありませんので」


 若い男はしばらくレオポルトの目を見つめていた。何かを探るように、あるいは相手の本気度を測るように。やがて、眼鏡の奥の警戒心がわずかに和らいだのが見て取れた。


「……わかりました。師匠に取り次いで参ります。ただ、あまりご期待はなさらないでください。師匠のお気持ち次第では、扉を開けることすらなくお帰りいただくことになるかもしれませんので」

「承知しております。お待ちしていますので、どうぞよろしくお願いいたします」

「お名前をもう一度、正確にお教えいただけますか。師匠にそのまま伝えたいので」

「ヴァイスハルト伯爵家当主、レオポルト・ヴァイスハルトです」

「ヴァイスハルト……。かしこまりました。少々お待ちを」


 そう言って、若い男は扉を閉じた。


 レオポルトは路地の冷たい空気の中で深く息をつき、胸の内を整えた。鼓動が少しだけ速くなっている。呼吸を意識的に深くし、一拍ごとに心を鎮めていく。


 扉の向こうから、弟子の駆ける足音と、それに続く低い声が微かに漏れ聞こえてくる。


「師匠、お客様です。ヴァイスハルト伯爵家の方が……」

「聞こえとる。伯爵だと? また豪邸の設計でも持ち込んできたか。断れと言っただろうが」

「はい、それは重々承知しているのですが……この方は、今までの方とは少し違うように感じまして。お供の方も一人もつけず、お一人で直接いらしたんです。それに、その……目が」

「目? 目がどうした」

「はい。何と言いますか……本気の目をしておられました。挨拶代わりに来ただけの方のする目ではありませんでした。言葉ではうまく説明できないのですが、見た瞬間にそう思ったんです」


 しばしの沈黙が流れた。


「……ふん。お前も少しは見る目がついてきたか。まあいい。そこまで言うなら、顔くらいは見てやるか。お前の勘が外れていたら、今夜の飯は抜きだぞ」

「えっ。そ、それは困ります……」


 扉が再び開かれた。


 今度は先ほどの若い弟子ではない。


 その人物が、扉の向こうに立っていた。


 オスカー・ブラウエル。


 六十二歳。王国最高峰の魔導建築技師。短く刈り込まれた灰色の髪は鉄のような光沢を帯び、顔には岩壁を思わせる深い皺が幾重にも刻まれている。猛禽類のように鋭い眼光は、見る者を射すくめ、その奥には長い歳月をかけて蓄積された膨大な知識と経験が沈殿していた。


 背は高く、六十を超えてなお筋骨隆々とした体格を保っている。まくり上げた作業服の袖口から覗く両腕は太く節くれだち、四十年にわたる現場仕事で鍛え上げられた労働者そのものだった。その手の甲と指先には、建築魔法の使い手であることを示す青い魔導刻印が薄く光を放っている。


 オスカーはレオポルトの全身を、上から下まで一瞥した。その視線は一瞬で全てを計測するかのように素早く、同時に、恐ろしく正確だった。それから目を細める。


「伯爵殿」


 地響きのように低い声だった。工房の壁を震わせるような重厚さがあり、それ自体がひとつの威圧となって空気を震わせる。


「私のような老いぼれに、何のご用でしょうかな。見ての通り、うちは小さな工房でしてね。貴族の方がお好みになるような華美な仕事は、あいにく専門の外です」


 自嘲の響きを帯びた言葉の裏側に、訪問者を値踏みする鋭い意志が透けて見えた。そしてそれは同時に、「貴族の依頼は受ける気がない」という明確な意思表示でもある。


 レオポルトは背筋を正し、深々と一礼した。


「突然の訪問にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます。ヴァイスハルト家のレオポルトと申します。華美なものをお願いに参ったのではございません。どうか、ほんの少しだけお時間をいただけませんか」


 オスカーは無言のままレオポルトをじっと見据えた。


 その視線は「見る」という行為を超えていた。構造物の欠陥を探るときのように、レオポルトという人間の本質を、その裏に隠された意図を、正面から見極めようとしている。五秒、十秒。蝉の声すら届かない沈黙が続いた。


 やがてオスカーは腕を組み、扉の枠にもたれかかった。


「貴族からの依頼というのは、過去に何度か受けたことがあります」


 ぽつりと切り出された言葉には、遠い過去への疲労がにじんでいる。


「大抵の場合、求められるのは己の権力を誇示するための豪華な邸宅か、実用性を度外視した見栄えだけの装飾でした。塔をもっと高くしろ、門をもっと派手にしろ、隣の伯爵家より立派な屋敷にしろ。そんな注文ばかりだ。建築とは何か、ということを考えたことがあるのかと問いたくなるような話が大半でしてね。建物は遊び道具じゃないんです」


 彼はそこで言葉を切り、改めてレオポルトの目を覗き込んだ。


「しかし……伯爵殿の目には、そういう類の俗物的な欲が見えませんね。わしの目は節穴じゃない。四十年以上、この仕事をしてきた。依頼主の目を見れば、その建物が何のために建てられるか、おおよそ見当がつくんです。目は嘘をつかない。口はいくらでも嘘をつけるが、目だけはごまかせん」


 レオポルトは内心で感嘆を覚えた。第一周目でも同様だった。オスカーは一目見ただけで相手の本質を見抜く力を持っている。それは職人としての鍛え抜かれた観察眼であると同時に、過去に人間に裏切られた経験から発達した防衛本能でもあるのだろう。


「ご明察の通りです。私が求めているものは虚飾ではありません」


 レオポルトはまっすぐにオスカーの目を見返した。逸らすつもりはなかった。


「王国の未来を変える建築です」


 オスカーの眉がぴくりと動いた。瞳孔がわずかに収縮する。興味と警戒が同時に起動した兆候だ。


「未来を変える建築……とおっしゃいましたか」


 彼は太い腕を組み直し、鼻を鳴らした。その音には、嘲りよりも好奇心の方が多く含まれているように聞こえる。


「随分と大きな話ですな。若い人は往々にしてそういうことを口にするものだが、建物というのは言葉では建たない。図面と計算と、何より石と鉄とで建つものです」

「承知しております。だからこそ、あなたの前に立っています」

「ふむ……」


 オスカーは顎に手を当て、しばし沈考した。その沈黙は拒絶のものではない。判断を下すための、職人特有の慎重な間合いだった。


「……まあ、ここまで足を運んでくれた相手を門前で追い返すのは、さすがに看板に傷がつく。五分だけだ。五分で興味が湧かなければ、お引き取り願いますよ。よろしいですかな」

