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第3話 王宮での再提案

 王宮へと続く石畳を踏みしめながら、レオポルトは第一周目の記憶を反芻していた。


 三年前のあの日。若さと情熱に突き動かされた彼は、国王アルフレート三世の前にひざまずき、こう訴えたのだ。


「陛下、どうかお聞きください。私にはこの王国の経済を一変させる構想がございます。デパートメントストアを作らせてください。必ずや王国の商業を変えてみせます」


 王はその熱意に心を動かされ、全面的な支援を約束してくれた。


「面白い。若き情熱というものは、時に老練な知恵を凌駕する。よかろう、ヴァイスハルト。余の名のもとに存分にやれ。王立デパートだ。資金も人員も、必要なものは全て用意しよう」


 王立デパートの誕生だ。当時は、それが勝利への最短の道だと信じて疑わなかった。


 だが、それこそが最初にして最大のボタンの掛け違いだったのだ。


 王権との結びつきが強すぎた結果、デパートは王の所有物と見なされた。やがて民衆の目には、貴族が富を独占するための道具として映るようになる。透明性を掲げながら、その実態は権威の象徴として君臨してしまったのだ。それが不満を招き、やがて革命の火種となって王都を焼き尽くした。


「今回は違う」


 レオポルトは心の中で強く誓った。


 慎重に、かつ戦略的に動く。王の承認は不可欠だが、依存は避ける。民衆と商人も巻き込み、三者で出資する半官半民の構造を作り上げるのだ。そうすればデパートは誰か一人のものではなく、王国全体のものになる。どこにも亀裂が入らない、互いに監視し支え合う運命共同体へと変わるはずだ。


 街道の両脇には商店が軒を連ね、商人たちが声を張り上げて客を呼び込んでいた。


「さあさあ、新鮮な朝採れ野菜だよ! 今朝畑から引っこ抜いたばかりだ! 蕪にほうれん草、人参もでっかいのが揃ってるよ! 奥さん、今日のは特別だ、見てってくれ!」


「東方から届いた上質な布地いかがですか! シルクの肌触り、一度お試しあれ! 奥様方にも大好評、先週入荷した分はもう残りわずかでございます!」


「焼きたてのパンはいらんかね! バターをたっぷり練り込んだ本日の特製だ! 三つ買えば一つおまけするよ! 朝飯がまだの旦那、一ついかが!」


 活気に満ちた平和な日常。その光景はあまりにも自然で、当たり前で、何の問題もなく見える。


 だがレオポルトの目には、この風景に重なる別の映像が見えていた。


 三年後のこの通り。紅蓮の炎に包まれている。革命軍が店を襲撃し、商品が略奪され、馴染みの商人たちが逃げ惑う地獄絵図。悲鳴。炎。血の匂い。その光景が現在と二重写しになって視界に焼きついて離れない。


「絶対に、あの未来には辿り着かせない」


 レオポルトは爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。



 王宮の正門前に到着すると、白い石造りの巨壁が威圧するように聳え立っていた。


 午前の陽光を浴びた壁面は眩いほどに白く輝き、見上げる者に王家の権威を否応なく思い知らせる。門の両脇には王家紋章入りの鎧を纏った兵士が直立不動の姿勢で立っていた。鋭い眼光で往来を監視し、手にした長槍の穂先が冷ややかに光を返している。


 レオポルトが歩み寄ると、門番たちは即座に槍を交差させて行く手を阻んだ。


「止まれ。何者だ」


 声を上げたのは二十代半ばとおぼしき若い兵士だった。日焼けした顔に責任感と緊張が滲んでいる。


「王宮に用がある者は事前に許可を得ていなければ通すわけにはいかん。許可証は持っているか」


「持っていない。だが、話を聞いてほしい」


 レオポルトは焦ることなく、揺るぎない声で名乗った。


「ヴァイスハルト男爵家当主、レオポルト・ヴァイスハルトだ」


 兵士たちが顔を見合わせた。若い兵士がもう一人の年配の兵士に小声で囁く。


「おい、ヴァイスハルトって知ってるか」


「ああ……確か先代が功績で男爵位を賜った家だ。行政改革で名を上げた有能な官僚だったが、早くに亡くなった。息子は書生上がりで、社交界じゃほとんど見かけん」


「アポイントメントはないぞ。どうする」


「まあ待て。一応貴族だ。邪険にすると後がうるさい。だが通すわけにもいかんしな……」


 年配の兵士が改めてレオポルトに向き直った。四十がらみの、額に古い傷跡がある男だ。長い兵役が刻んだ皺の奥から、値踏みするような視線を送ってくる。


「ご用件をお聞かせ願えますか、男爵殿」


「国王陛下に謁見を願いたい」


 レオポルトは真っ直ぐに相手の目を見て告げた。


「王国経済の行く末に関わる極めて重要な提案がある。一刻を争う案件だ」


 若い兵士が眉を上げた。


「陛下に謁見だと? 事前の申請もなしにですか」


 それから気まずそうに咳払いをして、声を落とした。


「失礼ですが男爵殿、この門は飛び込みでくぐれるほど安い門ではございませんぞ。どのような身分の方であれ、手続きというものがございます」


 年配の兵士が若い方を肘で突いた。


「言い方に気をつけろ。相手は貴族だ」


 それからレオポルトに向き直り、低い声で続ける。


「……しかし男爵殿、部下の言う通りでございまして。通常であれば侍従府を通じて正式に申請していただき、早くとも三日、遅ければ二週間ほどお待ちいただくことになります。それが宮中の定めでして」


「承知している。手続きの不備は重々分かっている」


 レオポルトは声を落とし、しかし一層の重みを込めた。


「だがこれは三日も待てる話ではないのだ。近い将来、この王国の経済が大きく揺らぐ可能性がある。その危機を未然に防ぐための提案だ。手順を飛ばした非礼は全て私が引き受ける。どうか上役にお取り次ぎ願えないだろうか」


 兵士たちの間に困惑が走った。新興貴族の若造がアポイントメントもなしに王への謁見を求めるなど、前代未聞に近い。通常であれば門前払いが当然だ。


 だがレオポルトの瞳には、狂気ではなく理知的な光が宿っていた。岩のように動じない意志と、何かを必ず成し遂げるという確信。その気迫に、年配の兵士は腕を組んで黙り込んだ。


 長い経験に裏打ちされた直感が、何かを告げているのだろう。この青年は只者ではない、と。


 やがて年配の兵士は若い兵士に目配せし、小声で言った。


「……俺が侍従長殿に伺いを立ててくる。お前はここで男爵殿をお待たせしろ。粗相のないようにな。口の利き方にも気をつけろ」


「了解です」


 年配の兵士は短く頷くと、小走りで門の中へ消えていった。


 残された若い兵士は、交差させたままの槍を持ち直しながら、どこか気まずそうにレオポルトを盗み見ている。しばらくの沈黙の後、居心地悪そうに口を開いた。


「……あの、男爵殿。差し支えなければ一つお聞きしてもよろしいですか」


「何だ」


「その……王国経済が揺らぐ、とおっしゃいましたが。今のところ、街はずいぶん平和に見えます。市場も活気があるし、大きな問題は聞いておりませんが……」


 レオポルトはその問いに、一瞬だけ苦い笑みを浮かべた。


「嵐は静かな日にこそ近づいてくるものだ。風が吹き始めてからでは、もう遅い」


「は、はあ……」


 若い兵士は首をかしげていたが、それ以上は追及しなかった。


 しばらくして、兵士がふと思い出したように声をかけてくる。


「あの……男爵殿。水をお持ちしましょうか。お待ちいただく間、少しでも」


「ああ、ありがたい。頂こう」


「すぐにお持ちします」


 兵士が持ってきたのは素焼きのカップに入った井戸水だった。レオポルトは受け取り、一口飲む。冷たい水が乾いた喉を潤した。


「美味いな。この水はどこの井戸だ」


「は、はい。北の中庭の井戸から汲んだものです。王宮で一番美味い水だと先輩方が言っておりました。地下深くから湧いているそうで、夏でも冷たいんです」


「いい水だ。この一杯でずいぶん落ち着いた。ありがとう」


 兵士は照れくさそうに頭を掻いた。


「い、いえ……そんな。当たり前のことをしただけですから。門番はお客様を待たせることも仕事のうちですので」



 さらに十分ほどが過ぎた頃、門の奥から一人の老人が現れた。


 侍従長フリードリヒ。六十歳を超えているはずだが、背筋は定規で引いたように伸びている。一歩一歩の歩幅さえ正確に揃った足取りだ。白髪をきっちりと後ろで束ね、漆黒の侍従服を寸分の隙もなく着こなす姿は、規律そのものが歩いているかのようである。深く刻まれた皺と、冷ややかに光る灰色の瞳が、長年にわたって王宮の秩序を守り続けてきた男の矜持を物語っていた。


 第一周目では、この男はレオポルトを礼儀知らずの成り上がりと露骨に軽蔑していた。デパートが成功してからは表面上の態度は軟化したものの、腹の底には常に冷ややかな侮蔑があったことを、レオポルトは知っている。その侮蔑がどれほど宮中での孤立を深めさせたか。情報が回ってこなくなり、根回しが全て空振りに終わり、気づいた時には味方が誰もいなくなっていた。


「ヴァイスハルト男爵」


 フリードリヒの声は氷のように冷たかった。


「正式な手順も踏まず突然の謁見申請とは。一体何事か」


 歩み寄りながら、老侍従長はレオポルトを上から下まで検分するように眺めた。


「この王宮は、貴族であれば誰でも自由に出入りできる広場ではない。それくらいのことは弁えているとは思うが……弁えた上でのこの振る舞いであるなら、よほどの事情があるのだろうな」


 その目には不快感が隠されていなかった。身の程知らずの若造が王宮の秩序を乱している。そう告げる視線だ。


 レオポルトは流れるような動作で深々と頭を下げた。腰を折る角度、手の位置、足の開き、目線の落とし方。全てが宮廷礼法の教本通りに計算し尽くされた一礼だった。第一周目で何度も失敗し、何度も恥をかき、最終的に体に叩き込んだ作法だ。


「突然のご無礼、平にお許しください、侍従長閣下」


 レオポルトは誠実さを込めた声で紡いだ。


「閣下が王宮の規律を守るために日々心を砕いておられることは重々承知しております。その秩序あってこそ、王宮は王宮たり得る。それを乱すような振る舞いをしたこと、深くお詫び申し上げます」


 一拍、間を置いた。


「しかし、これは一刻を争う王国の未来に関わる案件なのです。正式な手順を経ていては、失われる時間が取り返しのつかないものになりかねません。閣下のご判断を仰ぎたく参上いたしました。どうか、陛下へのお取り次ぎをご検討いただけないでしょうか」


 フリードリヒの眉がわずかに動いた。


 予想外の恭しさと、洗練された所作。新興貴族の多くは金に物を言わせる傲慢な輩か、礼儀を知らぬ無作法者ばかりだ。だが目の前の青年は違う。初対面の相手にも礼を尽くし、言葉には実質的な謙虚さが感じられる。


 老侍従長は数秒の間、レオポルトの姿勢を無言で検分した。頭の下げ方。手の置き方。足の角度。宮廷礼法の細部を、長年の経験で一つ一つ確認している。


「……ふむ。礼法はきちんと心得ているようだな」


 声のトーンがわずかに変わった。氷点下から、せいぜい零度に上がった程度ではあるが。


「最近の若い貴族にしては珍しい。大抵の者は片膝をつく角度すら間違える。手の位置も知らぬ者が多い中、そなたの作法は古流の正統だな。どこで学んだ」


「父から厳しく仕込まれました。亡き父は、礼儀とは相手への敬意の表現であり、自分の品格の証だと常々申しておりました」


「先代のヴァイスハルト男爵か」


 フリードリヒの目に、かすかな追想の色が浮かんだ。


「あの方は成り上がりではあったが、礼儀だけは弁えた人物だった。行政の場でも決して傲慢にならず、上にも下にも同じ態度で接する男だった。……息子にもそれが伝わっているようだな」


「お覚えいただいているとは光栄です。父もあの世で喜んでおりましょう」


 老侍従長の瞳から、わずかに険が取れた。完全に解けたわけではない。だが、門前払いの可能性は確実に減った。


 フリードリヒは腕を組んだまま、厳しい目でレオポルトを見据えた。


「それで、王国の未来に関わる案件とは何だ。この老骨にも概略くらいは聞かせてもらわんと、陛下にお取り次ぎのしようがない。侍従長として、くだらない話で陛下のお時間を奪うわけにはいかんのでな」


「はい。王国の商業構造を抜本的に改革する提案でございます。具体的に申し上げれば、新しい形態の商業施設の建設です。これにより王国の税収は大幅に増加し、民衆の生活水準も向上いたします。また、現在の市場取引に蔓延する不透明な価格設定を是正し、公正な商業環境を実現する道筋をお示しいたします」


 フリードリヒの目が一瞬だけ鋭くなった。


「商業改革だと。……随分と大きく出たものだな、若いの」


 それから少し考え込む素振りを見せ、続けた。


「それが本当に陛下のお手を煩わせるほどの案件なのか。商業の話であれば、まず商務卿に持ち込むのが筋であろう。手順というものがある」


「もちろん、最終的にはそうなります。しかしこの提案は商業の枠を超え、王国の財政と社会構造そのものに関わるものです。商務卿の権限では判断しかねる規模でございます。陛下のご裁可なくしては一歩も前に進めません」


「……ほう」


 フリードリヒはしばらくレオポルトの顔を見つめていた。何を測っているのか、その灰色の瞳からは読み取れない。


 やがて老侍従長は短く息を吐いた。


「少し待て」


 踵を返しかけて、足を止める。


「……いいだろう。陛下のご都合を伺ってくる。ここで待機せよ。ただしくれぐれも粗相のないようにな。王宮内では一挙手一投足が見られていると心得よ。壁に耳あり、柱に目ありだ」