「五分で十分です。ありがとうございます」


 レオポルトは深く頭を下げた。第一の関門を超えた。だが、ここからが本番だ。


「では、その五分で伺いましょう。どんな建物を想定しておられるのか」


 レオポルトは一拍の間を置き、言葉を選んだ。第一周目では、最初から技術的な仕様を並べ立ててしまい、肝心の理念を伝えきれなかった。今度はまず核心を示す。


「王国の経済を根本から変える建物です。民衆と貴族が対等の立場で商品を買い求められる場所。すべての品物に透明な価格が付けられ、身分や交渉力に関係なく、同じ条件で手に入れられる場所。王室と民間が共同で運営する、半公共・半民営の商業施設です」


 オスカーは微動だにせず、無言で聞いていた。一見すると冷淡な態度にも映るが、レオポルトにはわかる。この沈黙は無関心の沈黙ではない。全ての言葉を脳に刻み込んでいる職人の沈黙だ。


 間を読んで、レオポルトは続けた。


「その施設を、私は『デパートメントストア』と呼んでいます」

「……デパートメントストア」


 聞き慣れない響きを口の中で転がすように、オスカーが繰り返した。


「聞いたことのない名称ですな。どこの建築様式に属するものですか」

「既存のどの様式にも属しません。この世界にまだ存在しない、まったく新しい概念の建築物です」

「新しい概念、ね……」


 懐疑の色は残っていたが、拒絶の気配はなかった。


「続けてください」


 レオポルトは頷いた。


「王都の中心に四階建ての建物を建設します。その中で、ありとあらゆる商品を取り扱うのです。食料品から衣類、家具、工芸品、書籍、薬品まで。生活に必要なもの全てをひとつの建物の中に集約する。天候に左右されず、季節を問わず、朝から夕刻まで安定して商売ができる。それがデパートメントストアの基本構想です」


 オスカーは口を挟まず、ただ聞いている。だがその沈黙の質が、明らかに変化し始めていた。先ほどまでは試すような静けさだったものが、今は吸い込むような集中に変わっている。


「四階建てとなると……相当な規模ですな」


 ようやく口を開いたオスカーの声に、職人としての本能的な計算が滲んでいる。


「王都において四階建ての商業施設は前例がない。居住用の建物を含めても、四階に達するものは片手で数えるほどしか存在せんはずだ」

「はい。だからこそ、先生にしかできない仕事なのです」

「……先を続けなさい」

「そして全ての商品に『値札』をつけます」


 レオポルトは声に静かな力を込めた。この一点こそが、デパートという概念の核心である。


「原価、労働費、流通費を算出し、適正な利益率を上乗せした『正価』を表示します。その価格はどなたに対しても同一です。伯爵家の令嬢が来ようと、路地裏のパン屋の娘が来ようと、値札に記された金額は変わりません。交渉は一切行わない。誰もが平等な条件で商品を手に取れる仕組みです」


 工房の入り口の脇で、先ほどの若い弟子がこっそりと聞き耳を立てているのが視界の隅に映った。だがレオポルトはそちらに注意を向けず、オスカーだけを見つめ続けた。


 トーマスと呼ばれた弟子が、二つのカップを載せた盆を持って姿を現した。ミントの清涼な香りが漂う。


「どうぞ、お茶です。……師匠、もう五分はとうに過ぎていますが」

「わかっとる。黙っとれ」


 オスカーはぶっきらぼうに弟子を追い払った。トーマスは大げさに肩をすくめて奥に引っ込んだが、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。師匠が自ら定めた制限時間を破って話を聞き続けているのだ。それは、この訪問者が師匠の琴線に触れたことの何よりの証拠である。


 オスカーの瞳に、鋭い光が宿った。


「正価販売というのは……つまり、取引の場から交渉という要素を完全に排除するということですか。既存の商慣行を根底から覆す試みだ。商人たちにとっては死活問題になりかねませんな」

「はい。透明性と公平性の確立です。しかし、商人を潰すための仕組みではありません。むしろ、その逆です」

「逆? 商人の飯の種である交渉を奪っておいて、守ると仰るのか。それは些か矛盾していませんかな」

「価格交渉がなくなれば、商人は交渉に費やしていた膨大な時間と労力を、商品そのものの品質向上に充てることができます。さらに安定した買い取り価格を保証すれば、来月の売上に怯えながら粗悪品を掴まされる心配もなくなる。それは商人にとって最大の恩恵のはずです」


 レオポルトはそこで一拍置いた。次の言葉が、オスカーに最も深く届くものだという確信があった。


「何より……腕のいい職人が、正当に評価される仕組みです。口八丁手八丁で粗悪品を売りさばく商人ではなく、本当に良いものを作る者が報われるようになる」


 オスカーの目がわずかに見開かれた。その瞬間の変化を、レオポルトは見逃さなかった。岩のように堅い表情に、ほんの一瞬だけ亀裂が走ったのだ。


「……腕のいい職人が正当に評価される、と。そう仰いましたか」

「はい。品質に見合った価格を値札として明示すれば、消費者は品質の違いを目で見て理解できるようになります。良いものには相応の対価が支払われるようになる。今の市場では、どれほど素晴らしい品を作っても、交渉で買い叩かれてしまえば職人の手元には何も残りません。値札制度は、そうした理不尽を根絶するためのものです」


 オスカーは腕を組んだまま、喉の奥で唸るような音を発した。


「なるほど……確かに、現行の商業構造において、職人の技術は正当に評価されているとは言い難い。ギルドが中間で利を抜き、商人が値引きで削り、最終的に作り手の元に残るのは雀の涙だ。わしの弟子たちにも、それで苦しんでいる者が何人もおる。この工房を離れて独立した者たちのうち、まともに食えている者が何人いるか……考えたくもない話だが」

「その構造を、根本から変えたいのです」

「言わんとすることは理解できた。だが、それは経済の話であって、建築の話ではない。なぜ私のような建築屋に持ちかけるのですか」


 レオポルトはその問いを待っていた。


「理念を実現するためには、それにふさわしい『器』が要るからです。安っぽい箱では駄目なのです。人々が足を踏み入れた瞬間に、ここは今までとは違う場所だ、と理屈ではなく肌で感じ取れるような空間でなければならない。その空間を設計し、建て上げることができるのは、この王国においてオスカー先生をおいて他にいません」