「心得ております。ありがとうございます、閣下」


 フリードリヒは踵を返し、宮殿の奥へと消えていった。その背中は、先ほどよりわずかに歩速が速まっているように見える。


 レオポルトは閉ざされた門を見つめながら、第一周目の記憶を噛み締めた。


 あの時は怒鳴るように言ったのだ。


「俺はヴァイスハルト男爵だ。王に直訴がある。すぐに通せ。これは王国の一大事だ、門番風情が邪魔をするな」


 その言葉にフリードリヒは凍りつくような視線を返した。


「……成り上がりの若造が。王宮の秩序を何と心得る。二度とその口の利き方をするな。さもなくば、次は門の外ではなく牢の中で待つことになるぞ」


 あの時の屈辱的なやり取りが、その後の宮廷内での孤立の始まりだった。フリードリヒの反感を買ったことで、王宮内の情報ルートが全て閉ざされた。侍従たちは口を閉ざし、官僚たちは非協力的になり、根回しは全て空振りに終わった。


 だが今回は違う。礼儀を尽くし、手順を尊重し、無駄な敵を作らない。小さな変化かもしれないが、その積み重ねが運命を変える。前世のバイヤー時代に嫌というほど学んだことだ。取引先との関係は、最初の挨拶で決まる。


 門番の若い兵士が、居心地悪そうにしながらも再び声をかけてきた。


「あの……男爵殿。もう一杯、水をお持ちしましょうか。少しお待ちが長くなりそうですので」


「いや、大丈夫だ。一杯で十分だった。ありがとう。……ところで、名前は」


「え? あ、自分ですか。ルーカスと申します。ルーカス・ヘフナー。門番になって、まだ半年です」


「ルーカスか。いい水だった。覚えておくよ」


「は、はい……ありがとうございます……」


 ルーカスは面食らった顔をしている。貴族に名前を尋ねられる門番など、おそらくいないのだろう。



 さらに十分ほど待った頃、フリードリヒが戻ってきた。


 その表情は依然として硬いが、拒絶の色は消えている。


「陛下がお会いになるそうだ」


 その一言に、レオポルトの心臓が一拍だけ跳ねた。


「……どういうわけかな。陛下はそなたの名前を聞いた途端に興味をお示しになった。先代のヴァイスハルトが遺した息子に少々関心がおありのようだ。ありがたく思え」


「身に余る光栄でございます」


「ただし、時間は限られている。陛下は午後に枢密院の会議を控えておられる」


 フリードリヒはレオポルトの目をまっすぐに見据えた。


「手短に、しかし要領よく話すのだぞ。くどくど前置きを並べるな。核心から入れ。それが陛下のお好みだ。回りくどい話をする者を、陛下は最も嫌われる」


「心得ました。ありがたいご助言です、閣下」


 フリードリヒは一瞬だけ足を止め、振り返った。


「……一つだけ言っておく」


 声のトーンが変わった。侍従長としての公式な態度ではなく、一人の老人が年若い者に忠告する、そういう響きだ。


「陛下は優しいお方だ。臣下の話に耳を傾け、良いと思えば力を貸してくださる。だが、その優しさに甘えれば、それは侮辱になる。陛下のお時間を無駄にするようなことがあれば、次にこの門をくぐることは二度とないと思え。これは脅しではない。忠告だ」


「肝に銘じます」


「ついて来い」


 レオポルトは小さく息を吐き、門をくぐった。


 美しく手入れされた中庭を抜け、磨き上げられた大理石の廊下を進む。壁には歴代の王を描いた肖像画が並んでいた。初代国王から現在の十一代目まで、それぞれの時代を背負った王たちの顔が、通り過ぎる者を静かに見下ろしている。


 すれ違う侍従や女官たちが、物珍しそうにレオポルトに視線を送ってくる。廊下の途中で、一人の年老いた侍従が小声で同僚に囁くのが聞こえた。


「あれは誰だ。フリードリヒ殿が直々に案内するとは珍しい」


「ヴァイスハルトとかいう新興貴族の息子だそうだ。何の用かは知らんが……」


「ふん。新興貴族か。最近やたらと増えたな。父親は確かに有能だったが、息子はどうだか」


「声が大きいぞ。フリードリヒ殿に聞こえたら面倒なことになる」


 レオポルトはその囁きを聞き流した。この程度の陰口は想定の範囲内だ。第一周目ではこうした小さな敵意にいちいち反応し、無駄にエネルギーを消費していた。睨み返し、言い返し、余計な軋轢を生んだ。だが今は違う。本当の敵は別にいる。


 やがて巨大な両開きの扉の前にたどり着いた。玉座の間への入口だ。木肌には黄金の装飾が施され、王家の紋章である双翼の獅子が浮き彫りにされている。


 フリードリヒが重々しく扉を開き放つ。


「ヴァイスハルト男爵、入室を許す」


 そしてレオポルトの耳元に、最後の言葉を添えた。声は低く、他の者には聞こえない。


「くれぐれも、手短にな。そなたの命運は、この先の数分で決まるぞ」


 レオポルトは深く呼吸し、腹の底に力を込めて足を踏み入れた。



 玉座の間は、記憶の通り圧倒的な空間だった。


 天高くアーチを描く天井。壁一面に描かれた建国の英雄譚と豊穣の女神のフレスコ画。色彩は幾世代にもわたって塗り重ねられ、見る者を歴史の底へと引きずり込む。床は磨き上げられた大理石で、靴音が響くたびに空間全体が共鳴した。


 その最奥、数段高くなった壇上に置かれた玉座に、国王アルフレート三世が鎮座していた。


 五十二歳。金髪には白いものが目立ち始め、美しい青い瞳にはどこか疲労の色が漂っている。豪奢な衣装に包まれた体はやや肥満気味だが、その表情には生まれついての気品と、優柔不断と表裏一体の優しさが同居していた。


 玉座の右側には宰相エドゥアルト・フォン・リヒテンシュタインが控えている。五十八歳。温和な顔立ちに白い顎鬚を蓄えた、典型的な調停型の政治家だ。穏やかな外見に反して、その目は鋭い。長年の官僚経験が凝結したような深さが、視線の奥に光っていた。


 左側には数名の有力貴族が並んでいる。その中に、見覚えのある男の姿があった。いや、忘れることなどできない男だ。


 保守派貴族の筆頭、ゲオルク・フォン・エッケルト伯爵。


 でっぷりと肥え太った体躯に、傲慢さを煮詰めたような表情。赤ら顔に小さな目、二重顎の下に脂肪がたるんでいる。だがその小さな目は油断なく光っていた。彼はレオポルトを一瞥すると、露骨に顔をしかめて隣の貴族に聞こえよがしに囁いた。