 オスカーは黙ったまま、ミントティーのカップを手に取り、一口だけ口に含んだ。温かい液体を飲み下す喉仏の動きを見送ってから、カップを静かに作業台の端に置いた。


「それだけでは、まだ足りませんな。建物の構造は。規模は。どのような空間を思い描いておられるのか。もっと具体的に聞かせてもらいたい」


 レオポルトは身を乗り出した。相手の関心が概念から設計へと移った。それは決定的な転換点だ。


「お見せしたいものがあります」


 レオポルトは外套の内ポケットから一枚の紙を取り出し、作業台の上に広げた。前世の記憶と今世の知識を総動員して、昨夜一晩かけて描き上げたスケッチだ。


 四階建ての巨大な建造物。中央に広大な吹き抜け空間を持ち、その頭上を覆うのは石でも木でもなく、全面ガラス張りの天蓋。各階には回廊が巡らされ、それらを支える柱と梁には石材ではなく鋳鉄の骨組みが採用されている。この世界の常識を完全に逸脱した構造だった。


 オスカーはスケッチを手に取った。


 その瞬間、空気が変わった。


 老技師の表情が、みるみるうちに変貌していく。警戒や懐疑や疲労といった、先ほどまで顔に貼りついていたあらゆる膜が剥がれ落ち、その下から、純粋な驚きと、抑えようのない興奮が露わになった。六十二年の歳月が刻んだ皺の奥から、かつて若き日の技師が持っていたであろう輝きが甦ってくるかのようだ。


「全面ガラス天井……」


 掠れた声だった。驚愕と、隠しきれない技術者としての昂りが入り混じっている。


「待ってくれ。これは……中央の吹き抜け大空間に、鋳鉄のアーチ構造。前例がない。常識で考えれば狂気とさえ言える。いや、狂気というのは……」


 オスカーはスケッチを作業台の上に置き直し、抽斗から定規を取り出した。レオポルトが何も言わぬうちに、紙面上の寸法を測り始めている。手が勝手に動いているのだ。職人の本能が、構造分析を自動的に開始していた。


「この吹き抜けの幅は……ざっと二十メートルか。いや、二十五か」

「中央の吹き抜けは幅二十メートル、長さ六十メートルを想定しています」

「二十かける六十のガラス天蓋だと……!」


 オスカーは思わず椅子から腰を浮かせた。定規を握ったまま、食い入るようにスケッチを凝視している。


「正気ですか、伯爵殿。千二百平方メートルをガラスで覆うとなれば、ガラスの自重だけで凄まじい荷重がかかる。しかもこの国の冬は厳しい。雪が積もれば……」

「ええ。だからこそ鋳鉄の骨組みなのです。石材では実現できない薄さと強度を両立できる。そしてアーチ構造を採用すれば、鉛直荷重を曲線に沿って基部へ効率的に伝達できます。加えて、要所に魔導刻印による構造補強を施せば……」

「ちょっと待ってくれ」


 オスカーが片手を上げてレオポルトの言葉を遮った。その手は微かに震えている。だがそれは恐怖の震えではない。


「あなた……建築の知識がおありですな。しかも、貴族のお遊びで齧ったような生半可なものではない。アーチ構造による荷重の伝達経路、鋳鉄の薄肉断面における強度特性。専門の用語を正確に、しかも適切な文脈で使っておられる。……一体どこでそれを学ばれた」


 レオポルトは一瞬だけ言葉に詰まった。前世の知識も第一周目の経験も、そのまま説明するわけにはいかない。


「……独学です。建築に関する文献を片端から読み漁り、実際に様々な建物を自分の目で見て歩きました。なぜこの構造が採用されたのか、なぜこの素材が選ばれたのか。そうしたことを、一つ一つ自分の頭で考え続けた結果です」

「独学で、ここまで……」


 オスカーは明らかに半信半疑の顔をしたが、視線がスケッチに戻った瞬間、技術的な関心が疑念を圧倒したらしい。


「まあいい。知識の出所をいくら詮索しても建物は建たん。問題は、これが実現可能かどうかだ」


 オスカーは自分のペンとインクを引き出しから取り出し、レオポルトのスケッチの余白に新たな線を引き始めた。


「ここの接合部だが……アーチリブの基部にピン接合を入れれば、温度変化による鋳鉄の膨張収縮を吸収できる。ガラス板の固定については、鋳鉄のフレームに直接載せるのではなく、鉛のガスケットを噛ませるべきだ。異なる素材間の熱膨張率の差を緩衝させるためにな。さもなければ、夏場にガラスが割れる」

「なるほど……ガスケットによる緩衝材。それは思い至りませんでした」

「それから排水の問題がある」


 オスカーは止まらなかった。ペンの先が紙の上を走り、次から次へと書き込みが加えられていく。


「ガラス天蓋に雨が降れば、水はどこに流れる。吹き抜けの内側に落とすわけにはいかんだろう。アーチリブに沿って樋を設け、壁面を伝わせて地下の排水路へ導く構造が要る。しかもこの樋自体に魔導刻印を施して、冬場の凍結防止と、夏場の苔や汚れに対する自浄機能を持たせなければ、三年と保たん」

「排水と凍結防止……そこまでは考えが及んでおりませんでした」

「当たり前だ。建築は理念だけでは建たんと言っただろう。雨、風、雪、鳥の糞、苔、虫、鼠。夢想家が忘れがちな、そういう小さなものの積み重ねが、建物を殺すんです」


 オスカーは顔を上げ、射抜くような視線をレオポルトに向けた。瞳の中で、職人としての計算が凄まじい速度で回転しているのが見て取れる。


「それを、わしなら可能だと。そうお考えですか」


 レオポルトは一瞬の躊躇もなく答えた。


「可能です。オスカー先生ならば。いいえ、先生にしかできません。先生は魔導刻印と構造力学の双方を本質から理解しておられる、この王国で唯一の技師です。魔法だけでは構造は保てない。構造計算だけでは限界がある。その両方を融合できるのは、先生だけです」