「おい、あの若造は誰だ。ヴァイスハルト? ああ、あの成り上がりの倅か」


 隣の貴族が小声で返した。やせ型の、神経質そうな男だ。


「親父は確かに腕のいい行政官でしたが、爵位を得たのはほんの十年前ですからな。家柄としては……」


「家柄もへったくれもないだろう。あんな青二才が玉座の間に何の用だ。陛下もお人好しが過ぎる」


「しかし陛下が直々にお会いになるとおっしゃったのですから……」


「ふん。陛下はお優しすぎるのだ。蠅の一匹一匹にまで耳を貸すお方だからな。まあ見ておれ、すぐに追い返されるさ」


 レオポルトはその会話を耳に入れつつも、表情を一切変えなかった。玉座の前まで進み出ると、片膝をつく。流れるような動作だった。


「陛下、本日はご多忙の折、貴重なお時間をいただき恐縮の極みでございます。ヴァイスハルト男爵家当主、レオポルト・ヴァイスハルト、謹んで拝謁いたします」


 国王が穏やかな声で応じた。興味と警戒が、等分に混ざっている。


「面を上げよ、ヴァイスハルト男爵」


 レオポルトは立ち上がり、真っ直ぐに国王を見据えた。疲れてはいるが知性と慈悲を湛えた瞳。この人を今度は守らなければならない。第一周目では、この王もまた革命の渦に飲まれ、亡命という名の敗走を強いられたのだ。


 国王はレオポルトを上から下まで眺め、それからわずかに目を細めた。


「そなたが先代ヴァイスハルトの忘れ形見か」


「はい、陛下」


「……父親に似ているな。背筋の伸ばし方が特にそっくりだ。あの男も余の前で一歩も引かぬ胆力を持っていた。財務の報告で悪い数字を出す時も、決して目を逸らさなかったものだ」


「お覚えいただいているとは、父もあの世で感激しておりましょう。陛下に仕えられたことが、父の生涯の誇りでございました」


 国王は小さく頷き、それから本題に切り込んだ。


「して、フリードリヒを通じてまで直訴したいこととは何だ。あの堅物が通したということは、よほどの話なのだろうな。余は時間がないのでな、率直に聞こう」


 レオポルトは一つ頷いた。ここからが勝負だ。


「陛下、私は王国経済の透明化を提案いたします」


 ざわっ、と貴族たちの間にさざ波が走った。一人の貴族が隣に小声で囁く。


「透明化だと? 何を透明にするというのだ」


「さあ。若造の空論だろう」


 レオポルトは構わず続けた。


「そのための具体的手段として、新しい形態の商業施設の建設を献策いたします。私はこれをデパートメントストアと名付けました」


 国王が首を傾げた。


「デパートメントストア。耳慣れない言葉だが……どこの国の言葉だ? 余は西方の諸語にもいくらか通じているつもりだが、聞いた覚えがない」


「私が独自に考案した名称でございます。部門、すなわちデパートメントごとに商品を分類して販売する店、すなわちストア。それを組み合わせた造語です」


「ほう。つまりそなたの創作か。面白いことをするな」


 宰相リヒテンシュタインが、玉座の脇から身を乗り出した。


「陛下、お許しをいただいて少々質問してもよろしいでしょうか」


「うむ、構わん」


 宰相はレオポルトに向き直った。穏やかだが鋭い目だ。


「ヴァイスハルト男爵。デパートメントストアとやらの概要を、もう少し具体的に説明してもらえるかね。名前だけでは何も分からん」


「はい。簡潔に申し上げます」


 レオポルトは淀みなく説明を始めた。


「あらゆる商品を一つの巨大な建物の中で扱う施設です。食料品から衣料品、日用雑貨に至るまで。高級な工芸品も、庶民の暮らしに必要な品も、全てが一箇所で手に入る。買い物客は一つの建物の中を歩き回るだけで、必要なものの全てを揃えることができます」


「ふむ。概念としては理解できる」


 宰相が顎鬚を撫でた。


「だが、具体性がまだ見えない。それは既存の大市場とどう違うのかね。規模が大きいだけの市場であれば、今ある中央大市場を拡張すれば事足りるだろう。わざわざ新しい施設を建てる意味が分からん」


「おっしゃる通り、規模だけの違いではございません。二つの決定的な違いがあります」


 レオポルトは指を立てた。


「一つ目。市場は屋外であり天候に左右されます。雨の日には客足が途絶え、冬には凍える寒さの中で商いをせねばなりません。デパートは屋内です。全てが一つの屋根の下にあり、天候に左右されず、年間を通じて安定した商売が可能になります」


 宰相が小さく頷いた。


「なるほど。それは確かに利点だな。冬季の市場の売上減少は、かねてより問題になっている」


「そして二つ目。これが最も重要な違いです」


 レオポルトは声に力を込めた。


「正価販売制度の導入です」


 玉座の間が静まった。聞き慣れない言葉に、貴族たちの間に戸惑いが広がる。


 国王が眉を上げた。


「正価販売。……それは何だ?」


「はい、陛下。全ての商品に値札を付け、価格を明示いたします。そして一切の価格交渉を行わず、誰に対してもその価格で販売するのです。庶民であろうと貴族であろうと、男であろうと女であろうと、年寄りであろうと子供であろうと。同じ商品には、同じ価格を支払う。例外はありません。それが正価販売です」


 国王はしばし沈黙し、それからゆっくりと問うた。


「つまり……値切りができないということか」


「はい。その通りです」


「それで商売が成り立つのか?」


 国王は腕を組み、本気で首をひねった。


「余は商いのことは詳しくないが、市場で商人と客が値引き交渉をするのは当然のことではないのか。物を買うとは、値段を決めることだろう。それを取り上げてしまえば、売る側も買う側も戸惑うのではないか」


「陛下のお疑いはもっともでございます。しかしお考えください」


 レオポルトは穏やかに、だが確信に満ちた口調で答えた。


「値引き交渉とは、つまり最初の提示価格が適正ではないということの証左です。商人は値引きを見越して高い値を付ける。客はそれを知っているから値切る。商人は値切られることを前提にさらに上乗せする。客は疑心暗鬼になり、まだ高いのではないかと不安に駆られる。この不毛な循環に費やされる時間と労力は、本来もっと生産的なことに使われるべきものではないでしょうか」


 宰相が思わず膝を打った。


「なるほど。それは一理ある。確かに、市場での値引き交渉は商取引の効率を著しく下げているな。私も市場に足を運ぶことがあるが、一つの品物を買うのに四半刻もかかることがある。あれは確かに無駄だ」


「左様でございます、宰相閣下。そして何より、交渉が苦手な者は常に不利な立場に置かれています。女性、子供、高齢者、地方から出てきた旅人。口下手な者は、弁の立つ商人に太刀打ちできません。同じ品物を買うのに、人によって払う金額が違う。正価販売は、そうした不平等を根本から解消いたします」


 国王がゆっくりと頷いた。


「なるほどな……。確かに、余の母上は市場で買い物をするのを嫌っておられた。値切るのが恥ずかしいと言ってな。従者に任せきりだった」


「まさにそのようなお方のためでもございます、陛下。値札があれば、誰もが安心して買い物ができるのです」


 その瞬間、ゲオルク伯爵が鼻で笑った。


「くだらん」


 嘲笑が玉座の間に響き渡る。ゲオルクは太い体を揺すって立ち上がった。椅子が軋む音が響く。


「実に馬鹿げている。聞いておれんな。陛下、お許しをいただいて一言よろしいか」


 国王が頷くと、ゲオルクは遠慮なく声を張り上げた。


「商業の本質とは交渉だ。相手の顔を見て、懐具合を読んで、駆け引きをする。それが商人の腕というものだろう。値切る方も値切られる方も、それが商いの面白味であり醍醐味だ。値札などという奇妙な紙切れを貼り付けて、一体誰が喜ぶ。価格を固定すれば商人は利を失い、客は騙されているのではないかと疑うだけだ」