 オスカーの瞳の奥で、鋭い光が弾けた。それは、長い間厚い灰に覆われていた熾火が、ふいに吹き込まれた風によって赤く燃え上がる瞬間に似ていた。


「……四十年この仕事をやってきて、わしの本質をそう一言で言い当てた人間は、あなたが初めてだ」


 声が低く、掠れていた。感情を抑えようとしているのだとわかる。


 オスカーは椅子から完全に立ち上がった。作業台の上にスケッチを広げ直し、ペンの先を鋳鉄骨組みの接合部に当てる。


「鋳鉄のアーチリブにアダマンタイト合金を添加すれば、強度は通常の鉄の三倍に達する。ガラスの固定には複層構造を採用し、外側に衝撃吸収層を設ければ雹にも耐え得る。魔導刻印は……構造補強用に最低でも八百基が必要だ。だが配置パターンを最適化すれば効率を三割は引き上げられる。干渉域の重複を避けつつ、各刻印の効力半径を最大限に活かす配列を……」


 彼は自分自身の言葉に加速をかけていた。アイデアが堰を切ったように溢れ出し、ペンが紙の上を走る速度がどんどん上がっていく。


「……しかし」


 不意に、ペンが止まった。


「それには膨大な時間と資金と、そして何より『信頼』が必要です」


 最後の一語を口にしたとき、オスカーの声のトーンが急激に沈んだ。興奮が冷めたのではない。もっと深い、根源的な何かに触れたのだ。


「信頼……」


 レオポルトは静かにその言葉を受け止めた。


「ええ」


 オスカーは重く頷いた。


「建築とは、信頼の上に成り立つものです。依頼主と建築家の信頼。建築家と職人の信頼。建物と、それを使う人々との信頼。……そのどれが一つ欠けても、建物は脆くも崩れ去る。比喩ではなく、文字通りに、崩れ去るのです」


 最後の一言に、比喩を超えた生々しい痛みが宿っていた。


 レオポルトの胸に、鋭い予感が走った。


 第一周目では聞けなかった話がある。この老人が、なぜあれほどまでに貴族からの依頼を拒み続けたのか。なぜ完成間際の現場に毎日のように足を運び、釘の一本まで自分の目で確認しようとしたのか。その理由の根幹にある出来事を、レオポルトは知らない。


「先生」


 レオポルトは慎重に、しかし逃げずに言葉を発した。


「お聞かせいただけますか。先生がそこまで信頼という言葉にこだわられる理由を」


 オスカーの顔が苦しげに歪んだ。古い傷口に触れられた者の表情だった。


 長い沈黙。工房の壁に掛けられた振り子時計が、カチ、カチ、と無感情に時を刻んでいる。


「……十五年前のことです」


 オスカーはようやく口を開いた。声は鉛を飲み込んだかのように重い。


「ある有力な貴族から、大聖堂の建設を依頼されました。名前は伏せておきましょう。今も宮廷で権勢を振るっておられるお方ですのでね」


 オスカーはペンを作業台の上に置き、両手を膝の上で組んだ。


「その方はこう言った。『ブラウエル、お前の腕は王国一だと聞いている。わしの領地に、王国一の聖堂を建ててくれ。金は惜しまん。好きなだけ使え。お前が最高と思うものを、思う存分に作ってくれればよい』と」


 オスカーは目を閉じた。瞼の裏に、十五年前の光景が映し出されているのだろう。


「……わしはその言葉を信じました。好きなだけ使えと言われたのですから、持てる技術の全てを注ぎ込んだ。基礎には三重の魔導刻印を施し、柱の一本一本に構造補強の刻印を入れた。壁の厚さ、天井のアーチの曲率、床石の配列。あらゆる要素を最高の水準で設計した。少なくとも、わしの図面の上では完璧だった」


 長い沈黙が落ちた。工房の時計だけが、カチ、カチ、と変わらぬ調子で音を刻み続けている。


「しかし……完成から三年後、その聖堂は崩落しました」


 レオポルトは息を呑んだ。


「崩落……」

「日曜の午前でした。礼拝の最中のことです」


 オスカーの声が震えた。太い首の筋が浮き上がり、組んだ両手の指が白くなるほど力が入っている。


「三人の信者が瓦礫の下敷きになり、命を落としました。一人は六十過ぎの老婆。もう一人は三十代の男で、確か靴職人だったと聞いています。そして最後の一人は……十二歳の、少女でした」


 最後の数語を絞り出すとき、オスカーの喉仏が大きく上下した。


「原因は……依頼主が独断で行った費用の削減でした」


 オスカーの声は掠れ、途切れ途切れになった。


「あの貴族は『金は惜しまん』と言いながら、建設が始まると掌を返した。わしに黙って現場の監督に指示を出したのです。『ブラウエルの設計は大げさに過ぎる。あれほどの数の魔導刻印は不要だ。半分に減らせ。石材も、もっと安いもので構わん』と」


 オスカーの目に、十五年の歳月を経てなお消えることのない悔恨の焔が揺れている。


「わしの指定した魔導刻印の数を勝手に減らし、石材の等級を落とし、見えない箇所の補強を根こそぎ省略した。外見は変わらない。完成した聖堂は美しかった。だが、骨の中身が抜き取られていたのです。……そしてわしは、それを知らされなかった」


 彼の声が途切れた。唇が微かに震え、組んだ指の節がきしむほど力が込められている。


「竣工の検査のとき、わしは壁を叩いて嫌な予感を覚えました。響きが、図面通りじゃなかった。だが依頼主は『問題ない、気のせいだ』と笑い、周りの者も口を揃えて『見事な出来栄えだ』と褒めそやした。わしは……自分の勘を信じるべきだった。壁を剥がしてでも中を確かめるべきだった。だがそうしなかった。依頼主を……信じてしまった」


 レオポルトは黙って耳を傾けていた。口を挟む余地はなかったし、挟んではならなかった。


「竣工後、依頼主は礼を述べ、約束通りの報酬を支払い、去っていきました。わしは金を受け取り、次の仕事に取りかかった。……そして三年後に、あの朝が来たのです」


 オスカーの拳が膝の上で白くなるまで握り締められた。


「崩落のあと、王都から調査委員会が派遣されました。結論は構造設計の不備。つまり、わしの設計ミスだ、と。依頼主は『全てブラウエルに一任した。彼の設計に従ったまでだ』と証言した。費用を削減した事実は闇に葬られ、現場の監督は口止めされていた。わしの主張に耳を貸す者は、誰一人としておらなかった」