 彼は玉座の間を見回し、同意を求めるように両手を広げた。


「皆も思うだろう? こんなものは机上の空論だ。商売の現場を知らぬ学者が書斎で思いつく妄想と何も変わらん」


 数名の保守派貴族が頷いた。その中の一人、やせ型の神経質そうな男が声を上げた。


「エッケルト伯爵のおっしゃる通りです。商業の根幹は需要と供給に基づく価格変動にございます。それを固定するなど、市場の原理に反します」


 別の太った貴族も続く。


「そもそも、庶民と貴族が同じ空間で買い物をするとは何事ですか。身分の秩序が乱れます。我々が市場の雑踏に紛れて買い物をせよと言うのか」


 ゲオルクが勝ち誇ったように顎を上げた。


「ほらご覧なさい、陛下。これが良識ある貴族の総意でございますぞ」


 レオポルトは動じることなく、ゲオルクに向き直った。声は静かだが、芯に鋼が通っている。


「エッケルト伯爵閣下。ご指摘はもっともでございます」


 まず相手の言い分を受け止める。第一周目で学んだ教訓だ。真っ向から否定すれば、相手は意固地になるだけだ。


「確かに、貴族の方々や裕福な商人は交渉に慣れておられましょう。駆け引きの腕にも自信がおありでしょう。伯爵閣下ほどの方であれば、どのような商人を相手にしても有利な条件を引き出せるに違いありません」


 ゲオルクの表情がわずかに緩んだ。褒められて悪い気はしないのだ。単純な男だ。


「しかし」


 レオポルトはすかさず切り込んだ。


「多くの庶民は交渉が苦手です。常に吹っ掛けられているのではないかという不安を抱えて買い物をしている。市場に行くたびに、今日は騙されはしないかと身構えなければならない。そのような不安を抱える民衆が、王国への信頼を持てるでしょうか」


「庶民の不安? それが王国の政策とどう関わるのだ」


 ゲオルクが太い首を傾げた。


「そんなものは個人の力量の問題だろう。交渉が下手なら腕を磨けばいい。それだけの話だ」


「いいえ、伯爵閣下。庶民の不安は、そのまま王国への不信に繋がります」


 レオポルトの声が一段低くなった。


「『自分たちは搾取されている』という感覚が積もり積もれば、それは社会不安の温床になる。不満は最初、小声の愚痴として始まります。やがて酒場での悪口になり、街頭での罵声になり、最後には……暴動になる。商業の透明化はひいては王国の安定に直結するのです」


 ゲオルクは鼻をひくつかせた。レオポルトの目を睨みつけながら、声を荒げた。


「詭弁だな。庶民の感情を盾に取って、自分の事業を正当化しているだけだ。貴様は商売がしたいだけだろう。それを国家のためと偽るのは卑怯というものだ」


「では、伯爵閣下にお尋ねいたします」


 レオポルトは一歩も引かなかった。


「閣下の領地の市場で、商人が庶民に対して不当に高い価格を要求しているという苦情が、ここ一年で何件寄せられたかご存知ですか」


「……何だと?」


「昨年だけで二百件を超えております。そのうち三分の一は、商品の品質と価格が著しく乖離しているという訴えでした。これは王都の商務局が公開している記録に基づいた数字です。閣下の領地に限ったことではありません。王国全体で同様の傾向が見られます」


 ゲオルクの顔がわずかに強張った。具体的な数字を突きつけられることは、彼が最も嫌うことだ。感情論なら怒鳴って黙らせられるが、数字は怒鳴っても消えない。


 宰相が小さく頷いた。


「ヴァイスハルト男爵、その数字は事実かね」


「はい、宰相閣下。お疑いでしたら商務局の記録をご確認いただければ幸いです。公開記録ですので、どなたでも閲覧できます。正価販売制度は、こうした紛争を根本から解決する仕組みなのです」


 レオポルトは王に向き直った。


「陛下。値札があれば、子供でも安心して買い物ができます。老人が商人に言い負かされる心配もなくなります。地方から出てきた旅人が、土地の相場を知らぬからと吹っ掛けられることもない。その安心と透明性こそが信頼を生み、信頼が集客を生み、集客が売上を生むのです」


 一拍置いて、付け加えた。


「そして陛下、もう一つ申し上げたいことがございます。正価販売は税の徴収をも容易にいたします。全ての取引が記録され、売上が透明化される。脱税の余地が極端に狭まり、王国の税収は確実に増加するのです」


 国王の目が光った。税収の増加という言葉は、慢性的な財政難に悩む王にとって、最も響く一言だったに違いない。


「ほう……。税収に影響があるとな。具体的にどの程度の効果を見込んでいるのかね」


「控えめに見積もって、開業三年以内に関連税収を現在比で三割は増加させることができると考えております」


「三割……」


 宰相が思わず声を漏らした。


「途方もない数字だが、根拠はあるのかね。三割という数字は、どこから出てくるのだ」


「ございます。現在の市場取引における税の捕捉率は、推計で六割程度です。四割が申告漏れや過少申告によって失われている。これも商務局の推計に基づいた数字です。正価販売による取引の透明化で、この捕捉率を九割以上に引き上げることが可能です。それだけで税収は五割近く増加する計算になりますが、実現の過渡期を考慮して控えめに三割と申し上げました」


「ふむ……」


 宰相は腕を組んで唸った。


「数字の論理は通っている。だが理論と実践は別物だ。捕捉率を上げると言っても、商人たちが素直に従うとは限らんぞ」


「おっしゃる通りです。だからこそ、まずは一つの施設で実証してみせるのです。小さな成功が信頼を生み、信頼が拡大を可能にする。一足飛びに王国全体を変えようとは思っておりません」


 ゲオルクが苛立たしげに椅子の肘掛けを叩いた。


「綺麗事だな。いくら数字を並べたところで、現実を知らぬ若造の妄想には変わらん。聞き飽きたわ」


 太い指でレオポルトを指し、声を荒げた。


「そんな仕組みが本当に機能するはずがない。第一、誰がそんなものに金を出す。まさか王室の財政から全額出せと言うのではあるまいな。この上、国庫を食い潰す気か」


 宰相リヒテンシュタインが、穏やかだが毅然とした声で割って入った。


「まあまあ、エッケルト伯爵。若い者の意見にも耳を傾けるのが、我々の務めというものだ。頭ごなしに否定しては議論にならん」


 それからレオポルトに向き直り、穏やかだが鋭い目で問うた。


「理想は美しいが、現実は厳しい。エッケルト伯爵の懸念にも一理ある。そのような巨大施設を建設するには莫大な費用がかかるだろう。資金はどうするつもりかね。具体的な数字を聞きたい」