「……あまりに理不尽です」

「理不尽か。……ああ、そうなのだろうな。だが反論する術がなかった。証拠は全て消されていた。残ったのは崩れた聖堂と、三つの墓だけだ」

「その後、先生はどうなられたのですか」

「宮廷の建築資格を剥奪されかけました。辛うじて免れたのは過去の実績があったからですが、大規模な公共建築からは完全に締め出された。信用は地に落ち、弟子の大半も去っていった。……残ったのは、この工房と、毎夜繰り返される悪夢だけです」


 オスカーは両手で顔を覆った。節くれだった大きな手が、深い皺の刻まれた顔を隠す。


「毎晩、夢に見るのです。あの少女の顔を。瓦礫の下から引き出されたとき、もう息がなかった。母親が……泣き叫ぶ声が……今もこの耳から離れない。十五年経っても、一晩たりとも」


 レオポルトは言葉を失った。胸の奥深くで、何かがきしむように痛んだ。


「わしはそれ以来、貴族からの依頼を受けることを避けてきました」


 震える声には、年月では癒えない傷の深さが滲んでいる。


「信頼を裏切られることが恐ろしかったのです。わしの図面がもう一度、誰かの命を奪う凶器になることに耐えられなかった。わしが引いた線の一本一本が、人の命を預かっている。その重さを、あの日から片時たりとも忘れたことはありません」


 工房の中に沈黙が降りた。時計の振り子だけが、カチ、カチ、と冷淡に時を数え続ける。


 奥からトーマスが心配そうに顔を覗かせたが、レオポルトが小さく目で合図すると、若い弟子は静かに引き下がった。


 レオポルトは、知らなかった自分を恥じた。第一周目で、オスカーがなぜ当初あれほど頑なに依頼を断ろうとしたのか。なぜ建設中、執拗なまでに現場に張りつき、石の一つ一つを叩いて確かめていたのか。その行動の意味を、表面的にしか理解できていなかった。あの老人はただ頑固な職人だったのではない。恐怖と戦いながら、それでもレオポルトを信じようとしてくれていたのだ。


「オスカー先生」


 レオポルトは沈黙を破った。声を震わせまいと、腹の底に力を入れる。


「打ち明けてくださったこと、心から感謝いたします。先生がどれほどの重荷を背負ってこられたか……その一端に触れることができました」

「……礼を言われるようなことではない。あれはわしの汚点だ。消せぬ汚点です」

「いいえ。汚点などではありません」


 レオポルトの声に、予想外の強さが宿った。オスカーがわずかに面を上げる。


「先生があの三人の命に対して責任を感じ続けておられるということ自体が、先生が本物の職人であることの証です。自分の落ち度ではないと開き直れる人間には、二度と真に優れた建物は作れない。先生があの痛みを十五年間背負い続けてこられたからこそ、先生が手がける建物には魂が宿るのだと、私は確信しています」


 オスカーは顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。虚ろな目でレオポルトを見つめている。その瞳には長い歳月の疲労と、それでもなお消えきらない微かな光が共存していた。


「だがな、伯爵殿。痛みを背負っているからといって、同じ過ちを繰り返さない保証にはならんのです。わしは自分を信じられなくなっている。自分の目を、自分の勘を。あのとき壁の響きがおかしいと感じたのに、それを最後まで追及しなかった。自分の直感を裏切ったのは、他の誰でもない、このわし自身だ」

「だからこそ、今度は全てを先生にお任せしたいのです」

「……何と仰った」

「先生を裏切るようなことは、絶対にいたしません」


 オスカーの目が、虚ろさの中に鋭さを取り戻した。


「どうしてそう言い切れるのですか。あなたも貴族だ。あの依頼主も貴族だった。最初は良いことを言う。金は惜しまんと言う。好きにやれと言う。しかし工事が始まれば態度が変わる。金がかかりすぎると渋り始める。ここを省けと口を出し始める。……それが貴族というものだと、わしは身をもって学んだのです」


 その言葉には、深い傷口からの叫びが込められていた。貴族という存在そのものに対する根深い不信。そして同時に、もう一度信じたいという願いを自ら封殺しようとする痛々しい防衛の意志。


「なぜなら……」


 レオポルトは言葉を選んだ。前世の記憶も、未来で起きる悲劇のことも、口にするわけにはいかない。しかし、この胸の中で燃えている炎だけは紛れもない本物だ。それを余すことなく伝えるしかない。


「なぜなら、この建物は私個人の名誉や利益のために建てるものではないからです。これは私の邸宅でも、私の功績を誇示する記念碑でもない。民衆のために。商人のために。職人のために。この王国に生きる全ての人々のために作る『器』です。もし私が裏で手を抜き、品質を削り、先生の設計を蔑ろにすれば、崩れるのは建物だけではありません。民衆の信頼が崩れる。商人の希望が崩れる。この国の未来が崩れる。そして私自身の全てが崩れ去る。命も、名誉も、存在の意味も。……だから私は、絶対に裏切りません」

「言葉だけなら、あの貴族も同じようなことを並べ立てた」


 オスカーの声は冷たかった。だがその冷たさの裏側に、信じたいと願う心が隠れていることを、レオポルトは感じ取っていた。


「ならば、言葉ではなく仕組みで証明いたしましょう」

「仕組み、とは」

「この事業は三者による共同出資です。王室、ヴァイスハルト家、そして商人組合。三者が互いの動きを監視し合う構造になっています。私一人の判断で費用を削ることは、構造上不可能です。全ての支出は三者の合議によって決定される」


 レオポルトは一拍置いて、次の言葉に全ての誠意を込めた。


「そして、建築に関する技術的判断の最終権限は、設計者であるオスカー先生に帰属します。それを契約書に明記いたします」


 オスカーの目が、見開かれた。


「……わしに、最終権限を与えると」

「はい。先生が『この魔導刻印は必要だ』と仰れば、誰もそれを削ることはできません。先生が『この石材は基準に達していない』と判断されれば、即座に差し替えます。先生の決定が、この建物の品質を守る最後の防壁となるのです。十五年前に先生から奪われたもの……現場を掌握する権利、品質を自らの手で守り抜く権利。それを今度は、法的な拘束力を持つ契約によって保証します」