 ここだ。


 レオポルトは内心で深く頷いた。ここが運命の分岐点だ。第一周目では「王室の全面支援を」と言って全てを託した。その一言が、三年後の断頭台へと続く道の第一歩だった。


 今回は違う。全く別の答えを返す。


「ご懸念もっともでございます。建設費用は概算で金貨三万枚規模を想定しております」


 玉座の間がどよめいた。金貨三万枚。王国の年間歳入の十分の一に相当する金額だ。


 ゲオルクが勝ち誇ったように叫んだ。


「ほら見ろ! 金貨三万枚だと! 正気の沙汰ではない! 陛下、この若造は王国の財政を食い潰すつもりですぞ! この場で追い出すべきです!」


「お待ちください。最後まで聞いていただきたい」


 レオポルトは声を張り上げることなく、しかし玉座の間の全員に明確に届く声で続けた。


「それゆえ私は、三者出資を提案いたします」


 貴族たちが再びざわめいた。


「三者だと?」


 宰相が身を乗り出した。


「三者とは具体的に誰と誰と誰だね」


「王室が二十五パーセント。私ヴァイスハルト家が五十パーセント。そして王都商人組合が二十五パーセント」


 レオポルトは明確な数字を提示した。この数字は、第一周目の失敗と前世のビジネス経験から逆算して導き出したものだ。王室の負担を最小限に抑えつつ、民間の参画を最大化する。それが肝だ。


「この三者で建設資金を分担し、共同で運営を行うのです。王室のご負担は全体の四分の一に過ぎません。金貨にして七千五百枚。これならば王国の財政に重大な負担をかけることなく、事業を開始できます」


 国王が目を見開いた。


「なんと……商人組合をも経営に巻き込むと言うのか」


「はい、陛下」


「前代未聞だぞ。王室と商人が同じ事業の出資者になるなど、聞いたこともない」


「仰る通り、前例はございません。しかし陛下、前例がないということは、それが不可能だということではございません。誰かが最初の一歩を踏み出さなければ、前例は永遠に生まれません」


 国王の眉がわずかに上がった。


 レオポルトは言葉を継いだ。


「デパートは王国全体のインフラとなるべき場所です。王権だけで独占すべきではありません。民衆の代表である商人たちも参加させることで、真の公共性が確保されます。王室だけが出資すれば、それは王の所有物になる。商人たちも出資すれば、それは王国の共有財産になるのです。自分が金を出したものを、誰が壊そうとするでしょうか。自分が関わった事業を、誰が敵視するでしょうか」


 宰相が顎鬚を撫でながら、じっと考え込んでいた。


「利益の配分はどうなる。出資比率に応じた配分か」


「はい。基本的には出資比率に応じます。ただし、利益の一部を地域還元基金として積み立てることを提案いたします。全体の一割を想定しておりますが、これを王都のインフラ整備や貧民救済に充てる仕組みです」


「貧民救済だと?」


 宰相の目がさらに鋭くなった。


「それは……慈善事業ではなく、事業構造そのものに組み込むということか」


「その通りです、宰相閣下。慈善は個人の善意に依存します。善意が尽きれば途絶える。ですが構造に組み込めば、デパートが存在する限り還元は続きます。それが民衆からの支持を盤石にし、事業の永続性を担保する。善意に頼らぬ仕組みこそが、真に民衆を救うのだと私は考えます」


 国王がゆっくりと頷いた。


「……なるほど。つまり、利益を独占せず社会に還元することで民衆の支持を得る。民衆の支持があれば事業は安定し、安定した事業は安定した税収を生む。好循環というわけだな」


「仰せの通りでございます、陛下」


「ふざけるなッ」


 突然の怒号が玉座の間に轟いた。


 ゲオルク伯爵が顔を真っ赤にして立ち上がっている。椅子が後ろに倒れそうになるほどの勢いだった。太い体が震え、額に脂汗が浮いている。


「成り上がりが図に乗るのも大概にせよッ!」


 震える指でレオポルトを指差した。


「神聖なる王権と卑しき商人を同列に扱うとは何たる不敬! 貴様は陛下を愚弄しているのか! 王室の権威を商人どもと分け合えだと? それは王権の毀損ではないか! 王室が商人と同じ立場に立つなど、五百年の歴史に対する冒涜だ!」


 彼は国王に向き直り、大仰に両手を広げた。


「陛下! どうかお目をお覚ましください! この若造の甘言に惑わされてはなりません! 商人を経営に参加させるなど、前例のないことです! 前例がないということは、すなわちそれが正しくないということです! 我が王国五百年の歴史において、商業は商人に任せ、統治は貴族が行う。それが不変の秩序でございます!」


 レオポルトは一歩も引かなかった。ゲオルクの怒りを正面から受け止め、静かに、しかし凛とした声で応じた。


「伯爵閣下。私は不敬を働いているのではございません。王国の永続的な繁栄を願っているのです」


「黙れ! 若造が偉そうに……!」


「むしろ申し上げたいのは、王室が直接事業を独占することのほうが、長い目で見れば王権へのリスクになり得るということです」


「何だと? 王権にリスクがあると言うのか、貴様は!」


「はい」


 レオポルトの声は静かだが、玉座の間の隅々にまで届いた。


「事業が失敗した場合を考えてみてください、伯爵閣下。王室が単独で出資し、王室の名で運営した事業が失敗すれば、その責任は全て王室に帰する。民衆の怒りは全て陛下に向かいます。『王が我々の金を無駄にした』と。しかし三者で運営すれば、リスクは分散される。万が一のことがあっても、王室の名誉は守られるのです。これは王権を貶めるのではなく、王権を守る仕組みです」


 ゲオルクは一瞬、言葉に詰まった。リスク分散という概念は、彼の思考の範疇になかったのだ。だがすぐに怒りを取り戻し、声を振り絞った。


「詭弁を弄するな! そんな屁理屈で……!」


「詭弁ではございません」


 レオポルトは静かに、だが一層の重みを込めて言った。


「貴族だけが栄華を極め、民衆が貧しさに喘げば、国は根幹から腐り落ちます。歴史がそれを証明しているではありませんか。西のアルカディア王国は百年前にまさにそれで滅びました。上層が肥え太り、下層が飢えた国は、例外なく内側から崩壊するのです」


 レオポルトの目がゲオルクを射抜いた。


 それは脅しではなかった。未来を見てきた者の、痛切な警告だった。


 ゲオルクは顔を真っ赤から暗い紫色に変え、唇を震わせている。反論の言葉を探しているが、見つからないのだ。歴史的事実は否定できない。


「き……貴様……! この若造が、歴史を持ち出して我々を脅すか! 陛下、こやつは……」


「ゲオルク、控えよ」


 国王の声が響いた。穏やかだが、有無を言わせぬ重みがある。玉座の間が静まり返った。


「そなたの懸念は理解した。だが、この場で怒号を飛ばすことは議論ではない。座れ」


 ゲオルクは悔しげに歯を食いしばりながらも、どさりと椅子に腰を落とした。だが目だけは爛々と光り、レオポルトを射殺さんばかりに睨みつけている。


「覚えておけ、ヴァイスハルト……」


 低い呟きが漏れた。その声は小さかったが、レオポルトの耳にはしっかりと届いていた。


 国王はレオポルトをじっと見つめている。その瞳には不安と興味が入り混じっていた。


「ヴァイスハルト男爵」


 国王が身を乗り出した。


「余は率直に聞く。そなたの話は壮大で、理論は美しい。数字にも説得力がある。だが……そなたの提案はあまりにも前例がない。前例のないことは、成功の保証がないということでもある。理論で国は動かん。本当にそれが成功すると申すのか。己の全てを賭けて、成功すると言い切れるか」


 レオポルトは一歩前に踏み出した。


「陛下。私の首にかけて、必ず成功させます」


 玉座の間が完全に静まった。首にかけて。それは文字通り、命を賭けるという意味だ。


 国王が眉を上げた。


「大きく出たな。だが言葉だけなら誰でも言える」


「おっしゃる通りです。ですから、言葉ではなく仕組みでお示しいたします」


 レオポルトは一呼吸置いた。ここが最後の勝負所だ。切り札を切る。


「ただし、一つだけ条件がございます」


「条件だと? こちらが条件を出す立場だと思うがな」


「はい。これは陛下にとっての条件ではなく、私自身に対する条件です」


 国王が不思議そうに首を傾げた。宰相も目を細めている。


「もしデパート事業が失敗した暁には、その全責任と負債は私個人が負います。王室には一切のご迷惑をおかけいたしません。ヴァイスハルト家の全財産と爵位をもって弁済いたします」


 玉座の間の空気が凍りついた。


「つまり、失敗すれば私は全てを失います。家も、名も、財産も、爵位も。文字通り裸一貫になるということです。それが私の覚悟です」


 沈黙が降りた。重く、深い沈黙だった。


 ゲオルクさえもが、口を開けたまま言葉を失っている。


 宰相が低い声で呟いた。


「……全財産と爵位を担保に入れるというのか。正気か、男爵。失敗すれば貴族ですらなくなるのだぞ」


「正気でございます、宰相閣下。本気でなければ、このような提案はいたしません。陛下の御前で嘘は申しません」


 長い沈黙の後、宰相が王の耳元に身を寄せ、低い声で囁いた。


「陛下……この男は本気です。全財産と爵位を賭けるということは、失敗すれば平民以下に転落するということ。そこまでの覚悟を持つ者を、臣は久しく見ておりません」


「……うむ」


「少なくとも、話を聞く価値はございます。仮に失敗しても、王室の損失は限定的です。彼が個人で負債を引き受けるのですから。成功すれば、陛下のご治世に大きな功績を添えることになりましょう」


 国王は深い思案に沈んだ。指で玉座の肘掛けを規則正しく叩いている。その音だけが、静まり返った玉座の間に響いていた。


 やがて国王は顔を上げ、レオポルトを見つめた。長い視線の交錯。王の青い瞳と、レオポルトの黒い瞳が、互いの奥底を探るように見つめ合う。


「分かった」


 その一言に、レオポルトの心臓が大きく跳ねた。


「そなたの提案を、条件付きで承認しよう」


 ゲオルクが椅子の肘掛けを叩いた。


「陛下! お待ちくだ……」


「ゲオルク」


 王の声は静かだが、鉄の重みがあった。


「余は決めた。これ以上の異論は、別の機会に文書で提出せよ」


 ゲオルクは唇を噛み締め、それ以上は何も言えなかった。だがその目は爛々と光り、怒りと屈辱が煮えたぎっている。


 国王はレオポルトに向き直った。


「ただし、無条件ではないぞ。建設着手前に詳細な事業計画書を提出せよ。建設費の試算、運営組織の構成、利益配分の規約、想定される問題点とその対策……全てを網羅した計画書だ。それを余と宰相が審査し、納得できた場合にのみ正式な許可を与える」


「はい、陛下」


「期限は二ヶ月だ。できるか」


「陛下、一ヶ月でお持ちいたします」


 国王が目をわずかに見開いた。宰相も驚きを隠せない顔をしている。


「一ヶ月だと? 余は二ヶ月と言ったのだぞ。無理をして粗雑なものを出されては困る。計画書の質が低ければ、即座に却下するぞ」


「ご心配には及びません、陛下。私の頭の中には、すでに具体的な構想が完成しております。それを文書に落とし込む作業が残っているだけです。一ヶ月あれば十分でございます」


 国王はしばし沈黙し、それから小さく笑った。口の端がわずかに持ち上がる。


「……自信家だな。父親譲りか」


「父に似ていると言われるのは、最高の褒め言葉でございます」


「ふん。口も上手い。それも父親譲りだな。あの男も、余を言いくるめるのが上手かった」


 国王の目に、ほんの一瞬、懐かしさのような感情が過ぎった。


「……よかろう。一ヶ月で持って来い。ただし中身が伴わなければ容赦はせん。そなたが自ら言った通り、全財産と爵位を失う覚悟はできているのだな」


「はい。一片の悔いもございません」


「大きなことを言う。……よい、下がってよい。期待しておこう」


 レオポルトは深く頭を下げた。額が冷たい大理石の床に触れる。


「ありがたき幸せ。必ずや陛下のご期待を超えるものをご覧に入れます」


 立ち上がり、後ろ向きに数歩下がってから恭しく一礼し、玉座の間を後にした。


 その背中を見送りながら、宰相が小声で国王に囁いた。


「陛下。あの男、只者ではございませんな」


「ああ。余もそう思う。二十九歳の青年があれほどの胆力と具体性を持っているとは……。先代の血筋というだけでは説明がつかんな」


「いずれにせよ、見物でございます。成功すれば陛下のご治世の功績になり、失敗しても損失は限定的。悪い賭けではありません」


「そうだな。……だが、ゲオルクが黙っていないだろうな」


 宰相は静かに頷いた。


「それは確かに。水面下での妨害は覚悟せねばなりませんな。あの男は、面子を潰された恨みを忘れる性質ではございませんから」


 一方、ゲオルクは椅子に深く沈み込みながら、隣の貴族に低い声で毒づいていた。


「あの若造……覚えておくがいい。この俺を玉座の間で恥をかかせたのだ。必ず後悔させてやる」


「伯爵、あまり穏やかではありませんな。陛下が承認されたのですぞ」


「陛下が承認されたのは、計画書を提出する許可だけだ。本許可ではない。計画書が陛下の手に届く前に事業の芽を摘めば、何も始まりはしない」


 ゲオルクの小さな目が、蛇のように細まった。


「建設予定地の地主たちには、俺の方が先に手を回せるだろう。金か脅しか、どちらかで転ぶ。資材の搬入ルートも抑えられる。ギルドにも圧力をかけよう。あの若造がデパートとやらの形を作る前に、全ての土台を崩してやる」