 オスカーは黙ったまま、レオポルトの目を見つめ続けていた。


 一秒。二秒。時計の振り子が三度揺れた。


 その沈黙の中で、老いた技師の心の中を何かが通過していくのが感じられた。過去の記憶と、目の前の若者の言葉とを秤にかけ、自らの経験の全てを動員して判断を下そうとしている。十五年間閉ざし続けてきた扉に、もう一度だけ手をかけるかどうかの瀬戸際だった。


「伯爵殿」


 オスカーの声が掠れていた。


「一つだけ聞かせてください。なぜ、このわしなのですか。若い技師はいくらでもおる。わしより仕事が速く、わしより報酬の安い者も探せば見つかるでしょう。なぜ、過去に傷を抱えた老いぼれに、王国の未来を左右する建物を託そうとなさるのか」


 レオポルトは一瞬だけ目を閉じた。瞼の裏に、断頭台の上から見た老人の涙が甦る。あの涙の意味を、今なら完全に理解できる。


 目を開けたとき、その瞳には揺るぎない光が宿っていた。


「理由は二つあります。一つは先ほど申し上げた通り、先生の技術がこの王国で比類のないものだからです。これは客観的な事実であり、お世辞ではありません」

「もう一つは」

「もう一つは……先生が、あの三人の命を背負い続けておられるからです」


 オスカーが息を呑んだ。喉仏が大きく動き、瞬きが一つ止まった。


「あの三人の犠牲を十五年間忘れずに背負い続けてきた人間だからこそ、この建物を託せるのです。二度と同じ悲劇を許すまいという覚悟を持つ者にしか、人々の暮らしと命を預かる建物は作れない。若い技師には技術があっても、その覚悟はまだ持ち得ない。先生が積み重ねてきた痛みの歳月だけが生み出せるものが、確かにある。だから、先生なのです」


 工房が完全な静寂に包まれた。時計の振り子すら、息を潜めたかのように感じられる。


 オスカーの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


 頬の深い皺を伝い、顎の先端で光り、やがて作業台の上に小さな染みを作る。それは十五年もの間、誰の前でも流すことのなかった涙だった。


「……くそ。年を取ると涙もろくていかんな」


 乱暴に袖で目元を拭い、鼻を啜る。だがその声には、氷が溶けるような柔らかさがあった。


 やがてオスカーはゆっくりと立ち上がった。背筋を伸ばし、深く長い息を吐き出す。その呼気とともに、長年にわたって彼の肩にのしかかっていた重荷が、ほんのわずかだけ軽くなったように見えた。


「わかりました」


 はっきりとした声だった。そこには迷いも、恐れも、もはやない。


「あなたのご依頼を、お受けいたしましょう。……正直に申し上げれば、怖いのです。また同じことが起きるのではないかと、この十五年間、毎日そう思って過ごしてきた。だが……あなたの目を見ていると、もう一度だけ信じてみたいと、わしの中の何かがそう告げているのです。理屈ではない。長年の勘が、そう言っている」


 オスカーはスケッチをもう一度手に取り、慈しむような目で見つめた。


「それに、このスケッチだ。こんなものを見せられて、黙って引き下がれるほど、わしはまだ枯れちゃおらん。全面ガラスの天蓋に鋳鉄のアーチ構造。……こいつは、わしがずっと夢に見ていた建物だ。実現は不可能だと思い込んで、心の奥底に封じ込めていた構想に、恐ろしいほどよく似ている」

「先生も、同じ夢を見ておられたのですか」

「ああ。もう二十年以上も前からな。光に満ちた巨大な空間。石の重苦しさから解放された、透明な建築。それがわしの到達点であるべきだった。だが、依頼してくれる人間が現れなかった。話をしても、誰もが一笑に付した。『非現実的だ、老いぼれの妄想だ』とな」

「もう誰にも笑わせません。実現しましょう。先生と私の二人で」


 オスカーは鼻を啜り、袖で再び目元を拭ってから、力強く頷いた。


「……賭けてみましょう。あなたのその目に。そしてわし自身の、残された時間に。六十二だ。あと何年、この手が動いてくれるかわからん。だが、この建物を完成させることが……あの三人への、わしなりの弔いになると信じたい。あの子たちに顔向けできる仕事を、最後に一つだけ、やり遂げたいのです」


 レオポルトの胸の底から、熱い塊がせり上がってきた。目の縁が潤みかけたが、唇を噛んで堪えた。この瞬間を、感傷で曇らせてはならない。


「ありがとうございます、オスカー先生。本当に……心からお礼を申し上げます。先生のお言葉は、私にとって何ものにも代えがたい宝です」

「先生、と呼んでくれるか。そいつはいい。様付けは性に合わん。わしは職人だ。先生か師匠か、そのどちらかで呼ばれるのが一番しっくりくる」

「では、改めて。オスカー先生」

「うむ。その響きは悪くない」


 オスカーはスケッチを自分の手元に引き寄せ、その瞬間、顔つきが一変した。年齢を重ねた思索家の表情が剥がれ落ち、獲物を前にした猛禽のような鋭さが全身に漲る。


「さて。感傷はここまでだ。ここからは仕事の話に入る」


 ペンを取り、新しい紙を引き寄せる動作に淀みがない。


「全体の構造計算から着手する。ガラス天蓋の自重と風圧に対する荷重解析。各階の床荷重と柱スパンの検証。魔導刻印の配置設計……これが最も神経を使う工程だ。構造補強用、防水用、防火用、防音用。それぞれの刻印が発する魔力場の干渉を回避しつつ、最大効率を引き出す配列を割り出さなければならん。鋳鉄骨組みの接合方法はリベットにするか、鍛接にするか。この選択一つで工期が数か月変わる」


 レオポルトは目を瞬いた。ほんの数分前まで涙を見せていた老人が、既に完全な職人の顔に切り替わっている。


「先生、まだ正式な契約書も交わしていないのに……」

「契約は後でいい」


 オスカーは振り向きもせず、ペンを走らせ続けた。


「わしの手が動きたがっているんだ。四十年この仕事をやってきて、こんなに手が疼いたのは覚えがない。この衝動を今止めたら、二度と動き出さん気がする。だから止めるな」

「……承知しました」

「それから費用の見積もりも出すが、一切の妥協なしで算出する。わしが『必要だ』と言ったものは全て必要だ。一つたりとも削らせんぞ。いいな」

「もちろんです。先生の判断に全面的に従います」

「よし。それでいい」


 オスカーはペンを止めず、声だけを工房の奥に向けた。


「トーマス!」


 弟子が素早く姿を現した。顔には、聞いてはいけないものを全て聞いてしまった者特有の、ばつの悪そうな、しかし隠しきれない興奮が浮かんでいる。


「はい、師匠。……聞こえておりました。全部」

「盗み聞きか、この馬鹿弟子が」

「申し訳ありません。でも……師匠が泣いたの、初めて見ました」

「うるさい。今すぐ忘れろ」

「忘れません。絶対に忘れません」


 トーマスの声が真剣なものに変わっていた。眼鏡の奥の目に、涙こそないものの、師匠への敬意と愛情が溢れている。


「……生意気な弟子だ。いいか、トーマス。今日からわしたちは新しい仕事に取りかかる。この王国が始まって以来の、途方もない仕事だ。覚悟を決めろ。泣き言は聞かんぞ」


 トーマスの瞳が、一瞬で輝きを増した。


「はい。もちろんです、師匠。やっと……やっと師匠が、本気の仕事をなさるんですね」

「何を言っている。わしはいつだって本気だ」

「いいえ」


 トーマスは首を横に振った。普段の遠慮がちな態度とは打って変わって、はっきりとした口調だった。


「ここ数年の師匠は、本気じゃありませんでした。小さな仕事を淡々とこなして、依頼が来ても断って、工房に閉じこもって……。失礼を承知で申し上げますが、目が死んでおられました。でも今の師匠の目は違います。入門したての頃に見上げた、あの師匠の目に戻っています」


 オスカーは一瞬だけ目を見開いた。それからふっと口元を緩め、苦笑した。


「……弟子に見透かされるとは、師匠失格だな」

「そんなことはありません。師匠は僕の誇りです。ずっとそうでした。これからも変わりません」

「おだてても給料は上げんからな。……さあ、無駄口はそこまでだ。地下の資材庫から鋳鉄のサンプルを持ってこい。成分の異なるものを五種類。それとガラスの強度試験に使う治具一式も出してくれ。今日中にプロトタイプの検討に入る」

「今日中にですか。先生、まだ正式な契約も……」


 レオポルトが慌てて口を挟んだが、オスカーは背中を向けたまま手を振った。


「さっきも言っただろう。契約は後でいい。手を止めるな。わしの手が覚えているうちに動かさねばならん。四十年分の構想が、今この瞬間に形を取ろうとしているんだ。こんな機会は二度と来んぞ。行け、トーマス」

「はいっ!」


 トーマスは弾けるように奥へ駆け出していった。その足音が階段を下る音に変わり、やがて地下の扉が開く重い音が続いた。


 レオポルトは深々と頭を下げた。


「改めて、よろしくお願いいたします。オスカー先生」

「ただし」


 オスカーの声が鋭くなった。背を向けたまま、振り返らない。


「一つだけ、絶対に譲れない条件がある。これだけは、たとえ国王陛下のご命令であっても曲げるつもりはない」


 レオポルトは顔を上げた。


「お聞きします」

「建設の全工程を、わしが自ら監督する」


 オスカーは振り返り、射抜くような眼差しをレオポルトに向けた。


「搬入される資材の品質。魔導刻印の施工精度。構造体の接合状態。使われる釘の一本、塗られる漆喰の一塗りに至るまで、全てをわしの目で確認する。現場に届く石材の一つ一つを叩いて響きを確かめ、魔導刻印の一基一基を検査し、鋳鉄の接合部をこの手で触って歪みがないことを確かめる。十五年前にできなかったことを、今度は一つ残らずやり通す」


 彼の声に震えはなかった。代わりにあったのは、鋼のような決意だ。


「もし依頼主であるあなたが、あるいは王室が、あるいは商人組合が、わしの許可なく勝手に設計を変更したり、資材の質を落としたり、費用を削減しようとした場合は……その瞬間に工事を止め、わしは手を引きます。理由は問わない。例外も認めない。如何なる事情があっても、です」

「承知しました」


 レオポルトは即答した。迷う余地などない。


「現場における全権限を、オスカー先生に一任します。先生のご指示には全面的に従います。それを契約書に明記し、三者の合意事項として法的拘束力を持たせましょう。先生の判断に異を唱える者が現れたなら、私が全力で排除いたします」

「……排除、とまで言い切りますか」

「言い切ります。先生の判断こそが、この建物の命です。それを脅かす者は、たとえ誰であっても許しません」


 オスカーの表情が、ゆっくりと綻んだ。堅い岩壁に春の陽が差すような、静かで温かい変化だった。


「あんた、本当に変わった貴族だな。四十年この仕事をしてきて、こんな貴族は初めてだ。職人に全権を委ね、その判断を法で守ると誓ってくれる依頼主など、聞いたことがない」

「前代未聞の建物には、前代未聞の信頼関係が必要です」

「……はっ。口の回る男だ。だが、嫌いじゃない。いや、むしろ好ましい」


 オスカーは、初めて歯を見せて笑った。


 皺だらけの顔の中で、その笑顔だけが異質なほど若々しく、力に満ちていた。十五年の間、凍りついていた何かが、今まさに溶け始めている。


「契約成立だ、伯爵殿」


 彼は分厚く節くれだった右手を差し出した。労働で鍛え上げられた、岩のような手だ。


 レオポルトはその手を、力を込めて握り返した。硬く、温かく、そして途方もなく頼もしい手だった。二人の掌が合わさった瞬間、見えない何かが確かに結ばれたのを感じる。


「痛いくらいの握手だな、先生」

「当然だ。四十年間、石と鉄を握り続けてきた手だぞ。若造に力負けするわけにはいかん」

「若造とは……これでも二十九なのですが」

「わしから見れば赤子も同然だ。だがな、レオポルト」


 初めて、オスカーがレオポルトの名を呼んだ。


 その二文字が空気に触れた瞬間、二人の間の距離が決定的に縮まったのを、互いに感じ取った。


「赤子にしては、良い目をしている。よかろう。わしの最後の依頼主として認めてやる。さあ、仕事だ。この世界にまだない建物を、わしたちの手で建ててやろうじゃないか」


 握手を解いたオスカーは、既にペンを取り上げていた。作業台に向かい、白紙の上に最初の線を引く。その一本の線が、まだ誰も見たことのない建物の、最初の骨格になる。


 レオポルトはその背中を見つめながら、胸の内で静かに誓った。


 この人を、今度こそ守り抜く。あの断頭台の広場で流させた涙を、二度と繰り返させはしない。


 地下から戻ったトーマスが、両腕に抱えた鋳鉄のサンプルを作業台の上にどさりと並べた。五種類の合金がそれぞれ異なる光沢を放ち、魔導刻印の候補となる刻字板も一緒に積み上げられている。