「しかし伯爵……それは……」


「これは王国のためだ」


 ゲオルクは低く、だが揺るぎない声で言った。


「前例のない事業を許せば、秩序が崩壊する。それを防ぐのが我々保守派の務めだ。分かるな」


 その会話をレオポルトは聞くことができなかった。だが彼はゲオルクが何を画策するか、すでに知っている。第一周目で、全て経験済みなのだから。



 重厚な扉が閉まり、廊下に出た瞬間、レオポルトは大きく息を吐き出した。


 張り詰めていた糸が一気に切れ、膝が震える。背中は冷や汗でびっしょりだ。壁にもたれかかり、天井を仰ぐ。漆喰の美しい模様が、ぼやけて見えた。


「……ふう。生きた心地がしなかった」


 小さく笑う。第一周目では断頭台で死んだ男が、今は冷や汗程度で済んでいる。贅沢な話だ。


「第一歩は成功した」


 だが、安堵に浸っている暇はない。心の中でそう釘を刺す。


「ゲオルクは完全に敵に回ったな」


 あの最後の目つき。真っ赤から紫に変わった顔。震える太い指。ゲオルク・フォン・エッケルト。変化を嫌い、既得権益にしがみつく男。その男が怒るということは、自分の提案が彼らの利権構造を直撃していることの何よりの証だ。


 第一周目では、ゲオルクは陰湿な妨害工作を繰り返してきた。建設予定地の地主を買収して土地を売らせなかったり、資材の搬入ルートを封鎖したり、ギルドに圧力をかけて職人の派遣を止めさせたり。その妨害がどれほど事業の進行を遅延させたか。そしてその遅延が、民衆の不信を招いた。「やると言って始めたのに、いつまで経っても完成しないじゃないか」と。


「だが今回は先手を打つ」


 レオポルトは壁から背を離し、背筋を伸ばした。


「ゲオルクが動き出す前に、地主と直接交渉して仮契約を結んでしまう。第一周目の記憶では、ゲオルクの妨害工作が始まったのは謁見から五日後だった。その前に動く。明日にでも地主のハンス・レーマンに会いに行く」


 地主レーマンの顔を思い出す。五十代の温厚な男で、先祖代々の土地を大切にしている人物だ。第一周目では、ゲオルクから莫大な金を積まれて心が揺らいだ。だがレーマンが折れたのは金のためではなかった。ゲオルクの部下に「あの土地はいずれ強制収用される。今売らなければ一文にもならない」と脅されたのだ。恐怖に負けたのだ。


「今回はレーマンに正直に全てを話す。この土地がどう使われるか、どんな価値を生むか。そして彼の土地が王国の未来の一部になることを伝える。脅しではなく、誇りを。金ではなく、信頼を」


 宮殿の外に出ると、眩しい陽光が降り注いでいた。


 冷たい風が火照った頬に心地よく吹きつけ、緊張で強張っていた体が少しずつほぐれていく。深く息を吸い込む。王都の空気。鉄と花と、石畳の匂いが混じった、馴染みの空気。


「よし。頭の中を整理するぞ」


 レオポルトは歩きながら、やるべきことを指折り数えた。


「一つ。事業計画書の作成。期限は一ヶ月。これは前世の知識と第一周目の経験があれば書ける。むしろ書くべき内容が頭の中に溢れすぎていて、取捨選択が必要だ」


「二つ。建設予定地の確保。ゲオルクより先に地主レーマンを押さえる。明日中に動く」


「三つ。オスカー先生への依頼。デパートの建築を任せられるのは先生しかいない。頑固で偏屈だが、本物の挑戦にだけは目を輝かせる人だ」


「四つ。商人組合との交渉。足がかりはマルクスだ。彼の人脈と信用を借りる」


「五つ。エーリッヒからの帝国工作員の調査報告。シュタイナーの動きを把握しておかねばならない」


「六つ……」


 最後の名前で足が止まった。


「クララ」


 クララ・ノイマン。貧民街出身の聡明な女性。第一周目では図書室の司書として、そして最後には法廷での告発者として、レオポルトの人生に深く関わった人物だ。


「クララとの接触は……もう少し後だ。今の段階で自然に近づく方法がない。焦るな。機を見て動け。不自然な接触は、かえって警戒される」


 自分に言い聞かせ、再び歩き出す。


「次はオスカー先生だ」


 レオポルトは視線を街の一角、職人街の方角へと向けた。


 オスカー・ブラウエル。王国が誇る最高峰の魔導建築技師。六十二歳。頑固で偏屈で、気難しくて口が悪い。だが腕は間違いなくこの王国で随一だ。彼の存在なくして、レオポルトが思い描くデパートは形にならない。


 第一周目で、オスカーは最後までレオポルトの味方でいてくれた。総ガラス張りの天井という前例のない注文を、文句を言いながらも見事に実現してみせた恩人。革命の炎が迫る中、「逃げろ」と叫んでくれた人。


 完成したデパートの天井を見上げて、オスカーはこう言った。


「どうだ、レオポルト。この天井を見ろ。ガラスと鉄骨と魔導石の組み合わせだ。太陽の光がそのまま降り注ぐ。まるで屋外にいるようだろう? だが雨にも風にも邪魔されん。四十年職人をやってきたが、こんな仕事は初めてだった。わしの最高傑作だ」


 それから、くしゃりと笑ってこう付け加えた。


「……いや。わしとお前さんの、最高傑作だ」


 その言葉を、今度は現実のものにしなければならない。しかも今度は、壊されない形で。


「だが説得は容易ではないぞ」


 レオポルトは独り言ちた。


「この世界にまだ存在しない建築物を建ててくれと頼むんだからな。しかもあの偏屈な先生は、興味のない仕事は金を積まれても引き受けない。逆に、面白いと思えば無報酬でもやる。要は先生の職人魂に火をつけられるかどうかだ」


 第一周目では、若者の熱意だけで強引に口説き落とした。


「先生、お願いします! 俺にはこの建物を形にする腕がない! 先生の技術がなければ、この構想は絵に描いた餅です! どうか力を貸してください!」


 するとオスカーは渋い顔でこう返した。


「情熱だけで建物は建たんぞ、坊ちゃん。お前さんの頭の中にあるビジョンを、わしに見える形で示してみろ。図面なしに家は建たん」


 それから顎を撫で、ニヤリと笑った。


「……まあ、とりあえず酒でも飲みながら話を聞いてやるわい。良い酒を持ってこい。話はそれからだ」


 だが今回は違う。レオポルトの頭の中には、前世の建築知識と第一周目で完成したデパートの構造が、細部に至るまで刻み込まれている。夢物語ではなく、実現可能な設計として提示できるのだ。


「先生、今度は図面を持って行く。あなたが最高傑作と呼んだあの建物の設計図を。……いや、それ以上のものを見せてやる」


 街の喧騒が近づいてくる。市場の活気。馬車の蹄の音。荷台が石畳に跳ねる音。鍛冶屋の金床の響き。人々の笑い声と怒鳴り声。この平和な音色を守るために、立ち止まっている暇はない。


 レオポルトは足を速め、職人街の路地へと向かった。


 路地の入口で一度だけ振り返り、王宮の尖塔を仰ぎ見る。午後の陽光を受けて白く輝くその姿は、美しくもあり、儚くも見えた。


「守ってみせる」


 その呟きは風に攫われ、誰の耳にも届かなかった。


 レオポルトは前を向き、再び歩き出す。その足取りに迷いはない。


 新たな戦いはまだ始まったばかりだ。だが、もう後戻りはしない。する気もない。


 二つの人生の記憶を武器に、彼は前へ進む。



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