「師匠、持ってきました。それと、ガラスの治具はこちらに」

「よし。まずこの三番目のサンプルを出せ。アダマンタイト含有率を確かめたい。レオポルト、お前も見ておけ。自分の依頼した建物の骨が何でできているか、施主が知らんようでは話にならん」

「はい、先生」


 三人の影が、作業台の上に長く伸びていた。窓から差し込む西日が、鋳鉄のサンプルを金色に照らし出している。


 


 工房を辞したのは、陽がすっかり傾いてからだった。


 レオポルトは夕暮れの石畳を踏みしめながら歩いていた。空は茜色に染まり、職人街の窓々に橙の明かりが灯り始めている。煙突からは夕餉の支度を告げる薄い煙が立ち上り、路地には一日の仕事を終えた職人たちの笑い声や、子供を呼ぶ母親の声が響いていた。


 背後のオスカーの工房からは、既にカンカンと金属を打つ音が漏れ聞こえてくる。契約を結んでまだ数刻しか経っていないのに、もう試作に着手しているのだ。あの老技師の情熱は、一度火がつけば誰にも止められない。


 胸の中に、確かな手応えがあった。


 オスカーを味方に得ることができた。第一周目と同じように。いや、それ以上に深い理解と信頼の上に立つ関係を築くことができた。彼の過去を知り、その痛みに触れた今、二人の間の結束はかつてないほど堅固なものになったはずだ。


「エーリッヒ。オスカー先生。二人の力を得た」


 レオポルトは指を折りながら呟いた。


「これで土台ができた。だが、まだ足りない」


 足を止め、視線をゆっくりと東の方角へ向ける。


 王都の東側。煌びやかな大通りから外れた裏路地を幾つも越えた先に、灰色の煉瓦が積み上がる一帯が広がっている。スラム街と呼ばれるその地区には、陽の光すら届きにくい細い路地が網の目のように走り、朽ちかけた長屋が身を寄せ合うようにしてひしめいている。


 その一角に、古びた図書室がある。


 そしてそこに、一人の女性がいるはずだった。


 クララ・ノイマン。


 スラムに生まれ、独学で文字を覚え、書物への飽くなき渇望だけを頼りに知識の階段を駆け上がってきた女性。第一周目では、レオポルトが開いた図書室の司書として雇い入れた。本を愛し、知識を尊び、誰よりも聡明で、誰よりも正直で……そして最後には、革命の濁流に飲まれて敵対することになった相手だ。


 初めて会ったときの彼女の言葉が、今も鮮明に耳に残っている。


 『私は本が好きです。それ以外の理由が必要ですか。……正直に申し上げれば、貴族の方に雇われるのは本意ではありません。けれど、本に囲まれて働ける場所が他にないのです。だから参りました。それだけのことです』


 あの透き通るような瞳。嘘をつくことのできない、澄んだ目。あの目に宿っていた貴族への根深い不信感は、オスカーのそれとはまた異なる種類のものだった。オスカーの不信が個人的な裏切りの経験に根差しているのに対し、クララの不信はもっと構造的で、もっと深い。生まれながらに貴族と庶民の間に横たわる、越えがたい溝そのものから生じた不信だ。


「彼女を……今度も説得できるだろうか」


 不安がないと言えば嘘になる。だが、立ち止まっている猶予はない。


「言葉だけでは届かない。上からの施しでもなく、同情でもなく……対等な人間としての敬意を示すしかない」


 レオポルトは夕闇に沈みゆく王都の東を見据えた。


 彼女を再び味方にする。そして今度こそ、守り抜く。第一周目のように、革命の嵐の中で孤立させはしない。彼女が抱える怒りと悲しみの根源に向き合い、共にそれを解きほぐしていく。そうでなければ、このやり直しに意味はない。


 その決意を胸に、レオポルトの足は再び動き始めた。


 茜色の空の端に、一番星がひっそりと瞬き始めている。職人街の槌音はまだ止まず、遠くの鍛冶場から火花が夜空に散るのが見えた。


 新しい時代は、まだ産声すら上げていない。だが、その胎動は確かに始まっている。オスカーの工房で描かれた一本の線から、この世界にまだ存在しない建物が、少しずつ形を取り始めようとしていた。

第4話「老技師オスカーとの再会」をお読みいただき、ありがとうございます!


ついに物語の鍵を握る重要人物、伝説の魔導建築技師オスカーが登場しました。

なろうでも人気の「偏屈だけど腕は超一流の職人」枠ですが、彼には十五年前の悲劇という重い過去がありました。


そんな彼を口説き落としたのは、レオポルトが前世の百貨店マンとして培った**「現代建築の知識」**と、一周目の失敗から学んだ「職人の矜持への深い理解」です。

レオが提示した「鋳鉄のグリッド構造」や「疑似複層ガラス」のアイデアは、魔法が存在するこの世界だからこそ、現代以上の強度を持って実現可能になります。


レオの「誰も犠牲にしない」という覚悟が、十五年間心を閉ざしていた老職人の魂に火を灯すシーンは、書いていて私自身も熱くなりました。


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【次回予告】

次回の第5話「図書室司書クララの疑念」では、レオポルトにとって最も因縁深い女性、クララ・ノイマンを訪ねます。

一周目ではレオを断頭台へと追い込む告発者となった彼女。

彼女の「貴族への深い不信」を、レオポルトはどう解きほぐしていくのか……。

「経済」だけでなく「教育」もまた、王国再建には欠かせない要素となります。


【作者からのお願い】

「オスカーとレオの師弟コンビが熱い!」「ガラス天井のデパート、見てみたい!」と少しでも思っていただけましたら、ぜひページ下の評価欄から【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援いただけると、執筆の大きな活力になります!

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